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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2018年01月28日

全国に広がる路地裏観光  

ヒット商品応援団日記No701(毎週更新) 2018.1.28.



一昨年からこれからの市場創造に欠かせない着眼として訪日外国人とオタクがあると指摘をしてきた。2017年度の訪日外国人は2869万人、その消費額は4兆4161億円であったと観光庁から発表があった。円安の副産物あるいはLCCなどの格安旅行が世界の至る所で可能になったことによるものだが、次は夜遊び消費がテーマであるとメディアは取り上げている。しかし、すでに北米などで放映されているアニメ映画の影響もあって「忍者モノ」などのエンターティメントショーは東京では新宿や浅草、赤坂などで活況を見せている。あるいは東京新宿のゴールデン街には口コミにより数年前から多くの訪日外国人が深夜まで酒を楽しんでいる。

実は一昨年から東京ディズニーリゾートや富士山、あるいは浅草寺雷門、京都伏見稲荷神社や清水寺といった従来型の観光ルートから、日本の生活文化を体験できる「路地裏観光」へとシフトしていくであろうと予測していた。そして、「日本観光応援団」のガイドサイトを昨年秋テスト的にFacebookで立ち上げることとした。勿論、表通りの観光地ではなく、まだ知られてはいない日本人の生活感が色濃く残る「路地裏観光地」をテーマとしたサイトである。面白いことに、そこには散歩ブームもあって、日本人観光客も「未知」を求めて集まっていた。ああ、日本人自身も実は知らないんだと言うのが素直な感想であった。以降、訪日外国人が行くであろう「路地裏観光地」、その街歩きをスタートさせた。未来塾で取り上げた「街」の多くはそうした視点からの選択でもあった。

例えば大阪の場合、既に観光地となっていたミナミの黒門市場を始め、道具屋筋を中心とした裏難波、勿論再生した通天閣・新世界ジャンジャン横丁から西成へ、更に木津卸売市場、あるいは梅田裏ではお初天神裏参道を始め中崎町から天満卸売市場・天神橋筋商店街、・・・・・・・・さて次はどの街をどのように歩こうかと考えた街の一つが「京橋」であった。マスメディアで取り上げられることの少ないこともあって、あまり注目されることのない京橋であるが、大阪人の生活がある意味まるごと残っている「ザ・大阪」とでも表現したくなる街である。中でも立ち飲み居酒屋通りや屋台村「とよ」に是非行きたいと昨年秋大阪の友人に伝えてあったのだが、残念ながら果たせなかった。ところが先日その「とよ」が訪日外国人も行く海鮮居酒屋としてTVで紹介されていた。「とよ」は大阪人であればよく知られた昔から行列ができる屋台の海鮮居酒屋であるが、まさか訪日外国人までもがと驚かされた。

この「とよ」を実感したいと思ったのは、行列店には必ずいる名物オヤジとこれでもかといったサービス精神旺盛なてんこ盛りメニューを味わって見たかった。「とよ」には江戸時代に生まれた屋台商売の原型、そして大阪らしいサービスの原型が残っているからである。また、京橋駅北口にはもう一つの原型、「立ち飲み」居酒屋が軒を連ねており、これも昭和レトロの風景が残されていて、「オヤジの街」と言われてきた京橋が若い世代にも人気の街になりつつあるという、そんな点も行ってみたい理由の一つであった。こうした街にもすでに訪日外国人が訪れているということだ。
立ち食い、屋台、安価、食べ歩き時代にはマッチした業態・価格が京橋には残されている。こうした業態は散歩ブームを背景に数年前から都市部の商店街でも行われるようになってきたが、食べ歩くというエリア・回遊ができるようなテーマ集積がなされている場所は極めて少ない。東京ではこうしたエリアとしては上野アメ横の「夜市」ぐらいであろう。このアメ横夜市にはすでに日本在住の中国や韓国、あるいは東南アジアや中東の人たちが集まり楽しんでいる。エスニックTOKYOの夜遊びの象徴のような街となっている。(詳しくは、未来塾「エスニックタウンTOKYO」を参照してください。)

このブログにも京都観光における名所観光と言われる伏見稲荷神社や清水寺、あるいは金閣寺や三十三間堂といった名所観光には観光客が溢れ出るほどの混雑ぶりで、日本人観光客は嫌気がさして「ひいて」しまい減少傾向すら生まれている。そうした背景から昨年あたりから京都は周辺の観光開発が進み広域観光が始まっている。
以前町おこし・村おこしをテーマに講演を行なった京都府南丹市美山町もそうした広域観光地の一つとなっている。「美山」という名前の通り、日本の自然を始めとした原風景が残る地域で、コンビニもいや信号一つないそんな田舎の村である。聞けば学校にはプールが無く、夏には綺麗な美山川で生徒たちは泳ぐそんな村である。その美山にもインバウンドの波が押し寄せているという。特に、飛騨高山の白川郷・五箇山にある合掌造り集落群ほどの集積はないが、萱ぶきの家の集落があり、台湾をはじめとした多くの観光客が訪れていると聞いている。こうしたかやぶき住宅の集落見学に加え、体験テーマを「米」に設定し、約6時間の滞在中にしめ縄や箸、おにぎり作り、餅つきを盛り込んだメニューを実施している。観光参加者も手作りチラシを京都市内のホテルなどに置いてもらって集めたとのこと。

