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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2020年09月06日

未来塾(42) もう一つのウイルス (後半) 

ヒット商品応援団日記No770(毎週更新) 2020.9.6.

未来塾(42) もう一つのウイルス (後半) 



文化の無い「時代経験」

さて戦後のモノ不足を経て、1990年代初頭のバブル崩壊を受け、以降「豊さとは何か」が問われてきた。当時は「失われた20年」などと豊かさ論議が盛んであったが、「豊かさ」を見極めることなくこの春まで経過して来た、そんな感がしてならない。
思い返せば、バブル崩壊は日本社会・経済全てに対し変わることを命じられたいわば「人生」を見つめ直す時代であった。2008年のリーマンショックについては、年越し派遣村に代表されたように、「雇用」の持つ意味が問い直された。2011年3,11東日本大震災は災害日本列島に立ち向かう人と人の「絆」の大切さを実感させた。
コロナ禍が始まって6ヶ月が経過した。ウイルスは人が運ぶことから、ソーシャルディスタンス、三密、といった言葉が表しているように人と人との「距離」をとることを否応なくしいられて来た。しかも、距離をとるだけでなく、「移動」の抑制をもである。
クラスターの発生は東京では「江戸」を感じさせる屋台船の宴会からであり、大阪では梅田のライブハウスであった。以降、距離をとること、移動を自制する生活となり、多くの文化イベントが休止、あるいは縮小することとなった。それは歌舞伎のような伝統芸能から、プロ野球に代表されるスポーツイベントまで。更に日常においては学生たちのクラブ活動にまで及んだ。つまり、文化イベントに「空白」が生じたということである。その象徴が周知の甲子園を目指す高校野球の中止であり、縮小であった。こうしたメディアの舞台に出てくるようなイベントだけが「文化」ではない。文化の本質は日常当たり前のこととして取り入れて来たものにその意味がある。私の言葉で言えば、「生活文化」ということになる。

「文化」は継続・継承されてこそ文化となる

ところで今年の夏は各地で行われる予定の「祭り」のほとんどが中止となった。隅田川の花火は勿論のこと、「密」を避けるために花火師の勇姿によって全国各地でゲリラ的に行われた。また、夏の風物詩にもなった高校野球は各地方単位での試合となったが、春の選抜高校野球が1試合だけではあるが、甲子園で交流試合が行われた。ウイズコロナとかコロナとの共生、理屈っぽく言えば「出口戦略」として、できることからやってみようということである。未知のウイルスとは言え、かなりわかって来た。このブログのスタートとして、「正しく 恐る」、その「正しく」がかなりわかって来たからだ。

マスメディア、特にTVメディアは競うように「自論」を放映している。3〜4月ごろのメディアの論調は「未知」であることから送り手も受け手も間違いがあっても許されることではあった。あのWHOですら当初はマスク着用の効果はないとしていたが、今や着用を勧めている。「コロナ禍から学ぶ」の第一回でも述べたが、パチンコ店が自主休業しないことを理由に、あるいは県をまたがってパチンコをやりにきた顧客へのインタビューで、あたかも「犯罪行為」であるかのように扱った。確かに、自粛休業要請に従わなかったパチンコ店もあったが、感染者のクラスター発生は起きていなかった。あるいはイタリアや米国NYの医療崩壊を繰り返し放映し、結果として視聴者に「恐怖」を与えて来たTVメディアはやっとその愚に気付き始め、軌道修正し始めて来た。しかし、エンターテイメント、つまり娯楽要素を盛り込むことは否定はしないが、モーニングショーにレギュラー出演している感染症の大学教授はなんと芸能プラダクションである旧ナベプロに所属する始末である。変わり身の速さ、ある意味いい加減さはTVメディアの本質でもあるが、「コロナ禍」をエンターテイメント化する視線には抵抗がある。いや抵抗と言うより、娯楽として提供されるコロナ情報を信じることができるかである。

