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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2021年04月21日

いつか来た道?    

ヒット商品応援団日記No785(毎週更新) 2021.4.21.



2回目の緊急事態宣言の解除から数週間で「まん延防止等重点措置」(以降「まん延防止」)が10都道府県に広がった。特に心配なのは大阪で連日1000名を超える感染者が出ており、重症者病棟が満床状態となり医療危機に直面している。ips細胞研究所の山中伸弥教授のHPには人工呼吸やECMOを必要とする重症患者の状況を集計・公開されている。(東京と大阪の推移グラフ)その焦点はイギリス型の変異ウイルスで感染力が強いことは感染者数の右肩上がりのグラフを見てもよくわかる。そしてこの二人の知事に共通していることは、「より強い防止=抑制策」の実施で、吉村知事はその防止策の事例として百貨店やUSJ(ユニバーサルジャパン)」の休業要請を挙げている。小池都知事の場合は、そこまでの踏み込みはしていないが、「東京には来ないでください」「買い物は3日に1回」といった生活行動の抑制を要請している。1年前の緊急事態宣言発出後の「いつか来た道」を思い起こさせる。この1年不便さを超えた「我慢」はなんのためであったのか。生活者・個人にとっては行動の「自由」を得るためのものであり、多大な犠牲を払った飲食事業者にとっては時短という制限から解放されるいわば「営業の自由」を手に入れるためであった。

ところで先日興味ある発表があった。それはJR6社の2021年GWの指定席予約状況の発表で、対前年240%、対前々年19%とのこと。昨年のGWの予約の240%についてTVメディアはほとんど取り上げていないが、不要不急の象徴でもある「旅行」に出掛ける生活者は増えているという事実である。そして、予測するにGW期間中には蔓延防止の対象となっていない近場の観光地、鎌倉や箱根などには多くの人が訪れるであろう。前回のブログで「自己判断で動き始めた 」と生活者の行動について触れたが、まさに生活者は既に動き始めているということである。勿論、最近の旅行商品にはPCR検査付のものも多くなっており、本格的には前回書いたように夏前から本格的な旅行が始まる。この件については星野リゾートの星野さんも米国のようにワクチン接種を済ませて旅行を楽しんでもらいたいと発言しているが、このGWはその先駆けであると言える。

また、感染が治っている地方の知事からは県内旅行を推進してほしいとの要望を取り上げたが、その本質は都市と地方との「違い」が明らかになったということでもある。その象徴として山梨県の感染防止策の成功例が盛んに取り上げられていたが、2つの問題が横たわっている。新型コロナウイルスという感染症は「都市の病気」であるということと、山梨県のように飲食店・消費者・行政が一体となって一つの「運動」として実施されている点にある。東京都の場合はその人口だけでなく飲食店などの規模の大きさから「出来ない」こととして、全て現場の飲食店におけるコロナリーダーのように任せるやり方、悪く言えば悪しき役所仕事にしてしまっている。つまり、行政の「あり方」、リーダーの認識の違いが明確になったということである。
ちなみに成功している山梨県の飲食店への休業要請個別解除方式や“やまなしグリーン・ゾーン認証制度”などは実は昨年5月の知事会見から始まっている。東京・大阪でやっと始まった現場への「見回り隊」と根本的に異なるのは、「個別」に対し丁寧に職員が対応している点にある。勿論、アクリル板などの補助はを始め休業や時短などの解除も個別に行っており、現場の納得を得ながらの感染防止対策である。
今、後手に回ったという非難を避けるために政治・行政は「先手」「先手」の合唱となっている。大阪も東京も見廻り隊にさける職員がいないため外部に委託ししかも委託会社はあっるバイト墓所を行っている次第である。どれだけ実効性があるのか極めて疑問である。しかも、アクリル板の製造メーカーには注文が殺到しているという。この1年間何をしてきたのか誰もが感じているところだ。

また東京都知事はエッセンシャルワーカー以外は「東京に来ないでください」とテレワークの推進を訴えているが、相変わらず抽象的な言葉ばかりで、これもお願いだけでテレワークの実施率などは都のHPで公開されているの見られたら良いかと思うが、企業の規模の違いはあるが平均週3日以上が53.5%とのこと。また対象外となっているエッセンシャルワーカーはその裾野は広く内閣官房によれば全国では約2725万人に及んでいる。つまり医療関係者や小売業従事者などどこまでという線引きは極めて難しいということである。こうしたエッセンシャルワーカーを含め約300万人弱が東京に通勤していると言われているが、具体的なことは明言していない。
そもそも「東京に来ないでください」とは東京が感染源であることを自ら認めていることになる。昨年夏当時の菅官房長官から「東京問題」、あるいは埼玉県知事からは「東京由来」と言われ否定してきた都知事の言う言葉ではない。政府分科会の尾見会長からは東京からの感染拡大を「滲み出す」と繰り返し指摘されてきたが、都市と地方と言う視点に立てば、東京・大阪と言う「密」な地域・都市は感染防止策を徹底して欲しいと生活者は求めている。そして、今大阪発の変異ウイルスが東京にも広がってきていると言うことだ。

そして、今回の第4波と言われる感染の拡大の特徴は従来の20代~30代と言う若い世代に加えて10代にも広がっていると言われている。東京も大阪も10代対策についてはクラブ活動の自粛やオンライン授業などによりすでに手が打たれている。しかし、新規感染者の半数を占める若い世代に対しどのような対策を用意すべきか明らかにされてはいない。せいぜい路上での飲酒をやめてほしいとのメッセージだけで、大多数を占める若い世代へのメッセージは相変わらず皆無である。彼らの日常的な飲み会は仲間内の住まいマンションやアパートや最近増えているのが飲み物や食べ物の持ち込み可能なレンタルスペースなどでの小さなホームパーティ・宅飲みを開いており、渋谷などでの路飲みは極めて少なく実質的なメッセージにはなってはいない。それほどまでに飲みたいのかのかなど馬鹿なことを発言するコメンテーターもいるが、彼らもまた仲間との「居場所」を求めての行動である。しかも路上と言うオープンエアーな場所では感染リスクは小さいと言う理屈からである。
繰り返し言うが、彼らは大人以上に合理的な価値観を持っている。感染のリスクについても明確な「根拠」「証拠」を欲しがっていると言うことである。身近な友人に感染者はいなく、感染リスクその若い世代にも多い後遺症にrついても「実感」出来ないことから、行動を変えるには至らないと言うことだ。

感染症の専門家は急速に収束に向かっている英国の事例を出して、その主たる要因は2つあってワクチン接種とロックダウンであると。前者については根拠を踏まえ納得できるが後者については日本に置き換えることはできない。英国の場合感染者数は約439万人、死者数は127,260人である。3度のロックダウンを国民が受け売れたのもこの死者数=恐怖と悲しみによって可能となったことを忘れてはならない。ちなみに日本の場合、死者数は4月17日時点で9,581人である。しかも、日本の憲法では営業の自由、行動の自由、個人の権利は保証されている。だから例えば強制ではなく要請、要請に応えたら保証金ではなく協力金となる。簡単に英国のようにロックダウンなどとは言えないということである。もし英国のような人流を根本的に止める強制力のあるロックダウンをしたのならば、ロックダウン法を新たにつくらなければならないということだ。
そして、変異型ウイルスの恐怖を必要以上発言する感染症の専門家も出てきているが、養老孟司さんの「馬鹿の壁」ではないが、例えばテレビの情報だけで「わかっている」と思い込む人々、しかも若い世代はその情報源であるTVをほとんど視聴しない。その本質は自戒を込めて言うが、「人は欲しい情報しか手に入れようとはしない」と言うことである。養老さんは現代人は「身体」を忘れてきたとも言っているが、私の言葉に置き換えるとそれは「実感」となる。前回のブログにも書いたことだが、生活者・個人は「自己判断で動き始めた 」と。その根拠は東京の場合は過去なかった1日2500人を超す感染者の数字という事実に起因すると。1年前は志村けんさんのコロナ死であったが、1年間のコロナ学習の結果がこの感染者数であったと言うことだ。変異型ウイルスという実感の無い「恐怖」によって行動の抑制はできないと言うことである。既に多くの人はこの1年我慢を自己への要請を重ね限界に来ている。抑制という緊張は限界を超えてきている。高齢者は季節性インフルエンザを含め肺炎球菌など感染症の恐ろしさを実感している。しかし、若い世代にはそうした経験はない。新型コロナウイルスに罹患しても軽症か無症状で済むという「情報」のままである。求められているのは、自己判断のための実感し得るだけの「根拠」「証拠」を明らかにすることに尽きる。

少し前に自民党の二階幹事長は民放のテレビ番組で、番組司会者から「中止の選択肢もあるのか」と問われた二階氏。すると、「当然だ。オリンピックでこの感染病をまん延させたら、何のためのオリンピックか分からない」「その時の(感染状況)の判断で良い」と答えたという。この発言が話題となっているが、多くの生活者・個人は至極当然のことと思っているであろう。その主催都市である東京の知事は「東京には来ないでください」と発言している。選手以外でも大会関係者だけで3万人ほどとなるがその関係者にも「東京に来ないでください」と言わないのだろうか。そもそも「東京には来ないでください」ではなく、「東京からは出ないでください」が正しいのではないか。
昨年夏お盆休みの帰省に対し、地方からは「東京からは来ないでください」との声が上がった。帰省に対し、自粛警察といった嫌な動き見られたことを思い出す。

大阪も東京も「まん延防止」ではなく、緊急事態宣言の発出を政府に求める方向であると報道されている。「いつか来た道」の再現である。いや昨年の春以上の「抑制」は日本の社会経済全体に及ぶであろう。この1年生活者・個人と飲食事業など特定事業者のセルフダウンによってワクチンの普及までの時間稼ぎとしてなんとか持ちこたえてきた。最近使われる言葉に「人流」がある。簡単に言えば、「人出」をなくすことであり、もっと極端に言えば「移動」の抑制である。しかし、前回のブログにも書いたが既に生活者・個人は「自己判断で動き始めている」。このギャップ、都市と地方とのギャップ、間近に迫った東京五輪への賛否の開き、・・・・・・・・。1年前は新型コロナウイルスという「未知」への恐怖によるセルフダウンであったが、変異型ウイルスは行動抑制につながる「未知」となり得るのであろうか。日本の場合、英国のように死者が10数万人に及び恐怖によって行動が変わるとは思えない。ここでも変異型ウイルスの恐ろしさの実態、根拠、証拠、実感できる事実がない現在、感染症の収束には移動しないで家に篭るのが一番であるといった感染症の教科書のような言説によって行動が変わることはない。少なくともこの1年間の学習経験してきた生活者・個人を前にした実感ある「ことば」、更なるセルフダウンを促す自己規範が待たれる。1年前は「8割おじさん」と言われた西浦教授は、その後数理モデルによれば「このままでは42万人が死ぬことになる」との発言からその信頼は失われた。唯一実感あることばとして聞く相手がいるとすれば、現場の医療を支える医師たちの「ことば」であろう。

「人流」を止めることしか方法がないのであろうか。大阪のUSJ(ユニバーサルジャパン)でクラスター発生したのであろうか、感染対策についてはかなり厳しく行われている。2つのテーマパークにはシステムの違いはあるものの個人情報が登録されており、感染があればいつでも追跡できるシステムとなっている。入場者数の制限はあるもののそれでも楽しめるものとなっている。レストランでの飲食についてはマスク飲食の厳守とはなっていないが、更に厳しくするのであれば飲食はクローズすれば良い。また梅田の阪急百貨店はどうであろうか。東京もそうであるが大型所業施設における感染対策はこれもかなり厳しく行われている。
1年前パチンコ店の行列を盛んにTVメディアは感染拡大につながると批判してきた。しかし、パチンコ店でのクラスター発生はほとんどなかった。犯人探しばかりで、第一回目の緊急事態宣言によってどれだけの効果があったのか。確かに感染者数は減少したが、その根拠はなんであったのか。犠牲を払った結果について政治家だけでなく、感染症の専門家と言われる誰一人として触れることはない。宣言の解除後、東京の場合であれば都知事の「夜の街発言」によってまた悪者探しが始まる。新宿区長は夜の街の現場に入り分かったことは、例えばホストと顧客との間の感染ではなく、狭いアパートやマンションに数名のホスト同居がクラスター発生の主たる原因であることがわかった。
・・・・・・・この1年何をしてきたのか。大阪吉村知事の発言に新たな悪者として挙げた大型商業施設である百貨店協会やショッピングセンター協会は共に反発している。人流・人出の目的となっているこうした商業施設を休業すれば人は移動しないと言う理屈からだ。つまり、「公共」の名の下に「我慢」してくれというわけだ。その公共とは何かと言うことだが、山梨県のように事業者・消費者にとって感染防止に努力しさえすれば「自由」を手に入れることが出来る。花見も飲酒も自由に出来る「公共」「である。営業の自由、私権の尊重に基づく感染防止策である。現実問題として、既に手遅れという状態に立ち至っており、緊急事態宣言の発出に際し100歩譲ったとしてもその休業補償は飲食業における1日6万円以上の協力金と同じレベルにならなければならない。大型商業施設への保証・協力金は莫大なものになるであろう。考えるまでもなく、これは税金である。
生活者・個人、特に若い世代はTVメディアのよって創られた「世間」と言われる情報の嘘を敏感に感じ取ってきた。「人流」ということばで抑制を図ったとしても、ある意味巧みに楽しさを見出すであろう。そこには新たな環境のもとでの暮らし方を探る賢明な生活者・個人がいる。変わらなければならないのは、政治、行政、感染症の専門家、そしてTVディアである。こうした学習をしない懲りない人たちと生活者・個人、特に若い世代とのギャップは更に大きくなる。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:14Comments(0)新市場創造

2021年03月31日

自己判断で動き始めた   

ヒット商品応援団日記No784(毎週更新) 2021.3.31



前回のブログでコロナ禍1年今一度「正しく 恐る」という生活者・個人の認識を考えてみた。ちょうど1年になるが新型コロナウイルスと出会ったのはあの国民的コメディアン志村けんさんのコロナ死であった。この衝撃は感染症専門家あるいは政治家のどんなコメントよりも深く心に突き刺さった。幼い子供から高齢者まで、その「事実」に心動かされた。その後第一回目の緊急事態宣言が発出されるのだが、前回のブログに書いたように、感染者数という「事実」によって行動の変化が促されると。調査をしたわけではないが、多くの飲食店事業者は感染者数という事実の変化と共に来客数が変わることを実感していると思う。つまり、感染者数という「事実」による心理に基づいて行動もまた変わるということである。

第2回目の緊急事態宣言発出後、その延長の是非を国会で議論されていたが、実は極めて重要なことが答弁されていた。マスメディア、特にTVメディは相変わらず無反応であったが、政府諮問委員会の尾見会長は3月5日の国会答弁で、新型コロナがいつ終息するのかを問われ、「(国民の間に)季節性インフルエンザのように不安感、恐怖心がないということが来る。その時が終息」と発言している。つまり、不安感、恐怖心という「心理」がインフルエンザのようにある意味日常の出来事として受け止められるようになったらということである。それはいつまでかと聞かれ、今年一杯から来年位かけて2年ほどと答えている。この国会答弁後に麻生財務相の記者会見で、記者に「いつまでマスクをしなければいけないのか」と記者に逆質問し、その質問の仕方が麻生さんらしく不躾であるとTVでも話題になった。記者の答えは「当分の間」と答え、麻生財務相は「政治家みたいな答えだな」と皮肉っぽくやりとりしていたが、政治記者なら尾見会長の発言を踏まえて、「あと2年近くは」と答えるぐらいのことは当然であろう。この程度の政治記者だから、国民にとって極めて大切な尾見会長の「仮説」が報道できないのだ。
余計なことを書いてしまったが、前回も書いたがコロナ禍の課題はウイルスという身体的な「病気」であると同時に心理の「病気」でもあること。及びこの2つの病気は長期戦になるということが重要だ。

ところで東京都は4月21日まで飲食店・カラオケ店の時短営業を延長することを決めた。感染者数は300人台で下げ止まり、増加傾向にあることからとその理由を説明しているが、緊急事態宣言の発出から3ヶ月半を超えることとなる。前回のブログでも書いたように生活者・個人は自己判断で巣ごもりからの活動を始めている。その象徴であるのが、旅行であろう。まずは近場の小さな旅であるはとバスの桜観光には多くの予約が入っており、箱根の旅館・ホテルにも賑わいを見せ始めている。
こうした生活者・個人の行動変化と共に時短の対象となった飲食事業者の問題指摘が表面に出てきた。グローバルダイニングによる東京都の提訴である。大きくは2つの指摘で、1年前から指摘してされてきた特措法の改正で時短要請ではなく時短を命令できるとした憲法で保障されている「営業の自由」に反すること。更には協力金の不公平さについてであり、もう一つが特措法にある命令の出し方、グローバルダイニングがSNSで東京都を批判していることに対し「見せしめ的措置」で表現の自由に反しているのではないかという2点についてである。すでに報道されているように、午後8時までの時短営業を拒否した飲食店は2000店以上あったが、この要請に従わなかった113の店舗に都は個別の時短要請を出した。18日に時短を命じられた27店のうち26店が、グローバルダイニングの店舗。SNSで都に批判的なメッセージを投稿したことなどに対する見せしめだという判断からの提訴であった。改正特措法について国会でも論議されていたが、命令違反企業への過料の是非などばかりであったが、論議して欲しかったのは「命令」の適切な運用であり自粛協力金の「公平さ」であった。グローバルダイニングのゼストなどはその多くは数百坪の店舗であり、小さな店舗と同じ6万円の協力金の不公平さである。この問題指摘は1年近く経っているにも関わらず国会で論議されることなく改正されたことは周知の通りである。政治家がいかに現場を知らないかの象徴的事例であるが、行政が公共に反する行為に対し、権力を行使できるのはまず行政の努力をしてからであると飲食事業者だけでなく多くの生活者・個人は考えている。法律的には今回の「命令」には瑕疵はないとする法律家は多いが、生活者感情とは大きく異なる。いづれにせよ司法判断が待たれる問題である。

またしても脇道に外れてしまったが、マスクをしないで済む日常にはまだまだ時間がかかるという課題である。昨年の4月第1回目の緊急事態宣言が発出されてからは、一定の間隔を空けての客席配置、あるいは来店客数の減少に合わせての食材仕入れの調整やアルバイトやパートさんたちのシフト変更・・・・・・・・政府からの各種支援制度の検討と申請。そして、実際に店舗を運営していくこととなり、場合によってはテイクアウトメニューの開発や店頭での販売の工夫など現場での1年間を経験してきたと思う。勿論、感染予防のためのアクリル板や衝立など徹底してきたことは言うまでもない。ある意味「引き算」の経営であった。
2月の未来塾では困難なかで闘っている飲食専門店と商業施設を取り上げた。そこには「不要不急」の中に楽しさを見出したり、鬱屈した日常に「気分転換」と言う満足消費があった。日常をどう変えていくかという新たな価値が賑わいを創っていることがわかる。(今一度参照してほしい)

競争相手はコロナであり、困難さは同業種皆同じであるが、そこに共通していることは顧客変化を見逃さない強い意志と眼を持っているかである。そして、顧客が求めていること、それは業態の転換と言った大仰な変化ではなく、日常の中に小さな変化を求めていることがわかる。この1年否応なく行ってきた引き算の経営ではなく、小さなメニューやサービスを見ていく「割り算」の経営への転換である。二分の一、4分の1、8分の1という小さな単位で見ていくことの中に顧客が求めている「変化」が見えてくる筈である。割り算とは時間帯顧客であったり、常連客であったり、勿論男性・女性あるいはファミリー・お一人様と言った属性の違い。こうした割り算の見方を変えれば自ずと「自覚」と「発想」を変えていくことになる。例えば、私の好きな弁当に焼売の崎陽軒がある。若い頃新幹線で食べて以来、時代の豊さに比例し副菜はどんどん進化してきた。その中に「あんず」がある。どのようにそのあんずを食べているのかであるが、最後の一口デザートとして食べる人もあれば、箸休めの変化として食べる人もいる。人それぞれ思いは異なるが、こんな小さな「変化」もまた崎陽軒フアンづくりに役立っていると理解している。
こうした「小さなこと」への着目は危機にあっては原点に戻ることでもある。例えば、今コロナ苦境にあるはとバスは債務超過にあった時、変わるために行なったことの一つが顧客の声を聞くことであった。「お帰りBOX」という仕組みで、ドライバー・添乗員はその日あったこと、お客様が口にしたことをメモにして改善していく。その中には「休憩に出されたお茶がぬるかった」と言った小さな声に気づき改善を重ねていく。その積み重ねが再生への道へとつながったことを思い出せば十分であろう。

この「小さな」変化の取り入れは持続可能なことのためであり、しかもあまりコストをかけずにできることである。しかも、顧客に一番近い現場で行うことができる。例えば、季節の花一輪をテーブルに飾ってみる。日本人は季節の変化を花によって感じることが多い、5月になればツツジ、梅雨に時期でになれば紫陽花のように。あるいは季節の祭事もアクセントとして店内に飾るのも良いかもしれない。端午の節句時期ならば鯉のぼりであったり、母の日であればカーネーションも良いかと思う。現場の人に負担をかけずにできるアイディアを採用したら良い。巣ごもり生活で失ってしまうのは人と人との会話であり、自然である。こうしたひととき和むアイディアは小売業が常に行なっているもので、こうしたことを飲食業も取り入れたら良いかと思う。

ところで顧客接点である飲食業や専門店にとって注視しなければならないのは生活者・個人の「動き」である。前回のブログにも書いたが、東京都の場合緊急事態宣言というメッセージ効果ではなく、2520名という感染者数の「事実」によって自制のブレーキがかかり300名台へと減少させた。勿論、飲食事業者と生活者・個人の犠牲のもとでだが、実は生活者・個人の行動、「動き」にはこの1年少しづつ変化してきている。コロナ禍1年繰り返しブログに書いてきたことの一つが「正しく  恐る」ことであり、その「正しさ」とどのように伝えてきたかである。これ以上書かないが、極論ではあるが「恐怖」を煽ることで自粛要請をしてきた。その「煽り」を率先してきたのはTVディアであった。
そのTVメディアであるが、若い世代の路上飲酒(路のみ)などを取材し放送しているが、相変わらず若者犯人・悪人説を続けている。これも繰り返し書かないが、この1年「若い世代は重症化リスクは少ない。軽症もしくは無症状者である。」と言った情報を流し続けてきた結果であり、無症状者が感染させるメカニズム、その証拠を明らかにしてはいない。第1回目の緊急事態宣言についてもどんな効果があったのか検証すら行われていない。昨年春、ロックダウンではなく「セルフダウン」を若い世代を含め国民は選んだと書いたが、感染症専門家も政府自治体も更にTVメディアも「自粛疲れ」「我慢疲れ」「慣れ」と言った言葉で説明してきているが、生活者・個人は既に自己判断で行動し始めていると理解すべき段階に来ている。簡単に言ってしまえば政府も・自自治体の首長のいうことを聞かなくなってきたと言うことである。ここ数週間人出が多いとするテーマで街頭で取材をしているが、取材に応じた多くの人は「びっくりするぐらい人出が多い」と答えている。そこには自分だけは別であるとした考え、自己判断が働いていることがわかる。「私だけは別」という人間が増えている。つまり、自己判断で行動する人たちはどんどん増加しているということだ。

こうした中、緊急事態宣言が解除された3日後の今月24日、東京・銀座の居酒屋で厚労省職員23名が深夜まで宴会をしていたことがわかった。しかもアクリル板などの飛沫予防などしていない店であったと報道されている。感染リスクの高い歓送迎会や旅行などの自粛要請をしてきた厚労省職員の行動に唖然とする。また、一方東京都は改正特措法45条に基づく午後8時までの営業時間短縮命令に応じなかった4店舗について、過料を科す手続きを裁判所に通知した。対象となった店舗については公開されていないが推測するにグローバルダイニングであろう。違反していた2000数店舗全てに過料するのであれば少しの理解はできるが、4店舗だけというのは見せしめ以外の何ものでもない。法の平等性に反するものだ。そもそもこの過料については極めて悪質な飲食店へのものでその運用は慎重にすべきとの議論であったが、こうした強権的なやり方に批判は集まること必至である。

混乱は更に深刻さをましていくことが予測される。感染力の強い変異型ウイルスという要因もあるが、一番の課題は生活者・個人が自己判断で行動を変え始めているということである。その兆候は既に若い世代から始まっている。ここ数ヶ月感染者の内訳を見ていくと相変わらず20代〜30代が多い。昨年の秋頃であればこの世代に特徴的な軽症者の後遺症について盛んに報道されていたが、そのリスクメッセージの効果がないと見たのか、現在は後遺症キャンペーンはTVメディアではほとんど見られることはなくなった。また、若い世代ばかりか高齢者にも同じ兆候が見られ始めている。ある意味元気な高齢者であるが、ここ数ヶ月高齢者グループによる昼カラによるクラスター発生が起きている。
また前回のブログにおいても触れたが、東京・大阪といった都市部が感染の中心課題であったが、諮問委員会の尾見会長の言葉によれば「染み出す」ように地方へと拡散している。その象徴としては宮城仙台や愛媛松山であるが、一方感染者は極めて少ない地方、しかも大都市に隣接する山梨や和歌山のような感染者のいない日常に戻った県もある。全て一律に行うことは意味のないこととなったということだ。こうした中、依拠すべき判断は目の前の「顧客」である。自己判断を始めた顧客の変化にいち早く気づき小さく応えることしかない。(続く)
  
タグ :コロナ禍


Posted by ヒット商品応援団 at 13:09Comments(0)新市場創造

2021年03月21日

コロナ禍の原点、「正しく 恐る」という認識 

ヒット商品応援団日記No783(毎週更新) 2021.3.21



政府は約2ヶ月半ほど実施して来た緊急事態宣言を解除した。その背景には病床の改善もあるがだらだらとした宣言状態であれば効果はないとすることのようだが、実は生活者、特に若い世代にとって「解除」は既に始まっていた。東京都の場合、1月7日の宣言発出翌日には感染者数が過去最大の2520名となった。以降、対策としては飲食店の時短とテレワークの推進を行いある意味で劇的な感染減少へと向かう。その効果であるが、実効再生産数(感染の拡大)の0.2程度の引き下げが見られたとの報告があるが、基本的には飲食店経営者と生活者個人の犠牲のもとでの減少である。
諮問委員会の尾身会長は、「何故減少したのか、現在下げ止まっているのか科学的根拠がわからない」「見えないところに感染源があるのではないか」と国会答弁で答えていたが、この1年間明確な根拠がないまま対策を行なって来たことの象徴的発言であろう。

1年前から感染症研究者や経済学者以外に、社会心理の専門家も諮問委員会のメンバーに入れるべきであると指摘して来たが、社会行動を変えるにはその「心理」を分析することが不可欠であるとの認識からであった。この2ヶ月間都知事が「ステイホーム」といくら叫んでも「人出」は減少どころか時間経過と共に次第に増加して来ている。2月に入り、700名ほどいた感染者は半ばには500名まで減少する。この頃から夜間の人出は少ないが週末や昼間の人出は増加へと向かう。何を基準にして人出の増加と言う行動変化が起きたのか、その最大の基準は「感染者数」である。特に、感染しても無症状もしくは軽症で済む若い世代はコロナ禍からある程度自由であることからで人出増加の最大理由となる。よくメッセージが若者には届かないと感染症専門家や政治家は言うが、行動を変える言葉(内容)を持ってはいないことによる。特に、無症状者が感染のキーワードとなっていると指摘する専門家は多いが、その科学的なエビデンス・根拠を明らかにしたことはない。若い無症状者が重症化の恐れがある高齢者にうつす危険があるため自重してほしいと感染症専門家は発言するが、若い世代にとって、高齢者の犠牲にはなりたくないと考える若い世代は多い。何故なら、こうした感染の根拠が示されない現状にあっては、個々人の判断は感染者数の増減に基づいたものとなるのは至極当然のこととなる。若者犯人説の間違いは、その若者について間違った認識からで、今まで何回か指摘したので繰り返さないが、彼らは明確な根拠があれば自ら判断し行動する合理主義者である、SNSを使うデジタル世代と言われるが、決定的に足りないのが「経験」「リアルさ」であることを自覚してもいる。例えば、若い世代に人気の吉祥寺には昭和レトロなハモニカ横丁とトレンドファッションのPARCOのある街であることを思い浮かべれば十分であろう。(詳しくは昨年の夏に書いたブログ「「密」を求めて、街へ向かう若者たち 」を参照してください)

桜の花見は感染の拡大に結びつくので一番の強敵であると感染症の専門家は口を揃えて言うが、花見だけではない。言葉を変えれば、行動を変えるのは「変化」への興味のことであり、季節の変化だけではない。2回目の緊急事態宣言発出以降、「人出」が増えた場所、施設はどこかを見れば明らかである。ここ1ヶ月ほど賑わいを見せているのがまず百貨店で、しかも食品売り場の混雑はコロナ禍以前と同じである。最近では北海道物産展などイベントが行われているが、その混雑度は最盛期のそれと同じである。ちなみに、百貨店協会の1月度の売り上げレポートが発表されている。緊急事態宣言により1月度の全体売り上げは前年同月比▲29.7%となっているが、その内容を見ていくと株高の反映と思われるが貴金属・宝飾品は▲10.1%、食品は▲18.9%と比較的減少幅は小さい。これは1月度の売り上げであり、2月には更に増加していると考えられる。
また、百貨店やショッピングセンターなどの商業施設はもとより、人数制限なども行われる映画館やテーマパークを始めとした多くの興業施設でも感染予防対策が採られ、クラスター発生は聞いたことがない。ただ、埼玉県ではカラオケ店(昼カラ)でのクラスター発生が報告されているが、感染予防対策が採られていないことが明らかになっている。

ところでここ数日感染者数が大きく増加しているのが宮城県である。現在の実効再生産数(感染の広がり)」が1.56となっているが3月7日時点では2を超えるまでに上がっている。日経新聞によれば、「宮城県と仙台市は17日、1日あたりで過去最多となる計107人が新型コロナウイルスに感染したと発表した」と。この急激な増加の背景・理由であるが、2月初旬から下旬にかけては1日の感染者数が1桁になる日も続いたことから、県は2月23日に国の「Go To イート」事業を再開させたが、その因果関係は明らかではないが、結果として感染が再拡大したと知事自ら反省していると記者会見で語っている。仙台市内繁華街である国分町で感染者が多く、いわゆるリバウンドであるが、先に解除となった大阪でもその傾向は出て来ている。但し、大阪市内ではそうしたリバウンドの傾向は出ているが、大阪府周辺の市区町村では起きてはいない。ちなみに宮城県は独自に緊急事態宣言を発出したが、このリバウンド見られる「傾向」も何がそうさせたのか、その根拠が明らかにはされていない。

第一回目の緊急事態宣言の時も発出する前の3月末には感染のピークアウトを迎えていた。今回の2回目の緊急事態宣言の場合も感染ベースで言うと年末にはそのピークを迎えていたとする専門家も多い。つまり、対策は常に「後手に回る」こととなる。その反省からであると思うが、今回の政府の方針の一つが無症状者を含めたモニタリング調査によって、表には出ていない感染源を見出し対策をとる、そんな調査手法と思われる。昨年8月スタートしたアドバイザリーボードが分析するとのことだ。やっと本来の主要な活動が始まったと言うことだろう。但し、問題はその運営である。スピードが求められる調査であり、その調査結果から得られた課題解決をすぐ実行すると言うものだが、果たしてできるのかいささか疑問に思う。何故なら、新型コロナウイルス接触確認アプリ(COCOA)の失敗も国にアプリ開発の専門家がいなかったことによる。更には例えば飲食店へのいくつかの給付金すら遅れ遅れになって窮状を訴えている状況下での行政運営である。
既に栃木県宇都宮市で通行人に対し、この調査が行われているが、栃木県の場合陽性者はゼロであったと報告されている。サンプル対象者は600名で回収は536名と言う結果であったが、市中感染の想定からとしてはサンプル数がいかにも少なすぎる。読売新聞によれば、東京都が行なっているモニタリング調査の場合、1万4000人への抗体検査で陽性率は1・8%とのこと。
問題なのは、調査における「仮説」を含めた調査設計の仕方にある。仮説次第で、その設計によって調査の成否が決まる。しかも、隠れた陽性者を発見するには膨大なサンプル数を必要とする。そして、このモニタリング調査をもとに更に深掘り調査によって「新たな感染源とそのメカニズム」が見出される。前者をPCR検査による陽性者数という定量調査とするならば、後者は保健所がおこなっている疫学調査のような定性調査と言うことができる。
今まで根拠なしに感染源であるとされて来た「夜の街」「若者」「飲食店」あるいは「GoToトラベル」・・・・「花見宴会」が果たしてどうであったのかある程度明らかになると言うことだ。アドバイザリーボードではAIを駆使して行うようだが、コロナ禍1年感染源=感染のメカニズムがやっと求められて来たエビデンス・証拠が明らかにされる入り口を迎えている。

このことにより、この1年「命か経済か」といった選択論議に一つの区切りをつけることができる。昨年春コロナ禍が始まった時「正しく 恐れる」という方針が掲げられていた。その「正しさ」という根拠を持った基準を手に入れることになると言うことだ。アドバイザリーボードのメンバーの一人であるIps細胞研究所の山中伸弥教授は自らのHPでその「正しさ」について、「どの情報を信じるべきか?」で次のように語っている。

『私は、科学的な真実は、「神のみぞ知る」、と考えています。新型コロナウイルスだけでなく、科学一般について、真理(真実)に到達することはまずありません。私たち科学者は真理(真実)に迫ろうと生涯をかけて努力していますが、いくら頑張っても近づくことが精一杯です。真理(真実)と思ったことが、後で間違いであったことに気づくことを繰り返しています。その上で、私の個人的意見としては、医学や生物学における情報の確からしさは以下のようになります。』

そして、数万とも言われるコロナ関連の論文の中から選んで掲載する基準について、山中教授は次のような考えを持って掲載されている。

真理(真実)
>複数のグループが査読を経た論文として公表した結果
>1つの研究グループが査読を経た論文として公表した結果
>査読前の論文
>学術会議(学会や研究会)やメディアに対する発表
>出典が不明の情報

真実にどれだけ近づくことができたかと言うことであるが、キーワードは「査読」であり、どれだけ複数の専門家による検証がなされて来ているかで、検証されないまま公表される論文の多さに警鐘を鳴らしている。
思い出してほしい、昨年春当時北大教授で厚労省クラスター班のメンバーであった西浦氏による数理モデルを駆使した感染モデルの件を。「このままでは42万人が死亡することになる」と提言し、マスメディア、特にTVメディアはこぞって取り上げ、結果「恐怖」を煽ることになり、「正しく 恐る」から遠く離れてしまった。その後、研究者である西浦教授はその数理モデルの間違いを説明反省している旨を語っているが、マスメディア、特にTVメディアはその「間違い」すら取り上げ報道しようとはしない。「恐怖を煽って視聴率さえ取れればそれで良いのか」と批判が出るのは当然である。
2回目の緊急事態宣言以降の生活者行動を俯瞰的に見ていくとわかるが、政治家やTVメディアが考える生活者・個人の行動とは大きく異なっていることに気づく。首都圏の生活者はキャンピングブームが起ったように「密」を避けて郊外の桜の名所に出かけるであろう。花見どころか旅行を計画する人はここ数週間増えている。それを自粛疲れとか、我慢の限界といった曖昧な表現はやめにした方が良い。高齢者だけでなく、多くの生活者はワクチン摂取のタイミングを考えて旅行の計画を立てるであろう。恐らくそうした行動を見据えたように、地方32県の代表として鳥取県の平井知事はGoToトラベルの再開要請に動いている。隣りの山梨県では花見を楽しもうと知事自ら発言してもいる。こうした背景として、地方経済の疲弊を指摘するジャーナリストは多いが、気づきの無い首都圏の知事の思惑とは逆に、生活者も地方も既に「次」へと動き始めていると言うことだ。

行動を左右するのは「情報」と「経験」である。この1年間学習を積んだ生活者・個人がいると言うことだ。昨年の春未来塾(1)で欧米のようなロックダウンではなく「セルフダウン」と言うキーワードを使って賢明な生活者像を書いたが、世界でも珍しい新型コロナウイルスとの闘い方である。
その現場で闘っている飲食業や旅行業もそうだが、地方の疲弊度は大変さを超えている。地元に根付いた商店街には感染者をほとんど出していないにもかかわらずほとんど人通りはない状態だ。少し前に島根県知事が首都圏、特に東京都の感染対策の無策を批判した心情は共感できる。
解除してもしなくても、感染の下げ止まりからのリバウンドは起きると専門家だけでなく生活者・個人も認識の少しの違いはあっても同じように感じ取っている。今回敢えて生活者・個人の行動基準の一つとして「感染者数」を取り上げてみたが、あるレベルのリバウンドがあった場合必ず行動の「ブレーキ」を自ら踏む筈であると信じている。例えば、「密」を避けて楽しむキャンピングやアウトドアスポーツ、季節の変化を楽しむには紅葉散策の高尾山ハイキング、地方に旅することはできないが百貨店の「地方物産」を楽しむ、旅行を楽しみたいがまずは近場の箱根でも、・・・・・・こうした延長線上に「次」のライフスタイル行動はある。
そして、ブレーキを考えながら、賢明な消費行動をこれからも取ることであろう。死語になった「ウイズコロナ」ではあるが、このウイルスとの付き合い方、言葉を変えれば「正しく 恐る」という原点に立ち戻るということでもある。残念ながらアクセルとブレーキを交互にに踏む、そんな間闘いは続くこととなる。そして、ワクチン摂取の進行度合いにもよるが、まずは夏前には多様な消費行動が始まる。その前に、モニタリング調査により隠れた陽性者を浮かび上がらせ、感染のメカニズムを明らかにし感染予防を行うことだ。つまり、中国、韓国、台湾といった私権を制限し管理する道ではない以上、「正しく 恐る」という高い精度のセルフダウンへと向かう。(続く)
  
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2021年03月12日

今なお、切に生きる  

ヒット商品応援団日記No782(毎週更新) 2021.3.12.



