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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2021年02月23日

再び、回帰が始まる 

ヒット商品応援団日記No780(毎週更新) 2021.2.23.

再び、回帰が始まる 


前回のブログ未来塾もそうであったが、テーマは不要不急の中に「何」を見出すかと言うコロナ禍の「時代」をどう受け止めるかであった。既に昨年夏に書いたブログでは4月ー6月における家計支出の実態を見ればわかるように旅行や外食あるいはファッションといった不要不急の支出がいかに大きかったか、つまり大きく言えば日本経済の根幹を成しているのは「不要不急」であったと言うことである。
前回の飲食事業を対象としたのも飲食の「何」を求めて店に足を向けているかを個別事例を少し分析してみた。まず求められているのが不安などの心をひととき解きははなってくれる「何か」であり、飲食が持つライブ感、しずる感であった。デリバリーと言う方法を否定はしないが、求められているのは飲食店が顧客の前で調理する、採れたての素材、焼き立て、煮立て、炊き立て、・・・・・・・そうした「感」を求めて顧客は店を訪れる。顧客と店をつなぐものは何かということである。

つまり、「不要不急」消費とは、それまであった日常を立ち止まって考えてみる。季節らしさ、多くの行事の意味、人との何気ない会話・雑談、あるいは挨拶ですら大切であったことを失って初めて気づかされたと言うことだ。「回帰」と言う言葉がある。過去に回帰する、家族に回帰する、あるいは地域に回帰する、・・・・・多くの使われ方をするが、コロナ禍の1年を経験し、危機の中で「何」に回帰していくのかと言うことである。
それまでの「らしさ」を少しでも取り戻すために、例えば巣ごもり生活の気分転換を図るためのこだわり調理道具が売れたり、以前のようにライブイベントに行きたいがライブ配信で我慢する、大きな声で声援を送りたいが無観客試合のTV画面に向かって応援する・・・・・・こうしたもどかしい1年を経験して来た。

人は多くを失った時、立ち止まり「何か」に向かう。1990年代初頭のバブル崩壊の時はどうであったか以前未来塾で取り上げたことがあった。その中でレポートしたことだが、今日のライフスタイルの原型は江戸時代にあると言うのが持論であり、不要不急と言えば元禄時代を思い浮かべる。元禄バブルと言われるように庶民文化が大きく花開いた時代であるが、実は江戸時代には好況期(元禄、明和・安永、文化・文政)は3回、不況期(享保、寛政、天保)も3回あった。
この江戸初期は信長・秀吉による規制緩和の延長線上に経済を置いた政策、特に新田開発が盛んに行われ、昭和30年代の「もはや戦後は終わった」ではないが、戦後の高度成長期と良く似ていた時代であった。この経済成長の先にあの元禄時代(1688年~)がある。浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、といった江戸文化・庶民文化を代表するアーチストを輩出した時代だ。まさに不要不急の江戸文化を創ったと言っても過言ではない。

ところで元禄期の後半には鉱山資源は枯渇し、不況期に突入する。幕府の財政は逼迫し、元禄という過剰消費時代の改革に当たったのが、周知の8代将軍の徳川吉宗であった。享保の改革と言われているが、倹約令によって消費を抑え、海外との貿易を制限する。当時の米価は旗本・御家人の収入の単位であったが、貨幣経済が全国に流通し、市場は競争市場となり、米価も下落し続ける。下落する米価は旗本・御家人の収入を減らし困窮する者まで出てくる。長屋で浪人が傘張りの内職をしているシーンが映画にも出てくるが、職に就くことができない武士も続出する。吉宗はこの元凶である米価を安定させ、財政支出を抑え健全化をはかる改革を行う。この改革途中にも多くの困難があった。享保17年には大凶作となり、餓死者が約百万人に及び、また江戸市内ではコロリ(コレラ)が大流行する。翌年行われたのが両国での鎮魂の花火であった。その花火が名物となり、川開きの日に今もなお行われているのである。

こうした江戸時代の庶民心理を言い表した言葉が「浮世」であった。浮世とは今風、現代風、といった意味で使われることが多く、トレンドライフスタイル、今の流行もの、といった意味である。浮世絵、浮世草子、浮世風呂、浮世床、浮世の夢、など生活全般にわたった言葉だ。浮世という言葉が庶民で使われ始めたのは江戸中期と言われており、元禄というバブル期へと向かう途上に出て来る言葉である。また、江戸文化は初めて庶民文化、大衆文化として創造されたもので、次第に武士階級へと波及していった。そうした意味で、「浮世」というキーワードはライフスタイルキーワードとして見ていくことが出来る。浮世は一般的には今風と理解されているが、実は”憂き世”、”世間”、”享楽の世”という意味合いをもった含蓄深い言葉である。

