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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2020年09月20日

未来を知る

ヒット商品応援団日記No771(毎週更新) 2020.9.20



ことごとく予測が外れる事実にマスメディア、特にTVメディアは謝罪と反省を繰り返している。先日偶然であったが、TBSの情報番組「Nスタ」を見る機会があった番組でウイークデーの午後夕方の番組である。その中でメインアナウンサーである井上貴博が視聴者に対し、これまでの放送内容に間違いがあったことに対し反省のコメントを伝えていた。新型コロナウイルスについての短いコメントであったが、「2週間後には死者が4万人に及ぶ。あるいはGoToトラベルによってウイルスが全国に拡散する。といった情報を伝えてきたが、間違いであった」とした反省の弁であった。「2週間後には死者が4万人に及ぶ」は周知のクラスター班であった元北海度大学西浦教授による数理モデルに基づくものだが、その後西浦氏は訂正のコメントを寄せているが、こうしたことは報道されてこなかった。また、GoToトラベルによるウイルス拡散説についてもTVメディアや感染症専門家はこぞってその悲惨な結果を予測していた。結果どうであったかであるが、Go To トラベルを利用した宿泊者が8月末までに1339万人に達したと発表されている。そして、明らかに新型コロナウイルスによるクラスター感染が確認された事例は10件に満たないものであった。Nスタはこうした「事実」を背景にした反省の弁であったが、まだまだ少なくなってはいるが、こうした事実を避けて構成する番組もあるようだ。感染が広がった3月には、パチンコ店がクラスター発生の元凶であるが如き報道がなされたことがあったが、こうした報道の反省は半年近くになってなされる始末である。

こうしたことを裏付けるように菅新政権に対する支持率などの世論調査が行われたが、多くの専門家の予測を大きく裏切り、周知のように新聞各紙のほとんどが60%以上で日経新聞に至っては74%の支持となっている。
(朝日新聞6+5%、毎日新聞64%、共同通信66%、日経新聞74%)
実はこうした新政権への世論調査結果の前に、安倍全総理が辞めるに至った背景に世論形成のポイントがある。潰瘍性大腸炎という難病による辞任であり、失政による辞任ではないことが以降の世論形成に作用している。辞任表明後の世論調査では内閣支持率はそれまでの不支持から支持へと大きく変化した。また、次なる総理候補として菅氏、石破氏、岸田氏の3人が候補となったが、その時の世論調査にはこれも大方の予想に反し、菅氏への支持が多い気かった。安倍政権の継承を掲げた菅氏への支持であり、党内野党として政権を批判してきた石破氏には後継者には当たらないという生活者のヒュかである。そして、結果として地方で強いと言われた石破氏を大きく話した総裁選であった。多くの評論家やコメンテーターが「世論」がなんであるかを見ずそれまでの「政治」に依拠した意見によるもので大きく予測は外れることとなる。つまり、こうした経過を見てもわかるように、「世論」は病気辞任による無念ささなど安倍氏への道場と一sた感情で世論が形成され、菅氏への期待は「叩き上げ」「有言実行」といったそれまでの安倍政権にはなかった新しさに期待感情をもったということである。ある意味、世論調査とは人気投票であり、多くのジャーナリストはその「人気」がどういうことであるのか見誤ってきたし、今もその傾向は続いているということだ。勿論、今後菅政権のぁつどうしだいではこれまで支持してきた「感情」が逆転へと向かうということでもある。

ところでこれまでのGo To トラベルの利用内容であるが、1泊3~5万円といった高級ホテルや旅館利用が多く、このキャンペーンを機会に安く泊まる理由が多く、1万円以下のホテルや旅館は少ないとのこと。これはデフレ時代にあって、金額が高い方が「お得感」が得られるからで、1万円以下の施設は独自に回数利用の「お得」を計画すれば良いということである。例えば、、近くの飲食店などとこたぼレーションし、更なる「お得」を創れば良いうということである。あるいは思い切ってそれまでのコンセプトを変えることも必要であろう。言いフル尽くされてきたコンセプトである「泊食分離」もあれば立地がロードサイドであればファミリー向けの格安ロッジといった業態もあるかもしれない。いずれにせよこの機会にアイディア・知恵をもってやってみることだ。
このGo To トラベル利用が今一つとなっているのは前回の未来塾にも書いたが、旅行する側も受入側もまだまだ恐怖心が残っており、萎縮しているからである。それは確か7月上旬に行われた読売新聞による調査で明らかになっていたので、この夏の帰省も激減するであろうことは予測できたことである。
このGo To トラベルが意味するしていることは、「ウイズコロナ」「コロナとの共生」といったことの具体的な「行動」であり、対象となった旅行先は紛れもなく「地方活性」の呼び水としての意味を担っている。それは今までの訪日外国人観光客を対象とした「観光」ではないということである。3月のブログにも書いたことだが、これまではインバウンドバブルであったとし、観光魅力の「原点」に立ち帰ることだと。私の言葉で言えば数年前から描いてきたことだが、全国各地にある「横丁路地裏」観光である。表通りの名所観光ではなく、まだまだ知られてはいないその土地ならではの小さな魅力を観光という表舞台に上げることであると。それは日本人すら知らない魅力で、その魅力に数年前からフランスの観光客をはじめ路地裏にある小さな観光が実は日本固有のテーマになっているということである。別な言葉でいえば外国観光客の「日本オタク」のような楽しみ方である。
今、出かけることに躊躇している都内のシニア世代は盛んに銀座周辺にある地方のアンテナショップ巡りが再燃している。こうした変化を見てもわかるように地方にはまだまだ宝物が眠っているということである。

ちょうど19日からの44連休の最中であるが、8月の帰省期間とは異なって多くの人が移動しはじめている。日本航空と全日空によれば、19日からの4連休では初日(19日)と最終日(22日)の予約数が8万人を超え、日本航空で去年のおよそ7割、全日空で去年のおよそ5割まで戻ってきているとのこと。新幹線の利用客も、去年の2割あまりにとどまったお盆期間に比べ徐々に回復し、JR東日本の新幹線の指定席予約状況は17日時点で去年の5割を上回っているとのこと。
10月からは除外されてきた東京都もTo トラベルに参加できるようになり、こうっした「移動」もさらに活性化されていくであろう。但し、この4連休の移動を見てもわかるように、生活者は極めて慎重であることがわかる。周知のようにトラベル事業は新型コロナウイルスの感染拡大で需要が激減した観光業界の支援策として7月22日に始ま利、宿泊旅行で7300万人分、日帰り旅行で4800万人分の予算を確保している事業である。先日の記者会見では「Go To トラベル」を利用した宿泊者が8月末までに1339万人に達したと発表した。この数字を見て成功・失敗の論議は不要である。何故なら、当初の「正しく 恐る」という命題に対し、その「正しさ」がかなり分かりはじめ、自らの判断で行動しはじめたからである。多くの誤報道や過剰な恐怖心を煽る情報を経験しながら、ロックダウンではなく、セルフダウンという自律した個人へと戻りはじめたということである。