3.11東日本大震災が10年を迎えた。ここ1週間ほどNHKを始め民放各局は10年という節目として何が変わり何が変わらないのか、復旧・復興はどこまで進んだのかをレポートしていたが、取材を受ける被災者の多くは「節目」などないと答えていた。そこには今なお必死な想いが横たわっていることに気づく。
「切に生きる」という言葉は、2011年文芸春秋の5月号の特集「日本人の再出発」に瀬戸内寂聴さんが病床にあって手記を寄せた文の中で使われたキーワードである。「今こそ、切に生きる」と題し、好きな道元禅師の言葉を引用して、「切に生きる」ことの勧めを説いていた。「切に生きる」とは、ひたすら生きるということである。いまこの一瞬一瞬をひたむきに生きるということである。それが被災し亡くなられた家族や多くの人達に、生きている私たちに出来ることだと。
寂聴さんの言葉を借りれば、苦しい死の床にあるこの場所も自分を高めていく道場。道元はこの言葉を唱えながら亡くなったという。「はかない人生を送ってはならない。切に生きよ」、道元が死の床で弟子たちに残した最期のメッセージである。

震災2ヶ月後、「人間が人間であるための故郷」というタイトルでブログを書いた。2011年当時東北三県の人口は約570万人、10年後の現在532万人(-6.6%)38万人の減少となっている。特に津波の被害が大きかった宮城県女川町(-43.3%)のように「復興」とは程遠い状態である。
また、地震・津波と共に大きな被災となったのが原発事故による福島県である。原発の北側にある双葉町は今なお解除されていないが、解除地域に住民登録がある人のうち実際に住む人 31.6%(1万4375人)。今なお避難している、もしくは故郷を帰ることを諦めた人がいかに多いかがわかる。ちなみに、楢葉町59.7%(4038人)、南相馬市56%(4305人)、富岡町17.7%(1576人)、浪江町11.4%(1579人)。
当時「人間が人間であるための故郷」、その故郷について次のように書いた。

『福島原発事故の避難地域住民の人も、岩手や宮城の津波によって家も家族も根こそぎ奪われた人も、必ず口にする言葉に故郷がある。故郷に戻りたい、故郷を復興させたいという思いで口にするのであるが、故郷という言葉を聴くと、国民的な人気マンガ・アニメであるちびまる子ちゃんの世界が想起される。周知のさくらももこが生まれ育った静岡県清水市を舞台にした1970年代の日常を描いたものであるが、ここには日本の原風景である生活、家族、友人が生き生きと、時に切ない思いで登場している。故郷は日常そのもののなかにあるということだ。そして、その日常とは住まいがあり、仕事や学びの場所があり、そして移動する鉄道がある。がれきの山となった被災地で写真を始めとした思い出を探す光景が報じられるが、それら全て日常の思い出探しである。
誰もが思うことであるが、転勤で国内外を問わず転々ととする人も多いが、やはり帰る場所、故郷があっての話しである。今回の東日本大震災は、一種の帰巣本能のように、がれきの向こう側に突如として故郷が思い出され、帰りたいと、それが故郷であった。しかし、巨大津波で根こそぎ故郷を奪われてしまった海岸線の人も、放射能汚染によって立ち入ることすら制限されている福島原発周辺の人にとっても、故郷を失ったデラシネの人となってしまう恐れがある。』

震災による窮状に苦しむ住民への思いを胸に、いち早く立ち上がった多くの市町村長の行動があった。 米タイム誌は21日発表した「世界で最も影響力のある100人」に、福島原発事故での政府対応をYouTubeで厳しく批判した福島県南相馬市の桜井勝延市長。あるいは、郡山市の原市長は「国と東京電力は、郡山市民、福島県民の命を第一とし、『廃炉』を前提としたアメリカ合衆国からの支援を断ったことは言語道断であります。私は、郡山市民を代表して、さらには、福島県民として、今回の原発事故には、『廃炉』を前提として対応することとし、スリーマイル島の原発事故を経験しているアメリカ合衆国からの支援を早急に受け入れ、一刻も早く原発事故の沈静化を図るよう国及び東京電力に対し、強く要望する」と記者発表した。

行政にとって地域住民が全てである。理屈ではなく、住民への思い、哲学があって初めて行政サービスが行えるということだ。どこの首長であったか忘れてしまったが、財布も持たずに着の身着のままで避難所暮らしをすることになった被災者に対し、何よりも必要となる現金、確か一時金として10万円を支給した地方自治体があった。被災地の再生にバイオマスによるエコタウン構想・・・・・・そんなことではなく、プライベートな生活が確保できる仮設住宅こそが必要であった。子ども達の健康を考え、校庭の表土を自らの判断で除去した自治体もあった。あるいは、岩手の三陸海岸沿いの孤立した集落では、行政は壊滅し、まさに住民自ら自治を行っているコミュニティがいかに多かったか。求められる日常をいかに取り戻すか、いかに新しくつくっていくか、これが生活者への、被災者への哲学である。
そして、行政と共に、この故郷を取り戻す活動は震災後すぐにスタートした。震災後49日間で東北新幹線は復旧し、新青森から鹿児島までつながることとなる。これを機会に東北を元気づけるために、観光客を誘致することをマスメディアは盛んに報じるが、それはそれとして必要とは思ったが、地元の足である在来線である東北本線が少し前に復旧したことの方がうれしい話である。あるいは東北自動車道開通もそうであったが、コンビニのローソンもイオンのSCも被災地で復旧オープンさせたことの方が大きな意味を持つ。それは被災地にとって、日常に一歩、故郷に一歩近づくことであるからだ。故郷とは人がいて笑い声が聞こえる賑わいであることがわかる。故郷は単なる風景としてのそれではなく、人がいる風景のことである。

震災直後はまさに自助共助公助であった。しかし、故郷は帰ることことができる場所であるが、福島を始めその故郷を失い、もしくは断念した人がいかに多いか。一方今なお故郷にとどまり「切に生きる」人たちも多い。その中で偶然TVのニュースで知った一人が福島在住の臨床医坪倉医師である。東日本大震災、中でも放射能汚染にみまわれた福島県の医療再生に今なお貢献している医師の一人である。その中心となっているのが坪倉正治氏であるが、地域医療の再生プロジェクトを立ち上げ全国から同じ志を持った医師と共に再生を目指している現場の医師である。臨床医であると同時に多くの放射能汚染に関する論文を世界に向けて発表するだけでなく、福島の地元のこともたちに「放射能とは何か」をやさしく話聞かせてくれる先生でもある。
新型コロナウイルスと放射能も異なるものだが、同じ「見えない世界」である。坪倉正治氏が小学生にもわかるように語りかけることが今最も必要となっている。感染症の専門家による「講義」などではないということだ。小学生に語りかける「坪倉正治氏の放射線教室」は今もなお作家村上龍のJMMで配信されている。東京のマスメディアは決して取り上げることのない坪倉医師をニュース画面で見かけたのは、あの元オリンピック組織委員会会長森氏の女性蔑視発言の直後であった。復興五輪ということから聖火リレーの参加表明して来たが、復興とはまるで異なる運営となっている東京オリンピックには関わらない、そんなニュースであった。坪倉医師は今もなお放射能汚染と闘っており、明日も闘っていくであろう人たちの一人である。「切に生きる」人たちにとって、「復興」という冠のないオリンピックは意味のないイベントであるということだ。

ところで、その原発事故の「今」について、改めて気づかされたのがNHKスペシャルの2つの番組、「徹底検証 原発マネー」及び「廃炉への道」であった。今なお、というより廃炉への道筋が不透明の中の原発事故関連の「お金」の使われ方である。
新聞などを通じての報道に触れることはあったが、時々の断片的な情報であり、この廃炉・除染という困難さの全体を感じ取ることはなかなかできなかった。史上最悪規模の事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所。10年経ってやっと溶け落ちた核燃料を取り出し、処分する「廃炉」が始まろうとしている。40年ともいわれる長い時間をかけて、3つの原子炉を「廃炉」する人類史上例を見ない試みはどのような経過をたどるのか。放射能との長きにわたる闘いを、長期に渡り多角的に記録していくものだが始まりは水素爆発をきっかけにメルトダウンが起き、膨大な量の放射能がまきちらかされる。多くの原子力研究者が既にメルトダウンが起きていると指摘したにも関わらず、「メルトダウンではない」と言い張った当時の菅直人政権の官房長官の姿が思い出される。

コロナ禍の1年を経験し、3.11当時の「社会」を振り返ると多くを失ったが今なお切に生きる人たちがいることを通説に感じる。そして、「現在」との比較をどうしてもしてしまう。一言で言えば、復旧・復興に向け社会が災害に向かうという緊張感のある「一体感」があった。しかし、現在はどうかと言えば、緊急事態制限発出や延長に関し、政府と東京都との間での駆け引きを見るにつけ、東日本大震災当時の住民本位である行政とのあまりに大きな違いに唖然とする。以降、防災については多くの面で学びそして進化して来た。しかし、「政治」は逆に退化し続けている。

亡くなった作詞家阿久悠さんは、晩年「昭和とともに終わったのは歌謡曲ではなく、実は、人間の心ではないかと気がついた」と語り、「心が無いとわかってしまうと、とても恐くて、新しいモラルや生き方を歌い上げることはできない」と歌づくりを断念した。しかし、3.11後の光景は痛みとともに、「絆」というキーワードに表される共助の光景をも見せてくれた。大津波は自助できるものを大きく超えたものであった。更に、頼りにすべき行政機関も津波で持ち去られ、残るは生き残った人々の共助だけとなった。多くの場合こうした災害後には略奪などが横行するのだが、日本の場合は互いに助け合う共助へと向かい、世界中から賞讃された。阿久悠さんは「心が無い」時代に歌うことはできないとしたが、実は東北には心はあったのだ。今一度10年前の東日本大震災の原点に戻らなければならない。

忌野清志郎が歌う「雨あがりの夜空に」の歌詞に次のようなフレーズがある。
・・・・・・・・・・・・
こんな夜におまえに乗れないなんて
こんな夜に発車でないなんて
こんなこといつまでも長くは続かない
・・・・・・・
Oh雨上がりの夜空にかがやく
Woo雲の切れ間に
散りばめたダイヤモンド
・・・・・・・・・・

そして、忌野清志郎は私たちに「どうしたんだHey Hey Baby」と投げかける。乱暴だが、とてつもなく優しい。「切に生きる」人たちへ、そんな応援歌が待たれている。今なお、戦いは続いているということだ。(続く)

追記 テーマから言うと大津波などの画像の方がわかりやすいが、やはり胸が苦しくなり、好きな忌野清志郎の応援歌の写真を使うこととした。
  
タグ :東日本大震


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2021年03月03日

春よ、来い 

ヒット商品応援団日記No781(毎週更新) 2021.3.3.



「春よ、来い」(はるよ こい)は、周知のように松任谷由実が1994年10月にリリースした 曲である。多くの人が早く春が来て欲しい、そんな思いを見事に謳った名曲であろう。おもしろいことに、昭和のヒットメーカーである阿久悠さんに「春夏秋秋」という曲がある。「春夏秋冬」ではない。1992年に石川さゆりに書いた曲で、
 ♪ああ 私 もう 冬に生きたくありません
   春夏秋秋 そんな一年 あなたと過ごしたい・・・・・・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・
   来ませんか 来ませんか 幸せになりに来ませんか・・・・・

冬の時代が長かった女性を想い歌ったものだが、四季は生活の中に変化をもたらし、そこに喜怒哀楽を重ねたり、情緒を感じたり、美を見出したり、季節の変化という巡り合わせを楽しんできた。

コロナ禍の1年であったが、決して「冬冬冬冬」ばかりではなかった。ひととき春や夏そして秋、あるいは冬を折り込みながらの1年であったと思う。人によって取り戻したい「春」は異なるが、ほとんど「冬」の1年であったと思うのは中高生の学生であろう。好きなミュージシャンのライブにも行けない、友人と街歩きもできない、ほとんどの学校行事は縮小もしくは中止で、部活も思いきりできなかった。日常の学校生活の基本である人と人との接触すら制限された。そして、卒業を迎える。
2009年春、NHKの全国学校音楽コンクールの課題曲「手紙」をアンジェラ・アキが歌ったことを思い出す。当時は「冬」ではなく、春夏秋冬、四季のある時代であるが、その「手紙」は悩み多き世代に向けた応援歌である。ところで当時のブログに次のようなコメントを書いた。
『アンジェラ・アキは、未来の自分に宛てた手紙なら素直になれるだろう、だから「未来の自分に手紙を書いてみよう」と呼びかける。そして、生まれたのが「手紙」という曲だ。「拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです」というアンジェラ・アキからの応援歌である。

♪大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけれど
苦くて甘い今を生きている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
自分の声を信じて歩けばいいの
いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど
笑顔を見せて 今を生きていこう

ありのままの自分でいいじゃないか、時に疲れたら少し休もうじゃないか、とメッセージを送る「ガンバラないけどいいでしょう」を歌う吉田拓郎とどこかでつながっている。・・・・・・・・・何が起こってもおかしくない時代。今、安定・安全志向が叫ばれているが、漫才コンビ麒麟の田村裕さんによるベストセラー「ホームレス中学生」ではないが、既にそんな安定などありえない時代を生きている。』

また、卒業、NHKの全国学校音楽コンクールといえば、やはりいきものがかり のYELLを思い出す。YELLの後半歌詞に次のようなフレーズがある。

・・・・・・・・・・
♪サヨナラは悲しい言葉じゃない
それぞれの夢へと僕らを繋ぐ YELL
いつかまためぐり逢うそのときまで
忘れはしない誇りよ 友よ 空へ

僕らが分かち合う言葉がある
こころからこころへ 言葉を繋ぐ YELL
ともに過ごした日々を胸に抱いて
飛び立つよ 独りで 未来(つぎ)の 空へ

ところで人生の大きな節目である卒業の先には入学がある。新しい人生を歩むわけだが、その人生もよう、人もようを曲にした阿久悠さんは2002年自らの人生を石川さゆりに歌わせる。この自伝的な曲「転がる石」は次のような詞である。

♪十五は 胸を患って
咳きこむたびに 血を吐いた
十六 父の夢こわし
軟派の道を こころざす

十七 本を読むばかり
愛することも 臆病で
十八 家出の夢をみて
こっそり手紙 書きつづけ
・・・・・・
転がる石は どこへ行く
転がる石は 坂まかせ
どうせ転げて 行くのなら
親の知らない 遠い場所※

怒りを持てば 胸破れ
昂(たかぶ)りさえも 鎮めつつ
はしゃいで生きる 青春は
俺にはないと 思ってた

迷わぬけれど このままじゃ
苔にまみれた 石になる
石なら石で 思いきり
転げてみると 考えた

自らをも鼓舞する応援歌「ファイト」を歌った中島みゆきの人生歌と重なる。そして、「転がる石」の意味合いを阿久悠さんは次のように「甲子園の歌 敗れざる君たちへ」(幻戯書房刊)で書いている。

『人は誰も、心の中に多くの石を持っている。そして、出来ることなら、そのどれをも磨き上げたいと思っている。しかし、一つか二つ、人生の節目に懸命に磨き上げるのがやっとで、多くは、光沢のない石のまま持ちつづけるのである。高校野球の楽しみは、この心の中の石を、二つも三つも、あるいは全部を磨き上げたと思える少年を発見することにある。今年も、何十人もの少年が、ピカピカに磨き上げて、堂々と去って行った。たとえ、敗者であってもだ。』

歌は人生の応援歌である。多くの制限の中の1年であったが、そんな我慢の中に小さな「応援」があった筈である。阿久悠さんの言葉を借りれば、コロナ禍という苔にまみれた1年であった。そこで「石なら石で 思いきり
転げてみる」と 考えることも必要な時代である。心の中の石を見つめる良き季節を迎える。(続く)
  
タグ :卒業


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2021年02月23日

再び、回帰が始まる 

ヒット商品応援団日記No780(毎週更新) 2021.2.23.



前回のブログ未来塾もそうであったが、テーマは不要不急の中に「何」を見出すかと言うコロナ禍の「時代」をどう受け止めるかであった。既に昨年夏に書いたブログでは4月ー6月における家計支出の実態を見ればわかるように旅行や外食あるいはファッションといった不要不急の支出がいかに大きかったか、つまり大きく言えば日本経済の根幹を成しているのは「不要不急」であったと言うことである。
前回の飲食事業を対象としたのも飲食の「何」を求めて店に足を向けているかを個別事例を少し分析してみた。まず求められているのが不安などの心をひととき解きははなってくれる「何か」であり、飲食が持つライブ感、しずる感であった。デリバリーと言う方法を否定はしないが、求められているのは飲食店が顧客の前で調理する、採れたての素材、焼き立て、煮立て、炊き立て、・・・・・・・そうした「感」を求めて顧客は店を訪れる。顧客と店をつなぐものは何かということである。

つまり、「不要不急」消費とは、それまであった日常を立ち止まって考えてみる。季節らしさ、多くの行事の意味、人との何気ない会話・雑談、あるいは挨拶ですら大切であったことを失って初めて気づかされたと言うことだ。「回帰」と言う言葉がある。過去に回帰する、家族に回帰する、あるいは地域に回帰する、・・・・・多くの使われ方をするが、コロナ禍の1年を経験し、危機の中で「何」に回帰していくのかと言うことである。
それまでの「らしさ」を少しでも取り戻すために、例えば巣ごもり生活の気分転換を図るためのこだわり調理道具が売れたり、以前のようにライブイベントに行きたいがライブ配信で我慢する、大きな声で声援を送りたいが無観客試合のTV画面に向かって応援する・・・・・・こうしたもどかしい1年を経験して来た。

人は多くを失った時、立ち止まり「何か」に向かう。1990年代初頭のバブル崩壊の時はどうであったか以前未来塾で取り上げたことがあった。その中でレポートしたことだが、今日のライフスタイルの原型は江戸時代にあると言うのが持論であり、不要不急と言えば元禄時代を思い浮かべる。元禄バブルと言われるように庶民文化が大きく花開いた時代であるが、実は江戸時代には好況期(元禄、明和・安永、文化・文政)は3回、不況期(享保、寛政、天保)も3回あった。
この江戸初期は信長・秀吉による規制緩和の延長線上に経済を置いた政策、特に新田開発が盛んに行われ、昭和30年代の「もはや戦後は終わった」ではないが、戦後の高度成長期と良く似ていた時代であった。この経済成長の先にあの元禄時代(1688年~)がある。浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、といった江戸文化・庶民文化を代表するアーチストを輩出した時代だ。まさに不要不急の江戸文化を創ったと言っても過言ではない。

ところで元禄期の後半には鉱山資源は枯渇し、不況期に突入する。幕府の財政は逼迫し、元禄という過剰消費時代の改革に当たったのが、周知の8代将軍の徳川吉宗であった。享保の改革と言われているが、倹約令によって消費を抑え、海外との貿易を制限する。当時の米価は旗本・御家人の収入の単位であったが、貨幣経済が全国に流通し、市場は競争市場となり、米価も下落し続ける。下落する米価は旗本・御家人の収入を減らし困窮する者まで出てくる。長屋で浪人が傘張りの内職をしているシーンが映画にも出てくるが、職に就くことができない武士も続出する。吉宗はこの元凶である米価を安定させ、財政支出を抑え健全化をはかる改革を行う。この改革途中にも多くの困難があった。享保17年には大凶作となり、餓死者が約百万人に及び、また江戸市内ではコロリ(コレラ)が大流行する。翌年行われたのが両国での鎮魂の花火であった。その花火が名物となり、川開きの日に今もなお行われているのである。

こうした江戸時代の庶民心理を言い表した言葉が「浮世」であった。浮世とは今風、現代風、といった意味で使われることが多く、トレンドライフスタイル、今の流行もの、といった意味である。浮世絵、浮世草子、浮世風呂、浮世床、浮世の夢、など生活全般にわたった言葉だ。浮世という言葉が庶民で使われ始めたのは江戸中期と言われており、元禄というバブル期へと向かう途上に出て来る言葉である。また、江戸文化は初めて庶民文化、大衆文化として創造されたもので、次第に武士階級へと波及していった。そうした意味で、「浮世」というキーワードはライフスタイルキーワードとして見ていくことが出来る。浮世は一般的には今風と理解されているが、実は”憂き世”、”世間”、”享楽の世”という意味合いをもった含蓄深い言葉である。

江戸の文化は庶民の文化であったと書いたが、それは寄せ集め人間達が江戸に集まってプロジェクトを作り、浮世と言う「新しい、面白い、珍しい」こと創りに向かったことによる。それは1980年代の昭和の漫画が1990年代には平成のコミックと呼ばれ、オタクも一般名詞になったのとよく似ている。そして、浮世絵がヨーロッパに知られるきっかけになったのは、当時輸出していた陶器やお茶の包装紙に使われ、一部のアーチストの目に止まったことによる。同じように、アニメやコミックも単なるコンテンツとしてだけではなく、他のメディアとコラボレーションしたり、ゲームやフィギュアにまで多くの商品としてMDされるのと同じである。浮世絵もアニメやコミックもそれ自体垣根を超えた強烈なメディアとなって江戸の文化、クールジャパンのインフラを創ってくれているということである。バブル崩壊前後の庶民文化を見ていくと、それまで隠れていた「何か」が面へと一斉に出て来たと言うことであろう。
浮世絵もアニメもコミックも、いわばマイナーなアンダーグランド文化から生まれた産物である。そして、庶民文化とは長屋文化、別な表現を使うとすれば、表ではない横丁路地裏文化ということである。

さてこうしたコロナ禍によってどんなライフスタイル転換を余儀なくされているか前回の未来塾で一つの仮説を論じてみた。一言で言えば「感」の取り戻しである。実感、共感、感動、ライブ感、生身、温もり、肌感、生きてる感じ、・・・・・こうした「感」をどう取り戻すかであった。
真っ先に思い浮かべるのがミュージシャンの活動であろう。この10数年音楽のデジタル化インターネット配信によって周知のように音楽業界も大きく変わって来た。CDは売れなくなり、ライブイベント収入によって経営はかろうじて成立して来た。しかし、「密」を避けることからライブイベントの多くは自粛へと向かった。ミュージシャンも音楽業界も、演奏のライブ配信によってなんとか異なる道を探ろうとして来た。それは目の前で作ってくれる出来立てのラーメンではなく、出前館によるデリバリーされたラーメンを食べるのと同じである。これは顧客が求めているのは心揺さぶられる「感」であって、インターネットを介した「感」ではない。この2つの感の違いは「作り手(ミュージシャン)」と「受けて(観客・フアン)」とが繋がっていないことによる。つまり、繋がっている感じがないことが大きな違いを生んでいると言うことだ。
出来もしないことを書くようだが、例えば人気のミュージシャン「ゆず」のスタートは路上ライブからであった。周知のように横浜伊勢崎町での路上ライブであるが、スタート当初は足を止めてくれり客はほとんどいないライブであったが、次第に聴きに来る客は増え、1年後には7500人が集まったと言われている。ちょうど秋葉原の雑居ビルでスタートしたAKB48と同じである。回帰という言葉を使うならば「原点回帰」と言うことだ。

また、不要不急の代表的なものの一つがスポーツである。日本においても無観客試合や観客の人数を制限したりしていくつかの試みが行われている。ドイツのサッカーの場合無観客試合+TV中継を行っているが、サポーターはどんどん少なくなり本来のサッカーの原点から大きく後退してしまっていると言われている。放映権料が一定程度収入として得られることを優先、つまり経済を優勢することによってフアン離れが起きていると言うことである。一昨年のラグビーのワールドカップの盛り上がりは選手たちの活躍もあるが、そのプレーへの応援が力となり、一体感こそが感動を生みと成功へと向かわせたことを思い起こす。

さて「回帰」は多くのところで広がりつつある。例えば、昨年の夏感染拡大を気遣って帰省自粛が行われた。この時社会現象として現れたのが東京のアンテナショップを訪れる人たちが多くみられた。故郷へ帰ることはできないが、少しでも故郷を思い出させてくれるモノを買い求めてのことであった。これもコロナ禍が生み出した故郷回帰である。
また、苦境であった百貨店にも多くの人が出かけるようになり賑わいを見せている。中でも食品を中心とした地方物産展が好評である。旅行はできないがせめても地方の美味いものを食べたい、ひととき旅気分をということだ。これも日常回帰の一つであろう。
ところでもうすぐ3.11東日本大震災を迎えるが、その年の流行語大賞は「絆」であった。10年経った今、復旧はなし得ても復興はまだ遠い。ただいくら遠くても故郷回帰という原点は絆によって繋がっているということだ。
また、テレワークという自宅での就業を余儀なくされ、昨年春頃まではストれるからDVなどが煮えられたが、コロナウイルスを避けての遊びなどが盛ん位みられるように為った。ブログにも採算書いて来たことだが、オープンエアでのキャンプや紅葉ハイキング、あるいは鎌倉や箱根と言った近場の小旅行が盛んに行われた。ある意味、今また「家族一緒」の日常に立ち戻ったと言っても過言ではない。

コロナ禍と言う危機を経験し、立ち止まり、足元を見て、次へと冷静に向かおうとしている。バブル崩壊の時のような大きなパラダイム転換はないが、やはり多くの「回帰」がみられるようになった。不要不急、感の取り戻し、と言えばもうすぐ桜の季節である。今年の花見という江戸時代から続く最大イベントは宴会抜きのものになりそうだが、それもまた良しということだ。(続く)

  
タグ :コロナ禍


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2021年02月17日

未来塾(43) コロナ禍の飲食事業事例「後半)    

ヒット商品応援団日記No779(毎週更新) 2021.2.17.