また、鳥取の友人からは数年前に境港に中国からの観光船が寄港し、米子のショッピングセンターでは1日で3億円の売り上げがあったと言っていたが、その後山陰地域にも訪日外国人が増え続けているという。それまでのゴールデンルートと呼ばれた観光ルートは大きく全国へと広がっている良き事例の一つであろう。特に隣の島根県にも続々と訪日外国人が押し寄せているという。島根には周知の出雲大社があり、訪日外国人が好きな城(松江城)もある。さらには訪日外国人が体験してみたい温泉(玉造温泉)と畳座敷の和風旅館が多く存在していることも魅力となっている。日本人にとって極々普通の生活様式であるが、インバウンドビジネスにあっては既にある資源をもとに、「普通の生活」「日常生活」というその地域固有の生活文化が観光魅力になっているということだ。よく言われることだが、京都人にとって多くの寺社仏閣という世界文化遺産に囲まれて生活しているのだが、そんな歴史遺産は日常であり、特別意識するものとはなっていないことと同じである。

3年ほど前の「爆買い」が終わっても続く日本観光と言えば、渋谷のスクランブル交差点、浅草寺雷門の巨大提灯、大阪道頓堀の巨大ネオン看板といった観光ランドマークと共に、行ってみたい体験してみたいところといえば、全国各地にある城、和風旅館、露天風呂、地方ならではの「食」、更に日本ならではの自販機やガチャガチャ、100円ショップ、ドンキホーテのような激安ディスカウントストア、コンビニやドラッグストア、特色のある居酒屋、すき焼きや寿司の食べ放題、多様なラーメンの食べ歩き、・・・・・・・・こうしてインバウンドビジネスの推移と傾向を見ていくとわかるが、全て海外にはないものばかりである。国民食から世界のジャパニーズヌードルとなったラーメン然り、小さなことを言えば抹茶や抹茶菓子もそうである。こうした楽しみ方は日本人も訪日外国人も同じで、例えば最近ではシニア向けの日帰りバスツアーに訪日外国人も参加し始めているという。日帰りバスツアーと言えば、人気の「食べ放題」を中心とした1万円前後の安価な観光である。

ところでその訪日外国人がこんなところにも出没しているという事例については前回の未来塾でも取り上げてきた。その象徴として昔の日雇い労働者のドヤ街であった大阪西成、東京では山谷に、バックパッカー向けのゲストハウスが次々とリノベーションして誕生していると。そして、その周辺の飲食店が賑わっていて、トリップアドバイザーによる2017年度の人気ランキングNo1に大阪西成のお好み焼きの「ちとせ」がランキングされている。
こうした安価なゲストハウス需要に応えた一つにあのフーテンの寅さんのロケ地で知られている東京葛飾柴又に同じようなゲストハウスが出来て帝釈天への参道に訪日外国人が現れてきたという。その宿泊施設は「柴又BASE」で、葛飾区の旧柴又職員寮を、ドミトリーを備えたバックパッカー向けのホステル(宿泊施設)にリノベーションしたというものである。ちょうど2年半ほど前になるが、今で言うところの寅さん映画の「聖地巡礼」の地である柴又が廃れて行く状況を未来塾「テーマから学ぶ」(観光地競争の「今」)として書いたことがあった。都市も地方も、街も村も、商業施設も商店街も、通りですらもが「観光地化」と言う集客競争の時代で、柴又は観光地としては衰退の一途をたどるであろうと言う内容であった。(冒頭の写真は参道の土産物店)
2020年の東京オリンピック・パラリンピックを目処とした民泊の法整備が遅れており、急激に増え続ける訪日外国人の宿泊需要に追いつかないことから、前述の大阪西成や東京山谷や、あるいは東京の中央線沿線には多くのゲストハウスが生まれ活況を見せている。こうした状況下での宿泊施設の誕生によって、多くの訪日外国人が柴又を訪れ、帝釈天の参道商店街も変わって行くことと思う。この参道を歩けばわかるが、従来の日本人観光客相手の草団子などの土産物店が多く、飲食店としては川魚料理・うなぎや天ぷらといった店があるがどれも相応の高い価格の食事処となっている。訪日外国人が好む安価で楽しめる居酒屋などの飲食店は極めて少ない。恐らくそうした店ができるまでは、単なる宿泊のみで飲食をはじめとした「遊び」には他の街へと流れて行くことと思われる。土産物店はあっても、日本人が「いいな」と思う日常的に使える店がほとんどないと言うことだ。これから柴又帝釈天がどのように変わって行くか、注視して行くつもりである。

こうした地域固有の生活文化、日本人が当たり前のこととして気付かずにいた「日常」は、インターネットによって、口コミによって、想像以上に早く拡散して行っていると言うことである。これも「いいね」時代、共感連鎖時代の特徴としてあると言うことだ。2年ほど前、「わさび事件」という小さな文化の衝突があった。わさびは日本独自の香辛料で訪日外国人にとって、きわめて珍しいことから寿司などには大量につけて食べる事があった。関西のある寿司店で過剰にわさびをつけて出したところ、わざとやったとして「バカにしてる」とネット上で非難の声が上がりその寿司店が謝罪したことがあった。そうした文化の違いは、お互いに経験し合うことによって、その文化の奥にある「良さ」がわかっていくものである。京都の美山町で行なわれている体験テーマが「米」となっているが、ご飯として食べるためだけの米ではなく、多様な食べ方や残った藁を使ったしめ縄を使った山里の暮らし体験などもそうした文化の良さの一つであろう。そこには昔からの知恵やアイディアが込められた暮らしの文化がある。そこにも古来からの「勿体無い」精神があり、これも日本固有の暮らし文化ということだ。こうした文化理解には多くの時間を要すると思っていたが、インターネット時代・「いいね」時代の共感連鎖は極めて早いということである。勿論、「負」の連鎖も同様であることも忘れてはならない。(続く)

*なお、テストではあるが、京都の友人も数年前から京都や大阪の路地裏に残っている祭りや催事、更には食事処をレポートしてくれています。興味のある方は私の Facebookのホームにもシェアしてくれているので、どうぞご覧ください。
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:36Comments(0)新市場創造

2018年01月21日

こころが動く、2つのキーワード   

ヒット商品応援団日記No700(毎週更新) 2018.1.21.