こうしたコロナ禍の顧客を前にしているということである。先日、あるショッピングセンターの顧問の方と話す機会があった。主に出店しているテナントの動向についてであるが、政府からの助成はもとより、金融機関からの借入も膨らみさらなる苦境に立たされているとのことであった。そこでお話ししたのは、今もお元気と思うがヨーカドーの創設者である伊藤雅俊さんが常々話されていた言葉、「小売業は小さな商いで、小さなアイディア業である」を話をした。営業時間を短縮したり、シフトの編成を変え人件費を抑制したり、・・・・・・こうしたことも必要ではある。しかし、社会の変化に即したアイディア商売も必要で、菅総理の地元である横濱橋商店街では菅総理が99代ということから、99円、990円、の売り出しを組んでいる。一見つまらないアイディアのように見えるが、そうした小さなアイディアの積み重ねの中から、一つか二つヒットするものが出てくる。
かってビジネスの師であったP.ドラッカーは次にようにその著書に書いていた。

未来は分からない。未来は現在とは違う。
未来を知る方法は2つしかない。
すでに起こったことの帰結を見る。
自分で未来をつくる。

つまり、自分で未来をつくらないのであれば、「すでに起こったことの帰結を見る」という方法をもとに予測していくしかない。「既に起こった帰結」とは、次々と起こる変化、消費の変化はもとより社会の変化を観察すること。そして、それら変化は一時的なものではなく、大きな潮流としての変化、生活価値観の変化であることを検証する。更に、この変化は意味あるもの、つまり重要なことであると認識した時、その市場機会をもたらすものであるかどうかを問うこと。
今回のコロナ禍に置き換えていうならば、顧客の中に「未来」をみるということしかない。敢えて、アイディア業であるとしたのもとにかく小さな試み、小さな売り出しを組んで実行することにある。例えば東京十条の商店街に「鳥大」という鳥肉専門店がある。1日1万個売る「チキンボール(1個十円)」が人気の行列店であるが、取材に「ほぼ90%元に戻った」と答えていた。顧客の中に1個10円のチキンボールに「未来」が見えたということである。旅行に関していうならば、Go To トラベルから除外されていた東京が10月から参加することとなった。例えば、苦境のバス業界であるが、1990年代後半倒産の危機のあったはとバスは宮端さんという良き経営者を迎えて再生したのだが、それは現場による再生であった。その再生については10年ほど前に「100-1=0、マニュアルという罠 」というタイトルでブログに書いたことがあった。(是非gポチドクください)その再生着眼の一つが顧客情報の収集と活用であった。ドライバーや添乗員がその日あったお客さまの小さな声、本音をメモし、それを「お帰りボックス」に毎回入れる。そうした小さな声を集め以降多くのヒットメニューを生み出すこととなる。これも顧客の中に未来を見て、次々とアイディアメニューが生まれ再生した良き事例である。東京除外が外され、はとバスはどんな変化を見せるのか注目したい。(続く)
  
タグ :コロナ禍


Posted by ヒット商品応援団 at 13:08Comments(0)新市場創造

2020年09月06日

未来塾(42) もう一つのウイルス (後半) 

ヒット商品応援団日記No770(毎週更新) 2020.9.6.




文化の無い「時代経験」

さて戦後のモノ不足を経て、1990年代初頭のバブル崩壊を受け、以降「豊さとは何か」が問われてきた。当時は「失われた20年」などと豊かさ論議が盛んであったが、「豊かさ」を見極めることなくこの春まで経過して来た、そんな感がしてならない。
思い返せば、バブル崩壊は日本社会・経済全てに対し変わることを命じられたいわば「人生」を見つめ直す時代であった。2008年のリーマンショックについては、年越し派遣村に代表されたように、「雇用」の持つ意味が問い直された。2011年3,11東日本大震災は災害日本列島に立ち向かう人と人の「絆」の大切さを実感させた。
コロナ禍が始まって6ヶ月が経過した。ウイルスは人が運ぶことから、ソーシャルディスタンス、三密、といった言葉が表しているように人と人との「距離」をとることを否応なくしいられて来た。しかも、距離をとるだけでなく、「移動」の抑制をもである。
クラスターの発生は東京では「江戸」を感じさせる屋台船の宴会からであり、大阪では梅田のライブハウスであった。以降、距離をとること、移動を自制する生活となり、多くの文化イベントが休止、あるいは縮小することとなった。それは歌舞伎のような伝統芸能から、プロ野球に代表されるスポーツイベントまで。更に日常においては学生たちのクラブ活動にまで及んだ。つまり、文化イベントに「空白」が生じたということである。その象徴が周知の甲子園を目指す高校野球の中止であり、縮小であった。こうしたメディアの舞台に出てくるようなイベントだけが「文化」ではない。文化の本質は日常当たり前のこととして取り入れて来たものにその意味がある。私の言葉で言えば、「生活文化」ということになる。

「文化」は継続・継承されてこそ文化となる

ところで今年の夏は各地で行われる予定の「祭り」のほとんどが中止となった。隅田川の花火は勿論のこと、「密」を避けるために花火師の勇姿によって全国各地でゲリラ的に行われた。また、夏の風物詩にもなった高校野球は各地方単位での試合となったが、春の選抜高校野球が1試合だけではあるが、甲子園で交流試合が行われた。ウイズコロナとかコロナとの共生、理屈っぽく言えば「出口戦略」として、できることからやってみようということである。未知のウイルスとは言え、かなりわかって来た。このブログのスタートとして、「正しく 恐る」、その「正しく」がかなりわかって来たからだ。

マスメディア、特にTVメディアは競うように「自論」を放映している。3〜4月ごろのメディアの論調は「未知」であることから送り手も受け手も間違いがあっても許されることではあった。あのWHOですら当初はマスク着用の効果はないとしていたが、今や着用を勧めている。「コロナ禍から学ぶ」の第一回でも述べたが、パチンコ店が自主休業しないことを理由に、あるいは県をまたがってパチンコをやりにきた顧客へのインタビューで、あたかも「犯罪行為」であるかのように扱った。確かに、自粛休業要請に従わなかったパチンコ店もあったが、感染者のクラスター発生は起きていなかった。あるいはイタリアや米国NYの医療崩壊を繰り返し放映し、結果として視聴者に「恐怖」を与えて来たTVメディアはやっとその愚に気付き始め、軌道修正し始めて来た。しかし、エンターテイメント、つまり娯楽要素を盛り込むことは否定はしないが、モーニングショーにレギュラー出演している感染症の大学教授はなんと芸能プラダクションである旧ナベプロに所属する始末である。変わり身の速さ、ある意味いい加減さはTVメディアの本質でもあるが、「コロナ禍」をエンターテイメント化する視線には抵抗がある。いや抵抗と言うより、娯楽として提供されるコロナ情報を信じることができるかである。

何故こうしたことを取り上げるかと言えば、TVによる娯楽番組も一つの「文化」である。しかし、こんな情報番組という冠を持った「娯楽番組」はコロナ禍が収束した後まで継続・継承して欲しくはないものである。一言で言えば番組の責任者であるプロデューサーの社会的責任とまでは言わないがその見識を疑う。コロナウイルスを使った単なる視聴率稼ぎだけの番組であると言うことだ。英国の覆面アーティスト、バンクシー(Banksy)は、新型コロナウイルスのパンデミックと闘う医療従事者らをたたえる新作を発表し作品は現在、英国内の病院に展示されていると言う。コロナ禍を娯楽的視点から放送する日本の情報番組とは真逆のあり方である。