「5つの飲食事例」に学ぶ


今回取り上げた事例はわずかで、他の飲食事業者に全て当てはまるものではない。ただ今回の事例はコロナ禍にオープンした飲食事業、もしくはオープンして3年に満たない事業であり、ある意味正面からコロナ禍に立ち向かった事業事例である。そして、立ち向かい方もそうであるが、業態ごと、専門分野ならではのアイディアや知恵を見出すことができる。そして、小売業はアイディア業であると言われてきたが、事業の根底には揺るぎない信念のようなものが見えてくる。ウイルスという見えない敵との戦いであればこそ、信念といういささか精神論的ではあるが、事業を支える姿が見えてくる。


「不安」が横溢する心理市場

昨年夏未来塾では「もう一つのウイルス」と言うタイトルで、「自粛警察」をはじめとした社会現象を取り上げたことがあった。周知のようにそれら心の奥底に潜むウイルスは続いており、今や「マスク警察」から更に「不織布マスク警察」へと。こうした過敏な反応は一種のヒステリー現象・社会病理に近いものとなっている。あのIps細胞研究所の山中教授は昨年春HP開設に際し、情報発信については「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」を基本に発信していくと述べ、HPの情報もその都度改訂・修正されている。
実は不安を作り出すのは「情報」であり、しかも「不確かな情報」に因ることが多い。勿論、不確かどころか全くのデマ情報とまでは言わないが、憶測、推測、個人的な思い込み、・・・・・こうしたことから「うわさ」が生まれる。うわさはうわさへと伝播拡散することはSNS社会にあっては周知の通りで、そのうわさを根拠にマスメディア、特にTVメディアは取り上げあたかも事実であるかのように伝わることとなる。
その象徴例が昨年春のパチンコ店の取り上げ方で、まるでクラスター発生源であるかの如きであった。しかし大きなクラスターは一度も起きてはいないのが「事実」である。後にメディアの責任を痛感したと述べたのはジャーナリストの大谷昭宏氏だけで、TV局・番組が訂正したことは聞いたことがない。同じように、東京由来のウイルスと言われた新宿歌舞伎町は確かに感染者が多かったことは事実であるが、都知事は「夜の街」が感染源であるかの如き発言を繰り返し、ここでも「悪者」である根拠を検証することなくそのまま報道する。(詳しくは未来塾にて新宿区長の発言を含め経緯を書いているので参照していただきたい)」
次に悪者となったのが明確な根拠がないまま移動をすれば感染は拡大すると言った一般論からの推測によるGotoトラベル感染拡大説である。次に取り上げられたのは感染者数の割合が多く行動範囲の大きな「若者」感染源説である。(詳しくはブログ「伝わらない時代の伝え方」を参考としてください。若い世代の行動を消費面から分析しています。)
こうした不確かな情報発信はTV局が自前の取材スタッフで全てをまかなうことができないと言う事情があるからである。その情報の見極めは「その確かな根拠は?」と問えば、自ずと答えが出る。よく情報リテラシーの議論が出るが、情報の活用能力の前に「その情報の根拠」を問うことから始めることだ。

気分を変えるアイディア

残念ながら不安・ストレスは増幅することはあってもなくなることはない。感染防止のための努力は勿論のことであるが、今必要なことは「ポリシー」「信念」であり、目指すべき飲食の在り方、私の言葉で言えば時代に即した「コンセプト」を明確にすることに尽きる。時代に向き合う姿は顧客に一定の「安心感」を与えることができる。昔からある「お任せ」と言う安心感である。これらは「専門世界」「プロ」ならではの「確かさ」を提供することである。変わらぬ安定感、いつもの味、いつものスタイル、明るさ、こうして生まれる満足の提供ということだ。
つまり、自店の世界に引き込む、創ろうとする雰囲気を最大限表現することが重要となる。それが「ひととき」という短い時間であっても、不安の無い時間を創るということにつながる。今回の事例でいうと、大阪「ミクり」のテーマ「二十四節気」の世界に入り込んでもらうということである。二十四節気と言えば、夏至や冬至、あるいは立春や立夏などを思い浮かべるが、24の季節を表す名前がつけられている暦の世界だ。ある意味旧暦の季節に想いを巡らす暮らしの世界がテーマであり、そのメニューとなった古の文化を食べることとなる。そのようにひととき不安から離れた時間を過ごしてもらうということである。
「挽肉と米」の場合も、店づくり・空間づくりの世界観を感じさせてくれるが、なんといっても目の前で焼いてくれるハンバーグである。焼く匂い、音、立ち上る煙さえ、美味しさのシズル感を掻き立ててくれる。しかも次から次へと食べ終わった頃を見はらかったかのように熱々のハンバーグが届く。食べ方も自由自在自分の世界に没頭させてくれる時間だ。
どちらもその満足感は異なるが、ひととき不安とは無縁の時間を過ごさせてくれる。

「若い世代」の居場所づくり

昨年夏「密を求めて若者は街へと向かう」といういささか刺激的なタイトルでブログを書いた。今になって感染拡大のあたかも犯人のように「若者」を見立てる「大人」(主にTVメディア報道)の言説が盛んに見られるようになった。(詳しくはブログを参照していただきたい。)
1967年「書を捨てよ、町へ出よう」と呼び掛けたのは寺山修司であった。寺山が主催した天井桟敷の舞台は新宿花園神社であったが、現在の舞台は渋谷へと変わった。今までの鬱屈した生活から「自由」に何にでもひととき変われる」街へと向かうという心情にそれほどの違いはない。そこには私の持論であるが、「新しい、面白い、珍しい」何かが常にあり、欲望を刺激するのが「都市」がもつ魅力ということだ。
ところで2015年の国勢調査によれば、地方では過疎化高齢化が深まり、都市においては人口流入に歯止めが効かず単身世帯が増加している。ちなみに東京23区の場合、単身世帯は過半数を占めている。
また、東京における人口流入増加は仕事を求めた若い世代とともに学生によるところが大きく、学生数は約260万人に及んでいる。高齢化ばかりが話題となっているが、東京はやはり「若者」の街である。「密」の中心に若い世代がいるということである。
東京という街の歴史を調べていくとわかるのだが、日本で初めて「都市化」が進められたのが江戸であった。周知のように中央集権国家の礎はここから始まっている。また、この都市化は新たな商業を発展させ、元禄に代表されるような消費都市の萌芽を見せる。消費都市とは「不要不急」によって成立する。そして、この魅力は幕府が開かれた当初江戸は40万人都市であったが、地方から江戸を目指す人は多く、120万〜140万人にまで膨れ上がる。つまり、江戸も今も人を惹き寄せるのは「新しい、面白い、珍しい」を求めた結果である。
話が横道に外れてしまったが、「新しい、面白い、珍しい」が日々起きている街が渋谷であり、事例の渋谷横丁もその一つとなっている。ここ数年渋谷は連続した再開発によって街の様相は高層ビルによって一変した。それら高層ビルにも多くの専門店などが入っているが、「大人の街」コンセプトによってテナント編集されているせいか、若い世代にとっては敷居の高さ、入りにくさを感じてしまうものとなっている。ラフな格好で気軽に使える店は少ない。そうした中の渋谷にあって、安い価格で飲み食べることのできる渋谷横丁は「居心地の良い」居場所になっている。それは閉じられたビル内の飲食店ではなく、通りに面した店づくりは入り易い居場所となっている。

ところで界隈性というキーワードがある。賑わい、活気ある雰囲気、なぜか心地よい・・・・・・・そこには効率とか生産性とか、ある意味「〇〇すべき」といったベキ論に押し潰されそうになる日常からひととき解放してくれる、そんな雰囲気が満ち溢れる街のことを指すキーワードである。組織ではなく個人として出会い交流できる街、異なる価値観を持つ多様な人と出会える、そんな街が渋谷である。勿論、過去には薬物に手を出したり、援助交際といった「大人」の罠に囚われたことがあったが、現在そうしたことはほとんど聞いたことがない。
もう一つの事例として取り上げた日比谷オクロジの場合であるが、JR東日本の高架下ということからも「隠れ家」というコンセプトは理に叶ったものである。その隠れ家であるが、「ワインと天ぷら」と言った新しい組み合わせメニューをメインとした専門店など従来の銀座にはない「新しさ」を感じることができる。出店する業種もさることながら、まず超えなければならないのが前述の「銀座価格」である。銀座にある老舗飲食店も顧客によって育てられ今日があり、そこに文化もある。新しい銀座の「居場所」として、「育てがいのある専門店は何か」を今一度考えてみることも必要であろう。

価格の壁を超える「満足感」

誰を主要な顧客とするか、そのための業態やメニューによって全て異なるが、価格を決める一つの指標となるのが今までにない「満足感」である。5つの事例を通して学ぶべきは、1年近い巣ごもり生活で求められているのが「新しい、面白い、珍しい」メニューであり、サービススタイルであり、手頃な価格であることがわかる。巣ごもりという「鬱屈感」をひととき解放してくれるという満足感である。とにかく「気分」を変えてくれる店ということになる。今回取り上げた店や商業施設は、デリバリー・宅配といったスタイルの店ではない。例えば、「挽肉と米」の店を考えてもわかるっように単なる「焼きたて」ではなく、焼き上げるまでの音や朦々として煙すらも満足感に繋がっている。シズル感と言って仕舞えばそれで終わってしまうが、こうした「感」を取り戻したいということだ。デリバリーの出前館のCMに熱々のままのラーメンデリバリーが描かれているが、湯切りした麺を丼に入れる・・・・・・・こうした「ライブ感」を味わうことはできない。ただ熱いだけのラーメンの味気なさの違いである。
実はコロナ禍が起きるまでは、こだわり、わけあり、と言ったキーワードによってメニューが編集されてきた。その結果としての「価格」であった。ミシュランの星を獲得した店も、少し前までは成長を見せていたチェーン店も、等しく苦境に立たされている。「移動」が抑制されていることから、観光産業もさることながら駅弁の代表的な企業である焼売弁当の崎陽軒は売り上げは前年比4割であると報道されている。また、昨年4月歌舞伎座前の弁当屋「木挽町辨松」が152年の歴史を閉じて廃業へと向かった時感じたことだが、伝統を引き継ぐ食文化すらもコロナ禍の前では無力であった。しかし、そうした中で小さくても光る飲食店はあり、顧客は強く支持していることも事実である。

新しい満足感による再編

「食」はライフスタイルの中心である。この1年コロナ禍によって食の原点を今一度思い起こさせてくれた感がしてならない。パラダイムチェンジという言葉がある。過去の価値観を大きく変え、全く異なる世界・価値観世界を指す言葉であるが、今回のコロナ禍がもたらしたことは、パラダイムチェンジではなく、「食」とは何か、飲食業とは何か、を問い直させたということであろう。
巣ごもり生活の中にあっても、不安やストレスが充満したこころがひととき和み、思わず美味しかったと呟きたくなる、そんな「飲食」が求められているということだ。ある意味当たり前のことであり、原点に帰ることである。顧客支持はどこにあるのか、どこにあったのかを今一度見直してみるということである。時間が経ち、スタッフが多くなればなるほど、この「原点」から離れてしまいがちである。あのユニクロは創業感謝祭や新規店オープンには牛乳とアンパンを今なお来店顧客に配っている。それは創業時、オープンした時に配った「想い」を忘れないためである。創業の精神に常に立ち返るということだ。

ところでその満足感であるが、「巣ごもり」という閉じられた世界から解放してくれるものはなにかと言えば、「ライブ感」「シズル感」「季節感」「鮮度」・・・・・・つまり実感ということである。「密」であることを禁じられた中、「散」となった個々人が実感できる「何か」を取り戻したいということであろう。
コロナ禍の1年間、生活者はウイルスを避けながら、日常を楽しむ工夫をしてきた。例えば、キャンピング需要は更に大きくなり、ジョギングを始めハイキングなどオープンエアな環境に身を置く傾向が強く出てきた。自然を感じ取る、季節・花々・気温・匂い・風・・・・・・・今まであった「らしさ」を取り戻したいということであろう。
思い出して欲しい、1980年代消費を活性させたのは「鮮度」であった。旬を素材に、採れたて、焼きたて、煮立て、調理したて、、出来立ての美味しさを求めたことを。現在はそんな鮮度を「実感」してもらうことを主眼としたサービス業態が求められている。それは名店の鍋セットから始まり、焼き台を含めた「焼き鳥セット」や「焼肉セット」までが人気となっているのが「巣ごもり」消費である。つまり、いつの時代も「ライブ感」を提供するということだ。

「不要不急」を楽しむ時代

今回は飲食事業に的を絞ってコロナとの向き合い方を学んできたが、その裏側には顧客自身の変化が見え隠れしている。昨年春巣ごもり消費の代表的なものとして「ゲーム」需要に触れたことがあった。そのゲーム需要の中心に任天堂やSONYがあるのだが、SONYのプレイステーション5は製造が追い付かないほどで決算にも大きく貢献し経常利益は1兆円を超えると発表されている。最近では新しいSNS「クラブハウス」も夜8時以降出歩くことができないことから、音声のみの会話だけだがそのライブ感から世界中で人気となっている。これは人に会えない時代の不要不急の楽しみ方の一つであろう。クラブハウスの会話の本誌yしは一種の無駄話である。コロナ禍以前がそうであった日常の無駄話、友人関係だけでなく著名人との話もできることから、コロナ禍から生まれた「不要不急」なSNSである。昨年4月に実施されたテレワークが次第に元の出社状態に戻ってしまったのも、人間関係の中にこの「無駄」が必要であったということだ。
命をながらえるための必需消費だけでは生きてはいけなくなっている。無駄を含めた選択消費の時代であることを強く気づかせてくれた事例は多い。つまり、コロナ禍にあっても戦後間もない頃の生きるための必需消費の時代には後戻りできないと言うことである。団塊の世代以上の高齢者は必需消費の時代を経験していて我慢することはできるが、若い世代にとってはまさにコロナ禍は未経験、実感を得ることができない時代ということだ。不要不急という言葉は、「大人」の言葉であり、若い世代にとっては意味を持ち得ない言葉になっているということである。

ライフスタイル変化の兆し

コロナ禍の1年、見えてきたのは「無駄」をどう遊ぶか楽しむか、そんなライフスタイルである。よくコロナに慣れてしまった緩みと言った表現をTVメディアは使うが、それは生活者自身が自制、セルフダウンの仕方を学んできた結果であることを忘れている。
「不要不急」を悪の根源であるかのような言説を採る専門家や政治家は多くいるが、何をしても自由だということではない。生活者はどうしたら感染を防止しながら「楽しめる」かをウイルスの知識を踏まえて判断し、行動している。生活者はこうした学習情報を持ち、既にTVメディアのいい加減さに気づき始めている。少なくとも今回取り上げた専門店や商業施設は、こうした賢明な生活者によって支えられていることだけは事実である。
先日厚労省は2回目の抗体検査の結果を発表した。その抗体保有率は東京0.91%(前回0.10%)、大阪0.58%(同0.17%)、宮城0.14%(同0.03%)だった。新たに対象に加えた愛知は0.54%、福岡は0.19%。その評価であるが、どの地域も1%以下の低さである。英国などの抗体保有率は20%を超えているが、何故日本は低いのかと言う疑問が起きる。昨年春ips細胞研究所の山中教授が日本人の感染率の低さの理由を指摘をした「ファクターX」が1年経っても解明されていない。いずれにせよ1日も早いワクチン接種が待たれるが、少なくとも生活者は感染防止をしながら少しでも「不要不急」を楽しんでいるかがわかる。
昨年5月コロナ禍の出口論、ウイズコロナの論議が盛んであったが、消費の面からは答えの一つとして不要不急の楽しみ方が浮かび上がって来た。

「不要不急を楽しむ」などと言うと、また感染の犯人、悪者にされそうだが、全く逆で生活者は極めて注意深く楽しむ術を身につけ始めている。またここ数週間の感染者の減少傾向は若い世代の感染が減少したことによるもので、今なお感染者が多いのは介護施設や病院でのクラスター発生に依るものが多い。
今、一番我慢しているのは若い世代であり、細心の注意を払って、不要不急を楽しんでいる。バイトのシフトの合間に、多くの友人と会い騒ぎたいが、特別仲の良い友人と二人だけで昼間に会う。オランダでは若者による暴動すら起きていると報道されているが、日本の「若者」は消費の表舞台には出てこないとして5〜6年前、「草食男子」などと揶揄された世代である。真面目で大人しい世代であり、身近な仲間や関係先、勤め先やバイト先には感染の迷惑をかけない気配りのある世代である。
そして、あたかも合理主義を旨としたデジタル世代であるかのように見る「大人」が多いが、そうではなくてアナログ世界に関心を持ち遊ぶ世代である。実は吉祥寺を若い世代の街として観光地化した大きな要因の一つが昭和の匂いがするレトロなハモニカ横丁であることを「大人」は知らない。(詳しくは「街から学ぶ 吉祥寺編」を一読ください。)」

若い世代の特徴を草食男子と呼んだが、実は肉食女子と言うキーワードも併せて使われていた。この表現が流行った時、思わず江戸時代と同じだなと思ったことがあった。江戸の人口は当初は武士階級が半分で残りがいわゆる庶民であった。次第に元禄時代のように人口が増え庶民文化が花開くようになるのだが、当時の「女性」のポジションとしては圧倒的に「女性優位」であった。今の若い世代は「三行半(みくだりはん)を叩きつける」と言った表現の意味合いを知らないと思うが、昭和の世代は男性が女性に対し使う言葉で「縁を切る」「結婚を破棄する」「愛想が尽きた」と言った意味で使われると理解しているが、実は全く逆のことであった。「三行半」は女性が男性からもぎ取っていくもので、離婚し再婚する女性が極めて多かった社会と言われている。この背景には女性の人口が少なかったこともあって、女性が男性を選ぶ時代であった。
江戸時代は男女の区別はなく平等で、例えば大工の仕事にも女性が就いたり、逆に髪結の仕事に男性が就いたりし、育児を含めた家事分担はどちらがやっても構わない、そんなパートナーシップのあるライフスタイルであった。ただ武士階級は「家制度」があり、上級武士になればなるほど「格」とか「血筋」「歴史」によって男女格差が決められていた。
何故こうした江戸時代のライフスタイルを持ち出したかと言うと、これからの時代に向き合うには過去の因習に捉われない、区別をしない、多様性や個別性に素直に応えることが問われており、若い世代、特に「肉食女子」と呼ばれた女性に期待をしたい。
若者犯人説、不要不急悪者説、古くは夜の街・歌舞伎町悪者説、そして飲食事業悪者説など、危機の時には必ず「悪者」を創り上げる。こうした手法は政治家が特に使う常套手段であるが、危機の時こそ感情に押し流されることなく、理性的に科学の根拠を持って向かわなければならない。生活者はこうした認識でいるのだが、特にマスコミ、TVメディアは相変わらず「悪者」「犯人」探しが仕事であるかのように考えている。ある意味で、もう一つのウイルス、差別や偏見を撒き散らしているのはTVメディアと言っても過言ではない。
  
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Posted by ヒット商品応援団 at 14:23Comments(0)新市場創造

2021年02月14日

未来塾(43) コロナ禍の飲食事業事例「前半) 

ヒット商品応援団日記No779(毎週更新) 2021.2.14.

今回の未来塾は2回目の緊急事態宣言が発出され、時短営業と言う苦境に立たされている「飲食事業」を事例として取り上げてみた。1年近く巣ごもり生活が続いているが、そうした中にあって外出する顧客はいる。感染防止は当然図られている「飲食店」であるが、そうした顧客を惹きつける工夫やアイディアが随所に見られる。今回はそうsした魅力を5つの事例を通して学ぶこととした。



 
コロナ禍から学ぶ(4)

「コロナ禍の飲食事業事例」

「不要不急」の中に楽しさを見出す。
「気分転換」と言う満足消費。
ライフスタイル変化の兆しが見え始めた。

再び落ち込む消費

再び緊急事態宣言が発出され、飲食事業者を中心に更に時短営業が延長されることになった。昨年の4月には既に生活行動の範囲がご近所エリアへと萎んでしまうとブログに書いたが、昨年の夏以降生活行動は徐々に広がりを見せてきた。しかし、年明け早々の第3波に続き緊急事態宣言の発出によって再び小さくなった。TVメディアは「人出」を昨年の4月の時と比較し増加していると報じているが、昨年4月は食品スーパーやドラッグストア以外はほとんど自粛している状況と比較し増加していると解説しているが、そんなことは当たり前で今回の時短要請は「限定的」であり、ウイルスの正体もこの1年で「未知」から「既知」へと変わり、行動もそうした中で変化するのは当然のことだ。
第一回目の緊急事態宣言が発出された昨年5月の家計調査の結果について未来塾(2)で次のように書いた。

『コロナ禍5月の消費について家計調査の結果が報告されている。二人以上世帯の消費支出は調査が開始された2001年以降最低の消費支出(対前年比)▲16.2となった。ちなみに4月は▲11.1、3月は▲6.0である。緊急事態が発令された最中であり、例年であれば旅行に出かけ、外食にも支出するのが常であったが、当然であるが大きなマイナス支出となっている。ちなみに、旅行関連で言うと、パック旅行▲ 95.4、宿泊料▲ 97.6、食事代▲ 55.8、飲酒代▲ 88.4、となっている。更には映画や・演劇、文化施設や遊園地などの利用もマイナス▲ 94.8~▲ 96.7と大幅な減少となっている。勿論、外出自粛などから衣料や化粧品の支出も大きく減少していることは言うまでもない。』

この消費における結果が戦後最悪の4−6月GDP27.8%減に大きく反映していることとなった。7月以降11月までの消費についても持ち直す傾向は見せるものの依然として低水準となっている。推測するに感染の悪化の端緒となった12月はまだしも、年が明けた1月以降は全国へと感染拡大が広がり昨年5月と同様の結果、特に飲食事業の悪化は言うまでもない。
この1年コロナ禍によって失われた消費のほとんどがいわゆる「不要不急」の支出であることがわかる。しかも、都市経済を支えているのが、この不要不急による支出であるということだ。

「情報」の根拠が問われている時代

今回言うまでもなく過剰な情報の中での「事例」を取り上げることとした。コロナ禍でなければ私自身が街を歩き会話しながら感じたままを「ことば」にしてきたが、2回目の緊急事態宣言下にあって、友人・知人の力を借りて事例から学ぶこととした。その理由は特にTVメディアの情報にあるのだが、根拠を明示しないまま放送することによる悪しきイメージ定着によって、本来認識すべき「正しく 恐る」ができないような状況が生まれてしまったからである。まさに実際に経験する、実感こそが必要な「時」であると考え友人たちの体験を借りて事例を学ぶこととした。渦中の飲食業がどんな生き方、工夫アイディアを駆使しているかを広く公開したかったからである。苦境の中にあって、飲食業はどんな頑張りを見せているか5つの事例を通して学ぶこととした。

気分を変えてくれる消費

ところで首都圏近郊の駅に隣接する中規模SC(ショッピングセンター)の売り上げについて、専門店として出店している友人から次のようなレポートが届いている。
『緊急事態宣言で再び飲食店は時短営業で、重飲食:71%、軽飲食:75%と青息吐息状態。では中食で食物販が良いのかというと、103%でカバーできていない。どこに消えているのか館内だけでは見えてきませんが、多分、出前館やUberEatsなどのデリバリーと、ネットスーパーやAmazon freshなどです。
来館者数が、平日で89%、土日は81%と戻らず家から出ていないのが顕著です。たまプラーザ東急は10月頃の“平時”でも18:00閉店でしたしある意味「保守・品行方正」のエリアなので、人出が少ないのでしょう。例外的に極端に良いのがミスタードーナツで、1/8からの限定商品がバカ当たりで開店前から連日30~50人並び途絶えません。』
このレポートからもわかるように行動範囲も時間も狭まり、つまり首都圏近郊のサラリーマン家庭の主婦層は外出を自粛していることから結果消費も落ち込んでいることが実感できる。既に昨年春のブログには「非接触型」ビジネス、デリバリーサービスや宅配サービスなどの需要が一般化しているが、それは「我慢」のなかのサービス需要であって本音の需要ではない。
その証拠ではないが、面白いことにミスタードーナツ の季節商品キャンペーンには多くの人が集まり、行列ができている。巣ごもり生活にあっても新しい、面白い、珍しいといったそれこそ不要不急なスイーツに人が集まっているという象徴例であろう。
「気分消費」という言葉がある。いや正しくはそうした言葉を使っているのは私ぐらいであるが、「不安」が横溢する時代にどうすればそうした「気分」を変えることができるかを考える生活者がいかに多いかがわかる。ミスタードーナツ のキャンペーン商品の事例は不安な中にあってひととき「気分」を変えてくれる商品であり行列してでも買い物したいということだ。
今回の未来塾はこうした「小さな楽しみ」を提供している飲食店に焦点を当てて、どんな楽しみ着眼をしているかを学ぶこととする。また、本来であれば首都圏だけでなく、大阪まで広く取材し、その実感を踏まえたスタディとしたいのだが、緊急事態宣言の発出もあり、友人・知人の力を借りてのレポートとした。

ハンバーグ専門店「肉と米」の場合




実はコロナ禍真っ只中の昨年6月に東京吉祥寺東急百貨店裏にオープンした焼きたてにこだわったハンバーグ専門店である。数年前からカフェを始め新しい専門店がオープンしているとのことであったが、「新しい、面白い、珍しい」大好き人間である友人が出かけて経験した店で今なお人気の絶えない店となっている。
冒頭写真のように焼き立てのハンバーグが網の上に届き、宮城米の羽釜ご飯と味噌汁が届き、目の前の炭火で焼かれたハンバーグが食べ終わる頃をみはらかって合計3個が食べられる。勿論、ハンバーグはそのままでもよし、大根おろしもよし、食べる醤油もあり、・・・・・・・・このボリュームの挽肉と米 定食 が1300円(税込)と言う。
タイミングよくサービスしてくれる珍しい専門店で味やボリューム以上の満足感を提供してくれる店である。また友人は店づくりについても次のようにコメントしてくれている。

『味もおいしいのですが、何より演出に心を惹かれるお店だと感じます。エンターテインメント性が高く、ハワイに昔からある観光客向けのステーキハウス「田中オブ東京」を思い出しました。』

円形の20席ほどの店だが1日200人ほとの顧客が来店すると言う。向かい合わせのテーブル席ではなく、円形のレイアウトによる席作りは感染防止のことも考えてのことと思う。
また行列ができて密になってしまうことから、ウェイティング名簿制を導入している。名簿を書くことができる時間は、インスタをご確認のこと。
営業時間は11;00 〜15;00、17;00 〜21;00 (時短営業になり現在は20;00まで。なお売り切れ次第で終了となる。





コンセプトである焼き立てハンバーグを丁寧にをサービスしてくれる一方、水や箸休めなどはセルフスタイルをとっており、そのメリハリのついたスタイルも満足度を高めることとなっている。
この「挽肉と米」の場合はレストラン業態にあって、テイクアウトなどの方法を採らず、ある意味専門店の「王道」の生き方を貫いたと言うことであろう。結果、コンセプト通りの味、価格、サービス、そして何よりももてなす雰囲気・スタイルの「満足感」を提供していると言うことである。鬱屈した日常から離れ、ひととき満足が得られたと言うことだ。ちなみに友人の話では近々渋谷に2号店をオープンさせるとのこと。

ダイニング&カフェ「ミクリ」の場合






大阪市西区土佐堀にある和食の店である。レトロな倉庫を改装したそうで、店内はコンクリート打ちっぱなしの壁を全面白く塗装している。一方で、無垢材のテーブル、椅子が「和」の雰囲気を演出していて、落ち着いた空間となっている。
友人の話によると「経営者は奈良県出身のデザイナーらしく、料理は吉野杉の板に乗って出てくる。先付の一品と、その日のメニュー、二十四節気を説明するカード(横13センチ、縦6・5センチ)が最初に登場する。主菜と8種類の料理は、山海の珍味ならぬ“山の恵み、海の幸せ”を感じさせる。カードに二十四節気を愛でる短い文章が添えられている。1年の二十四節気の最初は1月の「小寒」。年神様と一緒にいただくおせち料理がコンセプトだった。」と話してくれた。
都市生活の中で失ってしまったものの一つが自然で、その中でも「四季」は生活の節目を感じさせてくれる重要なものの一つである。友人はこれまでに、二十四節気のうち、八種類を連続していただいたとのこと。「二十四節気」達成という楽しみ方、季節を巡る楽しさは顧客の回数化を図ることもあり、見事な戦略となっている。
そうした季節を巡る小さな楽しみ方には、勿論感染防止も万全である。「入店時には、スタッフが体温を測ってくれて、もちろんマスク厳守。座席は透明のアクリル板で、一人ずつ仕切っている。そういう設備面とともに、店の雰囲気が“コロナ禍”を遠ざけているように思わせてくれる」とのこと。季節感を味わってもらうことと安心感とがうまく調和させた店づくりである。

テイクアウト専門店「おみそ善」の場合

多くの飲食店がテイクアウトメニューをつくり、デリバリー事業者に委託したり、あるいはテイクアウト分野に進出したり、従来の業態からの転換を図る飲食事業者が急増している。昨年春のブログにも書いたが、店舗をいわばメニュー製造の工場として機能させ、テイクアウトだけでなくネット通販や移動販売などを活用するといった業態である。あるいは非接触業態である自販機の活用も広がっている。
但し、例えば数年前に話題となった神奈川相模原にある「レトロ自販機」も進化している。「タイヤ交換の待ち時間に楽しんでほしい」と言う顧客要望から始まった自販機であるが、うどん・そば、ラーメン、ハンバーガー、トースト、ポップコーンなど調理機能が付いた自販機のほか、ご当地アイス、ポッキー、駄菓子、玩具付きお菓子、焼き鳥などのビッグ缶、瓶コーラ、タイの清涼飲料水など、テーマに分けて計27台を店舗の一角に設けた仮設小屋に並べる。駄菓子の自販機は、同じ商品が並ばないように工夫。選ぶ楽しさを演出するため、10円~30円の商品を売るための工夫もしており、つまり自販機による「楽しさ」の提供へと進化している。自販機ですら止まることなくテーマを磨くことが必要であると言うことだ。

こうした業態の変更は店内飲食の売り上げ減少を補填する意味合いがほとんであるが、大阪肥後橋の「おみそ善」はテイクアウト専門店として2年ほど前にオープンした飲食店である。「おみそ善」に学ぶべきはテイクアウト業態の基本、専門店としての明確なコンセプト、その魅力が顧客を惹き付けると言う基本である。「コンセト」と言う言葉の理解であるが、一般的な言葉・概念で使われてきたが、新たな市場機会と言う着眼の意味をテクニカルだけの理解だけではない。現実ビジネスを考えれば、その着眼はある意味思い込みを超えた生き様である。でなければ事業の「持続」などあり得ない。「コンセプト」とはそうしたビジネス世界のことば・キーワードとしてあることを忘れてはならない。




このおみそ善は関西を中心に東京やNY、中国で「美と健康」をテーマにしたヘアサロン、エステ、ジムなど50店舗以上を展開する『ウノプリールグループ』の新規事業である。勿論、コンセプトは「美と健康」であり、味噌汁の効能に着目した専門店で味噌汁が11種類(各390円)をメインにおにぎりや淡簡単な副菜が用意されている。大阪肥後橋という立地はビジネス街ということから営業時間も朝8時からで「朝食セット」や「特製弁当」も用意されている。
友人が食べたのは写真の「粕汁」で大阪らしい季節の汁とのこと。友人はその時のことを次のようにコメントしてくれている。




『この店を知ったのは、関西のあるTV番組だった。仲のよさそうな兄弟2人が“味噌汁道”を究めようとする姿を映し出していた。TV放映されると、しばらくはお客さんが殺到する場合が多く、ほとぼりが冷めるころに行ってみた。すごく寒い日だったので、粕汁があればいいな、と思っていたら、ありがたいことに発砲スチロールのお椀のテイクアウトで470円だった。
 店の注文カウンターはアルバイトの女性が立ち、少し奥の厨房で兄弟がテキパキと働いているのが見える。粕汁は、出汁の旨さが口の中いっぱいに広がり、軽いお椀がズッシリ感じられるほどの具沢山だった。店の前の路上の腰掛石に座って、熱いうちにいただく。
 お椀を返しに行くと、厨房から「お味、いかがでしたか?」と声が聞こえる。ただ、美味しかったよ、では味がないと思い、「コイモが入っていたらもっと点数が上がるかな」と答えた。もちろん、クレームではないつもりである。返事は「はい、なるほど」と元気な声だった。続けて、テレビで見たよ、と告げた。「いろいろな番組に出していただいてます」と、笑顔が見えた。
 コロナ禍と戦う姿勢でもなく、悲壮感も見せず、恨みがましいセリフも出ず、街角の汁物屋さんはほんわか湯気の中である。』

コロナ禍の都市空間利用の新たな取り組み

2020年は多くの商業施設、専門店が休業や廃業の瀬戸際に晒された1年であったが、実は昨年コロナ禍にあって注目する2つの商業施設が誕生している。
新型コロナウイルスの感染拡大によってオープンが延期されてきた商業施設の一つは渋谷の宮下公園跡地の開発で7月28日新たな商業施設「MIYASHITA PARK(ミヤシタパーク)」である。東京以外の人には馴染みのない場所・宮下公園であるが、JR渋谷駅から原宿寄りに徒歩3分にある公園でホームレスが集まる場所として知られた一等地の公園である。もう一つがJR有楽町駅と新橋駅との間の高架下開発でJRの京浜東北線や新幹線の高架下でこれまた銀座と日比谷に挟まれた一等地の空間である。

まずMIYASHITA PARKであるが、大きくはスケート場やボルダリングウォールに加え、多目的運動施設を新設された区立宮下公園。もう一つが渋谷には極めて少なかったホテル。そして、注目されているのが商業施設で、この3つの空間によって構成されている。簡単に言ってしまえば、ショップなどの商業施設の上に公園があり、原宿寄りにホテルがあるという構図である。公園と商業施設、そしてホテルといった組み合わせは珍しいことではなく、公園とまでは言わなくても屋上緑化はかなり前から都市空間のつくり方としてはありがちなことで、実は賑わいを産み出し注目されているのは他にある。

賑わいを生む「渋谷横丁」




北海道から九州・沖縄まで地域のソウルフードや力士めし、喫茶スナックと多彩なアーティストのパフォーマンスが楽しめる全19店舗の飲食街である。写真と次のようなMAPクォ見ればどんな賑わい作りであるか理解できるかと思う。そして、写真は商業施設の HPからのものだが、「24時間」と明記されているように珍しい営業時間となっている。但し、今回の緊急事態宣言の発出により朝8時から夜8時までとなっている。

リニューアルした渋谷PARCO地下のレストラン街、少し前の虎ノ門ヒルズの虎ノ門横丁、それらの原型は吉祥寺のハモニカ横丁にあるのだが、昭和の匂いのするレトロな「街づくり」であり、若い世代にとってはOLD NEW古が新しい世界である。それまでの渋谷は「大人の街」へと脱皮するかのように高層ビルによる商業開発であったが、この渋谷横丁は若い世代の新しい人気スポットとなった。渋谷に生まれた裏通り文化であり、経験したことのない全国の「食」をあれこれ楽しめる安価な路地裏歩きである。
例えば、北陸食市のメニューであるが、イカの漬け丼999円、金沢のソールフードであるオムライスの上にフライをのせたハントンライス999円。東北食市であれば盛岡冷麺799円、牛タンカレー1299円と言ったように若い世代の懐を考えたメニュー価格となっている。

何故、横丁路地裏に賑わいが「都市」に生まれたのか、勿論それには大きな理由がある。もっと明確にいうならば、「賑わい」の孵化装置・インキュベーションの一つとして横丁路地裏があるということである。別な表現をするならば、「表通り」と共に「裏通り」に生まれてくる「何か」、それへの期待が生活者、特に若者に生まれてきたということである。その「何か」を総称するならば「文化」となる。
6年ほど前になるがそうした「裏通り」についてその象徴として秋葉原、アキバについて次のように書いたことがあった。
『秋葉原の駅北側の再開発街とそれを囲むように広がる南西の旧電気街を、地球都市と地下都市という表現を使って対比させてみた。更に言うと、表と裏、昼と夜、あるいはビジネスマンとオタク、風景(オープンカフェ)と風俗(メイド喫茶)、デジタル世界(最先端技術)とアナログ世界(コミック、アニメ)、更にはカルチャーとサブカルチャーと言ってもかまわないし、あるいは表通り観光都市と路地裏観光都市といってもかまわない。こうした相反する、いや都市、人間が本来的に持つ2つの異質な欲望が交差する街、実はそれが秋葉原の魅力である。』(未来塾4 街から学ぶ 秋葉原編)

周知のように秋葉原にあった神田青果市場跡地の再開発に端を発した街秋葉原の変化を「2つの異質が交差する街」と位置付けてみた。再開発で誕生した高層ビルの裏側にある古びたビルからAKB48が生まれたのは偶然ではない。そして、オタクと呼ばれる熱狂的なフアンを生み、次第にマス化し、後に秋葉原駅北口の高架下にAKB劇場が新設されることとなる。裏通りから、表通りへと進化したということである。

新しいフードコート業態

1カ所で多様な飲食を楽しめる場としてフードコートが造られてきた。特に郊外のSCには必ずフードコートがある。10数年前までは1社に全てを任せる方式であったが、より顧客の好みに合わせた専門飲食店、例えば洋食やうなぎ、あるいは人気ラーメン店などを組み合わせるようになる。週末などはファミリーで満席状態を見せる業態となっている。
渋谷横丁を見ていくとわかるが、横丁という賑わいスタイルを採っているがメニューとしては全国のご当地飲食メニューから選べるようになっており、一種フードコート的である。そして、こうした専門店でしか食べることができない多様なメニューを集積することによって賑わいは加速する。
また、現在は緊急事態宣言が発出されいることから朝8時から夜8時までとなっているが、本来は24時間営業となっている。これも若い世代が集まる大きな要因となっていることは確かである。

残された唯一の超一等地の開発

ところで9月にJR有楽町駅から新橋駅間の内山下町橋高架下に誕生したのが商業空間「日比谷 OKUROJI(ヒビヤ オクロジ)」である。銀座と日比谷に挟まれた京浜東北線や山手線、東海道線の高架下といったほうがわかりやすい。それまでは倉庫や駐車場などに使用されていた空間で、誰もがその活用について不思議に思われてきた空間である。その空間300メートルに飲食店を中心に36店舗のテナントが入った商業施設である。

「オクロジ」というネーミングに表されているように、コンセプトは奥まった空間に「大人」のセンスを満たす商業施設となっている。新しい大人の「隠れ家」を目指す商業施設であるが、渋谷の宮下パークとは異なるコンセプト&ターゲットである。 「ヒビヤオクロジ」のコンセプトを最も良く表現しているのは新橋寄りにあるBarや焼き鳥、ラーメンなどのフードコートなどのある「ナイトゾーン」であろう。宮下パークと比較するとよくわかるが、「渋谷横丁」がナイトゾーンに該当する。






周知のように銀座はコロナ禍にあって空き店舗のビルが増え、更に大通りに面したビルにも空き店舗が増えるといった状況が生まれている。2020年の基準地価が発表されたが、訪日客の激減により大都市繁華街の地価下落は激しい。中でも銀座2丁目も5.1%下落し、9年ぶりのマイナスとなったように「賑わい」は回復基調にはない。果たして、銀座における「大人の隠れ家」が成立するにはどんな専門店を編集したら良いのかという課題がある。それはGINZA SIXにおける大量閉店に見られるように、銀座における「集客」が大きく落ち込み売り上げに満たない専門店が続出している。周知のようにGINZA SIXはインバウンド需要が大きいということもあるが、「銀座」というブランド価値が落ち込んでいるということである。こうした中での「価格戦略」の立て方ということとなる。




例えば、飲食ゾーンにあるうなぎ専門店、ひつまぶしの名店が出店しているが、その価格は果たして成立するのかという課題でもある。銀座には老舗のうなぎ専門店、竹葉亭や野田岩など数十店あり、若い頃から食べてきた敷居の低い竹葉亭などは鰻丼などは3500円程度でサラリーマンでも食べられる価格帯である。一方、オクロジ「うな富士」のうなぎ丼は4300円と少々高い価格設定となっている。
ところで、オクロジには「うな富士」とは異なるユニークな飲食店は出店している。それは大阪で人気の居酒屋「天ぷらとワインの店」大塩(おおしお)で、その入りやすい店づくりに表れているようにランチも1000円以下で食べられる設定となっている。大阪ではサラリーマンが通う梅田の駅前第3ビルの地下飲食街にありよく知られた飲食店である。
「隠れ家」というキーワードがメディアに登場したのは2000年代初頭で、東京霞町近辺の路地裏にある飲食店にTVや芸能関係者が利用したことから始まっている。そして、実は知る人ぞ知る「隠れ家」は高い価格によって決まるわけではない。例えば、サラリーマンの街新橋には居酒屋「大露地(おおろじ)」に代表されるように多くの知る人ぞ知る名店がある。そうした名店に仲間入りするには、「銀座価格」を超えた「何か」が必要だということである。
つまり、隠れ家とは継続して利用する、いわば常連客の店のことである。店の雰囲気、メニューの好み、店のスタッフサービス、そして何よりも回数利用できる「価格設定」が重要なポイントとなっている。顧客が回数を重ねるに従って、次第に「文化」も生まれてくる。新しい銀座文化の一つになるには「価格を超えた」飲食店の集積を目指すということだ。
実はこの試みを難しくさせているのが、このコロナ禍である。「隠れ家」は自由に行き交う中で、同じ楽しみを共有しえる「仲間」が集う場のことである。つまり、新しい大人の居場所づくりということだ。(後半へ続く)














  
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2021年02月11日

コトの本質に迫らない不思議 

ヒット商品応援団日記No778(毎週更新) 2021.2.11.