株価が上がり、有効求人倍率も1.56倍と良く、一見好況であるかのような数字が政府からリリースされているが、一向に景気実感はないと多くの生活者は感じている。好況はごく一部の大企業で、99.7%が中小・小規模事業者である。これは当たり前のことで、景気実感は可処分所得が増え、自由に消費に向かうことによって生まれる。一昨年から一見ギャップに思えるこうした事象はギャップではなく、社会保険の負担増により企業にとって人手不足であっても賃金を上げずらい状況にあり、生活者も自由に消費に向かう状況にはない、こうした当たり前のことから好況感は生まれないということである。
しかし、こうした「状況下」にあっても、身の丈にあった小さな「楽しさ」を創り出しているのが今という「成熟時代の消費」である。1980年代のようなバブル期を「好況」とした、その比較における好況感を感じることはない。多くの生活者は客観的冷静に未来を見据えた「今」の生活を考えた賢明な消費となっている。

さて、「いいね」文化、共感が求められる時代についてブログを書いてきたが、既に一昨年からこうした傾向は顕著に出てきていた。あの作詞家阿久悠さんは「時代が私に歌謡曲を書かせた」と語っていたが、いつの時代も歌は多くの人の「心」の在りようを映し出している。2016年デビューシングル「あいたい」がロングセールスを記録した林部智史。その抜きん出た歌唱力もさることながら、幾度となく挫折を繰り返した歌手の生き様がその歌詞をより際立たせ「泣き歌の貴公子」と呼ばれた歌手である。
翌年、一度も事務所や大手レーベルに所属することなくデビューからショッピングモールを中心に活動を続けてきた半崎美子が「サクラ~卒業できなかった君へ~」で17年間の下積みを経てメジャーデビューする。林部智史が「泣き歌の貴公子」であるのに対し、半崎美子は「ショッピングモールの歌姫」と称され、聴く人の涙を誘う。半崎はショッピングモールでサイン会をやっていると、普段まったくCDを買ったことがないとか、60年生きていて初めてCDを買いましたっていう方がすごく多いと話す。半崎にとってのショッピングモールは日頃音楽とは無縁でいた主婦たちとの「出会いの場」であったと話し、勝手に歌っているのではなく、いろいろなことを内に抱えた人たちの心を自分のフィルターを通して歌っているとも。
聴く者の感情移入は歌の本質であるが、映画もまさに泣けるものとしてある。もっと日常的なものであれば、お茶の間に直接入ってくる広告CMにも泣けるものがある。東京ローカルのみであるが、東京ガスは数年前から泣かせるCMをシリーズで行なっている。「家族の絆編」といった父娘の交流をテーマとしたCMであるが、カテゴリーとしてくくるなら「いいねCM」とでも呼べるものだ。
私の持論の構図ではないが、林部智史も半崎美子も大手レコード会社から売り出された楽曲ではなく、ある意味マイナーなデビューである。前者が表通りであるならば、後者の二人は路地裏のミュージシャンである。そして、旧来の音楽市場が縮小していく中で、この二人は音楽とは無縁であった新しい市場を開発していると言える。この市場は小さなものではあるが、メジャーではないもう一つの心に効く市場を代表している。

こうした「泣く」という情動反応は多くの研究者が仮説を立てているが、その生理反応のメカニズムは解き明かされているが、心がそのように「何故」動くのかは分かってはいない。この情動には快情動と不快情動の2つしかないという。凄まじいスピードと変化という時代要請が私たちに及ぼす多大なストレス社会にあって、一人で向かわなければならない個人化社会。こうした社会にあって、「泣く」ことは一種のストレス解消法を身につけたものだと言われている。
人はそれまで経験し蓄積されてきた苦労や心配事、あるいは不安を「泣く」ことによって洗い流すことを身につけてきたという。脳科学者である茂木健一郎は泣く行為を「人間の脳が、自分が受け取れない何かを受けた時、流すもの。言わば”掛け流し”のようなもの」と説明している。受け止めきれない時の、一種の防御反応、発散作用であるとも言える。

こうした「泣くこと」が必要とされる時代にあって、もう一つの情動、掛け流すものに「笑い」がある。笑いによるNK細胞の活性化をはじめその生理的メカニズム、その効果については多くのケーススタディが既に報告されている。「笑い」は病院やお年寄りの介護施設で医療行為として実際に行われているのでここでは触れないがすでに「笑い療法士」という医療職も生まれている。この「笑い」の歴史もいつか学んでみたいと思っているが、これも「歌」と同様時代時代の有り様を見事に映し出していることだけは事実である。