「散」の結果はGDP 27.8%減

内閣府は4~6月期の国内総生産(GDP)の速報値を発表した。季節調整値)の速報値は、物価の変動を除いた実質で前期比7・8%減、この状態が1年続いた場合の年率換算は27・8%減となり、リーマン・ショック後の09年1~3月期の年率17・8%減を上回る戦後最悪のマイナス成長を記録した。新型コロナウイルス感染拡大を受けた緊急事態宣言で個人消費が大きく落ち込み、世界的な感染拡大により輸出も急減して内外需ともに総崩れだった。
ちなみに、米国の4- 6月期の実質GDP(国内総生産)成長率(季節調整済み、速報値)は、前期比年率32.9%減と大 幅低下したとのこと(図表1)。また、欧州連合(EU)の実質域内総生産(GDP、速報値)は、前期比で12・1%減となった。年率換算では40・3%減で、前期(13・6%減)に記録した過去最大の落ち込みからさらに悪化したと。米国や欧州との違いであるが、ロックダウン(都市封鎖)」しなかった日本は「自粛」というセルフダウンを採ったことの差であると多くの経済アナリストは指摘しているが、私もその通りであると思う。
そして、以降の見通しはどうかということだが、GDPの50%以上を占める個人消費であるが、夏休み・帰省といった経済活性の状況を見てもわかるように、新幹線や航空機利用も報道の通り前年比20〜40%程度となっている。この先大きくV字回復することはないと考えるアナリストは多い。年末に向けた経済成長としてはL字状態、つまり「散」のままであれば横這い状態というのがアナリストの見方である。

こうした推移を見ていくと当然であるが、「いつ」収束するのかということになる。多くの感染症研究者は今回のコロナ禍の収束にはかなりの時間を必要とするであろうとレポートしている。その収束には周知のようにワクチンと治療薬を必要とするとのことで長期にわたるウイズコロナ、コロナとの付き合いが必要となる。
その収束イメージであるが、季節性インフルエンザを思い浮かべればそれに近いとする専門家は多い。つまり、流行期の前にワクチン摂取を行い、それでもかかってしまった場合は医師の処方によりタミフルなどのよる治療楽をしてもらうと言うイメージである。勿論、季節性インフルエンザとは異なる質の悪いウイルスであるが、ある意味日常となった生活者の対策である。季節性インフルエンザがそうであったように、ウイルスとの共存・付き合い方をイメージしれば良いかもしれない。

さて、このイメージに即して、「日常」となるまでどうすべきかである。
その答えはすでに多くの分野で工夫・アイディアを持って実施されている。その第一は、「蜜」を前提とした発送・考え方から一旦離れてみることだ。結論から言えば、「散」で成立する術を模索し、その精度を上げていくことから始めるということである。また、既にテレワークやリモートによる仕事の進め方についても、週に1日、あるいは2週間に1日ぐらいは出社し、会議などを行うといった「密」と「散」との組み合わせによる方法も取り入れられているようだ。つまり、「散」では得られないリアル感、空気感、一体感といった「刺激」の採り入れである。収束という「出口」に向かう時のc長期戦略は「散」と「密」の組み合わせということになる。

不要不急という概念を変えていくことから始める

長期化に対するスタートはまずこれまで刷り込まれた「恐怖」を自ら払拭することから始めることである。3月時点の新型コロナウイルスの恐怖理解から脱しつつある。その恐怖の裏側にあるのが「不要不急」という自粛の理屈である。この抑制理由から離れていくことこそが重要となる。

そのためには今一度「自粛」とは何かに向き合うことだ。過去持っていた目標ではない。生きるために必要なことだけでは生きてゆけないという自覚から始まるであろう。言葉を変えて言うならば、我慢していくと言う自覚であり、それは「いつまで」とした自覚でもある。
これまで陽性者、感染者などのデータについては公開されて来た。毎日発表される情報のみに多い・少ないと言ったコメントしか報道されてこなかった。自粛とは極めて抑制心理の問題であり、「正しく 恐る」と言うその「正しさ」の理解と共に恐怖の呪縛から解き放たれていく。結果、その心理から「行動」は生まれていく。この未来塾で分析したいことの第一は「コロナ禍」での消費である。それは生活者の心理状態を反映されたものであり、「今」どんな「心理」にあるかを明らかにすることにある。ここ数十年小売業は天候が不順で雨が多い月の売り上げや気温の変動で冷たいものが売れたりアタタライものが売れたり、そんな分析を行って来た。そうした分析をもとに仕入れや人員配置を行なって来たのだが、このコロナ禍にあってそうした分析は未だかってみたことはない。
今回、恐怖心りのほとんどを占める感染者数情報とそれが生活者に与える行動変容を見ていくこととする。勿論、正確な分析ではなく、ある意味仮設としての分析で、多分に私自身の感によるものも含まれている。そして、出来うるならば「不要不急」心理がどのような行動変容となって現れて来たかを解く一歩としたい。

ところで次のグラフは公開されている全国における感染者数のグラフである。




2月から始まったコロナ禍であるが、まず中国武漢に住む日本人の帰国第一便は2月12日であった。2月20日にはあの700名以上の感染者を出したクルーズ船が横浜港に帰港した時期である。次第に感染は広がり3月末には感染のピークを迎える。ちょうどコメディアンの志村けんさんが亡くなった時期である。そして、感染の山が下に入った4月7日に緊急事態宣言が発出され、次第に感染は落ち着いていくグラフとなっている。
この間生活者心理に大きな影響を与えたのは新型コロナウイルスの「恐ろしさ」を実感したのは志村けん散の死であり、生活を一変させたのが3月2日から始まった小中高の臨時休校であろう。他にもコロナ禍は世界の最大課題であることを実感させたのは3月24日に発表された東京オリンピック・パラリンピックの1年程度の延期が決定であろう。また、東京ローカルのことだが、3月23日の記者会見で、小池都知事ははっきりと都市の封鎖、いわゆるロックダウンなど、強力な措置をとらざるを得ない状況が出てくる可能性があると発言している。勿論、都知事のそのような権限などないのだが、発言の翌日都内のスーパーの棚からラーメンやレトルト食品など巣ごもり商品を買い求める人が押し寄せパニック状態となった。この背景には連日イタリアや米国NYなどの逼迫した医療現場が報道され、最悪の心理状態にあったことによる。
こうした心理から緊急事態宣言の沿って、移動の自粛を始めとしたロックダウンではないセルフダウンが可能となったと言うことだ。




一旦収束に見えたコロナ禍は前述のようにウイルスの変異を伴った新たな発生源が東京新宿で起きることとなる。より詳しいデータは上記の8月の分科会で示された発症日による感染グラフである。これをみてもわかるように
死んだ子の年を数えるようだと表現したように6月後半から次第に感染の拡大が始まっていることがわかる。繰り返し言うが、新宿歌舞伎町に働く人たちを責めることではない。あくまでも東京都、政治の責任による結果である。生活者心理・不安の山はまた上がり始める。新たなウイルスの発生・拡大については前述の通りであるが、ただ3月4月の頃の心理とはその後の情報によって次第に異なったものとなる。生活者の行動は次第に広がっていく。それまで控えていた百貨店への購買や飲食店利用をはじめ、巣ごもりしながら行動範囲を広げていくこととなる。それは2月以降のコロナ経験に基づくものと言える。その基準となるのは唯一の物差しとなる「感染者数」である。実は判断となる物差しは感染者数しかないと言う現実があったからである。もっともらしい感染症の研究者のコメントはあっても生活実感とはかけ離れたものであった。なぜなら、4月にかけて「米国NYのような悲惨状態になる」「2週間後には死者は数万人に及ぶ」といったコメントはTVメディアを通じ繰り返し繰り返し刷り込まれたものが残っていたからである。これは広告業界では常識となっていることだが、記憶は情報の「回数」によって決まっていく。つまり、回数が多ければ多いほど記憶に強く残ると言うことである。