インターネット時代がスタートした当初、流される情報は玉石混交と言われた。極端なことを言えば、嘘もあれば事実もあるということであった。実はインターネット上の情報のみならず、いわゆる地上波メディア、特にTVメディアは「嘘」ではないが、本質をついていない情報ばかりを流す時代となっている。勉強不足と言えば優しい表現になるが、現在のメディアは「無知」と言っても過言ではない。
冒頭の写真とコメントは私の友人が送ってくれたものだが、今話題となっているオリパラ組織委員会会長である森会長に関する「報道」についてである。元新聞記者である友人は次のようにコメントしてくれている。

「東京五輪・パラリンピック組織委員会の森会長の「女性蔑視」発言が尾を引いています。森会長を擁護するつもりは全くありませんが、五輪そのものが、もともと「男」だけの世界だったといえます。そう、かのクーベルタン男爵からして。1896(明治29)年の第1回アテネ五輪は、8競技とされますが、女性の参加はありません。クーベルタン自身が望まなかったから、という説さえあります。
さっそく、異論が出て、第2回パリ五輪から女子選手が出場。今では、柔道、レスリング、サッカー、マラソン、アイスホッケーなど、男子のものと思われていた競技も女子が活躍しています。
スポーツ自体が長く「男社会」でした。それが大きく変化していることを、森会長は理解できていない、あるいは理解したくない、ただ、それだけじゃあないですか。」

元スポーツ担当記者である友人の指摘である。日本のスポーツは昔から「運動部」と言われてきたように明治時代の富国強兵のための肉体を鍛錬するための「運動」をスタートとしている。記者であった友人は新聞社における「運動部」という名称が嫌で嫌でしょうがなかったと語っていた。そうした歴史を踏まえた論議がまるでなされていないのが日本の報道、特にTVメディアの取り扱いである。オリンピックも時代の変化と共に常に変わって来ており、男女平等もその一つである。
友人が不思議に思ったついでに私からもさらに大きな不思議がある。それは「男女差別」という認識についてある。数日後に未来塾でコロナ禍の「事例研究」の中の「若者感染悪者説」で「男女平等」に関する不思議さを次のように書いた。

『若い世代の特徴を草食男子と呼んだが、実は肉食女子と言うキーワードも併せて使われていた。この表現が流行った時、思わず江戸時代と同じだなと思ったことがあった。江戸の人口は当初は武士階級が半分で残りがいわゆる庶民であった。次第に元禄時代のように人口が増え庶民文化が花開くようになるのだが、当時の「女性」のポジションとしては圧倒的に「女性優位」であった。今の若い世代は「三行半(みくだりはん)を叩きつける」と言った表現の意味合いを知らないと思うが、昭和の世代は男性が女性に対し使う言葉で「縁を切る」「結婚を破棄する」「愛想が尽きた」と言った意味で使われると理解しているが、実は全く逆のことであった。「三行半」は女性が男性からもぎ取っていくもので、離婚し再婚する女性が極めて多かった社会と言われている。この背景には女性の人口が少なかったこともあって、女性が男性を選ぶ時代であった。
江戸時代は男女の区別はなく平等で、例えば大工の仕事にも女性が就いたり、逆に髪結の仕事に男性が就いたりし、育児を含めた家事分担はどちらがやっても構わない、そんなパートナーシップのあるライフスタイルであった。ただ武士階級は「家制度」があり、上級武士になればなるほど「格」とか「血筋」「歴史」によって男女格差が決められていた。
何故こうした江戸時代のライフスタイルを持ち出したかと言うと、これからの時代に向き合うには過去の因習に捉われない、区別をしない、多様性や個別性に素直に応えることが問われており、若い世代、特に「肉食女子」と呼ばれた女性に期待をしたい。
若者犯人説、不要不急悪者説、古くは夜の街・歌舞伎町悪者説、そして飲食事業悪者説など、危機の時には必ず「悪者」を創り上げる。こうした手法は政治家が特に使う常套手段であるが、危機の時こそ感情に押し流されることなく、理性的に科学の根拠を持って向かわなければならない。生活者はこうした認識でいるのだが、特にマスコミ、TVメディアは相変わらず「悪者」「犯人」探しが仕事であるかのように考えている。ある意味で、もう一つのウイルス、差別や偏見を撒き散らしているのはTVメディアと言っても過言ではない。』

無症状もしくは軽症で済んでしまう若い世代をあたかも「悪者」であるかのように言う、政治家やTVメディアに対してその間違いを指摘したかったことからこのようなブログを書いた。
情報リテラシーが言われて時間が経つが、実は今問われているのは情報の「根拠」である。元大統領であったトランプによる「フェイクニュース」事件をこの1年間FOXニュースとCNNミュース両方の視点による情報を見て来た。両陣営から発する情報の違いだけでなく、何故その違いの「根拠」を問わないのかであった。ただ、救いなのは米国の場合はその根拠を見極める努力はしていると思う。5年前の日本の報道は、間違ってもトランプは大統領になることはないと報道していた。それはCNNをはじめとした情報ソースを根拠としていたわけで、決定的に間違った報道を行ってきたと言う事実がある。
今回の森会長の女性蔑視発言も「男女差別」と断言するコメントがTVメディアに多いが、いわば伝言ゲームのように拡散している。森会長の発言を全文を読む限り、発言の背景に日本における「男社会」「スポーツ村社会」が残ってのことだと感じるが、メディアの常であるが「女性は会議を長引かせわきまえない」と言った断片を切り取って報道することの弊害は海外メディアへと伝わり、その報道が日本のメディアは反復するように報道する。伝言ゲームと言ったのはこうした「伝播」は、「うわさ」が広がる社会心理と同様で、友人と同様森会長を擁護する気はないが、事実からどんどん離れ本質を見失ってしまうこととなる。
ネット上では「私はわきまえない」と言った投稿が相次いでいる。その「わきまえる」とは物事の道理をよく知っている。心得ていることで、常に感情で反発するのではなく、「事実」に立ち返ることが必要となっていると言うことである。「物事の道理」と言うならば、森会長は7年も会長職についており、今始まったことではない。友人が言っているように「森会長は理解できていない、あるいは理解したくない、ただ、それだけじゃあないですか。」。つまり、適任ではないと今になってやっとメディアが言い始めたと言うことである。

森会長のスポーツ界における出身はラグビー」にあるのだが、一昨年のラグビーW杯を日本に招致した功績があるとしたスポーツジャーナリストは多い。確かにそうした一面はあるかとは思う。ただラグビーをやって来た友人に言わせると、若くして亡くなってしまった平尾誠二さんの情熱によるところが大きいと言う。“ミスターラグビー”と言われた平尾さんは周知のように、大学選手権3連覇、日本選手権7連覇と輝かしい実績を残してきた。その独創的なプレーと卓越したリーダーシップが人々を魅了した。しかし、日本代表の監督に就任して3年、勝てないことを理由に辞任に追い込まれる。監督時代にはそれまで少なかった外国出身の選手を次々と起用。日本代表のキャプテンにも、初めて外国出身の選手をすえる。つまり、あの「ワンチーム」の礎を作ったと言うことである。しかし、そのラグビーW杯を見ることなく末期癌で亡くなるのだが、平尾さんのラグビーに憧れ自らのラグビー競技に打ち込んだips細胞研究所の山中教授は平尾さんが綴った本の一節を今でも苦しい時読み返すとインタビューに答えている。
『“人間は生まれながらに理不尽を背負っている。大切なのは、なんとか理不尽な状況に打ち克って、理想の人生にできるかぎり近づこうと努力すること。その過程にこそ生きることの醍醐味というか喜びもある。”』

日本のスポーツ界もやっと次のステージへと向かおうとしている。森会長の辞任ばかりを話題としているがそうではない。これからも理不尽なことは起こるであろう。山中教授は「目の前に障害があったら、それを突破するというのも戦略だけど、あえてそこは通らずに避けて、パスをするなりキックをするなり、そういう手もあるやろうと。」とも語っている。つまり、長い戦いがこれから始まると言うことである。パスもよし、キックもよし・・・・・・・・頑張れ肉食女子。(続く)
  


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2021年01月17日

「不要不急」という生活 

ヒット商品応援団日記No777(毎週更新) 2021.1.17.


2回目の緊急事態宣言が発出されても街の「人出」は大きくは減少してはいないという。朝の通勤電車の混み合いも大きくは減少してはいない。そこで再び政治家もマスコミも使い始めていのが「不要不急」の外出行動は自粛して欲しいという使われ方である。昨年4月1回目の発出の時に使われ、当時も不要不急とは「何か」という議論が起きたことを思い出す。新型コロナウイルスにはまさに未知のウイルスであり、3月末には身近な存在であった志村けんさんがあっという間になくなったことから「恐ろしい病気」であることから、「不要不急」の外出とは、生きるための「食材」や生活に必要な薬や消耗品」を購入するドラッグストア以外の外出は自粛することとなった。第一波の感染のピークは終えてはいたがこうした自粛行動によって感染は減少へと向かった。

前回のブログで4月の時のウイルスと比較し、「未知」から「既知」のものへと変化したと書いた。5月に入り緊急事態宣言は延長されたものの、大型商業施設の営業時間も、スポーツや映画や演劇など文化施設も制限はあるものの次第に制限は解除されてきた。つまり、100%ではないが、「不要不急」から「日常」へと意識は変わってきた。その意識はGoToトラベルによって「旅行」という最も不要不急な行動へと向かったことは周知の通りである。勿論、意識の奥底には新型コロナウイルスへの「恐れ」はあるものの時間経過と共に意識事態は変わっていく。それはこの1年間の生活者の感染予防をしながら、生活を楽しむ知恵や工夫によくあらわれている。そのライフスタイルについてが昨年12月のブログ「ヒット商品版付を読み解く」を見て欲しい。

こうした意識の変化は常に時間の経過と共に必ず起きる。その変化をよく「慣れ」と表現されるが、ある意味コロナ禍における生活者の「日常」の構築のことである。戦後の物が乏しい時代には「不要不急」などという言葉はなかった。当時あったのは今や死語となったエンゲル係数で、生活費に占める消費支出の「食費」の比率であった。つまり、生きていくための「食」の比率が豊かさの基準であった。いや豊かさと言うより、生きるための必需消費であったと言うことである。日本の消費は当時から教育支出が高いのが特徴であるが、次第にお洒落や旅行といった「楽しみ」消費へと変化していく。高い価格を払ってでも痩せるダイエットもそうした消費の代表的な物であろう。それも選択消費と呼んでいるが、不要不急とはこの選択消費のことである。
コロナ禍で生活者が行動変容したのは「密」を避けて楽しむ変容であろう。例えばオープンエアな環境での楽しみ方で、キャンピング人気であり、観光気分も味わう紅葉ハイキングなどによく反映されている。つまり、不要不急の行動であっても、そこにはウイルスへの学習による変化があるということである。

そして、この選択消費・楽しみ消費が実は都市経済を支えている。簡単に言って仕舞えば、「消費」することが生産であると言う意味である。サプライチェーンという難しいことを言うまでもなく、消費は単に買わないと言うことではない。買わないことによって生産・流通する事業者に直接つながっていることは昨年の一斉休校により学校給食がなくなったことが、このサプライチェーンによって経済が成立していることがあからさまになった。給食用の食材が納入できなくなったと言うことである。葉物野菜などは廃棄処分せざるを得なくなったと言うことである。これは都市と地方という対比でも表現できる。このことは単に「食」の問題ではなく、不要不急の代表的な「旅行」がそうである。今回の緊急事態宣言によって飲食業だけでなく、都市周辺地方の観光地には都市観光顧客は自粛しほとんど行くことはなくなった。勿論、観光地だけでなく、移動の交通事業者は言うまでもない。

前回のブログで「情報」は立場立場で手前勝手に解釈するものであると書いた。しかも、民主主義の良いところでもあるのだが、「感情」で判断してしまい冷静に科学的な知見をもとに発言すべきところを間違えてしまう恐れがある。その代表的な言葉が「不要不急」である。この一言で全てをある意味判断の遮断をしてしまう言葉として使われかねない。
今回の緊急事態宣言は飲食店の時短要請を中心とした限定的なものであるが、夜8時以降の自粛だけではなく、昼のランチも控えて欲しいと言った発言がなされ飲食事業者は混乱困惑している。つまり、夜営業もランチ営業も自粛して欲しいと言った方針転換と受け止められている。極論言えば、店内飲食はやめて弁当販売しか方法はなくなるということだ。そして、都知事からは不要不急の外出を自粛要請。わかりやすく言えば表現は悪いが、ソフト・ロックダウンである。昨年、3月都知事によるロックダウン発言で翌日スーパーの棚からお米やレトルト商品がなくなっていたことを思い出せば十分であろう。来週から国会が始まり特措法の改正が論議されることとなるが、補償と共に罰則規定も論議されるようだ。よくよく考えれば、営業時間の短縮といった要請は営業の自由を制限していることであり、「要請」とは言え私権の制限要請でもある。同じように「不要不急」における「何を」不要不急とするのかは個々人の判断によるものである。4月の時にブログには「セルフダウン」という言葉によって自主的な判断のもとで感染防止努力をすべきで、日本人にはそれが可能であると書いたことがあった。その源はあのサッカーのレジェンド三浦知良さんのHPでの発言「セルフロックダウン」であった。自らの判断で自身を規制するということである。第一波の感染を防ぎ得た要因の一つがこの国民一人ひとりによるセルフダウンであったと私は考えている。

この不要不急・自粛については「高齢者」は既にライフスタイルを変えている。重傷者や亡くなった高齢者については報道されているが、実は大多数の高齢者は自制、いやある意味で「密」を避けての「自己隔離」している。外出も今更言われるまでもなく、必要最低限のことしか行ってはいない。自分で自分を守る方法はやはり経験から熟知しているということだ。ましてや多くの高齢者は持病を持っており、「肺炎」には極めて注意している病気である。一定の年齢になれば肺炎球菌のワクチンや季節性インフルエンザのワクチン摂取も行っている。特に、誤嚥性肺炎など食事にも注意している。つまり、既に十分自己管理・自己隔離しているということである。新型コロナウイルスによって亡くなる高齢者の多くは高齢施設や院内感染が多いと聞いている。死者や重傷者を低く抑えるには、この高齢者の自己管理・自己隔離を徹底した方が的確な政策となる。但し、増え続けている家庭内感染を徹底的に防止することが必要となる。ある意味、家庭内隔離である。日本の医療体制の不備・高度治療の後れについては再三再四指摘されている。その実態について、あの山中伸弥教授のHPで「ICU等病床数と新型コロナウイルス重症患者数の国際比較」がなされ、欧米各国はICU等病床の20%から80%を新型コロナウイルス重症患者の治療に使用されており、日本はわずか5%にとどまっていると。この実情・後れを考えるならば、高齢者の「自己隔離」と言う方法が必要であることがわかる。

ところで感染拡大のポイントとなっている若い世代、30代以下にとってこの「不要不急」と言う言葉はおそらく全く通じないことは確実である。高齢者にとって不要不急とは「我慢」することであり、戦後の乏しい物資の中で育った経験が残っており理解することはできる。しかし、彼らにとって既に豊かな時代に生まれており、例えば仲間との「会食(パーティ)」のような「不要不急」の行動が楽しみであり、コミュニケーションとしては成立はしない。前回も書いたが行動を抑止する「実感」ある言葉ではない。最近祖父母などに罹患させないために行動を自粛して欲しいと言っても罹患の実感もない。あるのはバイト先に迷惑がかかる、あるいは勤務先に迷惑がかかる、と言った方が彼らにとって、実感できないまでも理解はしてくれる。バイト先に感染者が出たとなった場合、例えばSNSで投稿されたらどんな事態が生まれるかそれこそ実感を持つことは間違いない。また、新型コロナウイルスの恐ろしさについて後遺症の恐ろしさを伝え始めているが、こうした恐怖戦略も実感を得るまでには至らない。身近なところにそうした後遺症で悩む同世代はほとんどいないからだ。前回指摘したように、「伝える方法を持つこともなく、しかも伝えるべき内容」も決定的に間違えている。彼らをまた「悪者」にしてはならないと言うことだ。悪いのは前回も書いたが、「大人」である。

つまり、「不要不急」と言ったわかったような、わからないような言葉では誰も聞こうとはしないであろう。中小の飲食事業者もそうだが、大手の居酒屋チェーンモンテローザは「居酒屋にとって20時までの営業では店舗の運営は困難として、都内61店舗を閉店すると発表している。あるいはイタリアンのレストランチェーンサイゼリアの名物社長は記者会見の席上「ランチも控えて欲しい」との政府発言に対し、「ふざけるな」と語気を荒げる場面も見られるほどである。また、紅虎餃子房で知られている際コーポレーションの中島社長も中小事業者だけでなく大手チェーンも極めて厳しい状況にあると報道陣に投げかけている。
日本の飲食店、67万店。働く人、440万人。東京都の場合飲食店は約8万店と言われている。産業規模から言うと、飲食サービス市場は約32兆円。ちなみに不要不急の代表的なビジネスである「旅行」産業は約23兆円と言われ、その内3兆円がインバウンドビジネスであり、既にその3兆円は消えて無くなり、更に旅行自粛は強まり、20兆円はどこまで落ち込むか極めて心配である。そして、倒産・失業者は春にかけて増えていく心配が高まる。
不要不急などと言った言葉ではなく、「我慢」して欲しい。「会食」ではなく、仲間とのパーティは少しの間我慢して欲しい、そのように言葉を変えることから始め、科学的知見を持って感染拡大を防止すべきではある。飲食サービス事業の感染メカニズムの科学的知見が得られないのであれば、これは推測する域を出ないが、感染源の状況証拠を風評被害を起こさないことを前提に公開すべきである。こうしたエビデンス・証拠を持って、「我慢」の1ヶ月として欲しいとメッセージを送るべきである。飲食事業者も、若い世代も、共に「悪者」にしてはならない。悪者は「大人」である。(続く)  
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2021年01月12日

伝わらない時代の伝え方  

ヒット商品応援団日記No776(毎週更新) 2021.1.12.


2回目の緊急事態宣が発出された。その背景の一つが昨年末から年明けに急速に感染者が増え、病床が逼迫してきたからと発表されている。何故、これほどまでに急速なのかは感染症の専門家の分析を待たなければならないが、年末に向けたクリスマスを含めたイベントでの感染によるものではないかとも。また、長野や宮崎といった地方の感染者の急増は「帰省」によるものであるとも報道されている。しかし、この帰省については夏のお盆帰省と同程度の移動であったことから、何故これほどまでの急増したのかという疑問に答えることはできない。ある感染症の専門家は季節性インフルエンザの流行と同様、寒い気候、しかも乾燥した環境がウイルスには増殖の好条件であるからという説明にある程度納得できる理屈ではある。

世論調査の多くは政府の緊急事態宣言の発出が遅れたとし、支持率も急落している結果となっている。その責は政府が負わなければならないが、昨年末までに各地方の知事からの要請は皆無であった。各都道府県の責も当然ある。つまり、政治行政が混乱しており、ある意味リーダー不在状況になっているということだ。TV番組のコメンテーターはドイツのメルケル首相のようなリーダーシップを求める声があるが、批判のための批判であって解決の芽にすらならない。混乱の本質・問題は大きくは2つある。一つは特措法を変えていくことと、昨年4月以降の第一波、第二波において「何故感染が減少に向かったのか」その根拠・エビデンスを明らかにすることにある。同じことを繰り返しても意味のないことから、このブログの主旨に戻ることとする。

ところで今回のテーマは2回目の発令にもかかわらず、夜の街の人出は減少したが、昼間の人出にはその傾向が見えないといった報道がなされている。その報道の内容となっているのが、「危機感が伝わらない」というものである。前回の年頭のブログにも書いたが、伝わらないのは当たり前のことで、特に伝えたい相手の20代~30代に対し、伝えるメディアも伝える内容もまるで見当違いであることによる。TVのワイドショー番組でいくら「危機」を叫んでも、届くのは高齢の視聴者だけで、結果人出は減ることはない。考え違いが甚だしいということだ。

以前流行語大賞に選ばれた言葉の一つに「KY語」(空気が読めない)があった。翌年ローマ字式略語約400語を収めたミニ辞典「KY式日本語」が発売された。その中に納められたキーワードの1位はKY、上位にはJK(女子高生)やHK(話変わるけど)といった言葉遊びが中心となっている。面白い言葉では、ATM、銀行の自動支払機ではなく(アホな父ちゃんもういらへん)の略語やCB、コールバックや転換社債ではなく(超微妙)の略語で若者が多用する言葉らしさに溢れている。勿論、その多くは数年後には使われることなく死語となっているように、時代の変化と共に「仲間こどば」は変わっていく。

この「仲間ことば」でコミュニケーションすれば良いのではと短絡的に考えてはならない。例えば、昨年菅総理がニコ動を使っての記者会見をしたことがあった。菅総理の最初の言葉が笑いながら「ガースーです」と挨拶したことへの批判が集中した。つまり、こんな危機にあるのに「ガースーなんて」常識がない、不謹慎であるという声であった。そもそもニコ動を使って既存のマスメディアにも流したこと自体に問題があったのだが、周知のようにニコ動は画面上に視聴者が入力したコメントを字幕として表示し、自分のコメントと一緒に表示される。このことにより他の人たちと感想を共有でき,あたかも一緒に見て いるかのように感じられる動画である。画面に「ガースー」というコメントが一斉に流れ、思わず菅総理も「ガースーです」と挨拶したわけである。非難した政治部記者も専門家もニコ動の仕組みを知らない無知を曝け出したこともあり、非難は急速に萎んでしまったが、実はこの「仲間ことば」によるコミュニケーションの無理解については今なお続いている。
また、昨年若い世代に人気があり、流行語大賞にもノミネートされた「フワちゃん」を東京都知事が都庁に呼んだことがあった。パフォーマンスの長けた小池知事のやり方であるが、若い世代にも会話しているという映像をテレビメディアに撮らせ流させる。つまり、若い世代とのコミュニケーションを深めるのではなく、「やっている」ことを視聴者に見せる手法であって、「仲間ことば」の無理解においては同様である。

その感染拡大の中心として名指しされている若い世代であるが、前回若い世代に決定的に足りないのは「経験」「実感」であると書いた。実は価値観から言うと、極めて合理的な思考を持っていることがわかる。TV離れ、車離れ、オシャレ離れ、海外旅行離れ、恋愛離れ、結婚離れ、とまるで欲望を喪失したかのように見える世代であるが、彼らの関心事の中心にあるのは「貯蓄」である。安定を求めながら、将来不安を少なくするためであり、例えば女性とデートする場合でも「ワリカン」であったり、デート場所はホテルなどのレストランではなく自宅とかで近くのコンビニで飲み物や食べ物を買って好きなDVDを観たりする。あるいは上司に誘われても飲みにいくことは極力避ける。仲間内の合コンも居酒屋ではなく、仲間の自宅で行うパーティにしたり、コストパフォーマンスを考えた行動をとることが多い。確かPayPayのCMであったと思うが、ワリカンアプリを使って楽しめるものであったと思う。1円単位でシェアーしてその金額は支払い者に送金するという合理性である。自分達は新型コロナウイルスにかかっても軽症もしくは無症状であり、未知のウイルスという怖さはすでに無い。こうした彼らのライフスタイルやその行動を子細にに見てていくならば、飲食店だけに時短要請をしてもその効果は半減するということだ。

この時代のコミュニケーションの難しさはKY語という言葉によくあらわれている。「空気読めない」という意味だが、その「空気」とは何かである。言葉になかなか表しにくい微妙な世界、見えざる世界、こうした世界を感じ取ることが必要な時代に生きている、そんな時代の最初の流行語であった。善と悪、YesとNo、好きと嫌い、美しいと醜い、こうした分かりやすさだけを追い求めた二元論的世界、デジタル世界では見えてこない世界を「空気」と呼んだのである。つまり、伝わらない時代にいるということである。
こうした時代にあってヒントをくれた人物を思い出す。広告批評という雑誌を長く続けたコラムニスト天野祐吉さんである。まだ元気に活動されていた天野さんは「言葉の元気学」というブログの中で「広告批評」で若いコピーライターの卵100人に「からだことば」のテストを行い、その結果について次のようにコメントされていた。
・「顔が立つ」/正解率54.9%/回答例 目立つ 、化粧のノリがいい
・「舌を巻く」/正解率42.3%/回答例 キスがうまい、言いくるめる、珍味、
・「あごを出す」/正解率35.2%/回答例 イノキの真似をする、生意気な態度をとる
体にまつわることばについて、「無知」「国語の再勉強」というのではそれで全てが終わってしまう。天野さんは”「舌を巻く」なんていうのは、これからは「キスがうまい」というイミに使ってもいいんじゃないかと思うぐらい面白いですね。(どうせ、半数以上の若者は本来のイミを知らないんだし、そのことにいまさら舌をまいても仕方がないしね)と、書かれている。「いいか、わるいか」ではなく、「素敵か、素敵じゃないか」「カッコイイか、ワルいか」を感じ取れる世界、それでいて若い世代にも分かるような「大人のことば」が問われているということだ。天野さんのように「キスがうまい」と、大人への扉を開けてあげる知恵やアイディアが若い世代とのコミュニケーションを成立させる。何故なら、彼らは十分すぎるほどの自己表現メディアを持っているからだ。天野さんが活躍していた時代から更に固有な解釈から生まれる「表現」を持っている。つまり、「ことば」を持っているということだ。昨年「香水」で大ヒットした 瑛人のように、楽譜は読めないが人の心を打つ楽曲ができるように。

コロナ禍の一年、ストレスが極度に積み重なり、ある意味社会全体がヒステリー状態に向かいつつある。昨年は自粛警察を始め社会現象として誹謗中傷やデマが奔出し始めている。こうした芽はTVメディアによる恐怖の刷り込みによるものであるが、未知のウイルスから既知のウイルスへと変ってきた。その変化の中心が若い世代である。当初の「正しく 恐る」は、その正しさが偏った「正しさ」として報道されたことによって「既知」となった。若い世代は軽症もしくは無症状という情報によるものである。その通りであると感染症の専門家も認めることだが、「社会」は一人で生きていけるものではない。多くの関係の中で生きていくことは周知のことではあるが、彼らにそのことを伝える「ことば」を持っていない。
「仲間」に一番近くにいる大人の人物にはある程度聞く耳は持っている。前回青山学院駅伝監督の原さんの事例を出したが、原監督に言われるまでもなく、学生・選手は感染者が出ればどんな「事態」になるかよく理解している。つまり、箱根駅伝には出場できないという事態である。こうした事態は身近な問題として実感できることである。飲食店やコンビニでバイトをしている学生であれば、感染したらバイトができなくなるだけでなく、その店は休業状態になるということは容易に想像できる。会社勤めであれば同じように社内の「仲間」も濃厚接触者として仕事に就くことはできなくなる。身近にいる「大人」が繰り返し会話することしかない。政治家のリーダーシップを問うコメンテーターが多いが、政治家は一番遠い大人である。こうした若い世代も高齢者も同じように新型コロナウイルスの恐ろしさを感じたのは志村けんさんの死であった。身近な存在で実感できる恐ろしさであったということだ。しかし、若い世代にとって、時間の経過と共に「実感世界」は消えていく。マスメディアが世界の感染情報を伝えれば伝えるほど「日本は大丈夫。若い世代が重症化することは極めて少ない」という思い込みは加速していく。例えば、感染が急激に加速している英国における死者の88%が高齢者であるといった情報が報道されている。情報は常に自分勝手に解釈するものである。

また、今回緊急事態宣言によって飲食事業者への時短要請がポイントとなっているが、要請に従わない店も従う店の多くも、その根底には「実感」の無さがある。従業員も来店顧客も、いずれの場合にも周辺には感染者はいない。近隣の飲食店にも感染によって休業となった店もほとんどない。前回のブログにも書いたが、欧米の感染者数と比較し、日本の場合は極めて少ない。しかも、第一波第二波共にクラスターという小集団感染が主体であった。今回の第三波は市中感染状態から考えていくと「感染者」や「感染飲食店」と出会うことになるかもしれない。新型コロナウイルス接触確認アプリ(COCOA)のダウンロードすうは約2310万人、陽性登録件数はわずか6929件である。この接触者数の少なさを見てもわかるように極めて少ない。実感するには程遠い存在なのが新型コロナウイルスである。
実は昨年夏に「もう一つのウイルス」として誹謗中傷・デマを取り上げることがあったが、感染者が急増するにしたがってこの人間心理に潜む厄介なウイルスが再び活動し始めている。このウイルス拡散も、実は時代の唯一の見極めは「実感」できるか否かである。実感から離れたとき誹謗中傷・デマが生まれ拡散する。過剰な情報が行き交う時代にあって、唯一の判断指針となるのは「実感」できるか否かである。(続く)
  
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2021年01月03日

「登山の思想」を考える  

ヒット商品応援団日記No775(毎週更新) 2021.1.3.