未来塾(42) もう一つのウイルス (後半) 何故こうしたことを取り上げるかと言えば、TVによる娯楽番組も一つの「文化」である。しかし、こんな情報番組という冠を持った「娯楽番組」はコロナ禍が収束した後まで継続・継承して欲しくはないものである。一言で言えば番組の責任者であるプロデューサーの社会的責任とまでは言わないがその見識を疑う。コロナウイルスを使った単なる視聴率稼ぎだけの番組であると言うことだ。英国の覆面アーティスト、バンクシー(Banksy)は、新型コロナウイルスのパンデミックと闘う医療従事者らをたたえる新作を発表し作品は現在、英国内の病院に展示されていると言う。コロナ禍を娯楽的視点から放送する日本の情報番組とは真逆のあり方である。

「散」の結果はGDP 27.8%減

内閣府は4~6月期の国内総生産(GDP)の速報値を発表した。季節調整値)の速報値は、物価の変動を除いた実質で前期比7・8%減、この状態が1年続いた場合の年率換算は27・8%減となり、リーマン・ショック後の09年1~3月期の年率17・8%減を上回る戦後最悪のマイナス成長を記録した。新型コロナウイルス感染拡大を受けた緊急事態宣言で個人消費が大きく落ち込み、世界的な感染拡大により輸出も急減して内外需ともに総崩れだった。
ちなみに、米国の4- 6月期の実質GDP(国内総生産)成長率(季節調整済み、速報値)は、前期比年率32.9%減と大 幅低下したとのこと(図表1)。また、欧州連合(EU)の実質域内総生産(GDP、速報値)は、前期比で12・1%減となった。年率換算では40・3%減で、前期(13・6%減)に記録した過去最大の落ち込みからさらに悪化したと。米国や欧州との違いであるが、ロックダウン(都市封鎖)」しなかった日本は「自粛」というセルフダウンを採ったことの差であると多くの経済アナリストは指摘しているが、私もその通りであると思う。
そして、以降の見通しはどうかということだが、GDPの50%以上を占める個人消費であるが、夏休み・帰省といった経済活性の状況を見てもわかるように、新幹線や航空機利用も報道の通り前年比20〜40%程度となっている。この先大きくV字回復することはないと考えるアナリストは多い。年末に向けた経済成長としてはL字状態、つまり「散」のままであれば横這い状態というのがアナリストの見方である。

こうした推移を見ていくと当然であるが、「いつ」収束するのかということになる。多くの感染症研究者は今回のコロナ禍の収束にはかなりの時間を必要とするであろうとレポートしている。その収束には周知のようにワクチンと治療薬を必要とするとのことで長期にわたるウイズコロナ、コロナとの付き合いが必要となる。
その収束イメージであるが、季節性インフルエンザを思い浮かべればそれに近いとする専門家は多い。つまり、流行期の前にワクチン摂取を行い、それでもかかってしまった場合は医師の処方によりタミフルなどのよる治療楽をしてもらうと言うイメージである。勿論、季節性インフルエンザとは異なる質の悪いウイルスであるが、ある意味日常となった生活者の対策である。季節性インフルエンザがそうであったように、ウイルスとの共存・付き合い方をイメージしれば良いかもしれない。

さて、このイメージに即して、「日常」となるまでどうすべきかである。
その答えはすでに多くの分野で工夫・アイディアを持って実施されている。その第一は、「蜜」を前提とした発送・考え方から一旦離れてみることだ。結論から言えば、「散」で成立する術を模索し、その精度を上げていくことから始めるということである。また、既にテレワークやリモートによる仕事の進め方についても、週に1日、あるいは2週間に1日ぐらいは出社し、会議などを行うといった「密」と「散」との組み合わせによる方法も取り入れられているようだ。つまり、「散」では得られないリアル感、空気感、一体感といった「刺激」の採り入れである。収束という「出口」に向かう時のc長期戦略は「散」と「密」の組み合わせということになる。

不要不急という概念を変えていくことから始める

長期化に対するスタートはまずこれまで刷り込まれた「恐怖」を自ら払拭することから始めることである。3月時点の新型コロナウイルスの恐怖理解から脱しつつある。その恐怖の裏側にあるのが「不要不急」という自粛の理屈である。この抑制理由から離れていくことこそが重要となる。