ところでここ数年新しい市場の「芽」を探しに大阪に出かけているが、未来塾としてそんなテーマも取り上げている。生まれ変わった新世界・ジャンジャン横丁や快進撃を続けるUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)もそうだが、大阪は「顧客との関係」の原点が残っている街である。大阪の街を歩けばわかるが、これでもかと楽しませる「文化」が都市再生・町おこしの鍵となっていることがわかる。笑いでいうならば、江戸落語がお座敷芸であったのに対し、上方落語は神社や河原といった屋外の芸であったと言われているように、そこにはとことん笑わせる、満足させる芸が生まれる。足を止めて最後まで笑ってくれない限り料金をいただけない、そんな環境から生まれたお笑いの芸であったということである。こうした背景からであろう、大阪がお笑いの聖地と言われる所以である。ただここ数年の吉本興業所属の芸人は「芸」のないタレントが多く、TV局の低コスト運営も相まってバラエティ番組には粗製乱造タレントばかりとなっている。全てが吉本所属ではないが、流行語大賞にも登場する「一発芸人」ばかりとなっている。大阪で始まったMANZAIブームも「やすきよ」以降、島田紳助・松本竜介までで、後はダウンタウンぐらいであろう。

話は横道にそれてしまったが、この2つの情動、その「掛け流し」はストレスが直接「個人」に向かっていく時代にあっては、益々必要不可欠となる。それは音楽や映画、あるいは漫才のようなお笑いも含め、ビジネス発想の着眼の多くを占めることが推測される。前述の泣けるCMと同じように、笑えるCMもここにきて増加傾向にある。共に、過剰情報の中にあって、どれだけ目立つか、意外性や特異性を追いかけることばかりであったが、生活者の情緒・感情に訴求する方向に次第に進化してきている。
例えば、CMの世界で比較をするとよくわかる。ソフトバンクのスマホCMは犬のお父さんをはじめとした白戸家家族によるストーリー展開でその「意外性」の面白さであった。その後を追いかけたのがauのCM「三太郎シリーズ」で、これも浦島太郎や桃太郎、金太郎などの昔話を借りた意外性の世界ではあるが、それぞれのストーリー展開には「笑い」を誘うようにキャラクター設定による面白CMになっている。「いいね」時代での共感評価はauの方がダントツに高いことがわかる。ちなみに、auはCM総合研究所による2017年度のCM好感度No.1ブランドになっている。

以上については情動の動きが激しい時代をポジティブに考えてのことである。しかし、こうした感情の起伏の激しさは、ネガティブ面としては既に社会問題化していることも忘れてはならない。「キレる」という言葉がある。1990年代に生まれた言葉でお笑い芸人の西川のりおのギャグからと言われているが、昂ぶる感情を抑えることが出来ずに怒りの感情を直接ぶつける、あるいはエスカレートして凶行に走るといった場合に使われる言葉である。2000年にこうしたキレるとしか言いようのない意味不明、不可解な少年犯罪が多発し、マスメディアが多用することによって一般化した言葉である。そして、この抑えられない「感情」、茂木健一郎言うところの「掛け流す」ことが出来ない怒りの感情は広く一般化していく。それはモンスターペアレントあるいはモンスターペイジェントと呼ばれ、単なる教師や医師への苦情・クレーマーを超えた「情動」によるものとして今日まで続いている。最近では騒音などのお隣さん同士の問題が多発しているが、コミュニティが崩壊した個人化社会にあってはこうした問題が日常化しているのも、広く言うならばストレス社会における病理であろう。
そうした行為は、犯罪とは呼べないが、一般常識では理解できない、正体不明の行為として受け止められている。こころが動く、その激しさは負の側面として社会問題となっていることをも考えなければならない。極論ではあるが、たった一言、小さな行き違いによって「いいね」から「激昂」へと振れるということである。

さて課題としては心が動く時代のビジネスをどう考えるかである。「いいね」という共感時代にあっては良くも悪しくも大きく振れる顧客心理のことを考えなければならない時代にいる。それは値上げであれ、値下げであれ、価格に対する考え方・コミュニケーションをどうするのか。「本音」であっても、顧客によって真逆の受け止め方をされるということもある。つまり、昨年の総選挙の時もそうであったが、政治家のたった一言によってそれまでの生活者の心理フェーズがガラッと変わる、またその逆もある、そんな時代にいる。
実は適切な言葉ではないかもしれないが、今は「恋愛」のような心理社会にいると考えた方が良い。恋愛を経験した人間であればわかると思うが、自ら「好き」にならない限り、相手も好きにはならず、恋愛は成立しない。「いいね」が大きく振れる「今」にあっては、まず顧客を信じ「好き」になることから始めるということだ。好きを通じ「いいね」になれば良いが、また逆に「嫌よ」になればその関係は成立しないことになる。

今までのマーケティングは「個客」を相手に興味・関心事を探り「内なるこころ」に訴求することが基本であった。いいね時代の「共感」がキーワードになったと言うことは、まずこの「内なるこころ」の発見が必要となる。それは通販であれ、対面販売であれ、この「内なるこころ」を解き明かすことが、「誰を顧客とするのか」につながる。顧客を発見するとは「内なるこころ」の発見に他ならない。そして、「恋愛」市場という言い方をするとすれば、「好き」を「共感」という言葉に置き換えても良い。自ら「いいね」と共感することによって、顧客もまた共感するか否かということである。