新年明けましておめでとうございます。
年末31日の新型コロナウイルス感染者が東京では過去最多の1337名となり、マスメディア、特にTVメディアは元旦早々大仰に取り扱っている。それほど驚くことではないと思うが、TVメディアのように「驚かせない」と視聴率ビジネスにならないため仕方がないことだとは思うが、どこか違うと言う思いからこんなブログを書くこととなった。
昨年12月のブログ「ヒット商品番付を読み解く」にも書いたが、コロナ禍に暮れた1年間であった。2020年1月元日産自動車会長のカルロスゴーンの逃亡劇から始まった年は1月末には終わり、世界中のマスメディアは新型コロナウイルスの感染記事で埋め尽くされる。2月に入り3711人の乗員乗客を乗せたダイヤモンドプリンセス号内で新型コロナウイルス感染症の集団発生がら以降単なる情報としてのそれではなく、身近な日常生活に浸透することとなった。
正月早々重苦しい問題を書くことになるが、タイトルの「登山の思想を考える」とは、作家五木寛之が書いた「下山の思想」にある「下山」のもう一方である「登山」の思想を考えてみたいと考えたからである。何故、今「登山」なのか、それは時代をこれから登っていく若い世代について考えてみたいと思ったからである。
五木寛之は日本の今、成熟した日本を山を下る下山から見える景色と捉え、その時代の生き方を慧眼を持って書いたものである。そこまでの知恵には遠く及ばないが、もう一つの道「登山」について気になって仕方がなかったからである。昨年後半盛んにマスメディアが報じたことの一つが、「若い世代」にはコロナ危機が伝わらないという一種の非難であった。その裏側には新型コロナウイルスの恐ろしさへの無理解があり、感染しても無症状もしくは軽傷者がほとんどであることから、感染拡大に加担しているのではないかという疑義から生まれている。

実は「伝わらない」のは伝えることをしてこなかったという「大人」の責任であり、政治のリーダー、特にマスコミ・TVメディアの考え違いにある。「大人」のロジックと方法では伝わらないということである。感染のメカニズムを含め「若い世代」は正確にコトの事態を理解していると考えることが必要と私は考える。それは昨年3月以降の報道を始めメディアを通じて流される情報・内容の変化、若い世代にとっては情報の「いい加減さ=実感を持ち得ない理屈だけの言葉」に「大人」は気づいていないという断絶があるということだ。
季節性インフルエンザとまではいかないが、彼らにとって「恐怖」としてのパンデミックではない既知のウイルスに近い認識を持っている。私は消費を通し、この若い世代を常に注視し分析してきた。今から10年ほど前になるが、この世代について次のようにブログに書いたことがあった。

『今や欲望むき出しのアニマル世代(under30)は草食世代と呼ばれ、肉食女子、女子会という消費牽引役の女性達は、境目を軽々と超えてしまう「オヤジギャル」の迫力には遠く及ばない。私が以前ネーミングしたのが「20歳の老人」であったが、達観、諦観、という言葉が似合う世代である。消費の現象面では「離れ世代」と呼べるであろう。TV離れ、車離れ、オシャレ離れ、海外旅行離れ、恋愛離れ、結婚離れ、・・・・・・執着する「何か」を持たない、欲望を喪失しているかのように見える世代である。唯一離さないのが携帯を始めとした「コミュニケーションツールや場」である。「新語・流行語大賞」のTOP10に入った「~なう」というツイッター用語に見られる常時接続世界もこの世代の特徴であるが、これも深い関係を結ぶための接続ではなく、私が「だよね世代」と名付けたように軽い相づちを打つようなそんな関係である。例えば、居酒屋にも行くが、酔うためではなく、人との関係を結ぶ軽いつきあいとしてである。だから、今や居酒屋のドリンクメニューの中心はノンアルコールドリンクになろうとしている。』

この若い世代が集中しているのが東京である。自粛要請が盛んに報じられた昨年11月~12月の時期、渋谷をはじめとした場所の「人出」調査をみても増加しており、新規感染者と人出は相関していることがわかる。11月医療崩壊の危機にあった札幌・旭川や大阪市は営業時間短縮やGoToトラベルの中止により感染拡大は治りつつある。しかし、東京の場合政府も知事もいくら自粛してほしい旨をアナウンスしても「人出」は減少することなく増加の傾向すら見せていた。既に検証活動に入っていると思うが、札幌はススキノの飲食街(ほとんどが飲食ビル)に対し休業あるいは営業時短要請をしており、この結果が感染者の減少につながっていると報告されている。ただしススキノの飲食街はゴーストタウン化しており、1/3が廃業・倒産状態であるという事実もまた忘れてはならない。(旭川の場合は主に病院クラスターの発生によるもので収束しつつあるとのことのこと。)同じような対策を採っている大阪の場合は高齢者の人口比率が高く、重症者が多いことから医療危機が叫ばれたが、元々専門家会議など対策の論議は全て情報公開されており、府市民の理解賛同も多く、若い世代への抑制もある程度うまくいきつつあり、若い世代の新規感染者も減少傾向にある。大阪の場合飲食店の時短は夜9時までだが、大阪の友人によればススキノと同様大阪の銀座と呼ばれている北新地では既に3割ほどの店が廃業状態でありここでも大きな痛みがあるとのこと。

問題は増加傾向すら見せている東京で、地方への感染流出の源をどうするかである。つまり、「登山」途上の若い世代にどうメッセージを送るかである。大人の下山発想ではなく、「登山」と感染防止ということをどれだけ明確にできるかということである。それは厚労省も感染の専門家も特にTVメディアは今までの「情報」の内容や出し方の反省の上で対応すべきであろう。
前述のブログで二十歳の老人とネーミングしたのも、若い世代にとって決定的に足りないことは「経験」という実感であった。当たり前のことであるが、情報的には老人の如くであるが、実感できるものは周りにはほとんどないのが現実である。昨年末の累計感染者数は約22万人、死者数は約3300人。若い世代20~34才人口は約2035万人。周りを見ても感染者はほとんどいない、ましてや亡くなった人はTVのニュースで見るだけで実感がない世界であるということだ。ましてやこれまで報道されてきた情報、若い世代のほとんどは軽症もしくは無症状であると。さらに言うならばこれまで報道されてきた情報、例えば春先報道されてきた「このままでは42万人の死者が出る」と言った厚労省クラスター班の西浦教授の報告も数理モデルとはいえ、あまりにも現実感のない情報であったことを彼らは熟知している。(後日西浦教授は訂正のコメントを出してはいるが、マスメディアはそのことすら報道することはない。)
つまり、コロナ禍は現実感が決定的に乏しい出来事ということだ。もっと簡単に言えば、「他人事」ということである。

何故大人と若者という図式でコトの本質に迫ろうとするのかは、現実社会は人口のみならず圧倒的に大人世界・大人的情報に埋め尽くされているからである。唯一大人の世界から離れることができたのはエンターテインメント・娯楽の世界であろう。メディア、特にTVメディアは既成としての大人の世界でしかない。もっとわかりやすく言えば、高齢者を視聴者にした番組ばかりである。既成のTV番組でいくら「自粛」「自省」を促しても、そこには若い世代はいない。メッセージが届くはずもないということだ。ただひたすら高齢者に恐怖を煽ることだけに終始することとなる。その若い世代はネットによる情報収集ということにもなるが、ネットの世界においても例えばYahooニュースは中高年世代であり、それより下の世代は既成の「ニュース」に興味を感じることはない。新聞情報などは論外である。情報は「仲間内」での情報交換、SNSによる入手がほとんどとなる。ちなみに最新の日本におけるSNSユーザー数は以下となっている。
LINE 8,600万人
YouTube 6,500万人
Twitter 4,500万人
Instagram 3,300万人
Facebook 2,600万人

ところで何故「人出」が減らないのか、その理由は大きくは2つある。一つは昨年夏にいささか刺激的なるなタイトルだが「密を求めて街に向かう若者達」にも次のように書いた。

『「バランス」が取れた誰とでもうまく付き合うゆるい関係、空気の読める仲間社会を指し「だよね世代」と私は呼んでいたが、もっとわかりやすく言えばスマホの無料通話ソフトLINEの一番の愛用者である。そもそもLINEは「だよね」という差し障りの無い世界、空気感の交換のような道具である。オシャレも、食も、旅も、一様に平均的一般的な世界に準じることとなる。他者と競い合うような強い自己主張はない。結果、大きな消費ブームを起こすことはなく、そこそこ消費になる。そして、学生から社会へと、いわゆる競争世界に身を置き、それまで友達といったゆるいフラットな世界から否応なく勝者敗者の関係、あるいは上下関係や得意先関係といった複雑な社会を生きる時、そうした仲間内関係から外れることを恐れ、逆にそれを求めて街へ出る。今のコロナ禍の表現をするならば、「密」な関係を求めて、東京へ、街へ、出かけるのである。』

つまり、街は仲間と集い合う心地よい居場所であるということだ。その居場所には、常に新しい、面白い、珍しい「変化」があり、刺激を与えてくれる魅力的な場所ということである。下山、登山の例えで言うならば、街は登山途中の休憩場所であると同時に都市の持つエネルギーを補給する場所ということでもある。それは今に始まったことではなく、1990年代から始まっており、東京ディズニーランドと共に渋谷109が修学旅行先に選ばれたように、都市観光化は始まっている。東京都は緊急事態宣言として5月末「東京アラート」を発動し、7色のレインボーカラーのレインボーブリッジを赤に点灯した。結果、どういうことが起きたか、お台場には見物客が多数集まり、つまり皮肉なことに東京の新たな観光スポットになってしまったということだ。
コロナ禍によって密を避け入場者の制限はあるものの、スポーツや文化イベントは数え切れないほど開催されている。東京の人口は約1400万人弱と言われているが、鉄道や道路によって繋がっており、埼玉、神奈川、千葉を含めれば3500万人となり、日本の人口の約30%を占める巨大都市である。
昨年春の未来塾の第一回目に「正しく、恐る」をテーマとしたが、この若い世代にとって「正しく」の認識は「感染しにくい、感染しても軽症で済む」と言うのが彼らの基本認識である。世界に蔓延する感染者数についても1日数万人というニュースが毎日報道されるが、日本の場合増加する第三波の感染者数は全国では昨年末1日3600人、死者数59人という情報との比較をすれば一桁少ない数字であり、彼らにとって「正しい」事実ということになる。

また彼らを受け入れる都市商業、特に飛沫感染が多いとされる飲食店はどのような認識でいるかである。厚労省の専門家会議においても明確な根拠、科学的な分析に基づくものはないが、営業時間の短縮によって感染拡大は防止できるとされている。
その飲食店については、東京の場合政府の緊急事態宣言に基づき、昨年4月11日以降居酒屋を含む飲食店、料理店、喫茶店などは営業時間の短縮として5時から20時までの間の営業とされた。以降、東京独自に飲食店の時短要請を行うこととなる。勿論、感染拡大防止協力金が一定程度支払われるのだが、正確なデータは公表されていないので分からないが、次第に要請に協力する飲食店は減少していくこととなる。12月に入り、全国知事会議では神奈川では協力してくれる飲食店は2割ほどで、東京も同程度と考えられており、その実効性が問われる事態となっている。
つまり、若い世代にとっても、一方の飲食店側にとっても、「感染」の明確な根拠がないまま「要請」という名において各々の行動が中途半端になされている、

今、政治においては特措法の改正へと向かっており、休業などの保証の制度化は必要ではあるが、問題の本質は休業にせよ、時短にせよ、どれだけの感染防止に役立ったかというエビデンス・根拠を明らかにすることである。特措法だけでなく、さらに悪化すれば再度緊急事態宣言が発出すべきとの意見もあるが、飲食店だけでなく日本経済はそれこそ壊滅的な打撃を受けることは間違いない。
ジャーナリストは口癖のように「危機管理は最悪のことを想定して」と言う。そのこと自体は一般論として間違ってはいないが、「最悪の事態」を英国や仏、米国NYの事例を持ち出し、「最悪」と言う恐怖を刷り込むことへと向かっているように見える。しかも、欧米のように強制力を持ったロックダウンをすべきとの意見も出てきている。ロックダウンすれば一時的には感染が防止されるとは思うが、今まで何回ロックダウンしてきたかである。ロックダウンは魔法の杖ではない。日本の「大人」、特に高齢者には効き目があるかもしれないが、若い世代にとっては効果は期待できないと私は考える。
昨年一年問題と感じてきたことはコロナ禍に関する「情報」の扱い方であった。新聞報道はまだ客観的な冷静さを保持していたが、TVの情報の伝え方はある意味異常である。視聴者の興味関心に応えることは必要ではあるが、コロナ禍の情報を一部TVメディアはエンターテイメント・娯楽にしてしまったことである。民法TV局は視聴率商売とはいえ、時に「脅し」に似た情報を流し、時にワクチンのような「安心」の情報を流す。「危機」をテーマとするならば、危機を娯楽にしてはならないと言うことだ。

さて、その若い世代とどう付き合うかであるが、良きサジェッション事例がある。今年も沿道での観戦はできないが、正月恒例の箱根駅伝が開催されている。今年は苦戦しているが、駅伝の常勝チームに導いた青山学院大学陸上部監督原晋氏はいくつかのインタビューにその「つきあい方」について答えている。実は原監督が就任した当時は全くの弱小チームで「自立的に成長していく」という理想としては程遠い状態であったと。そこで「僕は組織のトップに君臨する指導者として、細かなことまで手取り足取り指示出しし、ときには厳しいことも言いました。」つまり、今日で言うところの教える・ティーチングの手法を採ったと答えています。結果、辞めていく学生も多かったとも。しかし、徐々に力をつけていくに従って、「教えること」は少なくなり、選手達の自主運営に向かって行く。そして、次に行ったことは長期的な未来志向へと移っていく。その未来志向とは「この組織は何のために存在するのか」「10年後、20年後に自分たちはどのような姿を目指すのか」といった長期的なビジョンをメンバーと十分に共有することでると答えている。これは今日で言うところのコーチングの手法である。
また今回のコロナ対策についても多くのスポーツ施設や寮が閉鎖される中、陸上部の寮を続け練習も行なってきた。原監督は当時の3月下旬3つの選択肢を考えている。(1)閉寮(2)一部を残し運営(3)全員で乗り切る」。そして「練習は公共交通機関を使わず、走って通うので不特定多数との接触はない。食事の確保も可能」とし、(3)の決断を下したとも。と言うのも監督就任時から徹底した「自己管理」を行い、16年間感染症の流行は一度もなかったとも。

コロナ禍にあってティーチングとコーチングという方法を考えていくことも必要ではあるが、原監督を始め多くのリーダーは一人ひとりの選手を信じて対話していると考える。リーダーに求めることの第一は「信じる力」を持ちえるかどうかである。そして、その対話は「何故なのか」その理由・根拠を明確に伝えることしかない。強制力を持った特措法が議論され始めているが、休業や時短への補償などについては議論すべきであるが違反者への罰則という強制はしてはならない、
正月2日、首都圏の4知事は政府に対して緊急事態宣言の発出を求めるとの報道があった。どの程度の規模となるのか検討されていくと思うが、その前にやることは「大人」が若い世代、登山途中の世代を信じることだ。問われているのは「若い世代」ではなく、「大人」自身ということだ。そして、昨年春の緊急事態宣言によってどんな効果があったのか、大型商業施設の時短や休業を始めスポーツや文化イベントの自粛などどんな効果が得られたのか。時差出勤やテレワークの効果はどうであったのか。そして、飲食店などではどうであったか。北海道札幌、大阪などは感染の減少もしくは増加の歯止めがが見られている。そうした工夫や知恵、方法について4知事はどう受け止めてきたのか。厚労省専門家会議は感染の中心は20代〜50代とし、その対策が急務であると訴えている。「答え」が得られないままであれば、「人出」が減少することはない。未知のウイルスから、既知のウイルスへと向かい、密を避ける日常を送ってきた。この1年間多くの経験を積み自らセルフダウンしてきた生活者がいることを忘れてはならない。(続く)
  


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2020年12月13日

2020年ヒット商品番付を読み解く  

ヒット商品応援団日記No774(毎週更新) 2020.12.13.



今年も日経MJによるヒット商品番付が発表された。次のような番付であるが、ほとんどの人が納得というより、興味を引くようなヒット商品はない。ヒット商品は消費を通じて「時代」の変化、ライフスタイルの変化を感じることができる一つとなっているが、今年は「コロナ禍」一色である。読み解く必要などないと言うのが本音ではあるが、それでもコロナ禍一色の意味、特に今なお感染拡大から生まれる「変化」について考えることとする。

東横綱 鬼滅の刃、 西横綱 オンラインツール
東大関 おうち料理、    西大関 フードデリバリー
東関脇 あつまれ どうぶつの森、西関脇 アウトドア
東小結 有料ライブ配信、   西小結 プレイステーション5

東の横綱にはアニメ映画「鬼滅の刃」がランクされている。その興業成績は宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を抜く勢いとなっているが、TVメディアはコロナ一色となった情報の中で、唯一異なるエンターテインメントとしてこぞって取り上げ、動員観客数を押し上げた。そして、密な空間である映画館でも喋ることのない映画鑑賞の場合感染リスクは少ないと言うことから、コロナ禍にあって唯一の外出しての楽しみとなった。いわば巣ごもり生活の反動である。
他にも巣ごもり消費として「あつまれ どうぶつの森」や「プレイステーション5」といったゲームも入っているが、いずれの場合も「楽しさ」は特定の映画やゲームに集中することとなった。面白いことに観客動員数は2152万人とのことだが、GoToトラベルの利用客数は宿泊数のデータであるが5260万人泊となっている。支援制限として7泊以内となっているので半数としても2600万人程度は旅行したことになる。映画館との単純比較はできないが、「移動人数」ではそれほどの違いはない。ただ、旅行にしろ通勤移動にしろ、移動の最中に感染しクラスターが発生したと言う情報はない。問題は移動先での会食などの行動において感染リスクが発生すると分析されているが、生活者はそうしたことをよくわきまえて行動していると言えるであろう。

ところで2008年にもリーマンショックにより日本の社会経済が大きく揺さぶられた。日経MJはこの年のヒット商品番付は横綱に「ユニクロ・H&M」と「セブンプレミアム・トップバリュー」で大関には「低価格小型パソコン」がランクされ、まさにデフレが加速している様子が番付に現れていた。そうした生活消費を自己防衛型と呼んだが、ほとんどのヒット商品は価格価値に主眼を置いた商品ばかりであった。「お買い得」「買いやすい価格」、あるいは前頭の「パナソニックの電球型蛍光灯」のように、商品自体は高めの価格であるが、耐久時間が長いことから結果安くなる、「費用対効果」を見極めた価格着眼によるヒット商品であった。
そして、それら消費特徴を私は「外から内へ、ハレからケへ」と読み解いた。例えば、「外食」から「内食」への変化であり、その内食は親子料理を楽しむ「調理玩具」がヒットしたりしていた。今年のコロナ禍での変化である内職は大関に入っているように時間に余裕のある人は少し手の込んだ「おうち料理」になり、余裕のない人の場合には「フードデリバリー」となる。このフードデリバリー市場は5000億となっているが、宅配料金が高いため今後の競争市場においてはデリバリー価格が課題となる。それはワクチンが開発され集団免疫状態になるまでにはあと1年以上かかる。問題はそれ以降生き延びることができるサービス事業になり得るのかと言う課題である。しかもそうしたデリバリービジネスが成立するのは都市部のみであるという限定市場における価格競争である。
ライフスタイル全般として言えることは、多人数での会食、パーティなどが自粛され、「ハレの日」はほとんど無い「ケの日」ばかりとなった。ケの日の消費がどんな変化を見せるかである。既に年末年始の消費としては豪華なおせち料理に予約が入っていたり、東京の場合熱海や箱根の温泉旅館には家族での宿泊予約が多く満室状態であると聞いている。但し、年末の帰省旅行については、JTBによる意識調査では「旅行に行く」と答えた人は14.8%で前年と比較し5.2ポイント減少しているとのこと。勿論、帰省する人の半数以上は自家用車での帰省を考えており、これも感染リスクを考えてのこととなっている。ここでも巣ごもり正月を迎えることになりそうである。

オンラインツールが西の横綱に入っているが、テレワークを始め学生の講義がオンライン授業へと変化したこともあり、不可欠は道具となった。私も専用カメラやマイクをネット上で入手しようとしたが、4月頃はほとんどの商品が品切れであった。こうした直接的なツールだけでなく、自宅をオフィスに変えるためのデスクなどがニトリやホームセンターなどで盛んに買われるようになった。しかし、家族のいる簡易オフィスであり、快適な環境とは言えないことから、次第に従来のオフィスへの通勤が復活したのが現実である。ただ感染が家庭内及び職場内に持ちこまれており、前回のブログにも書いたが、厚労省のアドバイザリーボードのレポートによれば、20代~50代という日本の社会経済の中心世代が主要感染源となっていることから考えると、テレワークのあり方も再度考えることが必要かもしれない。
このオンラインによるコミュニケーションは東日本大震災の時実感した「絆」、一種の連帯の証のような人間関係が生まれたが、コロナ禍においては「ソーシャルディスタンス」という言葉が示すように「個」の経験を強いられることとなった。ネットでつながっていても「個」は個であり一人である。孤立からの脱却として、いつもはサラリーマンの街新橋の馴染みの店で一杯やっていたのが、オンライン飲み会へと変化した。勿論、つまらなさ、物足りなさを感じるが、それでも集団ではなく個であることの自覚も生まれる。仕事の仕方、生き方を問い直すきっかけになったことは事実であろう。
実は「親鸞」という小説を書いたあの作家五木寛之はPRESIDENT Online(プレジデントオンライン)のインタビューに答えて、今は平安末期の混乱混沌の時代に似ていると。そして、今こそ必要とされているのに何故宗教家が出てこないのかとも。ウイルスによって分断されてしまった「個」を孤立させてはならないという意味である。前回のブログにも書いたが、完全失業者数は215万人へと急増し、更に自殺者も急増しており、大きな社会問題化しつつある。それは、引きこもりといった社会問題とともに、ウイルスによる分断によって生まれた「孤立」である。社会における制度として解決すべき問題でもあるが、やはり身近な課題としては「どうコミュニケーション」をとるかである。東日本大震災の時に生まれた「絆」と同じように、ネット活用であれ、日常の接触機会であれ、ひとこと声をかけることの大切さが実感される時を迎えている。

関脇には「アウトドア」が入っており、巣ごもりというある意味鬱屈した生活からひととき解放される時間が求められてのことである。それは「密」を避けながら楽しさを求めるという生活者の知恵である。その代表的な楽しさがキャンピングであり、キャンプ場はもとよりキャンピングカー市場も活況を見せている。それは従来型のキャンピングからホテル仕様のサービスを満喫できるグランピングや最近話題となっているソロキャンプまで多様な楽しみ方の広がりを見せている。実はこのアウトドア市場は数年前から静かなブームになっており、コロナ禍が追い風となったということだ。
こうした市場だけでなく、アウトドア志向はカジュアル衣料からキャンプ飯人気、オープンカフェといった街並みと一体となった店舗、ホテル・旅館選びの基準の一つに露天風呂が入っていたり、あるいは自然を楽しむハイキング人気はこれからも続き、日常的にはジョギングまで都市生活に欠けている自然との呼吸が求められていると言えよう。
ところでコロナウイルスのクラスターが発生した東京湾の屋形船であるが、隅田川からレインボーブリッジまでの周遊コースなどには観光客が戻りつつある。また、水の都大阪でも円形ボートを川面に浮かべゆったりとした時間を楽しむ「水上ピクニック」が人気になっている。少し前のブログにも書いたが、これからは「水辺」が更に注目されるであろう。

自然災害をはじめ災害列島と呼べるほどの日本にあって、常に求められてきたのが「日常」であった。コロナ禍にあっても求められるのは早く元の日常に戻りたいという願いである。生活者一人ひとり異なる日常であるが、このウイルスは「移動」という最も社会経済、いや生きることにおいて必要不可欠なこと、その大切さを実感させた。その代表的な「事件」は小中高の一斉休校であった。子を持つ母親は保育所など預ける場所を探すといった苦労はあった。消費という面からは不評であった安部のマスクに見られるようにマスク不足が深刻化した。周知のように中国に依存していたことであったが、数ヶ月後には国内メーカーも生産しはじめ今や誰でもが手に入る安価なものとなった。そして、一斉休校によって当然のことであるが、学校給食はなくなり、食材を納入してきた生産者は行き場のない商品を持って途方に暮れていた。それは休業や自担要請のあった飲食店に納入してきた生産者も同様であった。しかし、そうした行き場のない商品は次第に過不足なく流通し今日に至っている。元の日常に100%戻ってはいないが、少なくともかなりの消費は戻ってきた。それは日常消費を支えるスーパーやコンビニといった流通事業者、あるいは「移動」を支える交通事業者や物流事業者によって、ある程度の「日常」を取り戻すことができたと言えるであろう。医療従事者と共に、こうした社会のインフラを支える企業や人たちにこそ「横綱」を与えたいと思うが如何であろうか。(続く)  


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2020年12月06日

過剰情報下の情報整理 

ヒット商品応援団日記No773(毎週更新) 2020.12.6.



新型コロナウイルス対策を助言する厚生労働省の専門家組織「アドバイザリーボード」は11月24日に会合を開き、1人の感染者が何人に感染させたかを示す「実効再生産数」が直近で大阪、京都、兵庫で「2」を超えていることを明らかにした。関西エリアについては心配な状況に至っているが、但し全国平均では11月27日現在1.17と逆に減少傾向にあり、更に最近では全国平均も東京都も1以下となり、どうらやピークは超えたようだ。ここ数週間感染者の増加に伴いGoToキャンペーンの是非についてマスメディア、特にTVメディアは過剰なまでにキャンペーン中断を含め過熱報道が続いている。

1ヶ月ほど前まではGoToキャンペーンの「お得さ」を競っていたTVメディアが医療崩壊の危機を煽り真逆の報道をするようになった。私が第三波において心配してきたのは陽性者数の増加よりも「実効再生産数」の推移であった。3月から始まった第一派、第二派と異なり「市中感染」が始まった唯一の指標との認識によるものである。周知のようにそれまでのクラスター(感染小集団)」潰しといった対策では防疫できなくなったからである。その証明ではないが、「感染経路不明」が半数前後になり、「家庭内」と「職場」という「外」から持ち込まれた感染経路を足し算すれば90%もの感染者が「不明」であるという事実。既に市中感染状態になっているということであった。

さてこうした状況を踏まえどう考えることが必要なのかについて整理することとする。実は3回にわたって未来塾ではできる限り客観的な事実であろうと思われることを整理してきた。例えば、

第一回目;「正しく、恐る」その原点に立ち返る、 副題としてファクターXと言う仮説、恐怖後遺症の行方。ちょうど緊急事態宣言が出された1ヶ月後の社会の変化を以下のように書いた。

『最近の研究などから専門家会議によって行われた多くのシュミレーション、「このままであれば42万人が死亡する」といった恫喝・脅しとも取れる発表に対し、その数理モデル計算式が誤りではないかとの他の専門家からの指摘も出てきた。現実はシュミレーションとは大きく異なり、感染者数も死亡者数もある意味世界でも不思議であると注目されているほど少ない。一時期、専門家会議メンバーは「米国NYのようになる、地獄になる」と発言し恐怖を増幅させていたが、これもそんな現実は起こっていないことは周知の通りである。この専門家会議のシュミレーションを鵜呑みにした感染症の大学教授が盛んにTV番組で煽り立てる発言をしていたが、現実は全く異なる展開となっている。専門家会議や鵜呑みにした某大学教授の責任を問う声もあるが、未来塾はその任にはない。』

そして、できる限り「事実」として認識されている情報、特に江戸時代からの「公衆衛生」についてどんな歴史的推移を経てきたかを整理してみた。「江戸時代のコレラ」「エコシステムによって清潔に保たれた都市江戸」「銭湯という清潔習慣」、そして、最近の事実として「新型コロナウイルスと季節性インフルエンザ」「マスクの効用」。
実はこうした公衆衛生について日本の歴史の一部を整理したのも、iPS細胞研究所の山中伸弥教授が提唱されたウイルスの正体に迫る「ファクターX」という着眼からであった。それは山中教授が言うように「正しく 恐る」ことの認識を保つためであり、恐怖を煽ることでは決してない。逆に有害ですらあると言うことからであった。その内容を再録すると、

ファクターXの候補
・感染拡大の徹底的なクラスター対応の効果
・マスク着用や毎日の入浴などの高い衛生意識
・ハグや握手、大声での会話などが少ない生活文化
・日本人の遺伝的要因
・BCG接種など、何らかの公衆衛生政策の影響
・2020年1月までの、何らかのウイルス感染の影響
・ウイルスの遺伝子変異の影響

さて上記の疑問について感染症研究者はどれだけ解明できたであろうか。冒頭の画像は山中教授が発信しているHPの最新情報で「日本の状況」について極めて簡潔に整理した図である。研究論文や海外の情報をわかりやすく「日本の今」として整理してくれたものである。つまみ食いのような断片情報ばかりのTVメディアとはある意味で対極にある。
ところで、生活者における態度変容であるが、そこには生活の知恵とでも言うべき変化が見られるようになった。例えば、三密を避けるような工夫、「オープンエア」な環境の生活への取り入れが積極的になされてきた。アウトドアスポーツを始めキャンピング人気はさらに高まり、それを象徴するかのように今年11月の三連休では秋の紅葉狩りを兼ねて東京高尾山には観光客が押し寄せたと言う変化である。勿論こうした傾向は今なお続いている。
また、マスク着用については飛沫防止効果などその後の理化学研究所などの研究によって大いに効果があるとの結果が発表された。そして、マスク警察といった問題は若干見られるものの多くの生活者は着用されている。また、本質の問題であるが、日本人には過去異なるコロナタイプの抗体ができていることによる免疫によって重症化率、死亡率の低さにつながっているのではないかとの仮説も発表されている。冒頭の山中教授による整理「交差免疫」に該当する研究である。

そして、今一度生活者の態度変容、心理変化の「今」にあって、何を解決すべきか見直しをすることとする。新型コロナウイルスが急速に感染が拡大した3月に言われいていた接頭語の一つが「未知のウイルスだから」であった。わからない感染病に対し、的確な対応が取れないと言うことであった。拡大しつつある混乱状態にあっては理解できることではあるが、「実施」したことに対する「検証」をしないことでは決してない。ビジネスに携わる多くの人間は、当たり前のことであるが、「結果」に対する反省・見直しは不可欠なものとなっている。それは「次」に向かうために必要なことであるからだ。それは医療の現場にあっては、重傷者や死者の数が少ないことによく現れている。現場の医師や看護士の皆さんの未知のウイルスとの戦いに勝ちつつあること、その結果を表しているからだ。

医療の現場が日々の検証を通し戦ってきていることに対し、自粛という言葉は好きではないが、ロックダインではなくセルフダウンという方法をとった生活の戦い方の今、その心理の今はどうであるのか、その視点で多くの政策が行われてきた、その結果検証を考えることが問われている。3月「未知」であったウイルス認識と行動変化はどうであったかということである。つまり、今回課題となっているGoToキャンペーンの是非論も飲食店などへの時短要請の効果論も、ウイルス拡大とのエビデンス(根拠・証明)を明らかにすることこそが「次」に進むことへとつながる。

まず3月以降国民一人ひとりに課せられた「目標」であるが、「接触を80%」削減と言う目標であった。それは4月6日の緊急事態宣言の発出となって、具体的には「三密」の削減とされ、まず不要不急の外出を自粛という制限となった。そして、学校の休校をはじめデパートなど多くの人が集まる商業施設や店舗の休業や営業時間の制限、スポーツや文化などのイベントの中止、それら要請という名の制限はどれだけの効果があったのだろうか?
この目標に沿って企業ではテレワークが進められ、中小企業を含め実施率はどれだけであったのだろうか。あるいは時差出勤はどうであったか。こうした目標とそれを達成するための諸計画が実施された。地域の違いは若干あるにせよ基本は全国一律の実施であった。しかし、当初から新型コロナウイルスは「都市の病気」であると言われてきた。「密」とはビジネス集積度のことであり、その象徴が朝のラッシュであろう。つまり、感染リスクが高いということである。
また、既に効果が無かったと言われている小中高の一斉休校はどうであったのであろうか。既にわかっていることだが、感染のピークは緊急事態宣言の発出以前の3月末であったことがわかっている。だからと言って効果が無かったとは言えないが、求められているのはそのエビデンス(根拠となる証拠)である。その結果である4月ー6月のGDPの落ち込み年率28.1%という大きな「痛み」のメカニズムの解明である。それこそが「次」に向かう為に必要な「痛み」の代償となるものである。また、政府の持続化給付金や地方への交付金によって表面的には大きな痛みとなっては現象してきてはいないように見えた。しかし、企業倒産数はそれほど大きくないように見えるがその倍以上の廃業があることをはあまり報じられてはいない。また、コロナ禍による失業者数は7万人台とそれほど大きな問題ではないように見えるが、10月の完全失業者数は200万人を優に超えている。更に悪いことは自殺者が急増している事実がある。ちなみに警察庁の統計によると、自殺者は10月だけで2,153人に達し、4カ月連続で増加し続けている。日本の自殺者は10月までに1万7,000人を超えており、10月の自殺者数は前年比600人増加した。特に女性の自殺者は80%以上も急増し、全体の3分の1を占めるようになっている。
今回菅総理の記者会見で、ひとり親家庭への特別給付金を実施するとの表明があったが、いわゆる弱者への救済が待たれている状況だ。

