2010年02月26日
ニュースの無い時代
ヒット商品応援団日記No447(毎週2回更新) 2010.2.26.
京都府南丹市美山に講演に行ってきたせいか、東京にはニュースがないなとその実感を強くした。一般的にはは逆ではないかと思われるかもしれないが、地方の方がニュースに溢れている。今、バンクーバーで行われている冬期オリンピックも、日々起こる事件も、あるいは歌番組にもニュースが感じられない。ニュースは社会という広がりを持ってこそニュース足りえるのであるが、どうもその社会、あるいは世間と言っても良いが、そんな共通する話題・関心事は東京、都市には無くなっている。
数日前訪問した京都の美山では、例年になく雪が少ないことや鹿が増え過ぎてしまいその被害の話しが話題の中心となっていた。身近で、そのことによって何らかの行動を起こす、そうした情報こそがニュースとなっている。コミュニティの関心事、生活の関心事、善かれ悪しかれ「縁」が生きている世界にしかニュースはない。
一方、都市においては、個人化社会といってしまえばそれで話は終わってしまうが、膨大な情報が行き交っている割には個人関心事においてしかニュースはない。ツイッターが流行っているように、顔の見えない相手同士が唯一共有できる関心事について仮想のコミュニケーションが行われる。ツイッターは「私の興味」という一点においてのみ、リアリティをもったニュースとして存在する。歌で言えば、生まれては流れてゆく流行歌のようなものである。ツイッターがソーシャルメディアとして定着するか未知数ではあるが、少なくともそのライブ感、スピード感は他のどのメディアよりもニュース的である。
前々回、「情報の質とは」のところでも書いたが、インターネットという無料経済の中で、生活者が求める情報の質とは、インターネット検索では出てこない、知られにくい、未だ知らない、興味を喚起してくれる情報、ニュースということである。こうした情報世界が提供可能なのは、都市ではなく、もっと出来事の現場に近い、小さな単位の地方ということである。東京も一地方として見ていくということだ。つまり、マスコミは全てミニコミにならなければならないということである。勿論、結果そのネットワークによってマスコミとなることはあってもである。そうした意味で、今一番情報的でニュースなのはローカル局をネットワークし、それら地方の情報を生かそうとしているNHKということだ。
地方にしかニュースがないと同時に、「今」という時代にもニュースがない。どれほどの「過去」であるかは別にして、タイムトンネルをくぐった先にしかニュースがない。2/19の日経MJにも、歴女ブームは更に深化し、「古代文字」の世界に関心を寄せる若者が増加しているとの記事があった。これも、都市では見出すことが出来ない自然や神と一体であった古代の物語が極めて新鮮なニュースとなっているということだ。こうした古代文字の先にある物語を読み解く面白さとは、想像する面白さということである。ニュースの本質は想像を刺激してくれる情報であることによって初めてニュースとなるのだ。
昨年直木賞を受賞した天童荒太氏の「悼む人」のように、過剰な情報社会の中で、「何」が自分にとって必要で、大切な情報なのかを気づかせてくれ、実は裏側に潜む情報へと向かわせてくれた。膨大な情報が流れていけばいくほど、それら常識という皮膜をはがし、「先」に何かを見出すことへと向かっていく。つまらない表通りから何かを探しに横丁路地裏へ、表メニューから賄い料理のような裏メニューへ、公式見解から本音の話しへ、こうした興味の深化はニュースを求める情報の時代の宿命としてある。深化の先が過去へ向かえば一種の回帰現象となり、自然や生命力といった世界であれば地方に向かう。人と人との関係であれば絆の取り戻しであり、それは家族やコミュニティから始まる。
ジャーナリスト筑紫哲也さんが亡くなられた時、コラムニスト天野祐吉さんは「ニュースに声を与えてくれた人」と語っていた。それは同時に、膨大な情報を整理し、防波堤の役割を果たしてくれていたと思う。多事という情報を争論できるようにしてくれた訳である。このことは情報の時代におけるコミュニケーションの原則としてある。意味のない情報を削ぎ落とし、その先にある「声」は否応なく私たちの想像力を刺激する。
それはビジネスにおいても同様で、業界用語になってしまうが、その「声」とはコンセプトということである。なんとなくあれもあるこれもあるではなく、これしかないこの一点において顧客に向かい合う。そして、その「声」は必ずニュースとなる。(続く)