そのためには今一度「自粛」とは何かに向き合うことだ。過去持っていた目標ではない。生きるために必要なことだけでは生きてゆけないという自覚から始まるであろう。言葉を変えて言うならば、我慢していくと言う自覚であり、それは「いつまで」とした自覚でもある。
これまで陽性者、感染者などのデータについては公開されて来た。毎日発表される情報のみに多い・少ないと言ったコメントしか報道されてこなかった。自粛とは極めて抑制心理の問題であり、「正しく 恐る」と言うその「正しさ」の理解と共に恐怖の呪縛から解き放たれていく。結果、その心理から「行動」は生まれていく。この未来塾で分析したいことの第一は「コロナ禍」での消費である。それは生活者の心理状態を反映されたものであり、「今」どんな「心理」にあるかを明らかにすることにある。ここ数十年小売業は天候が不順で雨が多い月の売り上げや気温の変動で冷たいものが売れたりアタタライものが売れたり、そんな分析を行って来た。そうした分析をもとに仕入れや人員配置を行なって来たのだが、このコロナ禍にあってそうした分析は未だかってみたことはない。
今回、恐怖心りのほとんどを占める感染者数情報とそれが生活者に与える行動変容を見ていくこととする。勿論、正確な分析ではなく、ある意味仮設としての分析で、多分に私自身の感によるものも含まれている。そして、出来うるならば「不要不急」心理がどのような行動変容となって現れて来たかを解く一歩としたい。

ところで次のグラフは公開されている全国における感染者数のグラフである。

未来塾(42) もう一つのウイルス (後半) 



2月から始まったコロナ禍であるが、まず中国武漢に住む日本人の帰国第一便は2月12日であった。2月20日にはあの700名以上の感染者を出したクルーズ船が横浜港に帰港した時期である。次第に感染は広がり3月末には感染のピークを迎える。ちょうどコメディアンの志村けんさんが亡くなった時期である。そして、感染の山が下に入った4月7日に緊急事態宣言が発出され、次第に感染は落ち着いていくグラフとなっている。
この間生活者心理に大きな影響を与えたのは新型コロナウイルスの「恐ろしさ」を実感したのは志村けん散の死であり、生活を一変させたのが3月2日から始まった小中高の臨時休校であろう。他にもコロナ禍は世界の最大課題であることを実感させたのは3月24日に発表された東京オリンピック・パラリンピックの1年程度の延期が決定であろう。また、東京ローカルのことだが、3月23日の記者会見で、小池都知事ははっきりと都市の封鎖、いわゆるロックダウンなど、強力な措置をとらざるを得ない状況が出てくる可能性があると発言している。勿論、都知事のそのような権限などないのだが、発言の翌日都内のスーパーの棚からラーメンやレトルト食品など巣ごもり商品を買い求める人が押し寄せパニック状態となった。この背景には連日イタリアや米国NYなどの逼迫した医療現場が報道され、最悪の心理状態にあったことによる。
こうした心理から緊急事態宣言の沿って、移動の自粛を始めとしたロックダウンではないセルフダウンが可能となったと言うことだ。

未来塾(42) もう一つのウイルス (後半) 



一旦収束に見えたコロナ禍は前述のようにウイルスの変異を伴った新たな発生源が東京新宿で起きることとなる。より詳しいデータは上記の8月の分科会で示された発症日による感染グラフである。これをみてもわかるように
死んだ子の年を数えるようだと表現したように6月後半から次第に感染の拡大が始まっていることがわかる。繰り返し言うが、新宿歌舞伎町に働く人たちを責めることではない。あくまでも東京都、政治の責任による結果である。生活者心理・不安の山はまた上がり始める。新たなウイルスの発生・拡大については前述の通りであるが、ただ3月4月の頃の心理とはその後の情報によって次第に異なったものとなる。生活者の行動は次第に広がっていく。それまで控えていた百貨店への購買や飲食店利用をはじめ、巣ごもりしながら行動範囲を広げていくこととなる。それは2月以降のコロナ経験に基づくものと言える。その基準となるのは唯一の物差しとなる「感染者数」である。実は判断となる物差しは感染者数しかないと言う現実があったからである。もっともらしい感染症の研究者のコメントはあっても生活実感とはかけ離れたものであった。なぜなら、4月にかけて「米国NYのような悲惨状態になる」「2週間後には死者は数万人に及ぶ」といったコメントはTVメディアを通じ繰り返し繰り返し刷り込まれたものが残っていたからである。これは広告業界では常識となっていることだが、記憶は情報の「回数」によって決まっていく。つまり、回数が多ければ多いほど記憶に強く残ると言うことである。