こうしたエビデンスなき政府の政策にあって8月にスタートしたのが前述の山中教授も参加しているAI アドバイザリーボードであろう。その会議の内容であるが、これまで行ってきたクラスター対策等による休業要請、外出自粛、三 密対策等の感染症対策による効果を、 AIシミュレーション等を活用して、分析し、より効果的な感染防止・拡大抑止策を大所高所の立場から検討・提言すると言うものである。先日記者会見によって報告がなされたが、ほとんどのマスメディアは取り上げてはいない。厚労省のHPにはアドバイザリーボードのレポートが掲載されているので一読されたらと思う。
ここでも急速な感染の拡大について提言がなされているが、注目すべきは「多様化するクラスターに対する対応が急務」という点である。つまり、市中感染の対応をどうするかということである。確か記者会見で言われていたことは「20代~50代が家庭内・職場内に持ち込んで感染している」ということであった。つまり、行動範囲も広く行動量も多い若い世代・中心世代がウイルスを家庭・職場に持ち込んでいるという仮説である。無症状、軽症である「若い世代」が感染源になっているという仮説である。東京都におけるGoToトラベルの発着を65歳以上の高齢者及び基礎疾患を持っている人を自粛という除外、こうした「政治決着」とは相反するものである。「移動」の抑制よりも、飲食店など感染場所への制限こそが求められているということでもある。あまり良い表現ではないが、6月の第二波における感染拡大が新宿歌舞伎町という「面」での感染源であったのに対し、今回の第三波は飲食店などの「点」へと拡散している状況と言えるであろう。勿論、これまでも痛んできた飲食店経営に対しては今まで以上の保証・協力金が必要となる。特に大阪や札幌については財政難ということから政府支援が急務であろう。

一方、この元気な中心世代は「中心」であることからビジネスに観光にと移動は激しくウイルスを「全国」へと広げることとなる。「点」の分散である。どこでも、いつでも感染するリスクはあるということである。東京では「密」を避けるために忘年会は控えるように通達され、時短営業をするまでもなく、繁華街の飲食店がガラガラである。
あるいはテレワークを実施してきた企業が順次元の通常就業に戻ってきたが、再度テレワークに戻ることを検討しているようだ。マスメディアが言うほどビジネスをスムーズに行い効率面でも良い結果が得られたと言うことはなかったと言うことである。マスメディアはここでも断片的にうまくいっているケースだけを取り上げて報道してきた。実はテレワークは部分的に残しながら、出社することとうまく組み合わせて運営すると言う当たり前のことから、朝のラッシュアワーは激減しないと言うことである。また、東京都の人口が流入を流出が上まったと東京離れを報道していたが、神奈川の相模原や埼玉の武蔵浦和などへの転居が主流で、コロナ禍が治ったらまた都心に戻ると言うことだ。その現れではないが、都心のタワーマンションの売れ行きは好調である。ただし、最寄り駅から離れたような物件は苦戦していることも事実であるが。

さてこうした元気な中心世代が感染の中心になってしまった状況をどうすべきかである。まずGoToトラベルは東京・大阪・札幌・名古屋といった都市圏では発着とも一定期間中断すべきであろう。キャンペーン期間を6月まで延長するとの情報も出ているようだが、そうしたいわゆる「延長策」である。確かに沖縄や北海道の知人に聞いてもGoToトラベルの支援によって明るさが見えてきたと口々に指摘する声が多いことも事実である。医療崩壊を止めるのか、経済再生か、といった二者択一の論議こそ不毛である。両方必要であり、生活していくことが「コロナと共に生きる」ことであると言うことだ。
「ロックダウン」ではなく「セルフダウン」を選んだ日本であり、個人の自制に頼ることも必要ではあるが、既に東京の企業では忘年会を中止としているように、企業も個人も十分弁えている。少し前になるが青山学院大学の陸上監督の原晋氏はコロナ感染に触れ「いまだかって季節性インフルエンザの寮生活で蔓延を起こしたことはない」と述べ、それは部員一人ひとりが自己管理を徹底しているからと答えていた。これが「セルフダウン」である。企業のリーダー、大学の教授、原監督のようなスポーツ団体のリーダー、さらには街のクラブ活動の指導者、多くの人が属する組織単位にあって、いわば「大人」が率先してコミュニケーションし、共に自己管理・自制していくことである。

こうした市中感染対策として、クラスター対策に変わる方法の一つが接触確認アプリ「COCOA(ココア)」であった。厚労省の発表ではダウンロード数は12月3日現在約2101万件となっている。日本におけるスマホの保有率は85%ほどと高く、SNSの中のLINEの場合クティブユーザー数は8,400万人。感染者発見と言う防止策には6000万件ほど必要であると言われてきたが、LINEまでは行かないにせよ導入半年後で2000万件はあまりにも少なすぎる。それはOSバージョン上の制約があり、スマホ保有者が全てダウンロードできるわけではない。更に、どれだけ感染防止効果があったかで、陽性者登録件数は12月3日現在わずか3546件となっており、積極的な普及拡大には役立つ実績ではない。つまり、制約と共に積極的に普及を促す「実績」もなく、6000万件という目標はほとんど無理だと言うことだ。

「セルフダウン」という自己管理の基本に今一度立ち返ってみることが必要ということだ。マスメディア、特にTVメディアの情報に振り回されてなならない。なぜ繰り返し言うのも、一つひとつの番組が「医療崩壊」の事例を取り上げたとすると、他局の番組も同じテーマを取り上げ、しかも異なる時間帯でも取り上げられる。一つの「事実」は極度に拡大・増幅され、視聴者を圧迫することとなる。3月4月頃の未知のウイルスであるが故の「恐怖」は今なお心の中に刷り込まれ残っている。それは高齢者ほど強く、10代20代の若い世代にとって、まずTVメディアを見ないこともあって、それほどの恐怖は感じない。厚労省からの詳細データを目にしてはいないが、接触確認アプリ「COCOAの普及を含め、この世代が自己管理に向かうことが、感染防止に一番役立つことであることは誰もがわかっているはずである。ところが政治家は彼らとコミュニケーションする術を持ってはいない。前述の青学の陸上部監督の原さんのように、「信頼関係」が築かれているリーダーによってのみ若い世代は彼ら流の「自己管理」へと向かう。その信頼関係とはまず若い世代を信頼することだ。これはコミュニケーションの大原則である。人は信じられていると感じた時、初めて変わることができる。(続く)
  
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2020年10月01日

今、底力が試されている  

ヒット商品応援団日記No772(毎週更新) 2020.10.1.


2000年前後から電話で「オレオレ」と身内を装って銀行口座に振り込ませた事件が多発したことがあった。後に振り込め詐欺と名称が変わるのだが、その後も詐欺事件は続き、身内などに「なりすます」ことによる犯罪であることは変わらない。いつの時代も「危機」はあり、コロナ禍においても多様な詐欺が多発している。その象徴の一つは周知の個人事業主などを支援する持続化給付金詐欺である。実は「不正受給をしてしまった」といった相談が、全国の警察や消費生活センターに相次いで寄せられているという。つまり個人事業主になりすましてコロナ禍に便乗した詐欺である。

また、「ドコモ口座」を端緒にゆうちょ銀行をはじめとした不正引き出し事件も起きている。1年前「二段階認証」を知らなかった7payのお粗末なセキュリティが問題になっばかりである。「IDとパスワード」さえ漏洩しなければ守ることができると勝手に思い込んでいたそれまでの「常識」はすでに非常識になってしまっている。「利用者の利便性、簡単さを向上するため」という理由から二段階認証を行わなかったことによる。7payの場合、「パスワードリセット」のリクエストを送り、パスワードのリセットメールから本人になりすまして悪用するという仕掛けであった。こうした「リセット機能」を使う方法もあるが、コロナ禍が始まった春ごろから盛んに「フィッシングメール」が届くようになった。有名企業を装った電子メールを送信し、偽装されたURLをクリックさせることで、個人情報を取得しようとするオンライン詐欺のことであるが、私のところにもAmazonや楽天といった誰でもが使うサイトを語ってパスワードなどを入手する手口である。使い慣れた信用のあるAmazonや楽天になりすまして情報を入手する詐欺である。

ところで今から8年ほど前に「パソコン遠隔操作事件」が起きたことを覚えているであろうか。あの電子掲示板「2ちゃんねる」を介して他者のパソコン(PC)を遠隔操作し、これを踏み台として襲撃や殺人などの犯罪予告を行った事件である。犯人に仕立て上げられ誤認逮捕されたのは5人で、事件に使用されたプログラムはコンピューターウイルスと呼ばれた事件である。真犯人とされた人物は逮捕・保釈後、全て事実であったと告白をし、10年の求刑で現在も収監されている事件である。
昨年秋に起きた7PAY事件以降多発しているサイバー犯罪は、「パソコン遠隔操作事件」のような高度なサイバー犯罪からは程遠い「使いやすい」からという安直な判断によるなりすまし事件である。

一方、首都圏及び大阪では「ガス点検」を装った強盗・強盗致傷事件が多発している。ガス会社を装ったこれもなりすましによる強盗事件であるが、冒頭の振り込め詐欺事件におけるメンバーがコロナ禍によって在宅している老人世帯を狙った犯行とのこと。犯人は若い世代によるもので「#闇バイト」に応募した犯行でこれまた極めて安直な動機による。コロナ禍による失業、あるいはアルバイトの解雇という背景からであるが、Googleで「闇バイト」で検索すると約2800万件弱にも及んでいる。Twitterなどには警察の広告が掲出されているが、全てを網羅することはできない。

これまでの犯罪としての詐欺事件と言えば、マルチ商法をはじめ儲けたいといった欲望を背景にしたが違法な犯罪が大半を占めていた。勿論、表立っての違法性は隠してのことで、先日逮捕されたジャパンライフのように「安心」のために「桜を見る会」のように政治家や有名人を広告塔にするといった手法によるものであった。信用と言う心理の隙間を狙った犯罪であるが、今起こっている犯罪は情報の時代、そのテクノロジーの隙間から生まれたものである。
多くの犯罪研究者・専門家が指摘することは、嫌な言葉であるが「時代」を見事なくらい映し出している。20数年前になるが、その専門家の一人は犯罪を企てる組織や人物はこれも嫌な言葉であるが、まさにマーケティングを行なっていると。犯罪によって利益を得るための着眼や方法を常に探し回っているということである。凶悪犯罪は減少はしているものの刑法犯全体としては増加傾向にある。その刑法犯の代表がインターネットにおける「情報犯罪」、いわゆるサイバー犯罪、更にはSNSを使ったものであろう。犯罪は「個人」には見えないところで行われ、犯人にたどり着くことが難しい。しかも、最近の傾向としては、ある程度の専門知識を持つ者であれば犯罪に走ることが可能であるからだ。

犯罪者もまたマーケティングを行なっていると書いたが、もっとストレートな表現をすれば「お金」はどこに集まっているかである。日本で言うならば、「人」で言うならば高齢者の預貯金であり、企業であれば金融機関であり、その先には国がある。持続化給付金などは国であり、金曜機関や決済機関と言うことになる。
しかも、デジタル化はこれからもどんどん進んでいく。「人」の判断を超えて「システム」のよってお金は流通していく時代である。政府はデジタル庁を創設し、まずは行政のデジタル化を進めていく方針とのことだが、セキュリティと言う自己防衛市場が急務となっている。

1年前の5月に衝撃を受けた川崎殺傷事件が起きた。ブログにも取り上げた事件だが、そこには「ひきこもり」をはじめ、いじめ、孤立、家庭内暴力、80 50問題、中高年引きこもり61万人、・・・・・・少子高齢社会のが抱えた歪みから生まれた象徴的な事件であった。
その川崎殺傷事件の犯人についてであるが、中高年となった「子供」がたどった時代を考えるとまず思い浮かぶのは「就職氷河期世代」である。バブル崩壊によって就職口が閉ざされた世代であり、さらに1990年代多くの神話が崩壊した時代を生きてきた世代でもある。ベストセラーとなった田村裕(漫才コンビ・麒麟)の自叙伝「ホームレス中学生」の舞台となった時代である。「ホームレス中学生」はフィクションである「一杯のかけそば」を想起させる内容であるが、兄姉3人と亡き母との絆の実話である。時代のリアリティそのもので、リストラに遭った父から「もうこの家に住むことはできなくなりました。解散!」という一言から兄姉バラバラ、公園でのホームレス生活が始まる。当たり前にあった日常、当たり前のこととしてあった家族の絆はいとも簡単に崩れる時代である。作者の田村裕さんは、この「当たり前にあったこと」の大切さを亡き母との思い出を追想しながら、感謝の気持ちを書いていくという実話だ。
明日は分からないという日常、不安を超えた恐怖に近い感情は家族・絆へと向かい、その心のありようが読者の心を打ったのだと思う。「個人」という視点に立って考えれば、未知の「挫折」を数多く体験した世代である。

今起きている詐欺事件も1990年代のバブル崩壊の時の時代に似た「不安」が社会の底流となっている。コロナ禍による倒産・廃業企業が増え失業者も同じように増え続けている。また、8月に入り厚労省の発表では自殺者が増加していると言う。7月の家計調査の結果も前年同月比マイナス7.6%の減少と消費の低迷状態は変わらない。更に、先日全国の基準地価が発表され、銀座や浅草など観光地の地価が大きく下落したと報じされている。こうした不安材料を秤のようだが、世界的なコロナ不況にあって2020年4~6月期は自動車メーカーが軒並み巨額赤字を計上したが、トヨタだけは1588億円の最終黒字となったと報告されている。トヨタらしい底力のありようを見る想いであるが、消費現場である街の商店街には活気が戻ってきている。例えば、何度となく取り上げてきた吉祥寺の街や古くからある十条商店街など賑わいは戻ってきている。そうした町場の商店街の回復には必ず中心となる店が存在している。精肉店さとうのメンチカツ人気もそうであるし、十条銀座商店街の鶏肉店鳥大のチキンボール人気も健在のようだ、見えない不安が蔓延する時代にあって、今まで通り、いつもの日常を提供してくれる店がいち早く復活していると言うことだ。衛生管理を含めたコロナ対策は当然であるが、それまで培ってきた信用が不安を取り除いてくれていると言うことだ。時間差はあっsても顧客は必ず戻ってくる、それはトヨタの業績にも通じる者であり、つまり「底力」と言うことになる。

あるいは大阪の友人からの情報であるが、西田辺駅前のローソンと隣に併設されたバー「のぶちゃんマン」がコラボした業態「コンビニ❎バー」が人気となっているとのこと。コンビニでおつまみ買って、一杯」というわけである。ちょい飲みには格好の業態でありそうで無かった点が人気の秘訣のようだ。これもまた、コロナ禍から生まれた小さな業態ということができる。
不安を背景にこれからも犯罪は発生するが、自己防衛に走る生活者の不安を解決するのもまた商業ということである。これから先、「コロナ禍から学ぶ」として東京・大阪の元気な商業を取材していく予定である。(続く)
  
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2020年09月20日

未来を知る

ヒット商品応援団日記No771(毎週更新) 2020.9.20



ことごとく予測が外れる事実にマスメディア、特にTVメディアは謝罪と反省を繰り返している。先日偶然であったが、TBSの情報番組「Nスタ」を見る機会があった番組でウイークデーの午後夕方の番組である。その中でメインアナウンサーである井上貴博が視聴者に対し、これまでの放送内容に間違いがあったことに対し反省のコメントを伝えていた。新型コロナウイルスについての短いコメントであったが、「2週間後には死者が4万人に及ぶ。あるいはGoToトラベルによってウイルスが全国に拡散する。といった情報を伝えてきたが、間違いであった」とした反省の弁であった。「2週間後には死者が4万人に及ぶ」は周知のクラスター班であった元北海度大学西浦教授による数理モデルに基づくものだが、その後西浦氏は訂正のコメントを寄せているが、こうしたことは報道されてこなかった。また、GoToトラベルによるウイルス拡散説についてもTVメディアや感染症専門家はこぞってその悲惨な結果を予測していた。結果どうであったかであるが、Go To トラベルを利用した宿泊者が8月末までに1339万人に達したと発表されている。そして、明らかに新型コロナウイルスによるクラスター感染が確認された事例は10件に満たないものであった。Nスタはこうした「事実」を背景にした反省の弁であったが、まだまだ少なくなってはいるが、こうした事実を避けて構成する番組もあるようだ。感染が広がった3月には、パチンコ店がクラスター発生の元凶であるが如き報道がなされたことがあったが、こうした報道の反省は半年近くになってなされる始末である。

こうしたことを裏付けるように菅新政権に対する支持率などの世論調査が行われたが、多くの専門家の予測を大きく裏切り、周知のように新聞各紙のほとんどが60%以上で日経新聞に至っては74%の支持となっている。
(朝日新聞6+5%、毎日新聞64%、共同通信66%、日経新聞74%)
実はこうした新政権への世論調査結果の前に、安倍全総理が辞めるに至った背景に世論形成のポイントがある。潰瘍性大腸炎という難病による辞任であり、失政による辞任ではないことが以降の世論形成に作用している。辞任表明後の世論調査では内閣支持率はそれまでの不支持から支持へと大きく変化した。また、次なる総理候補として菅氏、石破氏、岸田氏の3人が候補となったが、その時の世論調査にはこれも大方の予想に反し、菅氏への支持が多い気かった。安倍政権の継承を掲げた菅氏への支持であり、党内野党として政権を批判してきた石破氏には後継者には当たらないという生活者のヒュかである。そして、結果として地方で強いと言われた石破氏を大きく話した総裁選であった。多くの評論家やコメンテーターが「世論」がなんであるかを見ずそれまでの「政治」に依拠した意見によるもので大きく予測は外れることとなる。つまり、こうした経過を見てもわかるように、「世論」は病気辞任による無念ささなど安倍氏への道場と一sた感情で世論が形成され、菅氏への期待は「叩き上げ」「有言実行」といったそれまでの安倍政権にはなかった新しさに期待感情をもったということである。ある意味、世論調査とは人気投票であり、多くのジャーナリストはその「人気」がどういうことであるのか見誤ってきたし、今もその傾向は続いているということだ。勿論、今後菅政権のぁつどうしだいではこれまで支持してきた「感情」が逆転へと向かうということでもある。

ところでこれまでのGo To トラベルの利用内容であるが、1泊3~5万円といった高級ホテルや旅館利用が多く、このキャンペーンを機会に安く泊まる理由が多く、1万円以下のホテルや旅館は少ないとのこと。これはデフレ時代にあって、金額が高い方が「お得感」が得られるからで、1万円以下の施設は独自に回数利用の「お得」を計画すれば良いということである。例えば、、近くの飲食店などとこたぼレーションし、更なる「お得」を創れば良いうということである。あるいは思い切ってそれまでのコンセプトを変えることも必要であろう。言いフル尽くされてきたコンセプトである「泊食分離」もあれば立地がロードサイドであればファミリー向けの格安ロッジといった業態もあるかもしれない。いずれにせよこの機会にアイディア・知恵をもってやってみることだ。
このGo To トラベル利用が今一つとなっているのは前回の未来塾にも書いたが、旅行する側も受入側もまだまだ恐怖心が残っており、萎縮しているからである。それは確か7月上旬に行われた読売新聞による調査で明らかになっていたので、この夏の帰省も激減するであろうことは予測できたことである。
このGo To トラベルが意味するしていることは、「ウイズコロナ」「コロナとの共生」といったことの具体的な「行動」であり、対象となった旅行先は紛れもなく「地方活性」の呼び水としての意味を担っている。それは今までの訪日外国人観光客を対象とした「観光」ではないということである。3月のブログにも書いたことだが、これまではインバウンドバブルであったとし、観光魅力の「原点」に立ち帰ることだと。私の言葉で言えば数年前から描いてきたことだが、全国各地にある「横丁路地裏」観光である。表通りの名所観光ではなく、まだまだ知られてはいないその土地ならではの小さな魅力を観光という表舞台に上げることであると。それは日本人すら知らない魅力で、その魅力に数年前からフランスの観光客をはじめ路地裏にある小さな観光が実は日本固有のテーマになっているということである。別な言葉でいえば外国観光客の「日本オタク」のような楽しみ方である。
今、出かけることに躊躇している都内のシニア世代は盛んに銀座周辺にある地方のアンテナショップ巡りが再燃している。こうした変化を見てもわかるように地方にはまだまだ宝物が眠っているということである。

ちょうど19日からの44連休の最中であるが、8月の帰省期間とは異なって多くの人が移動しはじめている。日本航空と全日空によれば、19日からの4連休では初日(19日)と最終日(22日)の予約数が8万人を超え、日本航空で去年のおよそ7割、全日空で去年のおよそ5割まで戻ってきているとのこと。新幹線の利用客も、去年の2割あまりにとどまったお盆期間に比べ徐々に回復し、JR東日本の新幹線の指定席予約状況は17日時点で去年の5割を上回っているとのこと。
10月からは除外されてきた東京都もTo トラベルに参加できるようになり、こうっした「移動」もさらに活性化されていくであろう。但し、この4連休の移動を見てもわかるように、生活者は極めて慎重であることがわかる。周知のようにトラベル事業は新型コロナウイルスの感染拡大で需要が激減した観光業界の支援策として7月22日に始ま利、宿泊旅行で7300万人分、日帰り旅行で4800万人分の予算を確保している事業である。先日の記者会見では「Go To トラベル」を利用した宿泊者が8月末までに1339万人に達したと発表した。この数字を見て成功・失敗の論議は不要である。何故なら、当初の「正しく 恐る」という命題に対し、その「正しさ」がかなり分かりはじめ、自らの判断で行動しはじめたからである。多くの誤報道や過剰な恐怖心を煽る情報を経験しながら、ロックダウンではなく、セルフダウンという自律した個人へと戻りはじめたということである。

こうしたコロナ禍の顧客を前にしているということである。先日、あるショッピングセンターの顧問の方と話す機会があった。主に出店しているテナントの動向についてであるが、政府からの助成はもとより、金融機関からの借入も膨らみさらなる苦境に立たされているとのことであった。そこでお話ししたのは、今もお元気と思うがヨーカドーの創設者である伊藤雅俊さんが常々話されていた言葉、「小売業は小さな商いで、小さなアイディア業である」を話をした。営業時間を短縮したり、シフトの編成を変え人件費を抑制したり、・・・・・・こうしたことも必要ではある。しかし、社会の変化に即したアイディア商売も必要で、菅総理の地元である横濱橋商店街では菅総理が99代ということから、99円、990円、の売り出しを組んでいる。一見つまらないアイディアのように見えるが、そうした小さなアイディアの積み重ねの中から、一つか二つヒットするものが出てくる。
かってビジネスの師であったP.ドラッカーは次にようにその著書に書いていた。

未来は分からない。未来は現在とは違う。
未来を知る方法は2つしかない。
すでに起こったことの帰結を見る。
自分で未来をつくる。

つまり、自分で未来をつくらないのであれば、「すでに起こったことの帰結を見る」という方法をもとに予測していくしかない。「既に起こった帰結」とは、次々と起こる変化、消費の変化はもとより社会の変化を観察すること。そして、それら変化は一時的なものではなく、大きな潮流としての変化、生活価値観の変化であることを検証する。更に、この変化は意味あるもの、つまり重要なことであると認識した時、その市場機会をもたらすものであるかどうかを問うこと。
今回のコロナ禍に置き換えていうならば、顧客の中に「未来」をみるということしかない。敢えて、アイディア業であるとしたのもとにかく小さな試み、小さな売り出しを組んで実行することにある。例えば東京十条の商店街に「鳥大」という鳥肉専門店がある。1日1万個売る「チキンボール(1個十円)」が人気の行列店であるが、取材に「ほぼ90%元に戻った」と答えていた。顧客の中に1個10円のチキンボールに「未来」が見えたということである。旅行に関していうならば、Go To トラベルから除外されていた東京が10月から参加することとなった。例えば、苦境のバス業界であるが、1990年代後半倒産の危機のあったはとバスは宮端さんという良き経営者を迎えて再生したのだが、それは現場による再生であった。その再生については10年ほど前に「100-1=0、マニュアルという罠 」というタイトルでブログに書いたことがあった。(是非gポチドクください)その再生着眼の一つが顧客情報の収集と活用であった。ドライバーや添乗員がその日あったお客さまの小さな声、本音をメモし、それを「お帰りボックス」に毎回入れる。そうした小さな声を集め以降多くのヒットメニューを生み出すこととなる。これも顧客の中に未来を見て、次々とアイディアメニューが生まれ再生した良き事例である。東京除外が外され、はとバスはどんな変化を見せるのか注目したい。(続く)
  
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2020年09月06日

未来塾(42) もう一つのウイルス (後半) 

ヒット商品応援団日記No770(毎週更新) 2020.9.6.




文化の無い「時代経験」

さて戦後のモノ不足を経て、1990年代初頭のバブル崩壊を受け、以降「豊さとは何か」が問われてきた。当時は「失われた20年」などと豊かさ論議が盛んであったが、「豊かさ」を見極めることなくこの春まで経過して来た、そんな感がしてならない。
思い返せば、バブル崩壊は日本社会・経済全てに対し変わることを命じられたいわば「人生」を見つめ直す時代であった。2008年のリーマンショックについては、年越し派遣村に代表されたように、「雇用」の持つ意味が問い直された。2011年3,11東日本大震災は災害日本列島に立ち向かう人と人の「絆」の大切さを実感させた。
コロナ禍が始まって6ヶ月が経過した。ウイルスは人が運ぶことから、ソーシャルディスタンス、三密、といった言葉が表しているように人と人との「距離」をとることを否応なくしいられて来た。しかも、距離をとるだけでなく、「移動」の抑制をもである。
クラスターの発生は東京では「江戸」を感じさせる屋台船の宴会からであり、大阪では梅田のライブハウスであった。以降、距離をとること、移動を自制する生活となり、多くの文化イベントが休止、あるいは縮小することとなった。それは歌舞伎のような伝統芸能から、プロ野球に代表されるスポーツイベントまで。更に日常においては学生たちのクラブ活動にまで及んだ。つまり、文化イベントに「空白」が生じたということである。その象徴が周知の甲子園を目指す高校野球の中止であり、縮小であった。こうしたメディアの舞台に出てくるようなイベントだけが「文化」ではない。文化の本質は日常当たり前のこととして取り入れて来たものにその意味がある。私の言葉で言えば、「生活文化」ということになる。

「文化」は継続・継承されてこそ文化となる

ところで今年の夏は各地で行われる予定の「祭り」のほとんどが中止となった。隅田川の花火は勿論のこと、「密」を避けるために花火師の勇姿によって全国各地でゲリラ的に行われた。また、夏の風物詩にもなった高校野球は各地方単位での試合となったが、春の選抜高校野球が1試合だけではあるが、甲子園で交流試合が行われた。ウイズコロナとかコロナとの共生、理屈っぽく言えば「出口戦略」として、できることからやってみようということである。未知のウイルスとは言え、かなりわかって来た。このブログのスタートとして、「正しく 恐る」、その「正しく」がかなりわかって来たからだ。

マスメディア、特にTVメディアは競うように「自論」を放映している。3〜4月ごろのメディアの論調は「未知」であることから送り手も受け手も間違いがあっても許されることではあった。あのWHOですら当初はマスク着用の効果はないとしていたが、今や着用を勧めている。「コロナ禍から学ぶ」の第一回でも述べたが、パチンコ店が自主休業しないことを理由に、あるいは県をまたがってパチンコをやりにきた顧客へのインタビューで、あたかも「犯罪行為」であるかのように扱った。確かに、自粛休業要請に従わなかったパチンコ店もあったが、感染者のクラスター発生は起きていなかった。あるいはイタリアや米国NYの医療崩壊を繰り返し放映し、結果として視聴者に「恐怖」を与えて来たTVメディアはやっとその愚に気付き始め、軌道修正し始めて来た。しかし、エンターテイメント、つまり娯楽要素を盛り込むことは否定はしないが、モーニングショーにレギュラー出演している感染症の大学教授はなんと芸能プラダクションである旧ナベプロに所属する始末である。変わり身の速さ、ある意味いい加減さはTVメディアの本質でもあるが、「コロナ禍」をエンターテイメント化する視線には抵抗がある。いや抵抗と言うより、娯楽として提供されるコロナ情報を信じることができるかである。

何故こうしたことを取り上げるかと言えば、TVによる娯楽番組も一つの「文化」である。しかし、こんな情報番組という冠を持った「娯楽番組」はコロナ禍が収束した後まで継続・継承して欲しくはないものである。一言で言えば番組の責任者であるプロデューサーの社会的責任とまでは言わないがその見識を疑う。コロナウイルスを使った単なる視聴率稼ぎだけの番組であると言うことだ。英国の覆面アーティスト、バンクシー(Banksy)は、新型コロナウイルスのパンデミックと闘う医療従事者らをたたえる新作を発表し作品は現在、英国内の病院に展示されていると言う。コロナ禍を娯楽的視点から放送する日本の情報番組とは真逆のあり方である。

「散」の結果はGDP 27.8%減

内閣府は4~6月期の国内総生産(GDP)の速報値を発表した。季節調整値)の速報値は、物価の変動を除いた実質で前期比7・8%減、この状態が1年続いた場合の年率換算は27・8%減となり、リーマン・ショック後の09年1~3月期の年率17・8%減を上回る戦後最悪のマイナス成長を記録した。新型コロナウイルス感染拡大を受けた緊急事態宣言で個人消費が大きく落ち込み、世界的な感染拡大により輸出も急減して内外需ともに総崩れだった。
ちなみに、米国の4- 6月期の実質GDP(国内総生産)成長率(季節調整済み、速報値)は、前期比年率32.9%減と大 幅低下したとのこと(図表1)。また、欧州連合(EU)の実質域内総生産(GDP、速報値)は、前期比で12・1%減となった。年率換算では40・3%減で、前期(13・6%減)に記録した過去最大の落ち込みからさらに悪化したと。米国や欧州との違いであるが、ロックダウン(都市封鎖)」しなかった日本は「自粛」というセルフダウンを採ったことの差であると多くの経済アナリストは指摘しているが、私もその通りであると思う。
そして、以降の見通しはどうかということだが、GDPの50%以上を占める個人消費であるが、夏休み・帰省といった経済活性の状況を見てもわかるように、新幹線や航空機利用も報道の通り前年比20〜40%程度となっている。この先大きくV字回復することはないと考えるアナリストは多い。年末に向けた経済成長としてはL字状態、つまり「散」のままであれば横這い状態というのがアナリストの見方である。

こうした推移を見ていくと当然であるが、「いつ」収束するのかということになる。多くの感染症研究者は今回のコロナ禍の収束にはかなりの時間を必要とするであろうとレポートしている。その収束には周知のようにワクチンと治療薬を必要とするとのことで長期にわたるウイズコロナ、コロナとの付き合いが必要となる。
その収束イメージであるが、季節性インフルエンザを思い浮かべればそれに近いとする専門家は多い。つまり、流行期の前にワクチン摂取を行い、それでもかかってしまった場合は医師の処方によりタミフルなどのよる治療楽をしてもらうと言うイメージである。勿論、季節性インフルエンザとは異なる質の悪いウイルスであるが、ある意味日常となった生活者の対策である。季節性インフルエンザがそうであったように、ウイルスとの共存・付き合い方をイメージしれば良いかもしれない。

さて、このイメージに即して、「日常」となるまでどうすべきかである。
その答えはすでに多くの分野で工夫・アイディアを持って実施されている。その第一は、「蜜」を前提とした発送・考え方から一旦離れてみることだ。結論から言えば、「散」で成立する術を模索し、その精度を上げていくことから始めるということである。また、既にテレワークやリモートによる仕事の進め方についても、週に1日、あるいは2週間に1日ぐらいは出社し、会議などを行うといった「密」と「散」との組み合わせによる方法も取り入れられているようだ。つまり、「散」では得られないリアル感、空気感、一体感といった「刺激」の採り入れである。収束という「出口」に向かう時のc長期戦略は「散」と「密」の組み合わせということになる。

不要不急という概念を変えていくことから始める

長期化に対するスタートはまずこれまで刷り込まれた「恐怖」を自ら払拭することから始めることである。3月時点の新型コロナウイルスの恐怖理解から脱しつつある。その恐怖の裏側にあるのが「不要不急」という自粛の理屈である。この抑制理由から離れていくことこそが重要となる。

そのためには今一度「自粛」とは何かに向き合うことだ。過去持っていた目標ではない。生きるために必要なことだけでは生きてゆけないという自覚から始まるであろう。言葉を変えて言うならば、我慢していくと言う自覚であり、それは「いつまで」とした自覚でもある。
これまで陽性者、感染者などのデータについては公開されて来た。毎日発表される情報のみに多い・少ないと言ったコメントしか報道されてこなかった。自粛とは極めて抑制心理の問題であり、「正しく 恐る」と言うその「正しさ」の理解と共に恐怖の呪縛から解き放たれていく。結果、その心理から「行動」は生まれていく。この未来塾で分析したいことの第一は「コロナ禍」での消費である。それは生活者の心理状態を反映されたものであり、「今」どんな「心理」にあるかを明らかにすることにある。ここ数十年小売業は天候が不順で雨が多い月の売り上げや気温の変動で冷たいものが売れたりアタタライものが売れたり、そんな分析を行って来た。そうした分析をもとに仕入れや人員配置を行なって来たのだが、このコロナ禍にあってそうした分析は未だかってみたことはない。
今回、恐怖心りのほとんどを占める感染者数情報とそれが生活者に与える行動変容を見ていくこととする。勿論、正確な分析ではなく、ある意味仮設としての分析で、多分に私自身の感によるものも含まれている。そして、出来うるならば「不要不急」心理がどのような行動変容となって現れて来たかを解く一歩としたい。