京都府南丹市美山に講演に行ってきたせいか、東京にはニュースがないなとその実感を強くした。一般的にはは逆ではないかと思われるかもしれないが、地方の方がニュースに溢れている。今、バンクーバーで行われている冬期オリンピックも、日々起こる事件も、あるいは歌番組にもニュースが感じられない。ニュースは社会という広がりを持ってこそニュース足りえるのであるが、どうもその社会、あるいは世間と言っても良いが、そんな共通する話題・関心事は東京、都市には無くなっている。
数日前訪問した京都の美山では、例年になく雪が少ないことや鹿が増え過ぎてしまいその被害の話しが話題の中心となっていた。身近で、そのことによって何らかの行動を起こす、そうした情報こそがニュースとなっている。コミュニティの関心事、生活の関心事、善かれ悪しかれ「縁」が生きている世界にしかニュースはない。
一方、都市においては、個人化社会といってしまえばそれで話は終わってしまうが、膨大な情報が行き交っている割には個人関心事においてしかニュースはない。ツイッターが流行っているように、顔の見えない相手同士が唯一共有できる関心事について仮想のコミュニケーションが行われる。ツイッターは「私の興味」という一点においてのみ、リアリティをもったニュースとして存在する。歌で言えば、生まれては流れてゆく流行歌のようなものである。ツイッターがソーシャルメディアとして定着するか未知数ではあるが、少なくともそのライブ感、スピード感は他のどのメディアよりもニュース的である。
前々回、「情報の質とは」のところでも書いたが、インターネットという無料経済の中で、生活者が求める情報の質とは、インターネット検索では出てこない、知られにくい、未だ知らない、興味を喚起してくれる情報、ニュースということである。こうした情報世界が提供可能なのは、都市ではなく、もっと出来事の現場に近い、小さな単位の地方ということである。東京も一地方として見ていくということだ。つまり、マスコミは全てミニコミにならなければならないということである。勿論、結果そのネットワークによってマスコミとなることはあってもである。そうした意味で、今一番情報的でニュースなのはローカル局をネットワークし、それら地方の情報を生かそうとしているNHKということだ。
地方にしかニュースがないと同時に、「今」という時代にもニュースがない。どれほどの「過去」であるかは別にして、タイムトンネルをくぐった先にしかニュースがない。2/19の日経MJにも、歴女ブームは更に深化し、「古代文字」の世界に関心を寄せる若者が増加しているとの記事があった。これも、都市では見出すことが出来ない自然や神と一体であった古代の物語が極めて新鮮なニュースとなっているということだ。こうした古代文字の先にある物語を読み解く面白さとは、想像する面白さということである。ニュースの本質は想像を刺激してくれる情報であることによって初めてニュースとなるのだ。
昨年直木賞を受賞した天童荒太氏の「悼む人」のように、過剰な情報社会の中で、「何」が自分にとって必要で、大切な情報なのかを気づかせてくれ、実は裏側に潜む情報へと向かわせてくれた。膨大な情報が流れていけばいくほど、それら常識という皮膜をはがし、「先」に何かを見出すことへと向かっていく。つまらない表通りから何かを探しに横丁路地裏へ、表メニューから賄い料理のような裏メニューへ、公式見解から本音の話しへ、こうした興味の深化はニュースを求める情報の時代の宿命としてある。深化の先が過去へ向かえば一種の回帰現象となり、自然や生命力といった世界であれば地方に向かう。人と人との関係であれば絆の取り戻しであり、それは家族やコミュニティから始まる。
ジャーナリスト筑紫哲也さんが亡くなられた時、コラムニスト天野祐吉さんは「ニュースに声を与えてくれた人」と語っていた。それは同時に、膨大な情報を整理し、防波堤の役割を果たしてくれていたと思う。多事という情報を争論できるようにしてくれた訳である。このことは情報の時代におけるコミュニケーションの原則としてある。意味のない情報を削ぎ落とし、その先にある「声」は否応なく私たちの想像力を刺激する。
それはビジネスにおいても同様で、業界用語になってしまうが、その「声」とはコンセプトということである。なんとなくあれもあるこれもあるではなく、これしかないこの一点において顧客に向かい合う。そして、その「声」は必ずニュースとなる。(続く)
2010年02月23日
今、地方が元気だ
ヒット商品応援団日記No446(毎週2回更新) 2010.2.23.