ところで消費という視点でみていくと、6月ごろから徐々に必需消費から選択消費へと向かっていく。ちょうど全国レベルでの制限解除に付合する。それまで閑散としていた通勤電車はいつものように混雑し始める。数ヶ月ぶりの飲み会もまた始まる。それは第一波の収束といった安堵感でもあった。医療現場では冬場に起きるであろう第二波に備えることが盛んに言われていた。
実はこうした中、見えないところで新たな感染、東京由来と言われる変異したウイルスが新宿歌舞伎町で広がっていたと言うことである。その感染の広がりはグラフをみてもわかるように6月後半から7月にかけて伸びていくのがわかる。そして、7月中旬から、本格的な夏休みへと向かって急速に拡大していく。ちょうどGO TOトラベルがスタートした時期である。前回の未来塾で読売新聞による調査にも60数%の人は旅行には躊躇していると言う結果であった。「恐怖」がまだまだ心理の中心を占めていたと言うことであった。そして、残念ながら観光地の中心でもある沖縄で感染が拡大し、医療崩壊の危機に落ちるのだが報道の通りである。

「差別」というもう一つのウイルス

こうして8月の帰省へと向かうのだが、報道されているように帰省する人は例年と比較し極めて少ない結果となっている。移動の抑制は顕著に出たのだが、その心理はどう見るべきなのか、帰省先と帰省を考えている人との間にできた空気感を実感し、何が行動を抑制させたのか明確にすることが必要であろう。
その空気感とは「コロナ差別」であり、帰省先の地方の受け止め方は「コロナを持ち込んで欲しくない」と言うものであり、帰省する側も帰省先実家に迷惑をかけたくない、そんな空気であろう。そうした空気を象徴したのが「帰省警察」と言うキーワードである。自粛警察から始まり、マスク警察、帰省警察と社会正義の仮面を被った心ない差別である。以前、差別の奥底には恐怖があると書いたことがあったが、新型コロナウイルスはいわば現代における穢れ(ケガレ)と考えれば分かりやすい。
「感染」を外から持ち込まれた不確かなもの、それらを異物として不浄なものとして除去する、共同体から排除するムラ意識の現れということである。それは都市と地方ということの違いによって生まれるものではない。実は、「ムラ」は地方に残っているのではなく、都市の中にも存在している。ムラを世間とか仲間という小集団に置き換えればいくらでも経験して来ている。例えば、子供たちの間にある(大人社会にもあるが)「いじめ」を思い起こせば十分であろう。転校生などへのいじめに際し、今は無視・相手にしないといった方法が中心となっているが、私が小学生の頃は「バイキン」と呼んで排除して来たが、今は「コロナ」と呼んでいると聞いている。
理屈っぽく言うならば、いじめといった差別は、仲間や世間といった共同体を維持する上で必要な祭祀の一つとなっているということである。特に人為が及ばない出来事に対し、大いなる神に祈り、穢れを除去するためのお祓いをする。新型コロナウイルスの場合に当てはめれば、ある意味PCR検査は感染の有無を計るものであると同時に、仲間や世間といった共同体に対し安全安心を得るための一種のお祓いでもある。ただこうした共同体の運営に際し、緊急事態宣言以降多くの人が自粛・自制する、私の言葉で言えば「セルフダウン」することによって感染抑制ができた。ロックダウンといった国家による「強制」ではなく、一人ひとりがある意味自主的に行動した国は日本以外ないのではないかと思う。これを称して「同調圧力」の強い国民という表現をする専門家もいるが、「同調」には自粛警察といった排除の論理が潜んでいることも事実である。この「同調」感がどのような場所に発生しているか、どの程度強い同調であるかを見極めることも必要となってくる。例えば集団クラスターが発生した島根の立正大淞南高校や天理大ラグビーにおいても犯人探しは勿論のこと誹謗中傷どころか、天理大の学生であるだけで地域の飲食店アルバイトは辞めてほしいといった「差別」が起きている。