ところで次のグラフは公開されている全国における感染者数のグラフである。




2月から始まったコロナ禍であるが、まず中国武漢に住む日本人の帰国第一便は2月12日であった。2月20日にはあの700名以上の感染者を出したクルーズ船が横浜港に帰港した時期である。次第に感染は広がり3月末には感染のピークを迎える。ちょうどコメディアンの志村けんさんが亡くなった時期である。そして、感染の山が下に入った4月7日に緊急事態宣言が発出され、次第に感染は落ち着いていくグラフとなっている。
この間生活者心理に大きな影響を与えたのは新型コロナウイルスの「恐ろしさ」を実感したのは志村けん散の死であり、生活を一変させたのが3月2日から始まった小中高の臨時休校であろう。他にもコロナ禍は世界の最大課題であることを実感させたのは3月24日に発表された東京オリンピック・パラリンピックの1年程度の延期が決定であろう。また、東京ローカルのことだが、3月23日の記者会見で、小池都知事ははっきりと都市の封鎖、いわゆるロックダウンなど、強力な措置をとらざるを得ない状況が出てくる可能性があると発言している。勿論、都知事のそのような権限などないのだが、発言の翌日都内のスーパーの棚からラーメンやレトルト食品など巣ごもり商品を買い求める人が押し寄せパニック状態となった。この背景には連日イタリアや米国NYなどの逼迫した医療現場が報道され、最悪の心理状態にあったことによる。
こうした心理から緊急事態宣言の沿って、移動の自粛を始めとしたロックダウンではないセルフダウンが可能となったと言うことだ。




一旦収束に見えたコロナ禍は前述のようにウイルスの変異を伴った新たな発生源が東京新宿で起きることとなる。より詳しいデータは上記の8月の分科会で示された発症日による感染グラフである。これをみてもわかるように
死んだ子の年を数えるようだと表現したように6月後半から次第に感染の拡大が始まっていることがわかる。繰り返し言うが、新宿歌舞伎町に働く人たちを責めることではない。あくまでも東京都、政治の責任による結果である。生活者心理・不安の山はまた上がり始める。新たなウイルスの発生・拡大については前述の通りであるが、ただ3月4月の頃の心理とはその後の情報によって次第に異なったものとなる。生活者の行動は次第に広がっていく。それまで控えていた百貨店への購買や飲食店利用をはじめ、巣ごもりしながら行動範囲を広げていくこととなる。それは2月以降のコロナ経験に基づくものと言える。その基準となるのは唯一の物差しとなる「感染者数」である。実は判断となる物差しは感染者数しかないと言う現実があったからである。もっともらしい感染症の研究者のコメントはあっても生活実感とはかけ離れたものであった。なぜなら、4月にかけて「米国NYのような悲惨状態になる」「2週間後には死者は数万人に及ぶ」といったコメントはTVメディアを通じ繰り返し繰り返し刷り込まれたものが残っていたからである。これは広告業界では常識となっていることだが、記憶は情報の「回数」によって決まっていく。つまり、回数が多ければ多いほど記憶に強く残ると言うことである。

ところで消費という視点でみていくと、6月ごろから徐々に必需消費から選択消費へと向かっていく。ちょうど全国レベルでの制限解除に付合する。それまで閑散としていた通勤電車はいつものように混雑し始める。数ヶ月ぶりの飲み会もまた始まる。それは第一波の収束といった安堵感でもあった。医療現場では冬場に起きるであろう第二波に備えることが盛んに言われていた。
実はこうした中、見えないところで新たな感染、東京由来と言われる変異したウイルスが新宿歌舞伎町で広がっていたと言うことである。その感染の広がりはグラフをみてもわかるように6月後半から7月にかけて伸びていくのがわかる。そして、7月中旬から、本格的な夏休みへと向かって急速に拡大していく。ちょうどGO TOトラベルがスタートした時期である。前回の未来塾で読売新聞による調査にも60数%の人は旅行には躊躇していると言う結果であった。「恐怖」がまだまだ心理の中心を占めていたと言うことであった。そして、残念ながら観光地の中心でもある沖縄で感染が拡大し、医療崩壊の危機に落ちるのだが報道の通りである。

「差別」というもう一つのウイルス

こうして8月の帰省へと向かうのだが、報道されているように帰省する人は例年と比較し極めて少ない結果となっている。移動の抑制は顕著に出たのだが、その心理はどう見るべきなのか、帰省先と帰省を考えている人との間にできた空気感を実感し、何が行動を抑制させたのか明確にすることが必要であろう。
その空気感とは「コロナ差別」であり、帰省先の地方の受け止め方は「コロナを持ち込んで欲しくない」と言うものであり、帰省する側も帰省先実家に迷惑をかけたくない、そんな空気であろう。そうした空気を象徴したのが「帰省警察」と言うキーワードである。自粛警察から始まり、マスク警察、帰省警察と社会正義の仮面を被った心ない差別である。以前、差別の奥底には恐怖があると書いたことがあったが、新型コロナウイルスはいわば現代における穢れ(ケガレ)と考えれば分かりやすい。
「感染」を外から持ち込まれた不確かなもの、それらを異物として不浄なものとして除去する、共同体から排除するムラ意識の現れということである。それは都市と地方ということの違いによって生まれるものではない。実は、「ムラ」は地方に残っているのではなく、都市の中にも存在している。ムラを世間とか仲間という小集団に置き換えればいくらでも経験して来ている。例えば、子供たちの間にある(大人社会にもあるが)「いじめ」を思い起こせば十分であろう。転校生などへのいじめに際し、今は無視・相手にしないといった方法が中心となっているが、私が小学生の頃は「バイキン」と呼んで排除して来たが、今は「コロナ」と呼んでいると聞いている。
理屈っぽく言うならば、いじめといった差別は、仲間や世間といった共同体を維持する上で必要な祭祀の一つとなっているということである。特に人為が及ばない出来事に対し、大いなる神に祈り、穢れを除去するためのお祓いをする。新型コロナウイルスの場合に当てはめれば、ある意味PCR検査は感染の有無を計るものであると同時に、仲間や世間といった共同体に対し安全安心を得るための一種のお祓いでもある。ただこうした共同体の運営に際し、緊急事態宣言以降多くの人が自粛・自制する、私の言葉で言えば「セルフダウン」することによって感染抑制ができた。ロックダウンといった国家による「強制」ではなく、一人ひとりがある意味自主的に行動した国は日本以外ないのではないかと思う。これを称して「同調圧力」の強い国民という表現をする専門家もいるが、「同調」には自粛警察といった排除の論理が潜んでいることも事実である。この「同調」感がどのような場所に発生しているか、どの程度強い同調であるかを見極めることも必要となってくる。例えば集団クラスターが発生した島根の立正大淞南高校や天理大ラグビーにおいても犯人探しは勿論のこと誹謗中傷どころか、天理大の学生であるだけで地域の飲食店アルバイトは辞めてほしいといった「差別」が起きている。

ファクターXを生かしきれなかった日本

このコロナ禍をテーマとしたのも、このパンデミックがもたらす激変もさることながら、第一回目に取り上げたIPS細胞研究所の山中教授の提言「ファクターX」に理解共感したからでもあった。その後、後を追うように東アジアの国々と欧米諸国とではその感染者数、死亡者数が極端に少ないことが報道されはじめた。そして、経済への影響も東アジア諸国と欧米諸国とではこれも極めて軽微であったこともわかって来た。しかし、その東アジア諸国の中、中国、韓国、台湾の中で、ロックダウンしなかった日本が一番経済への影響・損失が大きかった。

それは何故なのか?答えは明確で、「自粛要請」を過度にさせてしまったことによる。勿論、過剰自粛に走らせてしまったのは「恐怖」で、マスメディア、特にTVメディアによる過剰な放送によるところが大きい。恐怖は誰もが持つものである。それが未知であればあるほど大きいのだが、それを増幅させるのが「情報」である。私のブログの多くは山中教授のHP「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」に依拠している。TV曲の情報番組にとって、デマ情報とは言わないが、断片情報をつなぎ合わせて一つの「物語」を作る事ぐらい簡単である。

また、政府の対応も「過剰」であったと思う。それはやっと論議が始まったが感染症の見直しである。現在2類相当と言われながら、それ以上に厳しい1類に近い考え方で実施されて来た。その象徴がクラスター班の旧北大教授の西浦氏による度重なる記者会見・メッセージである。「自粛」を強制させるが如き恐怖を煽る発言が多く、そのほとんどが大きく外れていたことは明白である。ただ、数理モデルの学者としての誠実さは、後にYouTibeにおける山中教授との対談でわかり、少しは納得したのだが、机上の数理モデルであったとは言え、これも過剰な情報であった。

ただ、全てが「過剰」であったということではない。前述の帰省警察ではないが、東京からウイルスを持ち込まないで欲しいといった「気持ち」は「東京差別」として移動を極端にまで抑制させている。その象徴がGO TOキャンペーンにおける東京外しである。先日東京の情報番組に関西のMC辛坊治郎が「何故、東京の人間は外されて怒らないのか。同じ税金を使っているのに」と発言していたが、東京都民としては第二波の震源地であることの負い目と今なお感染者数が高止まり状態でありウイルス拡散の可能性は今なお大きいということによる。
こうした心理も過剰な恐怖心が今なお残っているからである。そして、「差別」というウイルスはデマ情報も併せて持ち込んでいることも忘れてはならない。「感染者が〇〇店を利用していた」「従業員からも感染者が出た」・・・・・・・・こうしたデマ情報は残念ながらSNSには広く流布されている。

「人間由来」のウイルス対策

ところで、保育園や介護施設の人たちへに無料でPCR検査を行う世田谷区の計画については賛成である旨書いたが、問題は検査結果後の運営にある。以前行われた抗体検査によれば、東京都における陽性率は0.1%であり、世田谷区の保育士などのエッセンシャルワーカー2万人に対し実施した場合、20人の陽性者が出てくる計算になる。その後の運営であるが、「安心」を求めて行った検査によって、「噂」「デマ」が飛び交うことは必至である。残念ながら、もう一つのウイルスが蔓延する可能性があるということだ。当然、世田谷区は対策を講じることと思うが、噂の連鎖というウイルス感染が起きた場合、陽性者を出した保育園から預けた子供を引き取るような事態が生まれかねないということだ。「安心」を求めて、逆に「不安」に落ち入る、そんな心理社会に入ってしまったということである。

安全で有効なワクチンや治療薬が開発されていない現在、心の奥底に潜むもう一つのウイルス退治こそ経済復活の鍵になるということである。そして、このウイルスは紛れもない「人間由来」のものである。
この「人間由来」のウイルスを封じ込めるにはただ一つしかない。それは世間・仲間という「社会」の空気を一変させることである。それまで1人の感染者も出すことなかった岩手県から初めて感染者を出した。そのことがわかったと時、匿名の県民は一斉に感染した社員が所属する企業に電話やメールで誹謗中傷や非難が殺到した。しかし、その後達増知事は「県民は自分もコロナに感染する可能性があると共感をもっていただきたい」と表明した。これを契機にその企業への共感、大変でしたね、頑張ってくださいという声が多数届けられたという。リーダーの一言で、県民の「空気」が変わったということである。人間由来のウイルスはその社会のリーダーの声によって変わるということである。


  
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Posted by ヒット商品応援団 at 13:05Comments(0)新市場創造

2020年09月03日

未来塾(42) もう一つのウイルス (前半) 

ヒット商品応援団日記No770(毎週更新) 2020.9.3.

新型コロナウイルスの感染から7ヶ月が経過し、大分その本質がわかって来た。そして、消費傾向も同時に明確になって来た。ただ、消費を阻む「もう一つのウイルス」もまは伝播している。このウイルスを封じ込めることもまた重要な課題となっている。



東京高円寺のライブハウスに貼られた自粛警察/東京新聞より  

コロナ禍から学ぶ(3)
 
「もう一つのウイルス」

「密」から「散」へ
コロナ共存への視座。
そして、止まないもう一つのウイルス。



3ヶ月ほど前に東京で起こっていたことが地方都市へと拡散している。大阪、愛知、福岡、・・・・・・若い世代、飲食街を震源地に、家庭へ職場へと感染の拡大パターンも同じで、まるでウイルスは新幹線で運ばれているかのようだと発言する専門家もいるほどである。しかも、最近のウイルスのゲノム分析によれば、2月頃のウイルスを武漢型、3月から4月に持ち込まれたのが欧州型、そして今回の第二波のウイルス分析でわかったのが5月から6月にかけて流行り始めたウイルスで、それまでとは異なる遺伝子が変異しているとの分析結果が報告されている。変異したウイルスの傾向は無症状者や軽症者が多い結果を生んでいて、弱毒化の可能性があるとも。また、この変異したウイルスは5月の連休明けから6月にかけて東京新宿を中心に発生し、そのウイルスが人を介し地方へと拡大していったとの結果も。

死んだ子の年を数えるようだが、緊急事態宣言が解除され、感染源として東京歌舞伎町、夜の街、ホストクラブなどが都知事の発言もあって一斉にTVメディアは集中して取り上げるようになった。ちょうどその頃、新宿区長はホストクラブの店に問題があるのではなく、まだ売れていないホストの住まいは小さな部屋に数名が同居して暮らしていることにあって、その発生の密な環境に問題があるのではないかと指摘をしていた。ここ数週間注目されている高校や大学のスポーツクラブにおける寮生活の集団感染と同じである。
ところで新宿歌舞伎町には約240店ほどのホストクラブはあるが、その中でも良く知られたローランドのような成功者はごく一部で、ほとんどのホストは固定給のないリスキーな職業である。ちなみに、新宿歌舞伎町にはホストクラブやキャバクラ、ガールズバーなど約3000軒が密集する街である。後にPCR検査が行われるのだが、その結果は驚くべきものでなんと陽性率は30%を超えていた。その集団検査は歌舞伎町で働く人々を対象とした検査結果である。
また、7月末ごろから感染が広がった沖縄では県独自の緊急事態宣言が発せられ危機的状況にあると言う。その感染源であるが、那覇の中心繁華街松山の飲食街を訪れた東京からのホストやキャバクラ従業員の団体であるとの専門家の指摘もある。東京由来、東京問題と言われ嫌な顔をして来た都知事であるが、新宿歌舞伎町で働く人たちには責任はないが、1000名程度の無料PCR検査ではなく、歌舞伎町の街自体の休業要請を行うといったピンポイント施策が必要であった。勿論、保証をつけての休業要請のことだが、東京都をはじめとした政治の責任は極めて大きい。

こうしたことを書くのも感染者に罪はなく、誰でも感染しえる病気であることを踏まえ、課題は人と人との距離、いわゆるソーシャルディスタンスと言う課題である。つまり、社会経済を徐々に戻していくには「密」をいかに解決できるかと言う難題である。
実はこの「密」を別な言葉に替えて表現するならば、それは「賑わい」と言うことになる。未来塾で取り上げて来た多くの商店街や街のテーマそのものである。今回のコロナ禍が始まった最初のブログには「移動抑制」は消費の抑制へと直接影響すると書いたが、その結果は私の想像を超える惨憺たる「消費」となった。

進行する「密」から「散」へ

テレワーク、時差出勤、更には懇親を兼ねた社員同士の会食・集まりなど密になるあり方など多くの企業は対策を実践して来た。それは概念的に言うならば、「密」から「散」への転換であった。こうしたビジネス移動の制限によって経済の影響は多大であった。その代表的な影響の一つが通勤・通学など移動の制限による損失は、例えばJR東日本の4ー6月の決算発表では最終的な損益が1553億円の赤字になるとのことで、四半期決算としては、過去最大の赤字幅になるとのこと。更に。コロナ後の鉄道運賃として「時間帯別運賃」の制度化も検討されていると言う。ラッシュの解消と共に、収益の改善も意図されてのことだと言われている。また、密になることを改善すべく席数を減らしたりした飲食店などの諸施設の赤字は言うまでもない。そして、時間帯別料金ではないが、満席状態になる昼のランチ時には通常料金とし、午後1時半過ぎになると安くランチが食べられるようにする、そんな「散」を取り入れた飲食店も出て来ている。

また、コロナ禍の最中と言うこともあり、具体的な動きは見られないが、中国武漢の都市封鎖によって明らかになったことはサプライチェーンの寸断であった。それは自動車産業だけでなく、他の製造業は勿論であるが、多くの食品輸入も中国依存からの脱却・リスク分散も企業経営の主要課題となった。国内化も含め今までのグローバルビジネスとは異なる組み立ても視野に入ってくるであろう。これも密から散への転換といえよう。

実は蜜を語るには「東京一極集中」を見ていけばその功罪を含め問題は明らかになる。蜜であることによって得られることの第一は集中することによるコスト効率の高さにある。店舗経営に従事された経験のある人間であれば、限られたスペースでどれだけの売り上げをあげられるか、その売り上げは家賃に見合うものであるか、と言う課題である。飲食店であれば「席数」であり、物販であれば棚の数であり、例えばドンキホーテではないが熱帯雨林陳列ではないがその陳列量となる。
現状、ソーシャルディスタンス・密から散へとコロナ対策上進めてはいるが、「散」による経営で収支が取れるかと言う難題である。つまり、コロナ収束の時期とも関連するが、業態にもよるが経営の根本を変えなければならないと言うことである。赤字をどれだけ減らせるか、といった経営から、収支に見合う経営への転換ということである。簡単に言ってしまえば、従来100坪で行われていた経営を50坪で成立させることであり、人であれば100人で行っていた経営を50人で行うということである。そこにはITは勿論ロボットの活用もあるであろうし、今までとは異なるネットワークの組み方による高い効率、高い生産性の経営ということになるであろう。
つまり、「時間」「空間」「人」を分散させて、「新しい価値を創造できるかということになる。今までの延長線上では経営は成立し得ないということからの「発想」である。残念ながら、そうした新しい発想によるビジネスは未だ出現してはいない。

ゼロリスク幻想からの脱却

前回にも書いたが、「出口戦略」は各都道府県単位で既に始まっている。実は2ヶ月ほど前には「自粛、制限を緩めると感染は拡大する。命と経済どちらが大切なのか」と言った短絡した議論が行われていたが、緊急事態宣言による経済のダメージがいかに大きいかを実感するに従って中途半端なまま論議を終えてしまった。ウイズコロナ、コロナとの共存と言ったキャッチフレーズだけで理解したつもりでいるが、「移動」が活発化すれば当然ウイルスも移動する。
こうした社会経済活動に際し、PCR検査を条件とし、現在の検査数の数十倍以上にすべきであるという意見がある。その背景にはあれほどひどい状況であった米国ニューヨークの事例を持ち出してその封じ込めに成功していると。誰でもいつでも何回でも無料で行える検査システムであることは良いことではあるが、陽性者の接触者を追跡する3000名ものメンバーがあってのことであり、更に言えば今なおオープンテラスでの飲食は行えているが、店内での飲食は禁止されているという強い制限下にあるように複合的な対策によるものである。単にPCR検査を増やせば封じ込めるということではない。更に言えば、以前から指摘されていたことだがPCR検査の精度は70%程度で偽陽性が30%近くあるということもあり、絶対ではないということである。現時点での検査ではPCR検査と抗原検査しかないため、必要ではあるが、その限界をわきまえて活用するということだ。例えば、新宿歌舞伎町のように地域を限定した集団検査や世田谷区で計画されているエッセンシャルワーカー、例えば高齢者施設のスタッフや保育士など限定した検査のように活用するのは良い方法ではある。ただ、世田谷区の計画がニューヨークをモデルにしており、「誰でもどこでもいつでも無料」を目指すとのことだが、「安心」を求めての検査であれば、税金ではなく自費で行うべきであろう。また、保健所や病院における体制を含め段階的限定的にお行うべきと考える。つまり、PCR検査は感染防止の目的ではなく、手段であるということだ。
こうした状況は、ある意味ゼロリスクはない、そんな不確かな社会に生きているということであり、そのことを理解しなければならない時代に生きているということである。残念ながら、リスクある行動や場所を避ける努力はしても誰でもかかりえる病気であるという自覚こそが個々人に問われている。

変容する「街」

東京では度々取り上げられる街の一つに吉祥寺がある。”何故、緊急事態宣言の最中にあって、東京吉祥寺に人が集まるのか”という話題で、いくつかの理由がある。その一つは井の頭公園に代表されるように、「光」と「風」を感じられる街だからだ。それは単に公園や動物園、あるいはジブリ美術館があるだけではない。超高層の建物に囲まれただけの街ではないと言うことだ。勿論他にも東京の湾岸に新しく開発された地域、私の言葉で言えば水辺の街、都心から十数分で暮らせる便利な都市リゾートのような街だからである。以前から人気の街である二子玉川も多摩川のリバーサイドであり、都心まで十数分の住宅街である。そこに共通することは「自然」を感じることができる街であると言うことだ。単に都心から地方への「散」ではなく、閉じられた空間・地域という密から、自然を実感できる空間・地域「散」への変化と言った方が的確であろう。
本来であれば活況を見せてもおかしくないのが、屋形船である。周知のように東京で大規模なクラスター発生により、未だ復活途上となっているが、屋形船とは異なる東京ウオータータクシー利用なんかもこれから流行っていくであろう。大阪は水の都と言われて来たが、東京も東京湾に流れ込む河口の湿地帯を造成してできた街である。このように密から散への着眼の一つがこうした自然ということになる。

一方、都心部の商業地域もここ数年再開発によって大きく変貌して来た。その象徴の一つが渋谷の街であろう。少し前に渋谷PARCOを中心に少し書いたが以前の面影はまるでない街となった。各通信キャリアによる街の移動調査では夏休みということもあって、減少することはない。
毎年、夏になると中高生を中心に原宿や渋谷に集まる。こうした傾向は1990年代半ばから始まっていて、例えば渋谷109と東京ディズニーランドは「都市観光」の定番であった。前回のブログで若い世代が感染源となっていることに対し、『「密」を求めて、街へ向かう若者たち 』というテーマで、若者には届かないコミュニケーションについて書いた。その密とは、常に変化し続ける新しい、面白い、珍しい出来事が密となった都市を自由に遊ぶことで、私はそうした行動を「都市商業観光」と呼んだ。
新しい、面白い、珍しいとは生活への「刺激」である。若い世代、特に中高生にとって「都市の魅力」とは学校や家庭とは異なる刺激が溢れる場所であり、規則などに縛られることのない自由な劇場ということになる。面白いことに原宿を歩くとわかるのだが、その多くは3〜4名の友人グループであるが、中には母親と思しき「大人」同伴の女の子もいる。いわば、保護者同伴の都市観光である。
コロナ禍ということから本格的な街歩きをしていないのだが、ドコモなどの通信キャリアによる移動データでは若干の人出の減少はあるものの、若い世代にとってはコロナ禍は「大人」と比較し減少傾向はそれほど大きくはないようだ。勿論、感染しても軽症、もしくは無症状の場合が多く、重症化率が低いことがその背景にあることは言うまでもない。

「ハレ」と「ケ」と言う視座

本格的な感染が拡大し、外出自粛や休業要請など対策が実施されてから約5ヶ月が経過した。その5ヶ月間の「消費」を見ていくといくつかの傾向が見えて来た。前回の未来塾で5月度の家計調査結果について書いたのだが、まずその全体消費の落ち込みの激しさにあり、現実の飲食店における売り上げの極端な減少や観光関連事業者の悲鳴のような状況を表した数字であった。
ところで6月の家計調査結果は前年同月比1.2%の減少であった。6月までの消費の推移は以下である。




3月から始まったコロナ禍の激しさはグラフを見ればわかる。6月に入り消費は持ち直しているかのように見えるが、この3ヶ月間の抑制から少しの解放・反動と見るのが正解であろう。
5月ど同じように主要品ものの増減についてレポートされているので是非見られたらと思う。一言で言えば、飲食代や移動に関する交通費などは同じように減少はしているが、5月度と比較し、その減少幅は若干小さくはなっている。

こうした「減少」の根底にはどんな価値観の変化があるのかを見極める視座の一つが生活の中にある「ハレ」と「ケ」のウエイトであり、どんな消費態度となって現れて来たかである。言うまでもなく「ハレ」の日の消費は特別な日として少し晴れやかなものとして、費用もかける消費のことである。例えば、多くの記念日、正月や誕生日や卒業、あるいは結婚記念日などもハレの日の消費と位置付けられる。一方、ケの日の消費は日常消費のことで、つつましい消費のことである。
こうした視座はより具体的な消費品目を分析することが必要ではあるが、今回はハレの日の流通として百貨店、ケの日の流通としてスーパーを対比させて考えてみた。
その目線としては百貨店は1980年代までは生活者のライフスタイルをリードしていく存在であったが、バブル崩壊後、SC(ショッピングセンター)という専門店を編集した業態にその座を譲って来たが、その規模を祝ししたとは言え百貨店顧客は存在する。コロナ禍にあって休館・休業した百貨店もあったが、再開後の6月度の売り上げは前年同月比-19.1%であった。このマイナスについて百貨店協会は「依然厳しい動向ではあるが、減少幅は前月(65.6% 減)から大きく(46.5ポイント)改善し、業績持ち直しの局面に転換してきた。」と期待感を持って評価している。勿論、インバウンド需要がほとんど無い状態での売り上げであり、比較にはならないが、通常の消費に近い状態まで回復して来たと言える。その消費の中心は既存固定客であり、「購買動向の特徴としては、食料品や衛生用品など生 活必需品の好調さに加えて、ラグジュアリーブランドや宝飾品など一部高額商材にも動きが 見られた。」としている。つまり、「戻って来てはいる」が、ブランド品や宝飾品はまだまだ「一部」であるということである。
「ハレの日」とは気持ちが晴れる日、気分が華やぐ日のための心理消費である。そんな心理には至ってはいないということである。ブランド品、ブランド商材、は極めて情報に左右される商品であり、世の中がコロナ、コロナの合唱にあって「そんな気分」にはなれないということである。更に広げていけば「こだわり」を楽しめる状態には無いということでもある。少し前までの「こだわり」による少し高い価格設定でも売れていたものが急激に売れなくなっている。

わけありの変容

わずか数ヶ月前まで「わけあり」は消費者にとって大きな選択理由となっていた。「わけあり」は低価格の理由・わけの代名詞となっていたが、安さの理由・わけはもはや選択理由の第一ではなくなって来た。コロナ禍はその低価格は選択理由の常識にすらなったということである。常識という言葉を使ったが、「当たり前」という表現の方が当てはまるかと思う。
大きなマーケットではないが、「訳あって、高い」としたこだわりは選択理由の一つであった。いわゆる「こだわり」商品である。全ての諸品であるとは言えないが、「こだわり商品」は次第に売れなくなって来ている。それは単に価格が「高い」という理由だけではない。一言で言えば、経済的というより心理的な「余裕」「ゆとり」がない状態に置かれていると言った方が適切であろう。
今、ネット通販を含め、50%オフセールが消費の活性を図っている。10数年ほど前、消費者の価格心理についてあのインテリアのニトリの似鳥社長は「20%程度の安さでは安いと感じなくなっている。最低でも30%ぐらいの安さでなければ」と語っていたが、今や50%程度の安さでなけれな顧客にとって魅力的には映らないということであろう。ちなみに、そのニトリはテレワークを巧みに取り入れ簡単にオフィス機能を自宅にもたらせるようなマーケティングを行って来た。休館しなかったこともあって好調な売り上げとなっている。


ところであの「こだわり食材」のディーン&デルーカが苦境にある。コロナ禍による客数減少から4月米連邦破産法11条の適用を申請、つまり経営破綻したと報じられた。負債額は約5億ドル(約540億円)で、日本法人についてはライセンスを取得していることから営業は継続している。。そのディーン&デルーカは1977年にマンハッタンのソーホーで最初の店舗をオープンして以来、高級食材のセレクトショップとして、ニューヨークの食文化に多大な影響を及ぼしてきた、ディーン&デルーカ。日本でも、女性を中心に絶大なる人気を誇るブランドだ。
 もともと本家のディーン&デルーカは、希少価値の高い食料品を米国に輸入し、食のブームを巻き起こしてきた立役者でもあった。例えば、当時米国ではあまり知られていなかった、バルサミコ酢である。
日本でディーン&デルーカを運営している ウェルカムは「今後も、創業者のジョエル・ディーン(Joel Dean)とジョルジオ・デルーカ(Giorgio Deluca)が大切にしてきた想いでもある『美しき良質な食はわたしたちの心を豊かにし、生き方さえ変えてくれるきっかけを与えてくれる』という思想のもと、これからも毎日の食するよろこびをお客様へお伝えしていくために、優れた食材のつくり手を守り継続的に安定した取り組みを続けながら、 毎日のくらしに寄り沿うマーケットストアやカフェの運営を通して、『食するよろこび』の場をひろげて参ります」とコメントしている。その後、TV東京のWBSに出演しMCの村上龍との対談で売り上げは伸びず、いわゆる「こだわり」のあり方を再検討しているとし、オリジナル商品の味噌汁の話をしていた。どんな再生「こだわりコンセプト」が生まれるか分からないが、これまでのディーン&デルーカのこだわり・希少性では限界があるということは事実である。

実はこだわり度も規模も異なるスーパー業態の成城石井は好調な売り上げを上げている。5月の月次事業データによると、全店売上高は前年同月比9.0%増となったと。総店舗数135店。既存店は、売上高1.3%増、客数2.3%増、客単価1.0%減であったとも。
一般的なスーパーはそのほとんどは「巣ごもり消費」によって増収増益である。それは単なる食材購入だけでなく、「自分流」の味の捜索を目指して調理道具などの周辺商品の購入も広がっている。
成城石井はその名の通り高級住宅街である成城学園前駅の目の前にあった、輸入食材に特徴をもあせたスーパーであった。隣駅の住民であった私の場合、ハレの日の食材を買い求めた店で、例えばすき焼き用牛肉などは全て100g1000円以上の肉ばかりで、刺身用マグロも本マグロのみと言った具合でどれも高価な食材を扱っていた。他にはない特徴あるMDによって多くのSCに出店することになるのだが、その急成長に在庫管理を含め経営体制が追いつかず一時期危機にあったことがあった。勿論、現在は惣菜工場を含め自社工場による供給が行われコロナ禍にあっても順調に売り上げを伸ばしている。

この2社を比較したのは顧客層の設定の仕方、 ディーン&デルーカと成城石井のブランド戦略の違いにある。ディーン&デルーカのブランド戦略は一種の「観光地化」戦略に現れている。周知のロゴ入りのトートバッグとマグカップ、鍋敷き等のグッズである。いわゆる富裕層のお気に入りの「食」を取り入れたいとした女性たちの憧れのライフスタイル創造を目指したというわけである。一方、成城石井の場合はデフレ時代の価格帯を守りながら小さな違い、個性ある食材を自社工場でつくる方向を選んだ。顧客設定としてかなり幅広く設定されているということである。つまり、ハレの日のディーン&デルーカに対し、成城石井の場合はケの日の消費の中のこだわり食材を目指したということであろう。
選択消費の行方という視座

「必需消費」とは生きて行くことに必要な消費、食品や住宅などの消費のことで、選択消費とは心豊かに生活するための消費で、「文化消費」のようなものを指している。映画や音楽の鑑賞などもそうだが、オシャレのための消費なんかも当てはまる消費である。ある意味で、「豊かさ」の象徴であるような消費である。
ところでそんな消費を象徴するような発表があった。それはアパレル大手のワールドの発表で、今年度中に国内の358店舗を閉店すると。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、売り上げが激減し収益が一段と悪化しているためだ。200人程度の希望退職者も募り、構造改革を進め、収益改善を急ぐというものであった。 廃止するブランドは「ハッシュアッシュ・サンカンシオン(HUSHUSH 3CAN4ON)」「アクアガール(AQUAGIRL)」「オゾック(OZOC)」「アナトリエ(ANATELIER)」などで、いずれもSC・ファッションビル販路のブランド。これらの20年3月期業績は赤字で、「今後の黒字化のめどが立たない」(同社)ことから終了を決めた。閉鎖358店のうち、ブランド終了に伴うものは214店で、残りの144店は継続ブランドの低収益店が対象。中には異なるブランド同士の店舗統合なども含まれる。「現在の収支が黒字であっても、立地の将来性や条件の妥当性などを総合的に検討し、継続か閉鎖か決めていく」と言った内容であった。

敢えて、ワールドを事例として持ち出したのもアパレルファッション市場はその流通のあり方を含め構造的な問題を孕んでいるからで、昨年10月のブログでもう一つの大手企業であるオンワード樫山の100店舗もの撤退に触れて次のように書いたことがあった。
『10数年前ショッピンセンターのデベロッパーに「困った時のワールド頼み」と言われ、持っているブランド専門店を出店した婦人服大手である。結果、ワールドは数年前広げすぎた経営を再建するために数百店舗を撤退するというリストラを行っている。未だ再建途中であると思うが、そのワールドが他社のブランドも扱うアウトレット店の第1号をさいたま市西区にオープンさせたと報じられた。
実はアパレル業界では年に100万トンとも言われる在庫の廃棄が問題になっている。市場に余った服をブランドの垣根を越えて安く販売するのがアウトレットである。ワールドがこうした市場に進出するとのことだが、周知のようにフリマが数年前から急成長し、つまり個人間ネット取引が進み、2018年の市場規模は20兆円にも及んでいる。
更に言うならば、1980年代から1990年代にかけて一時代を創ったビギグループのブランド市場は2000年台以降縮小し続けてきた。そのビギグループも三井物産の傘下に入り、生き残りの道を海外に求めた動きも見られる。
 つまり、市場が根底から変わりはじめたということである。市場とは顧客のことであり、顧客が更に変わりはじめたと言うことだ。ちょうど1年前の未来塾「コンセプト再考 その良き事例から学ぶ(1)」で新業態店「WORKMAN Plus(ワークマンプラス)」1号店を取り上げたことがあった。周知のように苦戦するアパレル業界にあって一人高業績を挙げている企業である。この新業態店のコンセプトを次のように未来塾で書いた。

この時のブログのタイトルは「デフレが加速する、顧客が変わる 」であった。こうした構造的な問題を抱えている最中のコロナ禍である。「不要不急」 という言葉が、3月以降盛んにマスメディアを通じ流されて来たが、単に「生きる」ためだけの消費が必要であると言外に込められていた。そのために日本とは比べようが無いほどの外国におけるロックダウンの様子が繰り返しマスメディアを通じ流されて来た。本来の「正しく 恐る」という原則が、「正しく」がどんどん曲解されていく。周知の自粛警察から始まり、最近ではマスク警察や帰省警察まで横行するようになった。こうしたマスコミが報じることの危うさは繰り返すが、あのips細胞研究所の山中伸弥教授の指摘する通りである。そんな心理状況にあって「オシャレ」を楽しむ舞台もなければ、時代の空気感も無い。極論を言えば今は「不要」であると感じている。
唯一売れているのは若い世代に対するブランドguであろう。小さなトレンドを創り、中高校生のお小遣いでも買えるリーズナブルなファストファッションということだ。ハレとケという表現をするならば、デフレの時代にふさわしいケの日を楽しむ選択できる商品となる。そのguが化粧品市場にも進出すると言う。これも同じコンセプトによる新市場の開発ということだ。

不安な時代の気分消費

ブランドの本質は心理価値にある。以前、世界の主要ブランドのその「心理」について分析したことがある。あのシャネルは「時代の変化とともにあるシャネルの生きざま」への共感ブランドであり、ティファニーは「時代と共にある美」を追求し続けるブランドである。他にも、ロレックスやソニーのブランド創造の歴史を分析したことがあったが、全てのブランドに共通していることはブランドは「顧客がつくるものである」ということに尽きる。不安な時代ではブランドは成立しないと考えてしまいがちであるが、それはビジネスマンの態度では無い。
ところで「気分消費」という言葉がある。いや正しくはそうした言葉を使っているのは私ぐらいであるが、「不安」が横溢する時代にどうすればそうした「気分」を変えることができるかを考えて来たからである。
ともすると暗くなりネガティブ発想に陥りやすい中にあって、少しでも明るい気分になってもらうことが極めて重要な時代となっている。まず気分を決める価格という第一ハードルを少し下げ、これならチョット使ってみようか、という気分を創ることから始めることだ。夏休みの過ごし方・遊び方を見てもわかるように、安近短の本質は、全てを「小」という単位に起き直してみることにある。これなら買えるという小さな価格、サービスであれば1時間を30分に、更に10分にする。あるいは顧客接点の現場では、気分醸成のための小さな笑顔、心地よい一言、こうした何気ない小さな気遣いが気分づくりには欠かせない。こうした小さなサービスの原則と共に、店頭の雰囲気づくりも以前にも増して重要となっている。

かなり前になるが、「こころに効く商品」というタイトルで「こどもびいる」を取り上げたことがあった。福岡のもんじゃ鉄板焼「下町屋」が飲料「ガラナ」のラベルに「こどもびいる」に張り替えて出したところ、人気メニューになり全国に広がった、あのヒット商品である。チョットお洒落に、クスッと笑える癒し商品である。一種の遊び心によるものであるが、理屈っぽい、肩肘張った表現は受けない時代だ。
現場ではこうした発想が重要であるが、残念ながら心に効くものは何かといえば、ワクチンであり有効な治療薬ということになる。ただ、大阪大学の宮坂名誉教授による人工抗体の開発が進んでいる。山中伸弥教授のHPで知ったのだが、日本における免疫の第一人者であり、感染者の血液から採取したリンパ液などから抗体を抽出し、製造するものだが、問題なのは2週間程度の持続性しかないということのようだ。ただ、それでも重症化を防ぐには有効な治療薬になるという。山中教授が提言しているように、日本の「知」を挙げ総力で戦っていく一つということだ。(後半へ続く)
  
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2020年07月26日

「密」を求めて、街へ向かう若者たち

ヒット商品応援団日記No769(毎週更新) 2020.7.26.