3日ほど京都・大阪に出かけていた。その目的は京都府南丹市美山で行われた地域フォーラムの基調講演であった。関西方面の人にとってはある程度知られた地域であるが、美山という名前が示しているように美しい山間の町である。どの地方も同じであるが、主産業である林業が衰退し、人口は流出し、高齢化が進んだ地域である。こうした問題が象徴的に進んだことから、恐らく全国でもいち早く住民が主体となって、行政を含め取り組み、そうした意味で地方における村起こし、産業起こしを先駆的に実践してきた地域である。
講演のテーマを「都市生活者の今と市場開発の着眼」としたのだが、どこにでもある田舎をここにしかない田舎にするために、持っている多くの資源・資産を使って、魅力的な固有の田舎になって欲しいとの願いがあった。そして、業界や競争相手を見る前に、「都市生活者の今」を見つめることから始め、「次」に進んでいくためのアイディア、着眼をいくつかの事例を交えて話をさせていただいた。
昭和50年代から始まった村起こしの体験と実績からであろう、更にはそうした結果として10年前には「優秀観光地づくり賞」の金賞に輝いた地域ということから、200名近くの住民の方々が集まり熱心に聞いていただいた。
実はこの基調講演の前に、京都の友人に美山町を2時間半ほど案内してもらった。その実感であるが、見事なネイチャーヴィレッジ、ネイチャーテーマパークになっているなと。それは東京ディズニーランドのマーケティング構図を重ねることができるものであった。勿論、昭和50年代から始まった村起こしであり、東京ディズニーランドが出来るはるか以前からの、住民と行政の手による日本そのもののテーマパークである。テーマパークというと、何か人工的なものと思いがちであるが、美山のそれは自然に寄り添って生活している住民の人達による自然を生かしたテーマパークである。東京ディズニーランドが米国のフォークロアとして物語化されたのに対し、美山は日本のフォークロアとして住む人達の手で継承され磨かれてきたものだ。
その構図とはこうである。美山地区への入り口・ゲートには国道162号線沿いに「ふれあい広場」という農産物等を販売している道の駅がある。東京ディズニーランドがそうであるようにゲートをくぐると両側にお土産物のショップが並んでいるのと同じである。道の駅から美山町に入ると杉や檜の森林が迎えてくれる。冬の真っ最中であるが、とにかく美しい景観である。道路脇には一切の広告物はない。住民の人達の総意で景観が守られている。ほどなくいくつかの集落があり、かやぶきの家が点在している。のどかな山間の農村風景である。それら集落の先に現れたのが文化財保護法による保存地区「かやぶきの里」である。見事なかやぶきの家が集積・保存されていて、東京ディズニーランドの構図から言えば、シンデレラ城にあたる。「かやぶきの里」は美山地区のランドマークということだ。寒い季節にも関わらず、カメラを手にした何名ものマニヤが撮影をしていた。このかやぶきの里の前には清流美山川が流れている。鮎の名釣り場として関西の釣りフアンに知られた川であるが、聞くと利き酒ならぬ「利き鮎大会」で準優勝したという。それだけ豊かな川であるということだ。この美山川の先には「自然文化村」という宿泊施設のある都市生活者との交流拠点がある。ここを拠点に、修学旅行生の農作業体験など数多くのイベントメニューが実施されている。東京ディズニーランドにおけるアトラクションと同じである。