ファクターXを生かしきれなかった日本

このコロナ禍をテーマとしたのも、このパンデミックがもたらす激変もさることながら、第一回目に取り上げたIPS細胞研究所の山中教授の提言「ファクターX」に理解共感したからでもあった。その後、後を追うように東アジアの国々と欧米諸国とではその感染者数、死亡者数が極端に少ないことが報道されはじめた。そして、経済への影響も東アジア諸国と欧米諸国とではこれも極めて軽微であったこともわかって来た。しかし、その東アジア諸国の中、中国、韓国、台湾の中で、ロックダウンしなかった日本が一番経済への影響・損失が大きかった。

それは何故なのか?答えは明確で、「自粛要請」を過度にさせてしまったことによる。勿論、過剰自粛に走らせてしまったのは「恐怖」で、マスメディア、特にTVメディアによる過剰な放送によるところが大きい。恐怖は誰もが持つものである。それが未知であればあるほど大きいのだが、それを増幅させるのが「情報」である。私のブログの多くは山中教授のHP「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」に依拠している。TV曲の情報番組にとって、デマ情報とは言わないが、断片情報をつなぎ合わせて一つの「物語」を作る事ぐらい簡単である。

また、政府の対応も「過剰」であったと思う。それはやっと論議が始まったが感染症の見直しである。現在2類相当と言われながら、それ以上に厳しい1類に近い考え方で実施されて来た。その象徴がクラスター班の旧北大教授の西浦氏による度重なる記者会見・メッセージである。「自粛」を強制させるが如き恐怖を煽る発言が多く、そのほとんどが大きく外れていたことは明白である。ただ、数理モデルの学者としての誠実さは、後にYouTibeにおける山中教授との対談でわかり、少しは納得したのだが、机上の数理モデルであったとは言え、これも過剰な情報であった。

ただ、全てが「過剰」であったということではない。前述の帰省警察ではないが、東京からウイルスを持ち込まないで欲しいといった「気持ち」は「東京差別」として移動を極端にまで抑制させている。その象徴がGO TOキャンペーンにおける東京外しである。先日東京の情報番組に関西のMC辛坊治郎が「何故、東京の人間は外されて怒らないのか。同じ税金を使っているのに」と発言していたが、東京都民としては第二波の震源地であることの負い目と今なお感染者数が高止まり状態でありウイルス拡散の可能性は今なお大きいということによる。
こうした心理も過剰な恐怖心が今なお残っているからである。そして、「差別」というウイルスはデマ情報も併せて持ち込んでいることも忘れてはならない。「感染者が〇〇店を利用していた」「従業員からも感染者が出た」・・・・・・・・こうしたデマ情報は残念ながらSNSには広く流布されている。

「人間由来」のウイルス対策

ところで、保育園や介護施設の人たちへに無料でPCR検査を行う世田谷区の計画については賛成である旨書いたが、問題は検査結果後の運営にある。以前行われた抗体検査によれば、東京都における陽性率は0.1%であり、世田谷区の保育士などのエッセンシャルワーカー2万人に対し実施した場合、20人の陽性者が出てくる計算になる。その後の運営であるが、「安心」を求めて行った検査によって、「噂」「デマ」が飛び交うことは必至である。残念ながら、もう一つのウイルスが蔓延する可能性があるということだ。当然、世田谷区は対策を講じることと思うが、噂の連鎖というウイルス感染が起きた場合、陽性者を出した保育園から預けた子供を引き取るような事態が生まれかねないということだ。「安心」を求めて、逆に「不安」に落ち入る、そんな心理社会に入ってしまったということである。

安全で有効なワクチンや治療薬が開発されていない現在、心の奥底に潜むもう一つのウイルス退治こそ経済復活の鍵になるということである。そして、このウイルスは紛れもない「人間由来」のものである。
この「人間由来」のウイルスを封じ込めるにはただ一つしかない。それは世間・仲間という「社会」の空気を一変させることである。それまで1人の感染者も出すことなかった岩手県から初めて感染者を出した。そのことがわかったと時、匿名の県民は一斉に感染した社員が所属する企業に電話やメールで誹謗中傷や非難が殺到した。しかし、その後達増知事は「県民は自分もコロナに感染する可能性があると共感をもっていただきたい」と表明した。これを契機にその企業への共感、大変でしたね、頑張ってくださいという声が多数届けられたという。リーダーの一言で、県民の「空気」が変わったということである。人間由来のウイルスはその社会のリーダーの声によって変わるということである。




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