もう一つの方法は既に「こころ」がどんな動きをしているかを分析解明している企業がある。周知のAmazonでは検索ページを開ければ、「よく一緒に購入されている商品」、さらには「この商品を買った人はこんな商品も買っています」という表示がされている。商売としては「ついで買い」の促進であるが、この2つの項目は購入者の「こころの動き」(興味・関心事の変化)を分析把握するためのものとなっている。Amazonの場合は膨大な情報を分析し、ついで買いを促進し、顧客にとっては丁寧なサービス情報となり、目標とする「Amazonっていいね」へと向かわせることにある。
このことは街の青果店でも鮮魚店でも行なわれてきたことで、例えばその日安くなっている旬の野菜をお勧めしながら、”鍋にするならこれもいいよ”と言うのと同じである。顧客のためにどれだけ本気で向き合っているかによって、顧客のこころもまた動く。以前そんな事例としてカタログハウスの「お客様窓口」での対応を書いたことがあった。現在も行われていると思うが、カタログハウスでは顧客からの問い合わせや質問について、全て手書きのはがきで答えている。通販という見えない顧客と「手書き」というこころで会話しようとしているのである。ネット上でシステマチックに答える世界には便利ではあるが、そこには「人間」は介在しない。カタログハウスの場合は、「手書き」によって少しでも「人間」が答えている世界に近づこうとしており、それが顧客の側にも伝わる。一方、Amazonは真逆であるかのように思えるが、AI(人工知能)の世界ではないが、HPを訪れた顧客の心がどう動くのかデータ分析を通し、顧客満足を求め「人間」に近づこうとしている。どちらも「こころの動き」に応える試みである。

成熟時代のビジネスは、どのように顧客の「こころを動かす」かが最大のテーマとなった。Amazonのようなデジタル世界も、カタログハウスのようなアナログ世界にあっても、更に言うならば巨大なスーパーチェーンストアであっても、街の鮮魚店であっても、そこには必ず「人間」が介在する。そして、その「人間」に不可欠なものとして「泣き」「笑い」と言う2つの情動が求められていることだけは確かである。
ところで、高校野球に「こころ動かした」一人にあの作詞家阿久悠さんがいる。無類の高校野球フアンである阿久さんは、「見る側」からの視点で1979年から2006年の亡くなる直前まで全試合・全球の目撃者として書いた書籍「甲子園の詩」(幻戯書房刊)が残されている。その中で「なぜにぼくらはこれ程までに高校野球に熱くなるのだろう」と自問し、「”つかれを知らない子供のように”と小椋佳が歌ったが、今の子供はつかれきっており、ただ一つ、つかれていないものに心を熱くするのだろう」と語っている。そして、熱くさせる何かとは甲子園という大舞台で繰り広げられるる「泣き」「笑い」のドラマであり、それがこころを動かしていると。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:15Comments(0)新市場創造

2018年01月14日

価格価値を超えるもの

ヒット商品応援団日記No699(毎週更新) 2018.1.14.




今年の中心テーマとして、「成熟時代の消費」を考えていくこととした。それは既に一昨年の夏ユニクロの決算発表の記者会見内容を踏まえたもので、新たな「価格」認識が必要な時代に向かっていると感じたからであった。既に何回かブログにも書いてきたので繰り返さないが、値上げの失敗を認め次なる改革が必要であるとの発表であった。この改革が眼に見える結果の一つとして現れてきているのが、昨年秋からのファーストりテーリングの出店内容、その規模によく出てきている。特に売上好調である低価格妹ブランドGUとユニクロブランドとのセットの出店によく出てきている。こうしたビジネス事例としてユニクロを取り上げるのも、柳井社長という創業者でありオーナー型リーダーによる経営であることから、その経営戦略とその結果が、他のサラリーマン型リーダーによる企業運営と比べて、わかりやすくよく見えているからである。

2008年のリーマンショック以降、多くの企業、特にチェーンストアは市場の縮小に伴い店舗閉鎖が相次いだ。勿論、「訳あり」というキーワードと共に「低価格」商品のヒットが続いたことは周知の通りである。その良き事例の1社が290円という安さを売り物にしたラーメンチェーン店の幸楽苑である。ある意味順調に成長してきた幸楽苑であるが、昨年業績悪化により全店の約1割弱の店舗閉鎖が実施されたように単なる低価格だけでは成立しないことも明らかになった。更には低価格を売り物としてきた焼き鳥居酒屋のチェーン店「鳥貴族」も昨年10月280円均一から298円均一へと値上げをした途端売上が3.8%減少となったとのこと。背景には原材料費やアルバイト人件費の高騰があるのだが、幸楽苑も鳥貴族も全て「客数減」による経営悪化である。言葉を変えれば、「消費のあり方」が変わってきているということである。

年頭のブログでは「新しい消費物語始まる」とし、成熟時代の消費をテーマとした。その「成熟」とはモノ充足から離れた「いいね文化」「共感物語」がその出発点となっているという指摘であった。その裏側にはデフレが常態化、日常化した時代の「新たな価値観」のことである。昨年夏頃から最早デフレは死語となったとの指摘をしてきたが、このような消費動向を誰も定義しないまま今日に至っている。そうしたことから今後は「ポストデフレ時代 」と呼ぶこととした。
私も「デフレ」という言葉を何回となく使ってきたが、その定義であるOECDによるもので「一般物価水準が継続的に下落する情況」をデフレとしている。但し、デフレ=不況ということではない。リーマンショック時の不況は脱したものの、いわゆるV字回復のような成長ではなく、停滞状況が続いているということである。