ところで消費という視点でみていくと、6月ごろから徐々に必需消費から選択消費へと向かっていく。ちょうど全国レベルでの制限解除に付合する。それまで閑散としていた通勤電車はいつものように混雑し始める。数ヶ月ぶりの飲み会もまた始まる。それは第一波の収束といった安堵感でもあった。医療現場では冬場に起きるであろう第二波に備えることが盛んに言われていた。
実はこうした中、見えないところで新たな感染、東京由来と言われる変異したウイルスが新宿歌舞伎町で広がっていたと言うことである。その感染の広がりはグラフをみてもわかるように6月後半から7月にかけて伸びていくのがわかる。そして、7月中旬から、本格的な夏休みへと向かって急速に拡大していく。ちょうどGO TOトラベルがスタートした時期である。前回の未来塾で読売新聞による調査にも60数%の人は旅行には躊躇していると言う結果であった。「恐怖」がまだまだ心理の中心を占めていたと言うことであった。そして、残念ながら観光地の中心でもある沖縄で感染が拡大し、医療崩壊の危機に落ちるのだが報道の通りである。

「差別」というもう一つのウイルス

こうして8月の帰省へと向かうのだが、報道されているように帰省する人は例年と比較し極めて少ない結果となっている。移動の抑制は顕著に出たのだが、その心理はどう見るべきなのか、帰省先と帰省を考えている人との間にできた空気感を実感し、何が行動を抑制させたのか明確にすることが必要であろう。
その空気感とは「コロナ差別」であり、帰省先の地方の受け止め方は「コロナを持ち込んで欲しくない」と言うものであり、帰省する側も帰省先実家に迷惑をかけたくない、そんな空気であろう。そうした空気を象徴したのが「帰省警察」と言うキーワードである。自粛警察から始まり、マスク警察、帰省警察と社会正義の仮面を被った心ない差別である。以前、差別の奥底には恐怖があると書いたことがあったが、新型コロナウイルスはいわば現代における穢れ(ケガレ)と考えれば分かりやすい。
「感染」を外から持ち込まれた不確かなもの、それらを異物として不浄なものとして除去する、共同体から排除するムラ意識の現れということである。それは都市と地方ということの違いによって生まれるものではない。実は、「ムラ」は地方に残っているのではなく、都市の中にも存在している。ムラを世間とか仲間という小集団に置き換えればいくらでも経験して来ている。例えば、子供たちの間にある(大人社会にもあるが)「いじめ」を思い起こせば十分であろう。転校生などへのいじめに際し、今は無視・相手にしないといった方法が中心となっているが、私が小学生の頃は「バイキン」と呼んで排除して来たが、今は「コロナ」と呼んでいると聞いている。
理屈っぽく言うならば、いじめといった差別は、仲間や世間といった共同体を維持する上で必要な祭祀の一つとなっているということである。特に人為が及ばない出来事に対し、大いなる神に祈り、穢れを除去するためのお祓いをする。新型コロナウイルスの場合に当てはめれば、ある意味PCR検査は感染の有無を計るものであると同時に、仲間や世間といった共同体に対し安全安心を得るための一種のお祓いでもある。ただこうした共同体の運営に際し、緊急事態宣言以降多くの人が自粛・自制する、私の言葉で言えば「セルフダウン」することによって感染抑制ができた。ロックダウンといった国家による「強制」ではなく、一人ひとりがある意味自主的に行動した国は日本以外ないのではないかと思う。これを称して「同調圧力」の強い国民という表現をする専門家もいるが、「同調」には自粛警察といった排除の論理が潜んでいることも事実である。この「同調」感がどのような場所に発生しているか、どの程度強い同調であるかを見極めることも必要となってくる。例えば集団クラスターが発生した島根の立正大淞南高校や天理大ラグビーにおいても犯人探しは勿論のこと誹謗中傷どころか、天理大の学生であるだけで地域の飲食店アルバイトは辞めてほしいといった「差別」が起きている。

ファクターXを生かしきれなかった日本

このコロナ禍をテーマとしたのも、このパンデミックがもたらす激変もさることながら、第一回目に取り上げたIPS細胞研究所の山中教授の提言「ファクターX」に理解共感したからでもあった。その後、後を追うように東アジアの国々と欧米諸国とではその感染者数、死亡者数が極端に少ないことが報道されはじめた。そして、経済への影響も東アジア諸国と欧米諸国とではこれも極めて軽微であったこともわかって来た。しかし、その東アジア諸国の中、中国、韓国、台湾の中で、ロックダウンしなかった日本が一番経済への影響・損失が大きかった。

それは何故なのか?答えは明確で、「自粛要請」を過度にさせてしまったことによる。勿論、過剰自粛に走らせてしまったのは「恐怖」で、マスメディア、特にTVメディアによる過剰な放送によるところが大きい。恐怖は誰もが持つものである。それが未知であればあるほど大きいのだが、それを増幅させるのが「情報」である。私のブログの多くは山中教授のHP「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」に依拠している。TV曲の情報番組にとって、デマ情報とは言わないが、断片情報をつなぎ合わせて一つの「物語」を作る事ぐらい簡単である。

また、政府の対応も「過剰」であったと思う。それはやっと論議が始まったが感染症の見直しである。現在2類相当と言われながら、それ以上に厳しい1類に近い考え方で実施されて来た。その象徴がクラスター班の旧北大教授の西浦氏による度重なる記者会見・メッセージである。「自粛」を強制させるが如き恐怖を煽る発言が多く、そのほとんどが大きく外れていたことは明白である。ただ、数理モデルの学者としての誠実さは、後にYouTibeにおける山中教授との対談でわかり、少しは納得したのだが、机上の数理モデルであったとは言え、これも過剰な情報であった。

ただ、全てが「過剰」であったということではない。前述の帰省警察ではないが、東京からウイルスを持ち込まないで欲しいといった「気持ち」は「東京差別」として移動を極端にまで抑制させている。その象徴がGO TOキャンペーンにおける東京外しである。先日東京の情報番組に関西のMC辛坊治郎が「何故、東京の人間は外されて怒らないのか。同じ税金を使っているのに」と発言していたが、東京都民としては第二波の震源地であることの負い目と今なお感染者数が高止まり状態でありウイルス拡散の可能性は今なお大きいということによる。
こうした心理も過剰な恐怖心が今なお残っているからである。そして、「差別」というウイルスはデマ情報も併せて持ち込んでいることも忘れてはならない。「感染者が〇〇店を利用していた」「従業員からも感染者が出た」・・・・・・・・こうしたデマ情報は残念ながらSNSには広く流布されている。