江戸の文化は庶民の文化であったと書いたが、それは寄せ集め人間達が江戸に集まってプロジェクトを作り、浮世と言う「新しい、面白い、珍しい」こと創りに向かったことによる。それは1980年代の昭和の漫画が1990年代には平成のコミックと呼ばれ、オタクも一般名詞になったのとよく似ている。そして、浮世絵がヨーロッパに知られるきっかけになったのは、当時輸出していた陶器やお茶の包装紙に使われ、一部のアーチストの目に止まったことによる。同じように、アニメやコミックも単なるコンテンツとしてだけではなく、他のメディアとコラボレーションしたり、ゲームやフィギュアにまで多くの商品としてMDされるのと同じである。浮世絵もアニメやコミックもそれ自体垣根を超えた強烈なメディアとなって江戸の文化、クールジャパンのインフラを創ってくれているということである。バブル崩壊前後の庶民文化を見ていくと、それまで隠れていた「何か」が面へと一斉に出て来たと言うことであろう。
浮世絵もアニメもコミックも、いわばマイナーなアンダーグランド文化から生まれた産物である。そして、庶民文化とは長屋文化、別な表現を使うとすれば、表ではない横丁路地裏文化ということである。

さてこうしたコロナ禍によってどんなライフスタイル転換を余儀なくされているか前回の未来塾で一つの仮説を論じてみた。一言で言えば「感」の取り戻しである。実感、共感、感動、ライブ感、生身、温もり、肌感、生きてる感じ、・・・・・こうした「感」をどう取り戻すかであった。
真っ先に思い浮かべるのがミュージシャンの活動であろう。この10数年音楽のデジタル化インターネット配信によって周知のように音楽業界も大きく変わって来た。CDは売れなくなり、ライブイベント収入によって経営はかろうじて成立して来た。しかし、「密」を避けることからライブイベントの多くは自粛へと向かった。ミュージシャンも音楽業界も、演奏のライブ配信によってなんとか異なる道を探ろうとして来た。それは目の前で作ってくれる出来立てのラーメンではなく、出前館によるデリバリーされたラーメンを食べるのと同じである。これは顧客が求めているのは心揺さぶられる「感」であって、インターネットを介した「感」ではない。この2つの感の違いは「作り手(ミュージシャン)」と「受けて(観客・フアン)」とが繋がっていないことによる。つまり、繋がっている感じがないことが大きな違いを生んでいると言うことだ。
出来もしないことを書くようだが、例えば人気のミュージシャン「ゆず」のスタートは路上ライブからであった。周知のように横浜伊勢崎町での路上ライブであるが、スタート当初は足を止めてくれり客はほとんどいないライブであったが、次第に聴きに来る客は増え、1年後には7500人が集まったと言われている。ちょうど秋葉原の雑居ビルでスタートしたAKB48と同じである。回帰という言葉を使うならば「原点回帰」と言うことだ。

また、不要不急の代表的なものの一つがスポーツである。日本においても無観客試合や観客の人数を制限したりしていくつかの試みが行われている。ドイツのサッカーの場合無観客試合+TV中継を行っているが、サポーターはどんどん少なくなり本来のサッカーの原点から大きく後退してしまっていると言われている。放映権料が一定程度収入として得られることを優先、つまり経済を優勢することによってフアン離れが起きていると言うことである。一昨年のラグビーのワールドカップの盛り上がりは選手たちの活躍もあるが、そのプレーへの応援が力となり、一体感こそが感動を生みと成功へと向かわせたことを思い起こす。

さて「回帰」は多くのところで広がりつつある。例えば、昨年の夏感染拡大を気遣って帰省自粛が行われた。この時社会現象として現れたのが東京のアンテナショップを訪れる人たちが多くみられた。故郷へ帰ることはできないが、少しでも故郷を思い出させてくれるモノを買い求めてのことであった。これもコロナ禍が生み出した故郷回帰である。
また、苦境であった百貨店にも多くの人が出かけるようになり賑わいを見せている。中でも食品を中心とした地方物産展が好評である。旅行はできないがせめても地方の美味いものを食べたい、ひととき旅気分をということだ。これも日常回帰の一つであろう。
ところでもうすぐ3.11東日本大震災を迎えるが、その年の流行語大賞は「絆」であった。10年経った今、復旧はなし得ても復興はまだ遠い。ただいくら遠くても故郷回帰という原点は絆によって繋がっているということだ。
また、テレワークという自宅での就業を余儀なくされ、昨年春頃まではストれるからDVなどが煮えられたが、コロナウイルスを避けての遊びなどが盛ん位みられるように為った。ブログにも採算書いて来たことだが、オープンエアでのキャンプや紅葉ハイキング、あるいは鎌倉や箱根と言った近場の小旅行が盛んに行われた。ある意味、今また「家族一緒」の日常に立ち戻ったと言っても過言ではない。

コロナ禍と言う危機を経験し、立ち止まり、足元を見て、次へと冷静に向かおうとしている。バブル崩壊の時のような大きなパラダイム転換はないが、やはり多くの「回帰」がみられるようになった。不要不急、感の取り戻し、と言えばもうすぐ桜の季節である。今年の花見という江戸時代から続く最大イベントは宴会抜きのものになりそうだが、それもまた良しということだ。(続く)



タグ :コロナ禍

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Posted by ヒット商品応援団 at 12:59│Comments(0)新市場創造
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