実は価格価値が下がり続ける経済の問題としてだけではなく、あらゆる面において旧来価値の「下落」が取り巻いていることを指摘してきた。例えば、価値の下落、その価値とは従来価値があるとされてきたものの下落である。その冴えたるものの一つが情報であろう。周知のように、インターネットによるブログやYouTube、あるいはFacebookといった個人情報の出現によって、既存メディアによる情報価値は総体的に下落した。その象徴例が既存雑誌が部数を落とし、あるいは廃刊していくなかで、宝島社の付録付き雑誌が部数を伸ばしたり、他の雑誌社も付録付き雑誌の発売へと追随した。書店は情報販売と共に、多様なグッズの販売をも引き受ける事象も副産物として生まれてきた。
つまり、価格を含めてだが、旧来価値の下落がその本質にあるということである。

そして、この「ポストデフレ時代」に新しい消費の芽、新しい価値を気付かさせてくれたのが訪日外国人とオタクであり、それは中心から「外れた」地方に、郊外に、表通りから少し入った横丁路地裏に、あるいは高層ビルの谷間にある「雑居ビル」の一室に、「地下」に、生まれ熟成している。この象徴例が、東京からみれば地方である大阪に、中心の梅田ではなく難波(道頓堀・道具屋筋)に、あるいは中心の裏路地にあたるようなベイエリア(USJ)や新世界(ジャンジャン横丁)に、人が押し寄せ活況を見せている。そして、人を魅きつけるキーワードが日本ならではの「生活文化」ということである。

こうした価値の進化(魅力)をエリアとしてみて行くと以上のようになるが、業界の中でも同じような「進化」と「下落=旧来型」がみられる時代となっている。前述の幸楽苑と比較されているのが日高屋であるが、日高屋の場合は安さの前に「至便な立地」と「時代にあったメニュー=野菜たっぷりタンメン」という柱が用意されている。そうした比較よりも、いわゆる「街中華」の店々の方がこうした他にはない手作りといった特徴、地場の顧客要請を踏まえた中華定食作りといった目の前にいる顧客を大切にした「進化」を遂げ生き残っている。例えば日高屋もそうであるが、立地商圏に合わせてサラリーマン向けの「ちょい飲み」需要にも応えるといった丁寧な商売が進化のもとになっているということだ。

そして、この進化の先には何があるかである。それは日高屋のコンセプトでもあるが「食堂」である。中華メニューを入り口としているのが日高屋や街中華店、あるいは「餃子の王将」も入るが、「和」を入り口にしたのが成長著しい「大戸屋」をはじめとした「やよい軒」や地域の特色ある「大衆食堂」である。東京で言えば、歴史のあるときわ食堂ということになる。メニューは豊富で、しかも安い。一時期、ファストフードチェーンによって、あるいは後継者がいないことから市場から撤退した「食堂」である。一般的に外食産業を不況業種のように見る専門家もいるが、それは一面的で食堂は健在である。昨年銀座の路地裏歩きから久しぶりに「三州屋」という大衆割烹で食事をしたが、満席でしかも次から次へと顧客は押し寄せていた。三州屋はまさに知る人ぞ知る路地奥の老舗店だが、顧客は周辺のビジネスマン以外にシニア層や外国人と多様で、大衆割烹というより街の「食堂」となっていた。食堂にはあれこれ好きなメニューを組み合わせる「楽しさ」もあるが、この三州屋には「鳥豆腐」という古くからの名物メニューがあって一つの「文化」となっている。いわゆる名物メニューである。入り口は異なるが「食堂」には選ぶ楽しさと共に、独自の「店文化」とでも呼べるような特徴メニューがあるということだ。

その「文化」とは何か、どんな力をもたらしてくれるのか、ということである。それは「文化」を感じた顧客によって力となる。「いいね」あるいは「共感」することを入り口に、回数を重ねフアンになり、オタクにもなり、そして信者にもなる。勿論、時間を必要とする。四半期単位の実績だけで評価される米国型経営には難しい。昨年の未来塾「生活文化の時代へ」の末尾にも書いたが、青森には「100年食堂」と呼ばれる大衆食堂が数多くあると。地域の人たちが100年かけて育てた食堂である。店の人たちだけでなく、顧客もまた受け継いで行くもので、そうした感じる「何か」を生活文化と呼ぶ。
そして、その生活文化の中心には必ず「あるもの」がある。それは使命感であり、それまで精進してきたこだわりで、もう少しビジネス的に言うならば、ポリシーとコンセプトということになる。使命感やこだわりは必ず「表」に出てくるものである。いや、表に出てこないものには使命感もこだわりもないということだ。「外見」は一番外側の「中身」であり、それは一つの「スタイル」となって、私たちに迫ってくる筈である。
例えば、この外見と中身の関係はデザインの本質でもある。「いいね」と感じるデザインは中身が素敵であると言うことである。デザイン価値とはそうしたものであって、長く使い続けたい、着続けたいデザインのことで、作ってくれた企業や人物の使命感やコンセプトを感じ楽しむことでもある。成熟時代の豊かさとは、こうした感じることができる豊かさのことで、ポストデフレの時代とは、「感の時代」を迎えたということだ。価格価値を超えるもの、それは「感じる」商品作りということだ。(続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:24Comments(0)新市場創造

2018年01月08日

「いいね」時代の落とし穴 

ヒット商品応援団日記No698(毎週更新) 2018.1.8.