「人間由来」のウイルス対策

ところで、保育園や介護施設の人たちへに無料でPCR検査を行う世田谷区の計画については賛成である旨書いたが、問題は検査結果後の運営にある。以前行われた抗体検査によれば、東京都における陽性率は0.1%であり、世田谷区の保育士などのエッセンシャルワーカー2万人に対し実施した場合、20人の陽性者が出てくる計算になる。その後の運営であるが、「安心」を求めて行った検査によって、「噂」「デマ」が飛び交うことは必至である。残念ながら、もう一つのウイルスが蔓延する可能性があるということだ。当然、世田谷区は対策を講じることと思うが、噂の連鎖というウイルス感染が起きた場合、陽性者を出した保育園から預けた子供を引き取るような事態が生まれかねないということだ。「安心」を求めて、逆に「不安」に落ち入る、そんな心理社会に入ってしまったということである。

安全で有効なワクチンや治療薬が開発されていない現在、心の奥底に潜むもう一つのウイルス退治こそ経済復活の鍵になるということである。そして、このウイルスは紛れもない「人間由来」のものである。
この「人間由来」のウイルスを封じ込めるにはただ一つしかない。それは世間・仲間という「社会」の空気を一変させることである。それまで1人の感染者も出すことなかった岩手県から初めて感染者を出した。そのことがわかったと時、匿名の県民は一斉に感染した社員が所属する企業に電話やメールで誹謗中傷や非難が殺到した。しかし、その後達増知事は「県民は自分もコロナに感染する可能性があると共感をもっていただきたい」と表明した。これを契機にその企業への共感、大変でしたね、頑張ってくださいという声が多数届けられたという。リーダーの一言で、県民の「空気」が変わったということである。人間由来のウイルスはその社会のリーダーの声によって変わるということである。


  
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Posted by ヒット商品応援団 at 13:05Comments(0)新市場創造

2020年09月03日

未来塾(42) もう一つのウイルス (前半) 

ヒット商品応援団日記No770(毎週更新) 2020.9.3.

新型コロナウイルスの感染から7ヶ月が経過し、大分その本質がわかって来た。そして、消費傾向も同時に明確になって来た。ただ、消費を阻む「もう一つのウイルス」もまは伝播している。このウイルスを封じ込めることもまた重要な課題となっている。



東京高円寺のライブハウスに貼られた自粛警察/東京新聞より  

コロナ禍から学ぶ(3)
 
「もう一つのウイルス」

「密」から「散」へ
コロナ共存への視座。
そして、止まないもう一つのウイルス。



3ヶ月ほど前に東京で起こっていたことが地方都市へと拡散している。大阪、愛知、福岡、・・・・・・若い世代、飲食街を震源地に、家庭へ職場へと感染の拡大パターンも同じで、まるでウイルスは新幹線で運ばれているかのようだと発言する専門家もいるほどである。しかも、最近のウイルスのゲノム分析によれば、2月頃のウイルスを武漢型、3月から4月に持ち込まれたのが欧州型、そして今回の第二波のウイルス分析でわかったのが5月から6月にかけて流行り始めたウイルスで、それまでとは異なる遺伝子が変異しているとの分析結果が報告されている。変異したウイルスの傾向は無症状者や軽症者が多い結果を生んでいて、弱毒化の可能性があるとも。また、この変異したウイルスは5月の連休明けから6月にかけて東京新宿を中心に発生し、そのウイルスが人を介し地方へと拡大していったとの結果も。

死んだ子の年を数えるようだが、緊急事態宣言が解除され、感染源として東京歌舞伎町、夜の街、ホストクラブなどが都知事の発言もあって一斉にTVメディアは集中して取り上げるようになった。ちょうどその頃、新宿区長はホストクラブの店に問題があるのではなく、まだ売れていないホストの住まいは小さな部屋に数名が同居して暮らしていることにあって、その発生の密な環境に問題があるのではないかと指摘をしていた。ここ数週間注目されている高校や大学のスポーツクラブにおける寮生活の集団感染と同じである。
ところで新宿歌舞伎町には約240店ほどのホストクラブはあるが、その中でも良く知られたローランドのような成功者はごく一部で、ほとんどのホストは固定給のないリスキーな職業である。ちなみに、新宿歌舞伎町にはホストクラブやキャバクラ、ガールズバーなど約3000軒が密集する街である。後にPCR検査が行われるのだが、その結果は驚くべきものでなんと陽性率は30%を超えていた。その集団検査は歌舞伎町で働く人々を対象とした検査結果である。
また、7月末ごろから感染が広がった沖縄では県独自の緊急事態宣言が発せられ危機的状況にあると言う。その感染源であるが、那覇の中心繁華街松山の飲食街を訪れた東京からのホストやキャバクラ従業員の団体であるとの専門家の指摘もある。東京由来、東京問題と言われ嫌な顔をして来た都知事であるが、新宿歌舞伎町で働く人たちには責任はないが、1000名程度の無料PCR検査ではなく、歌舞伎町の街自体の休業要請を行うといったピンポイント施策が必要であった。勿論、保証をつけての休業要請のことだが、東京都をはじめとした政治の責任は極めて大きい。

こうしたことを書くのも感染者に罪はなく、誰でも感染しえる病気であることを踏まえ、課題は人と人との距離、いわゆるソーシャルディスタンスと言う課題である。つまり、社会経済を徐々に戻していくには「密」をいかに解決できるかと言う難題である。
実はこの「密」を別な言葉に替えて表現するならば、それは「賑わい」と言うことになる。未来塾で取り上げて来た多くの商店街や街のテーマそのものである。今回のコロナ禍が始まった最初のブログには「移動抑制」は消費の抑制へと直接影響すると書いたが、その結果は私の想像を超える惨憺たる「消費」となった。

進行する「密」から「散」へ

テレワーク、時差出勤、更には懇親を兼ねた社員同士の会食・集まりなど密になるあり方など多くの企業は対策を実践して来た。それは概念的に言うならば、「密」から「散」への転換であった。こうしたビジネス移動の制限によって経済の影響は多大であった。その代表的な影響の一つが通勤・通学など移動の制限による損失は、例えばJR東日本の4ー6月の決算発表では最終的な損益が1553億円の赤字になるとのことで、四半期決算としては、過去最大の赤字幅になるとのこと。更に。コロナ後の鉄道運賃として「時間帯別運賃」の制度化も検討されていると言う。ラッシュの解消と共に、収益の改善も意図されてのことだと言われている。また、密になることを改善すべく席数を減らしたりした飲食店などの諸施設の赤字は言うまでもない。そして、時間帯別料金ではないが、満席状態になる昼のランチ時には通常料金とし、午後1時半過ぎになると安くランチが食べられるようにする、そんな「散」を取り入れた飲食店も出て来ている。

また、コロナ禍の最中と言うこともあり、具体的な動きは見られないが、中国武漢の都市封鎖によって明らかになったことはサプライチェーンの寸断であった。それは自動車産業だけでなく、他の製造業は勿論であるが、多くの食品輸入も中国依存からの脱却・リスク分散も企業経営の主要課題となった。国内化も含め今までのグローバルビジネスとは異なる組み立ても視野に入ってくるであろう。これも密から散への転換といえよう。