新型コロナウイルスの感染が拡大し続けている。その震源地は若い世代で次第に中高年世代へと広がっていると報道されている。緊急事態宣言が解除されてから約2ヶ月半近く経つが、一旦治った感染はその後東京新宿から始まり、全国へと広がり始めている。前回の未来塾で5月の家計調査結果についてレポートしたが、今の調査方法に変えてから初めての激しい消費の落ち込みが示されていた。特に観光産業関連は軒並み前年比90数%の落ち込みとなっており、その時にも書いたが政府は持続化給付金が切れる前に計画されていたGOTOキャンペーンを前倒しで行うことを決めたのではないかと。

ほとんどのメディア、特にTVメディアは消費実態、その「数値」の意味については報じない。その極端な落ち込みによる企業破綻、倒産についても同様で、5月の倒産件数は314件で56年ぶりの低水準であったこともあって経済の危機についての関心はなく、記事にすることはなかった。実は倒産件数が少なかったのは、裁判所もコロナ禍によって業務が縮小されており、つまり受付なかったということによるものであった。こうしたことを報じたのは唯一日経新聞ぐらいで、TVのワイドショーなどで取り上げられることはなかった。ところが7月に入り、やっと知っている中堅企業が続々とその破綻が明らかになってきた。例えば、主にSC(ショッピングセンター)などに出店していた「すし常」やエゴイストと共に渋谷109を代表すっるブランドであった「セシルマクビー」の破綻、更にはファッションであれば「ナチュラルビューティー」も事業を廃止した。その背景にはファストファッションの台頭やネット通販業態への転換など多くの要因はあるが、消費増税の壁の先に出現したコロナ禍が破綻に追い込んだことは間違いない。
家計調査にも出ているが化粧品やファッション衣料はまるで売れてはいない。勿論、外出自粛によって着ていく場所、街という舞台を失っているからである。ただ面白いことに化粧品について唯一売れているのがマスクからでも見えるアイラインなどは好調であると。このようにコロナ禍にあって売れている商品もある。また業績は低迷している手芸のユザワヤは都心部の店舗を撤退させてきたが、手作りマスク需要から活況を見せている、そんな事例も見られる。こうした事例はある意味で例外であり、残念ながら、メディアの舞台に上がることのない中小零細企業の破綻は進行している。

私は何事かを決めつけるやり方として、あまり「世代論」が好きではない。俗に言う「今の若者は」と言う言い方に象徴されるのだが、今から10数年前に社会現象となった若い世代のコミュニケーション、KYについてブログに書いたことがあった。それは2007年の流行語大賞の一つに選ばれた言葉、KY(空気が読めないに当時の若い世代の時代感覚のようなものを感じたからであった。当時次のようにその「意味」を書いたことがあった。

『KY語の発生はコミュニケーションスピードを上げるために圧縮・簡略化してきたと考えられている。既に死語となったドッグイヤーを更に上回るスピードであらゆるものが動く時代に即したコミュニケーションスタイルである。特に、ケータイのメールなどで使われており、絵文字などもこうした使われ方と同様であろう。こうしたコミュニケーションは理解を促し、理解を得ることにあるのではない。「返信」を相互に繰り返すだけであると指摘する専門家もいる。
もう一つの背景が家庭崩壊、学校崩壊、コミュニティ崩壊といった社会の単位の崩壊である。つまり、バラバラになって関係性を失った「個」同士が「聞き手」を欲求する。つながっているという「感覚」、「仲間幻想」を保持したいということからであろう。裏返せば、仲間幻想を成立させるためにも「外側」に異なる世界の人間を必要とし、その延長線上には「いじめ」がある。これは中高生ばかりか、大人のビジネス社会でも同様に起こっている。誰がをいじめることによって、「仲間幻想」を維持するということだ。
KY語は現代における記号であると認識した方が分かりやすい。記号はある社会集団が一つの制度として取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」のことだ。この「しるし」と「意味」との間には自然的関係、内在的関係はない。例えば、CB(超微妙)というKY語を見れば歴然である。仲間内でそのように取り決めただけである。つまり、記号の本質は「あいまい」というより、一種の「でたらめさ」と言った方が分かりやすい。』

更に、若い世代の常用語である「かっわいい~ぃ」も「私ってかわいいでしょ」という「聞き手」を求め、認めて欲しい記号として読み解くべきだとも書いた。以降、多くの社会現象、例えば渋谷スクランブル交差点に集まるバレンタインイベントも、「聞き手」と言う仲間を求めて集まる出来事であることからわかるかと思う。
記号、つまり絵文字やスタンプを使った即時のやりとりは「反応」という「自動機械」の潤滑油となる。そこには個性はなく入れ替え可能と言うことである。むしろコミュニケーションに遅れが生じると「意識」や「考え」の働きを目ざとく見つけられて叩かれる。それを恐れるから意識や考えを極端なまでに抑制する、「自動機械」に埋没したがる。その結果、今時の若い世代は、文脈を分析して「他者に対して想像力を働かせる」ことができなくなってしまった。私はそうしたコミュニケーションをあいづちを打つだけの「だよねコミュニケーションであると名付けることにしたことがあった。

ところで新型コロナウイルスについて置き換えるならば、最近東京都が言い始めた「感染をしない、うつさない」と言う標語、他者への想像力は働かないと言うことである。勿論、悪気があってのことではない。「大人」がいくら社会的責任の意味を説いてもコミュニケーションは成立しないと言うことだ。自分がうつってしまうかも、という不安はあっても、コロナ禍が始まった3月以降、若い世代の感染者は軽傷者がほとんどであるとの認識が強くあり、街中で行われる多くのインタビューには”自分はうつらない、大丈夫」とだけ答え、他者にうつす危険性についてはほとんど答えがないのはこうした理由からである。

ところでこの若い世代の消費について少しだけ分析したことがあった。それは日経新聞が「under30」という名称で若い世代の価値観、欲望喪失世代として指摘をしたことがきっかけであった。ちょうど「草食世代」などといったキーワードが流行った時代である。そのライフスタイル特徴と言えば、車離れ、アルコール離れ、ゴルフ離れ、結婚離れ、社会離れ、政治離れ、・・・・多くの「離れ現象」が見られた。一方で「オタク」という超マニヤックな行動を見せる世代が社会の舞台に出て来てもいた。周知のようにオタクは過剰、過激さをその特徴としているが、このunder30はオタクの対極にある「バランス」や「ゆるさ」への志向をはかってきたグループ世代で、外見は気のいい優しい「人物」である。
「バランス」が取れた誰とでもうまく付き合うゆるい関係、空気の読める仲間社会を指し「だよね世代」と私は呼んでいたが、もっとわかりやすく言えばスマホの無料通話ソフトLINEの一番の愛用者である。そもそもLINEは「だよね」という差し障りの無い世界、空気感の交換のような道具である。オシャレも、食も、旅も、一様に平均的一般的な世界に準じることとなる。他者と競い合うような強い自己主張はない。結果、大きな消費ブームを起こすことはなく、そこそこ消費になる。そして、学生から社会へと、いわゆる競争世界に身を置き、それまで友達といったゆるいフラットな世界から否応なく勝者敗者の関係、あるいは上下関係や得意先関係といった複雑な社会を生きる時、そうした仲間内関係から外れることを恐れ、逆にそれを求めて街へ出る。今のコロナ禍の表現をするならば、「密」な関係を求めて、東京へ、街へ、出かけるのである。
未来塾の第一回目には「正しく、恐る」をテーマとしたが、この若い世代にとって「正しさ」の認識は「かかりにくい、かかっても軽症で済む」と言うのが彼らの認識である。そして、その「正しさ」を大人の論理で強制するのではなく、まず「聞き手」になることから始めると言うことである。感染症の専門家も、特にTVメディアも伝え方が根底から間違えていると言うことだ。その聞き手とは言うまでもなく「現場」であり、大学も、職場も、夜の街・ホストクラブの大人達である。東京アラートに際し、レインボーブリッジを赤く染めたら、お台場には見物客が多数集まり、つまり東京の新たな観光スポットになってしまった失敗を思い起こすべきである。「正しく、恐る」その正しさが一切伝わっていない証明そのものである。ロックダウンではなく、セルフダウンを選んだ日本は、まずすべきは「大人」が聞き手になるということだ。(続く)
  
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2020年07月19日

未来塾(41)「日常の取り戻し」を学ぶ 後半 

ヒット商品応援団日記No768(毎週更新) 2020.7,19



コロナ禍以前の築地場外市場

「日常の取り戻し」を学ぶ


不安を抱えながらの「日常」

危機からの脱却は「自由時間」の取り戻し、その中でも生活に即して言うならば「日常の取り戻し」となる。多くの自然災害は勿論のこと、コロナ禍も同様である。2008年のリーマンショックによる大不況の時は「年越し派遣村」に見られるように非正規労働者の失業が目に見える危機であった。2011年の東日本大震災の時は大津波によって町全体を失い、福島原発事故では放射能汚染によって住むことができない故郷を失うといったことを生み出した。どの危機も失うものは異なっていても、取り戻したいと願うことの第一は「日常の取り戻し」であった。
その日常の中には個々人全て異なるものであるが、共通していることは、危機の先に「自由時間」を持てることにあった。好きな仕事ができる自由、子供との時間、家族との旅行や外食、実家への里帰り、・・・・・・・個々人の年齢や環境によって大切にする時間の使い方は異なる。その自由こそが日常の本質となっている。ライフスタイルの本質はこの日常にあるということを再認識させた。
今回のコロナ禍の特徴は、「ウイズコロナ」「コロナとの共存」といった言葉に代表されるように、ワクチンや治療薬が開発されるまでの「長期間」不安を押し殺したままの日常になるということである。それは事業を行う人も生活者も同じ思いとなっている。リーマンショック後では特に事業者にとって「事業の立て直し」が社会の主テーマとなり、東日本大震災後では生活者も事業者も「街・故郷の復旧・復興」が主テーマとなった。同じ日常の取り戻しでも危機のあり方によって異なる。

非接触業態へと向かう消費

コロナ禍はこの日常を「移動自粛」によって失ってしまったということである。このブログは「消費」が大きなテーマとなっおり、3月からの3ヶ月間はスーパーなど日常生活に必要な商業施設以外は百貨店をはじめほとんどの商店は休業状態となった。楽しみを求めて多くの人が集まるイベントや娯楽施設は勿論のこと、街の人通りはゴーストタウン化したことは周知の通りである。そのゴーストタウンが象徴するように、ネット通販や宅配ビジネスといった非接触流通が生活を補完するものとして好調に推移している。
また以前からシニア世代の必須業態となっている移動販売が再び注目されている。数年前から地方の山間部のみならず、都市近郊のスーパーなどの無い空白地帯の必需業態となっている。また、周知のようにフードデリバリーに人気が集まっている。更にキッチンカーによる移動レストラン業態も生まれている。しかし、こうした業態がコロナ感染が収束した後まで持続していくかどうか、確かなことは言えないが宅配ピザのように固有の流通となり得るかは提供するフードメニューの魅力、他にはない魅力によるであろう。
非接触の反対は接触であり、簡単に言ってしまえば「賑わい」のことである。コロナへの不安心理の変化はこの賑わいの復活度合いを見ていけばわかる。渋谷や新宿など逐の移動データが発表されているが、これも不安心理を見ていく一つの指標となる。

働き方変化のゆくえ

そして、コロナ禍で売れたものは何かといえば、まず巣ごもり消費の定番、つまり内食の食材であり、子供たちであればゲームとなる。また、在宅勤務・テレワークに必要とされる商品である。周知のように新たなパソコン、あるいはWebカメラといったテレワーク必需品である。更に付帯的なものとしてエアコンといった在宅環境整備商品である。こうしたテレワークの経験はコロナ禍が収束した後もそのまま継続するという企業が多いという調査結果もあるが、テレワークだけで「先」を見据えた合理的なビジネススタイルになり得ることはない。

満員電車の通勤に戻りたくはない、地方で仕事をしたいと願う人が増えてくると考える専門家もいるが、逆で長時間通勤から仕事場により近いところに住まいを移すことの方に向かうであろう。都心に近い江東区など湾岸エリアが一大居住地帯となっており、更には都心まで十数分の川崎市武蔵小杉などのタワーマンション人気を見てもわかるように通勤時間の短縮が数年前からのテーマとなっている。東京一極集中はコロナ禍によって解決されるのではないか、地方移転が始まるのではないかと考える専門家もいるが、逆に都市集中化はこれからも進むと私は考えている。
何故なら、仕事はどんどん専門職化、個人化していくと思うが、それだけでビジネスは成立はしない。仕事はチーム単位で行われ、しかもグローバル化し競争によって高度化すればするほど、「外」からの刺激を必要とし、「人」との直接的なリアルな議論などの刺激が必要とされその専門性は磨かれ高められていく。そんな専門集団を束ねていくのが経営リーダーの役割であり、「人」を束ねる理念・ヴィジョンこそが不可欠となっていく。こうした働き方については、AIの時代を含め別途考えてみるつもりであるが、結論から言えば、AI以上、ロボット以上の働き方が問われる時代に既になっているということである

「危機後」に現れた過去のヒット商品

ここ数週間私のブログを訪れる人が増加している。おそらく過去「何」が売れ、その背景には「何」があったのかをブログ化しているのは私のブログぐらいしかないからと思われる。出口戦略としてどんな「消費」に動くのか、そのための情報収集ということからであろう。

■リーマンショック後のヒット商品の傾向

日経MJによる「2008年ヒット商品番付」を踏まえたものでは、まず注視すべきは自己防衛型商品であった。これはリーマン・ショックに端を発した金融危機により、更に生活全体への危機対応へと進んできたと言える。その象徴例が、商品版付にも顕著に出てきている。

横綱  ユニクロ・H&M      セブンプレミアム・トップバリュー
大関  低価格小型パソコン  WiiFit
関脇  ブルーレイ        パルックボールプレミアクイック
小結  円高還元セール    マックのプレミアムローストコーヒー

東西の横綱には「ユニクロ・H&M」と「PB商品」、大関は「低価格小型PC」と「任天堂DSのwiifit」、関脇には「ブルーレイ」と「パナソニックの電球型蛍光灯」と続く。東芝のDVDレコーダー「ブルーレイ」が入ったのは、HD-DVDレコーダーの市場からの撤退によってシェアーが伸びたもので、それ以外は全て低価格価値に主眼を置いた商品ばかりである。
「お買い得」「買いやすい価格」、あるいは「パナソニックの電球型蛍光灯」のように、商品自体は高めの価格であるが、耐久時間が長いことから結果安くなる、「費用対効果」を見極めた価格着眼によるヒット商品である。そうした自己防衛市場への消費移動を整理し、キーワード化してみると次のようになった。

1、外から内へ、ハレからケへ
この時にも「外食」から「内食」への傾向が顕著に出てきている。しかも、中国冷凍餃子事件により、冷凍食品から手作り料理へと移動が起こり、前頭に入っているような「熱いまま急っと瞬冷凍」といった冷蔵庫が売れたり、前頭に入っている親子料理の「調理玩具」がヒットするといった具合である。ライフスタイル的に見ていくと、ハレからケへの移動、非日常から日常への消費移動となる。遊びも「任天堂DSのwiifit」、あるいは「ブルーレイ」といった家庭内充実商品・巣ごもり商品が売れている。
そして、特に都市ではミニホームパーティがますます盛んになっていくのだが、今回のリモート飲み会にも通じるものである。
2、エブリデーロープライス
リーマンショック後の消費の中心に「消費価格」があった。この時生まれたキーワードが「わけあり商品」である。この「わけあり商品」は小売業態のみならず、サービス業態のホテル・旅館まで広く行き渡り、デフレのキーワードにもなったことは周知の通りである。消費は収入と不可分の関係にあるが収入が一向に増えない中での消費である。ユニクロを筆頭に価格破壊企業が大きく躍進した節目の出来事となった。以降、このデフレ克服が最大テーマとなり、現在は好調の日本マクドナルドも1000円バーガーを発売したり価格戦略の迷走をもたらすこととなった。あるいは大手ファミレス3社ガスト、デニーズ、ロイヤルホストも合計500店舗を閉鎖し、立て直しに入ることとなる。
3、個族から家族へ
個人化社会の進行は1990年代から始まっていたが、次第に家族単位のあり方が変化していく。その象徴が単身世帯の増加で、単身的ライフスタイルである夫婦二人家族を含めると50%を超えるまでになっていた。このリーマンショックという不況危機はこのバラバラとなった個族を再び家族へと引き戻していく。後に触れる東日本大震災の時にも家族回帰が見られたが、危機は生き方としての家族へと向かわせるということであろう。今回のコロナ禍では在宅勤務ということもあり、ウイークデーの昼間に公園で子供を遊ばせる父親の姿が多く見られたが、夫婦共に家族認識を新たにしたと言えなくはない。
4、小さなアイディア、小さなうれしい
日経MJと同じように年度のヒット商品を発表している三井住友グループのSMBCコンサルティングは今年の横綱は該当なしとなっている。社会的注目を集めるような商品力と実績を集めた商品はなかったとし、「横綱不在時代の幕開けか?」とコメントしている。日本は既に不況期に入っているという認識は同じであるが、日経MJはヒット商品が小粒になったと指摘、SMBCは消費支出の選択と集中が始まると指摘している。私に言わせれば、両社共に、生活価値観(パラダイム)がどのように変わりつつあるか、その過渡期の断面を指摘いると思う。
例えば、外食から内食への移動では、内食について言えばヒット商品は小粒になり、納豆の「金のつぶ」のように改良型商品がヒットする。しかし、外食が全て無くなる訳ではない。回数は減るが、ハレの日には家族そろってお気に入りの店を選択して使うことになる。つまり、中途半端な外食には足を向けないということ傾向が見られた。
今回のコロナ禍では移動抑制・外出自粛ということから「外食」に向かうことは心理的に制限され、緊急事態制限解除後も以前のような「外食」には戻ってはいない。その背景にはまだまだ刷り込まれた「恐怖」が残っており、以前のような外食には繋がってはいない。

また、この時代の大きな潮流であるダイエット・健康・美容のジャンルにはヒット商品は生まれてはいない。勿論、誰もが関心はあるのだが、心理的な余裕がない状態であった。
今回のコロナ禍においては「免疫力」をつけるための食品など若干話題になったが、その程度の免疫ではコロナには勝てないことが分かって今や話題にもならない状態となっている。コロナ禍は命に関わることであり、その恐怖はダイエット・健康・美容といったそれまでの関心事を一掃してしまったということである。

■3.11東日本大震災後のヒット商品の傾向

実は2011年上半期には東西横綱に該当するヒット商品はないとした日経MJであるが、年度の横綱をはじめ主要なヒット商品は以下となっている。

横綱  アップル、 節電商品
大関  アンドロイド端末、なでしこジャパン
関脇  フェイスブック、有楽町(ルミネ&阪急メンズ館)
小結  ミラーイース&デミオ、  九州新幹線&JR博多シティ

2011年度の新語流行語大賞、あるいは世相を表す恒例の一文字「絆」も東日本大震災に関連したものばかりであった。つまり、ライフスタイル価値観そのものへ変化を促すほどの大きな衝撃であったということだ。西の横綱に節電商品が入っているが、例えば扇風機を代表とした節電ツールや暑さを工夫した涼感衣料が売れただけではなく、暖房こたつや軽くて暖かいダウンが売れエネルギー認識が強まることとなった。震災時に電話が通じない状態のなかで家族と連絡を取り合ったFacebookといった情報サイトの活用。震災復興の応援ファンドにツイッターが使われたこと等、スマートフォンやタブレット端末も震災との関連で大きく需要を伸ばすこととなった。
震災から9ヶ月経った年末商戦では、百貨店を始めほとんどの流通のテーマは世相を表す「絆」ではないが、人と人とを結びつける商品や場づくりとなった。阪神淡路大震災の時と同様に、東日本大震災後婚約指輪が大きく需要を伸ばした。こうした消費は一つの象徴であるが、母の日ギフトや誕生日ギフトなどいわゆる記念日消費に注目が集まった。
あるいは家族や友人といった複数の人間が一つ鍋を挟んだ食事は、家庭でも居酒屋でも日常風景となった。こうした傾向、「絆消費」は一過性のものではなく、以降も続くこととなる。そして、「国民総幸福量」の国、ブータンの国王夫妻の来日は、人と人との絆、その精神世界にこそ幸せがあることを再確認させてくれた。

今回のコロナ禍においては、人との接触の「8割削減」が一つの指針となり、絆という「密」な関係を難しくさせてしまった。しかし、緊急事態解除によって、この「関係」の取り戻しが始まっている。東京をはじめとした首都圏では移動の緩和とともに感染者が増えているが、これもある程度は想定内のことであろう。この日常の取り戻しにあって、旅行と生活文化の2つを取り上げたが、遊びとしての旅行もあるが、今年の夏は実家への「帰省」が多くなるであろう。これも一つの絆の取り戻しである。

文化のある日常生活については、やはり「外食」による取り戻しが中心となるであろう。前回取り上げた大阪の串カツ、「二度漬け禁止」という文化は同じソースを使うことから、つまり感染の恐れがある配慮からソースを個々にかけて食べることとなった。コロナ禍が収束するまで少しの間、二度漬け文化はおやすみというわけである。江戸前寿司の「久兵衛」が巻き寿司やチラシ寿司の宅配を始めたという事例について書いたが、元々巻き寿司などは自宅へのお土産としてあったものだが、コロナ収束後も継続して行うかどうかはわからない。しかし、本業は顧客の前で握り、それをすぐ口へと運ぶのが江戸前寿司の約束事であるから、そうした文化が損なわれるのであれば継続はしないであろう。
こうした事例はまだまだ文化の域には達してはいないが、ホテルなどでの「ブッフェスタイル」なんかも復活するであろう。あれこれ好きなものを少しづつ食べるスタイルであるが、これも今まであった日常スタイルの取り戻しである。こうした日常のスタイルの取り戻しの中の一番は、なんといっても、調理場とカウンターとが仕切られた飛沫防止の透明シートであろう。特に、町中華の場合など、調理場の匂い、炒める音、・・・・・全てが町中華文化である。味もさることながら、文化とはこうしたこと全体のことである。この全体を取り戻して、初めてコロナ禍は収束したということになる。

そして、個々の店舗、個々の事業によってその文化は異なるが、ここでも課題となるのが「何」を残し、「何」を代わりになるものとするかである。大仰にいうならば「ブランドの継承」にもつながることであり、顧客を魅きつける「何か」である。ちょっと唐突かもしれないが、あのシャネルが残した「何か」は「生きざま」、どのように変化し続ける時代を生き切ったか、その魅力である。それがシャネスのデザイン、スタイルに継承されているということである。文化とはそうしたものであり、この文化を失うことは継承することはできないということである。何を残し、何を代えていくのか、これも店舗の事業の生き方であり、顧客を魅きつける本質はここにあることを忘れてはならない。

調査開始以来最悪の5月の消費支出

コロナ禍5月の消費について家計調査の結果が報告されている。二人以上世帯の消費支出は調査が開始された2001年以降最低の消費支出(対前年比)▲16.2となった。ちなみに4月は▲11.1、3月は▲6.0である。緊急事態が発令された最中であり、例年であれば旅行に出かけ、外食にも支出するのが常であったが、当然であるが大きなマイナス支出となっている。ちなみに、旅行関連で言うと、パック旅行▲ 95.4、宿泊料▲ 97.6、食事代▲ 55.8、飲酒代▲ 88.4、となっている。更には映画や・演劇、文化施設や遊園地などの利用もマイナス▲ 94.8〜▲ 96.7と大幅な減少となっている。勿論、外出自粛などから衣料や化粧品の支出も大きく減少していることは言うまでもない。
また巣ごもり消費として取り上げたゲームソフトなどについてはプラスの105.6%と最大の伸びとなっている。言うまでもないが、必需商品となったマスクなどの消耗品は179.5%となっている。これが「外出自粛」「休業要請」の結果ということだ。(家計調査の付帯資料として「消費行動に大きな影響が見られた主な品目」が出ているので是非一読されたらと思う。)

ところで6月末で消費増税軽減のためのポイント還元が終了した。駆け込み需要があるのではないかとの報道もあったが、マスメディアの無知による誤報道となり、ほとんど駆け込み消費はなかった。そんなことは当たり前の事で、ボーナスの減額どころか減給更には失職すらあり得る中での消費にあっては「駆け込み」などあり得ない。「巣ごもり消費」は「消費氷河期」へと向かいつつあるのだ。この氷河期という表現は「何も買わない」ということだ。必要最低限の日常消費は行うが、それ以上のことには消費しないということである。ある意味、「消費の原点回帰」とでも表現したくなる生きるための消費態度のことである。

それは感染症の専門家に言われるまでもなく、長期間の戦いになるということを多くの人は自覚しているからである。最低でも今年一杯、来年の春ぐらいまで心の隅に「恐怖」を抱えながらである。それは例えば東京吉祥寺の町が以前のような賑わいを取り戻したかのように一見見えるが、賑わいそのものを楽しめるところまでは至ってはいない。有効なワクチンや治療薬が使えるまでは誰もが仕方がないと覚悟している。ただ、そんな中で、カラフルでユニークな手作りマスクやクッキングパパのような手作り料理をインスタグラムにアップするなど「巣ごもり遊び」の心があふれているので深刻ではない。こうした遊び心があるかぎり、「出口」戦略の中心となる消費は持ち直すであろう。

こうした消費心理の一端を明確にした調査結果が出てきている。読売新聞社が7月3~5日に実施した全国世論調査で、この夏の旅行について聞くと、「都道府県をまたいで旅行する」が12%、都道府県をまたがず「近場へ旅行する」が15%で、「旅行は控える」が67%に上った。政府は、観光需要を喚起するため、旅行費用の半額を補助する「Go To キャンペーン」事業を8月上旬にも開始する方針を前倒しにしだが、国民の間では依然慎重な人が多い結果となっている。これは新型コロナウイルスへの「恐怖」が残っているだけでなく、収入の減少や先行きの就業不安などが影響しているからであろう。こうした複雑な心理状況にあるということだ。
ところでまだ推測の域を出ないが、政治の世界では解散風が吹き始めている。あまり解散の争点論議はなされていないが、「消費税の減税」になるのではないと思っている。その背景であるが、ドイツ政府は新型コロナウイルスによる経済への打撃を緩和するため、日本の消費税にあたる付加価値税を7月から引き下げる方針を閣議決定した。減税は7月1日から年末までの限定措置となり、税率を現在の19%から16%、食料品など生活必需品に適用する軽減税率は7%から5%へと引き下げるという減税案である。つまり、日本経済の中心となっている消費の立て直しを図る「消費税減税」の是非を問う選挙である。

混乱・とまどいはこれからも続く

今、東京を中心とした感染が拡大している。第二波なのか、第一波の延長なのか、専門家の間でも意見が異なっており、その対策も今だに提示されていない。1日50人単位であった感染者が、ある週から100名単位となり、その翌週には200名単位・・・・・そんな週単位の拡大が続いている。6月19日の東京アラート解除後、ほとんどの制限が解除され東京の街には人出が見られるようになった。移動の制限がなくなれば当然感染は広がることは多くの人は仕方のないことだとわかってはいるが、「大丈夫であろうか」という心配する声も多い。ましてや、新宿のホストクラブなどの集団検査の数値も含まれており、明確な指標がない状況が不安を増幅させることとなっている。つまり、こうした極めて不確かな状況がこれからも続くということである。

移動の活性化を図る「GOTOキャンペーン」が前倒しでスタートする。当然のように時期尚早論が湧き上がっている。前述の読売新聞の調査結果のように生活者は極めて慎重である。新宿や池袋といった感染者を多く出している場所にはホストクラブなどの店への休業補償や PCR検査による陽性者への見舞金など「部分的な封じ込め」が行われるであろう。つまり、生活者にとって行動の「自制」を行う「基準」が得られないままプロ野球観戦やライブイベント、更には旅行へと出かけるということである。混乱と戸惑いの中の日常ということになる。
結果どういうことが起きるかである。新宿歌舞伎町に代表される夜の街イメージは池袋どころか新橋、六本木・・・・・感染ウイルスと同じように周辺の街々に広がっていく。東京は一大消費都市である。観光地など地方へ移動による消費が起きない限り、嫌な言葉であるが多くの事業者は耐えきれず「破綻」していくであろう。マーケティングやビジネス経験のある人間であれば前述の5月の家計調査の結果を見れば理解できる、いやぞっとしてしまったであろう。
そして、こうした混乱と戸惑いは受け止める「地方」も同様で、感染を持ち込んでほしくないとする「東京差別」と観光復興したいという思いが錯綜する。
多くの死者を出した九州から甲信地方にかけての豪雨は「令和2年7月豪雨災害」となった。九州北部豪雨、西日本豪雨、続けざまに起きる豪雨災害であるが、「50年に一度」「想定外」といった言葉が死語になるほどの災害が続き、想定内の災害が起きたと理解しなければならなくなった。嫌な表現であるが、日常と災害とが隣り合わせになった時代を迎えているということであろう。まるで「コロナ禍」と同じように「苦しい夏」を迎える。








  
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Posted by ヒット商品応援団 at 13:00Comments(0)新市場創造