前回のブログではモノ充足から離れた成熟時代の「いいね文化」「共感物語」について書いた。ある意味、それまで気づかなかった、埋れていた生活文化への「いいね」であり、その共感物語が消費に繋がるという主旨であった。ただ「いいね」という表現はSNSのそれと直接結びつき誤解が生まれるかもしれないので前回のブログに続きこのテーマについて書き添えておくこととする。
実は何故「いいね」という共感に多くの人がひきよせられているかというその社会的背景を明確にしなければならない。マーケティングの基本に「問題点こそ市場機会である」という基本的な視座がある。これはことマーケティングという狭い分野だけでなく、周知のP.ドラッカーが自らを社会生態学者であると言わしめたように、「社会」を見据える視点のことでもある。

ところでこの視座を持って、何故「いいね」に人は魅了されているのかである。その背景には前回も少し触れたが、個人化社会の進行が大きくある。社会の単位が家族や会社という単位から「個人」へとその重心が移動してきたことによる。そこには当たり前のことであるが、「人は一人では生きられない」という心の「隙間」が生まれてくる。この隙間を埋めるかのように、他者の発言や表現内容に「共感」する。この共感の世界を広げることに成功したのがFacebookであるが、以降共感マーケティングやシェアーマーケティングといった販促策が登場してくる。社会心理から言えば、共感することによって自己承認欲求を満たすという構造である。

実は本当の共感とは、「あの人の気持ちがわかる」ことではなく、「共に通じ合っている感覚」のことである。つまり、「感じる」ことがベースとなっており、常にその感じ方は変化するということでもある。この事例として良いのかどうかわからないが、昨年の総選挙における希望の党の小池百合子代表の「排除発言」によってそれまでの「自分たち有権者のことをわかってくれていた」という共感は、一言で言えば「私とは通じ合っていなかった」という真逆の方向へと大きく振り子が振れた社会現象を目のあたりにしたことがあった。ある政治評論家は「それまでのいじめられっ子であった小池代表がいじめっ子になったしまった」と明確に指摘をしていたがその通りである。この排除発言によって引き起こされた「違うじゃないか」という感覚が真逆の結果を産んだということである。「感じ方」はたった一言で変わる事例である。

マーケティングにはロングセラーとベストセラーという2つの「売り方」がある。厳密に言えば、「顧客が求めた2つのあり方」と言ったほうが正確である。例えば、1990年代末、渋谷109で起きたベストセラー「事件」が当てはまる。その中心は周知の「エゴイスト」というファッション専門店でカリスマ店長という言葉と共にまさにベストセラーとなった。ファッションという「情報商品」には多く当てはまるのだが、「一挙に売れ、あっと言う間に売れなくなる」と言う極端な「ブーム」のことである。当時の状況を「エゴイスト」の代表である鬼頭さんにインタビューした折話してくれたのは「売るのを制限した」という、つまりブームを終わらせることであった。つまり、商品の持つ魅力によって売れたのではなく、今の言葉で言えば「いいね」連鎖が起きたからであったと話してくれた。「連鎖」は一定の範囲で必ず終わるということである。

「いいね」時代をどう乗り越えるかという課題を前にしているのだが、問題はその「いいね」の中身とその伝え方ということになる。「感覚」に訴えかけることは必要な時代である。昨年の流行語大賞になった「インスタ映え」はビジュアルという最も「感じる」ことができるメディアとなっている。今や飲食店に行けば、食事の前に写真を撮る人間が数多く見られる。その食事が美味しければリピーターになるが、ごく普通の食事であれば、他のインスタ映えする飲食店へと向かう。つまり、そうしたマーケットを顧客対象とするのであれば、次から次へとそのビジュアルをこれでもかと変えていくことが不可欠となる。しかし、それが驚くようなビジュアルで無くなった時、真逆の結果へと向かう。もう一つの方法はより深みのある商品・サービスへと磨き上げ続けることである。こうしたリピーターづくりの先にはブランド化、老舗へと向かうこととなる。
これらの違いを前回のブログでは前者を情報フロー型、後者を情報ストック型とネーミングしたが、どちらかの道を選ぶこととなる。

この「いいね」という言葉、感性世界の前段階として「かっわいい〜ぃ」という言葉があったことを思い出す。この「かっわいい〜ぃ」は物語消費時代における視覚の言語化現象である。1990年代後半から、この「かっわいい〜ぃ」という言葉はあらゆる世界へと浸透していくのだが、何がかわいいのか、どこがかわいいのか、といっても意味は全くない。「かっわいい〜ぃ」という言葉の裏側に自己愛を見る事も可能であり、また日本語理解の足りなさを指摘することも必要である。ただ、コミュニケーション、表現という視座に立つと、過剰なまでの情報の中で、「かっわいい〜ぃ」は直感的表現そのものと言える。「いいね」も同様の表現である。「かっわいい~ぃ」は日本ファッションのキーワードとして世界の共通語となっているが、「いいね」もまた世界共通の感性ワードという点もまた同じ時代のキーワードとなっている。
繰り返しになるが、この感性世界のあり方もまた常に変化していくことを忘れてはならない。(続く)
  


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2018年01月03日

新しい消費物語始まる




ヒット商品応援団日記No697(毎週更新) 2018.1.3.