実は蜜を語るには「東京一極集中」を見ていけばその功罪を含め問題は明らかになる。蜜であることによって得られることの第一は集中することによるコスト効率の高さにある。店舗経営に従事された経験のある人間であれば、限られたスペースでどれだけの売り上げをあげられるか、その売り上げは家賃に見合うものであるか、と言う課題である。飲食店であれば「席数」であり、物販であれば棚の数であり、例えばドンキホーテではないが熱帯雨林陳列ではないがその陳列量となる。
現状、ソーシャルディスタンス・密から散へとコロナ対策上進めてはいるが、「散」による経営で収支が取れるかと言う難題である。つまり、コロナ収束の時期とも関連するが、業態にもよるが経営の根本を変えなければならないと言うことである。赤字をどれだけ減らせるか、といった経営から、収支に見合う経営への転換ということである。簡単に言ってしまえば、従来100坪で行われていた経営を50坪で成立させることであり、人であれば100人で行っていた経営を50人で行うということである。そこにはITは勿論ロボットの活用もあるであろうし、今までとは異なるネットワークの組み方による高い効率、高い生産性の経営ということになるであろう。
つまり、「時間」「空間」「人」を分散させて、「新しい価値を創造できるかということになる。今までの延長線上では経営は成立し得ないということからの「発想」である。残念ながら、そうした新しい発想によるビジネスは未だ出現してはいない。

ゼロリスク幻想からの脱却

前回にも書いたが、「出口戦略」は各都道府県単位で既に始まっている。実は2ヶ月ほど前には「自粛、制限を緩めると感染は拡大する。命と経済どちらが大切なのか」と言った短絡した議論が行われていたが、緊急事態宣言による経済のダメージがいかに大きいかを実感するに従って中途半端なまま論議を終えてしまった。ウイズコロナ、コロナとの共存と言ったキャッチフレーズだけで理解したつもりでいるが、「移動」が活発化すれば当然ウイルスも移動する。
こうした社会経済活動に際し、PCR検査を条件とし、現在の検査数の数十倍以上にすべきであるという意見がある。その背景にはあれほどひどい状況であった米国ニューヨークの事例を持ち出してその封じ込めに成功していると。誰でもいつでも何回でも無料で行える検査システムであることは良いことではあるが、陽性者の接触者を追跡する3000名ものメンバーがあってのことであり、更に言えば今なおオープンテラスでの飲食は行えているが、店内での飲食は禁止されているという強い制限下にあるように複合的な対策によるものである。単にPCR検査を増やせば封じ込めるということではない。更に言えば、以前から指摘されていたことだがPCR検査の精度は70%程度で偽陽性が30%近くあるということもあり、絶対ではないということである。現時点での検査ではPCR検査と抗原検査しかないため、必要ではあるが、その限界をわきまえて活用するということだ。例えば、新宿歌舞伎町のように地域を限定した集団検査や世田谷区で計画されているエッセンシャルワーカー、例えば高齢者施設のスタッフや保育士など限定した検査のように活用するのは良い方法ではある。ただ、世田谷区の計画がニューヨークをモデルにしており、「誰でもどこでもいつでも無料」を目指すとのことだが、「安心」を求めての検査であれば、税金ではなく自費で行うべきであろう。また、保健所や病院における体制を含め段階的限定的にお行うべきと考える。つまり、PCR検査は感染防止の目的ではなく、手段であるということだ。
こうした状況は、ある意味ゼロリスクはない、そんな不確かな社会に生きているということであり、そのことを理解しなければならない時代に生きているということである。残念ながら、リスクある行動や場所を避ける努力はしても誰でもかかりえる病気であるという自覚こそが個々人に問われている。

変容する「街」

東京では度々取り上げられる街の一つに吉祥寺がある。”何故、緊急事態宣言の最中にあって、東京吉祥寺に人が集まるのか”という話題で、いくつかの理由がある。その一つは井の頭公園に代表されるように、「光」と「風」を感じられる街だからだ。それは単に公園や動物園、あるいはジブリ美術館があるだけではない。超高層の建物に囲まれただけの街ではないと言うことだ。勿論他にも東京の湾岸に新しく開発された地域、私の言葉で言えば水辺の街、都心から十数分で暮らせる便利な都市リゾートのような街だからである。以前から人気の街である二子玉川も多摩川のリバーサイドであり、都心まで十数分の住宅街である。そこに共通することは「自然」を感じることができる街であると言うことだ。単に都心から地方への「散」ではなく、閉じられた空間・地域という密から、自然を実感できる空間・地域「散」への変化と言った方が的確であろう。
本来であれば活況を見せてもおかしくないのが、屋形船である。周知のように東京で大規模なクラスター発生により、未だ復活途上となっているが、屋形船とは異なる東京ウオータータクシー利用なんかもこれから流行っていくであろう。大阪は水の都と言われて来たが、東京も東京湾に流れ込む河口の湿地帯を造成してできた街である。このように密から散への着眼の一つがこうした自然ということになる。

一方、都心部の商業地域もここ数年再開発によって大きく変貌して来た。その象徴の一つが渋谷の街であろう。少し前に渋谷PARCOを中心に少し書いたが以前の面影はまるでない街となった。各通信キャリアによる街の移動調査では夏休みということもあって、減少することはない。
毎年、夏になると中高生を中心に原宿や渋谷に集まる。こうした傾向は1990年代半ばから始まっていて、例えば渋谷109と東京ディズニーランドは「都市観光」の定番であった。前回のブログで若い世代が感染源となっていることに対し、『「密」を求めて、街へ向かう若者たち 』というテーマで、若者には届かないコミュニケーションについて書いた。その密とは、常に変化し続ける新しい、面白い、珍しい出来事が密となった都市を自由に遊ぶことで、私はそうした行動を「都市商業観光」と呼んだ。
新しい、面白い、珍しいとは生活への「刺激」である。若い世代、特に中高生にとって「都市の魅力」とは学校や家庭とは異なる刺激が溢れる場所であり、規則などに縛られることのない自由な劇場ということになる。面白いことに原宿を歩くとわかるのだが、その多くは3〜4名の友人グループであるが、中には母親と思しき「大人」同伴の女の子もいる。いわば、保護者同伴の都市観光である。
コロナ禍ということから本格的な街歩きをしていないのだが、ドコモなどの通信キャリアによる移動データでは若干の人出の減少はあるものの、若い世代にとってはコロナ禍は「大人」と比較し減少傾向はそれほど大きくはないようだ。勿論、感染しても軽症、もしくは無症状の場合が多く、重症化率が低いことがその背景にあることは言うまでもない。

「ハレ」と「ケ」と言う視座

本格的な感染が拡大し、外出自粛や休業要請など対策が実施されてから約5ヶ月が経過した。その5ヶ月間の「消費」を見ていくといくつかの傾向が見えて来た。前回の未来塾で5月度の家計調査結果について書いたのだが、まずその全体消費の落ち込みの激しさにあり、現実の飲食店における売り上げの極端な減少や観光関連事業者の悲鳴のような状況を表した数字であった。
ところで6月の家計調査結果は前年同月比1.2%の減少であった。6月までの消費の推移は以下である。




3月から始まったコロナ禍の激しさはグラフを見ればわかる。6月に入り消費は持ち直しているかのように見えるが、この3ヶ月間の抑制から少しの解放・反動と見るのが正解であろう。
5月ど同じように主要品ものの増減についてレポートされているので是非見られたらと思う。一言で言えば、飲食代や移動に関する交通費などは同じように減少はしているが、5月度と比較し、その減少幅は若干小さくはなっている。

こうした「減少」の根底にはどんな価値観の変化があるのかを見極める視座の一つが生活の中にある「ハレ」と「ケ」のウエイトであり、どんな消費態度となって現れて来たかである。言うまでもなく「ハレ」の日の消費は特別な日として少し晴れやかなものとして、費用もかける消費のことである。例えば、多くの記念日、正月や誕生日や卒業、あるいは結婚記念日などもハレの日の消費と位置付けられる。一方、ケの日の消費は日常消費のことで、つつましい消費のことである。
こうした視座はより具体的な消費品目を分析することが必要ではあるが、今回はハレの日の流通として百貨店、ケの日の流通としてスーパーを対比させて考えてみた。
その目線としては百貨店は1980年代までは生活者のライフスタイルをリードしていく存在であったが、バブル崩壊後、SC(ショッピングセンター)という専門店を編集した業態にその座を譲って来たが、その規模を祝ししたとは言え百貨店顧客は存在する。コロナ禍にあって休館・休業した百貨店もあったが、再開後の6月度の売り上げは前年同月比-19.1%であった。このマイナスについて百貨店協会は「依然厳しい動向ではあるが、減少幅は前月(65.6% 減)から大きく(46.5ポイント)改善し、業績持ち直しの局面に転換してきた。」と期待感を持って評価している。勿論、インバウンド需要がほとんど無い状態での売り上げであり、比較にはならないが、通常の消費に近い状態まで回復して来たと言える。その消費の中心は既存固定客であり、「購買動向の特徴としては、食料品や衛生用品など生 活必需品の好調さに加えて、ラグジュアリーブランドや宝飾品など一部高額商材にも動きが 見られた。」としている。つまり、「戻って来てはいる」が、ブランド品や宝飾品はまだまだ「一部」であるということである。
「ハレの日」とは気持ちが晴れる日、気分が華やぐ日のための心理消費である。そんな心理には至ってはいないということである。ブランド品、ブランド商材、は極めて情報に左右される商品であり、世の中がコロナ、コロナの合唱にあって「そんな気分」にはなれないということである。更に広げていけば「こだわり」を楽しめる状態には無いということでもある。少し前までの「こだわり」による少し高い価格設定でも売れていたものが急激に売れなくなっている。

わけありの変容

わずか数ヶ月前まで「わけあり」は消費者にとって大きな選択理由となっていた。「わけあり」は低価格の理由・わけの代名詞となっていたが、安さの理由・わけはもはや選択理由の第一ではなくなって来た。コロナ禍はその低価格は選択理由の常識にすらなったということである。常識という言葉を使ったが、「当たり前」という表現の方が当てはまるかと思う。
大きなマーケットではないが、「訳あって、高い」としたこだわりは選択理由の一つであった。いわゆる「こだわり」商品である。全ての諸品であるとは言えないが、「こだわり商品」は次第に売れなくなって来ている。それは単に価格が「高い」という理由だけではない。一言で言えば、経済的というより心理的な「余裕」「ゆとり」がない状態に置かれていると言った方が適切であろう。
今、ネット通販を含め、50%オフセールが消費の活性を図っている。10数年ほど前、消費者の価格心理についてあのインテリアのニトリの似鳥社長は「20%程度の安さでは安いと感じなくなっている。最低でも30%ぐらいの安さでなければ」と語っていたが、今や50%程度の安さでなけれな顧客にとって魅力的には映らないということであろう。ちなみに、そのニトリはテレワークを巧みに取り入れ簡単にオフィス機能を自宅にもたらせるようなマーケティングを行って来た。休館しなかったこともあって好調な売り上げとなっている。


ところであの「こだわり食材」のディーン&デルーカが苦境にある。コロナ禍による客数減少から4月米連邦破産法11条の適用を申請、つまり経営破綻したと報じられた。負債額は約5億ドル(約540億円)で、日本法人についてはライセンスを取得していることから営業は継続している。。そのディーン&デルーカは1977年にマンハッタンのソーホーで最初の店舗をオープンして以来、高級食材のセレクトショップとして、ニューヨークの食文化に多大な影響を及ぼしてきた、ディーン&デルーカ。日本でも、女性を中心に絶大なる人気を誇るブランドだ。
 もともと本家のディーン&デルーカは、希少価値の高い食料品を米国に輸入し、食のブームを巻き起こしてきた立役者でもあった。例えば、当時米国ではあまり知られていなかった、バルサミコ酢である。
日本でディーン&デルーカを運営している ウェルカムは「今後も、創業者のジョエル・ディーン(Joel Dean)とジョルジオ・デルーカ(Giorgio Deluca)が大切にしてきた想いでもある『美しき良質な食はわたしたちの心を豊かにし、生き方さえ変えてくれるきっかけを与えてくれる』という思想のもと、これからも毎日の食するよろこびをお客様へお伝えしていくために、優れた食材のつくり手を守り継続的に安定した取り組みを続けながら、 毎日のくらしに寄り沿うマーケットストアやカフェの運営を通して、『食するよろこび』の場をひろげて参ります」とコメントしている。その後、TV東京のWBSに出演しMCの村上龍との対談で売り上げは伸びず、いわゆる「こだわり」のあり方を再検討しているとし、オリジナル商品の味噌汁の話をしていた。どんな再生「こだわりコンセプト」が生まれるか分からないが、これまでのディーン&デルーカのこだわり・希少性では限界があるということは事実である。

実はこだわり度も規模も異なるスーパー業態の成城石井は好調な売り上げを上げている。5月の月次事業データによると、全店売上高は前年同月比9.0%増となったと。総店舗数135店。既存店は、売上高1.3%増、客数2.3%増、客単価1.0%減であったとも。
一般的なスーパーはそのほとんどは「巣ごもり消費」によって増収増益である。それは単なる食材購入だけでなく、「自分流」の味の捜索を目指して調理道具などの周辺商品の購入も広がっている。
成城石井はその名の通り高級住宅街である成城学園前駅の目の前にあった、輸入食材に特徴をもあせたスーパーであった。隣駅の住民であった私の場合、ハレの日の食材を買い求めた店で、例えばすき焼き用牛肉などは全て100g1000円以上の肉ばかりで、刺身用マグロも本マグロのみと言った具合でどれも高価な食材を扱っていた。他にはない特徴あるMDによって多くのSCに出店することになるのだが、その急成長に在庫管理を含め経営体制が追いつかず一時期危機にあったことがあった。勿論、現在は惣菜工場を含め自社工場による供給が行われコロナ禍にあっても順調に売り上げを伸ばしている。

この2社を比較したのは顧客層の設定の仕方、 ディーン&デルーカと成城石井のブランド戦略の違いにある。ディーン&デルーカのブランド戦略は一種の「観光地化」戦略に現れている。周知のロゴ入りのトートバッグとマグカップ、鍋敷き等のグッズである。いわゆる富裕層のお気に入りの「食」を取り入れたいとした女性たちの憧れのライフスタイル創造を目指したというわけである。一方、成城石井の場合はデフレ時代の価格帯を守りながら小さな違い、個性ある食材を自社工場でつくる方向を選んだ。顧客設定としてかなり幅広く設定されているということである。つまり、ハレの日のディーン&デルーカに対し、成城石井の場合はケの日の消費の中のこだわり食材を目指したということであろう。
選択消費の行方という視座