新年明けましておめでとうございます。
昨年最後に書いたブログは「生活文化の時代へ」と題した、成熟時代の消費を考えたものであった。その生活文化は、中心から「外れた」地方で、郊外で、表通りから少し入った横丁路地裏で、あるいは高層ビルの谷間にある「雑居ビル」の一室で、「地下」で、生まれ熟成しているとし、その魅力の一端を内容とした。そして、その裏通りの消費魅力を「文化共感物語」であると指摘をした。つまり、バブル崩壊以降の消費特徴であるモノ充足を終えた成熟時代の消費キーワードであった。

こうした指摘をしてきたのだが、くしくも朝日新聞と日経新聞の元旦号に同じような成熟時代の特徴をテーマとした記事が載っていた。朝日新聞は平成のライフスタイル変化の特徴として、ロックスター矢沢永吉を例にあげて、「成功とハッピーとは違う」とした矢沢の発言を取り上げ、他と比べることのない「ハッピーは自分が決める」とした個人化社会の変化をその内容としていた。成功という経済的充足とは違う自身の幸福を追求する時代に来ているという指摘である。
日経新聞の方では、総務省が行っている全国消費実態調査結果に基づいた指摘を行っている。それは5年前と比較し30歳未満男性では消費支出減15%、女性では5%減というデータをもとに、モノを持たない生活を志向し、昨年の流行語大賞となった「インスタ映え」ではないが、SNSでの「いいね」という共感価値を求めた消費行動となっていると。そして、この根底には認めてもらいたいとした「承認欲求」があるとした理由だが、私が以前から指摘してきた欲望喪失世代、離れ世代のネット上での「居場所欲求」のことである。

前者の欲求を心の豊かさ欲求と呼んでも構わないし、生きがい欲求と呼んでも同じである。後者を自己表現欲求と呼んでも良いし、いずれの場合も「モノ充足」から離れた欲望であることに変わりはない。”広告は詐術です。嘘八百の世界です”と言ったのは、雑誌「広告批評」を主宰し誰よりも広告の世界を熟知していたコラムニストの故天野祐吉さんであった。バブル崩壊以降、モノの実体から離れた嘘八百の世界を楽しめる環境はどんどん少なくなってしまった。その環境は周知の可処分所得の減少であり、何よりも働き方が変わったことによる。嘘八百を楽しめる余裕がなくなってきたことと共に、企業も消費者もモノの実体に迫ることによって価格意識は研ぎ澄まされ、それまでの生半可な付加価値といった嘘のベールが否応無く剥がされてしまう。結果、デフレマインドが形成されるわけだが、ランチは500円以内ですますが、一方午後のティータイムにはスターバックスで600円のドリンクを楽しむ。つまり、それまでの一面的なデフレ環境での「消費物語」が変わってきたということである。どんなにちっぽけに見える幸せでも、自分が良いと思えれば素敵じゃないか、という物語である。あるいは自己実現などと高邁なことではなく、「自分流に楽しく遊ぶ」ことであって、例えば2017年の大晦日カウントダウン時刻に渋谷のスクランブル交差点に集まることもまた自分流の遊びで、それもまた自己実現につながるということである。SNSにおける「いいね」共有をスクランブル交差点でも共有するということである。これも「いいね」文化の共有ということであろう。

矢沢永吉の言う「成功」は戦後日本の奇跡とでも呼べる復興・成長、モノの乏しい時代から充足を果たした時代に置き換えても違いはない。この成功のことをあの作家五木寛之は「下山の思想」の中で讃えているが、今や登山ではなく下山のあり方が求められれいると指摘をしていた。その指摘とは矢沢の言葉で言えば「ハッピー」ということになる。一般的にいうならばバブル崩壊以降目指した「心の豊かさ」ということになる。五木寛之は「下山」とは安全に、しかも確実に下山する、ということだけはない。下山のなかに、登山の本質を見出そうということだ、と書いている。勿論、成長を否定しているのではない。山を下り、しばし体をやすめ、また新しい山行を計画する、ということである。この登山は若い世代だけでなく、シニア世代にとっても登り方は違っても山行をするということである。そして、「下山」の時代とは、言い換えれば「成熟期」ということではあるまいかとも。

さてその登山の本質は何かということである。登山をすれば分かると思うが、登山と下山とでは「歩き方」が違う、気持ちも、何に重心を置くかも違う。登山の時に見える景色は「外」の世界へと向けられ、下山の時は「内」へと向かう。消費という視点に立てば、外とは欧米の文化であり、それが具現化された商品やスタイルのことである。内とは足元に埋もれた日本の文化であり、日常に広がる世界のことである。そして、登山に要した時間がバブル期までの60年とすれば、下山もまた60年かけて山を下りる。現在位置はと言えば、山頂から少し下りたところにいて、バブル期という山頂を懐かしむ人もいる。以前、「バブルから学ぶ」というテーマブログにも書いたが、マハラジャが復活しバブルの復活などとマスコミでは言われているが、ポスト団塊世代が当時を懐かしむ世界だけで、若い世代にまで広がることはない。

ここ2年ほど街歩きの中心を東京から大阪や京都へと広げてきた。というのも下山から見える消費風景に「いいね文化」、あるいは「共感物語」といった新しい芽がこの地域に見え始めているからである。その芽とは2017年度には2900万人に及ぶであろうと予測されている訪日外国人と小さくてもハッピーでありたいとするオタクという今まで無かった2つの市場によって生まれた風景である。街を歩けば、あるいはネット上の路地裏サイトを歩けば、必ずこの2つに出会うはずである。そして、この2つの市場に共通していることは、モノ充足から離れた成熟時代の「いいね文化」「共感物語」がその出発点となっている。「好き」は未来の入り口ということだ。そこからどんな文化が育っていくか、新しい消費物語が始まる。
今年もまた下山から見える消費の景色をより現場に近いところからブログを書いていくつもりである。(続く)
  


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