「必需消費」とは生きて行くことに必要な消費、食品や住宅などの消費のことで、選択消費とは心豊かに生活するための消費で、「文化消費」のようなものを指している。映画や音楽の鑑賞などもそうだが、オシャレのための消費なんかも当てはまる消費である。ある意味で、「豊かさ」の象徴であるような消費である。
ところでそんな消費を象徴するような発表があった。それはアパレル大手のワールドの発表で、今年度中に国内の358店舗を閉店すると。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、売り上げが激減し収益が一段と悪化しているためだ。200人程度の希望退職者も募り、構造改革を進め、収益改善を急ぐというものであった。 廃止するブランドは「ハッシュアッシュ・サンカンシオン(HUSHUSH 3CAN4ON)」「アクアガール(AQUAGIRL)」「オゾック(OZOC)」「アナトリエ(ANATELIER)」などで、いずれもSC・ファッションビル販路のブランド。これらの20年3月期業績は赤字で、「今後の黒字化のめどが立たない」(同社)ことから終了を決めた。閉鎖358店のうち、ブランド終了に伴うものは214店で、残りの144店は継続ブランドの低収益店が対象。中には異なるブランド同士の店舗統合なども含まれる。「現在の収支が黒字であっても、立地の将来性や条件の妥当性などを総合的に検討し、継続か閉鎖か決めていく」と言った内容であった。

敢えて、ワールドを事例として持ち出したのもアパレルファッション市場はその流通のあり方を含め構造的な問題を孕んでいるからで、昨年10月のブログでもう一つの大手企業であるオンワード樫山の100店舗もの撤退に触れて次のように書いたことがあった。
『10数年前ショッピンセンターのデベロッパーに「困った時のワールド頼み」と言われ、持っているブランド専門店を出店した婦人服大手である。結果、ワールドは数年前広げすぎた経営を再建するために数百店舗を撤退するというリストラを行っている。未だ再建途中であると思うが、そのワールドが他社のブランドも扱うアウトレット店の第1号をさいたま市西区にオープンさせたと報じられた。
実はアパレル業界では年に100万トンとも言われる在庫の廃棄が問題になっている。市場に余った服をブランドの垣根を越えて安く販売するのがアウトレットである。ワールドがこうした市場に進出するとのことだが、周知のようにフリマが数年前から急成長し、つまり個人間ネット取引が進み、2018年の市場規模は20兆円にも及んでいる。
更に言うならば、1980年代から1990年代にかけて一時代を創ったビギグループのブランド市場は2000年台以降縮小し続けてきた。そのビギグループも三井物産の傘下に入り、生き残りの道を海外に求めた動きも見られる。
 つまり、市場が根底から変わりはじめたということである。市場とは顧客のことであり、顧客が更に変わりはじめたと言うことだ。ちょうど1年前の未来塾「コンセプト再考 その良き事例から学ぶ(1)」で新業態店「WORKMAN Plus(ワークマンプラス)」1号店を取り上げたことがあった。周知のように苦戦するアパレル業界にあって一人高業績を挙げている企業である。この新業態店のコンセプトを次のように未来塾で書いた。

この時のブログのタイトルは「デフレが加速する、顧客が変わる 」であった。こうした構造的な問題を抱えている最中のコロナ禍である。「不要不急」 という言葉が、3月以降盛んにマスメディアを通じ流されて来たが、単に「生きる」ためだけの消費が必要であると言外に込められていた。そのために日本とは比べようが無いほどの外国におけるロックダウンの様子が繰り返しマスメディアを通じ流されて来た。本来の「正しく 恐る」という原則が、「正しく」がどんどん曲解されていく。周知の自粛警察から始まり、最近ではマスク警察や帰省警察まで横行するようになった。こうしたマスコミが報じることの危うさは繰り返すが、あのips細胞研究所の山中伸弥教授の指摘する通りである。そんな心理状況にあって「オシャレ」を楽しむ舞台もなければ、時代の空気感も無い。極論を言えば今は「不要」であると感じている。
唯一売れているのは若い世代に対するブランドguであろう。小さなトレンドを創り、中高校生のお小遣いでも買えるリーズナブルなファストファッションということだ。ハレとケという表現をするならば、デフレの時代にふさわしいケの日を楽しむ選択できる商品となる。そのguが化粧品市場にも進出すると言う。これも同じコンセプトによる新市場の開発ということだ。

不安な時代の気分消費

ブランドの本質は心理価値にある。以前、世界の主要ブランドのその「心理」について分析したことがある。あのシャネルは「時代の変化とともにあるシャネルの生きざま」への共感ブランドであり、ティファニーは「時代と共にある美」を追求し続けるブランドである。他にも、ロレックスやソニーのブランド創造の歴史を分析したことがあったが、全てのブランドに共通していることはブランドは「顧客がつくるものである」ということに尽きる。不安な時代ではブランドは成立しないと考えてしまいがちであるが、それはビジネスマンの態度では無い。
ところで「気分消費」という言葉がある。いや正しくはそうした言葉を使っているのは私ぐらいであるが、「不安」が横溢する時代にどうすればそうした「気分」を変えることができるかを考えて来たからである。
ともすると暗くなりネガティブ発想に陥りやすい中にあって、少しでも明るい気分になってもらうことが極めて重要な時代となっている。まず気分を決める価格という第一ハードルを少し下げ、これならチョット使ってみようか、という気分を創ることから始めることだ。夏休みの過ごし方・遊び方を見てもわかるように、安近短の本質は、全てを「小」という単位に起き直してみることにある。これなら買えるという小さな価格、サービスであれば1時間を30分に、更に10分にする。あるいは顧客接点の現場では、気分醸成のための小さな笑顔、心地よい一言、こうした何気ない小さな気遣いが気分づくりには欠かせない。こうした小さなサービスの原則と共に、店頭の雰囲気づくりも以前にも増して重要となっている。

かなり前になるが、「こころに効く商品」というタイトルで「こどもびいる」を取り上げたことがあった。福岡のもんじゃ鉄板焼「下町屋」が飲料「ガラナ」のラベルに「こどもびいる」に張り替えて出したところ、人気メニューになり全国に広がった、あのヒット商品である。チョットお洒落に、クスッと笑える癒し商品である。一種の遊び心によるものであるが、理屈っぽい、肩肘張った表現は受けない時代だ。
現場ではこうした発想が重要であるが、残念ながら心に効くものは何かといえば、ワクチンであり有効な治療薬ということになる。ただ、大阪大学の宮坂名誉教授による人工抗体の開発が進んでいる。山中伸弥教授のHPで知ったのだが、日本における免疫の第一人者であり、感染者の血液から採取したリンパ液などから抗体を抽出し、製造するものだが、問題なのは2週間程度の持続性しかないということのようだ。ただ、それでも重症化を防ぐには有効な治療薬になるという。山中教授が提言しているように、日本の「知」を挙げ総力で戦っていく一つということだ。(後半へ続く)
  
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Posted by ヒット商品応援団 at 13:05Comments(0)新市場創造