こうした実感をもとに、基調講演とその後のパネルディスカッションをさせていただいた。東京ディズニーランドの収入の70数%が物販によるものであることを踏まえ、もっともっと特産品を作り、このネイチャーヴィレッジを更に磨くために儲けてくださいと申し上げた。そして、資源を使っていない、もったいないいくつかのポイントを指摘をさせていただいた。会場からも多くの質問が出て良い地域フォーラムであったと思う。そして、何よりも主体はそこに住む人達であり、特にお年寄りが主役になっていることであった。お年寄りが元気であることによって、コミュニティの元気が生まれ、そんな人達が住む日本の原点とも言える町に人は訪れる。結果、若い家族のIターンも生まれる。私の講演も少しの元気の素になったら幸いである。(続く)
3日ほど京都・大阪に出かけていた。その目的は京都府南丹市美山で行われた地域フォーラムの基調講演であった。関西方面の人にとってはある程度知られた地域であるが、美山という名前が示しているように美しい山間の町である。どの地方も同じであるが、主産業である林業が衰退し、人口は流出し、高齢化が進んだ地域である。こうした問題が象徴的に進んだことから、恐らく全国でもいち早く住民が主体となって、行政を含め取り組み、そうした意味で地方における村起こし、産業起こしを先駆的に実践してきた地域である。
講演のテーマを「都市生活者の今と市場開発の着眼」としたのだが、どこにでもある田舎をここにしかない田舎にするために、持っている多くの資源・資産を使って、魅力的な固有の田舎になって欲しいとの願いがあった。そして、業界や競争相手を見る前に、「都市生活者の今」を見つめることから始め、「次」に進んでいくためのアイディア、着眼をいくつかの事例を交えて話をさせていただいた。
昭和50年代から始まった村起こしの体験と実績からであろう、更にはそうした結果として10年前には「優秀観光地づくり賞」の金賞に輝いた地域ということから、200名近くの住民の方々が集まり熱心に聞いていただいた。
実はこの基調講演の前に、京都の友人に美山町を2時間半ほど案内してもらった。その実感であるが、見事なネイチャーヴィレッジ、ネイチャーテーマパークになっているなと。それは東京ディズニーランドのマーケティング構図を重ねることができるものであった。勿論、昭和50年代から始まった村起こしであり、東京ディズニーランドが出来るはるか以前からの、住民と行政の手による日本そのもののテーマパークである。テーマパークというと、何か人工的なものと思いがちであるが、美山のそれは自然に寄り添って生活している住民の人達による自然を生かしたテーマパークである。東京ディズニーランドが米国のフォークロアとして物語化されたのに対し、美山は日本のフォークロアとして住む人達の手で継承され磨かれてきたものだ。
その構図とはこうである。美山地区への入り口・ゲートには国道162号線沿いに「ふれあい広場」という農産物等を販売している道の駅がある。東京ディズニーランドがそうであるようにゲートをくぐると両側にお土産物のショップが並んでいるのと同じである。道の駅から美山町に入ると杉や檜の森林が迎えてくれる。冬の真っ最中であるが、とにかく美しい景観である。道路脇には一切の広告物はない。住民の人達の総意で景観が守られている。ほどなくいくつかの集落があり、かやぶきの家が点在している。のどかな山間の農村風景である。それら集落の先に現れたのが文化財保護法による保存地区「かやぶきの里」である。見事なかやぶきの家が集積・保存されていて、東京ディズニーランドの構図から言えば、シンデレラ城にあたる。「かやぶきの里」は美山地区のランドマークということだ。寒い季節にも関わらず、カメラを手にした何名ものマニヤが撮影をしていた。このかやぶきの里の前には清流美山川が流れている。鮎の名釣り場として関西の釣りフアンに知られた川であるが、聞くと利き酒ならぬ「利き鮎大会」で準優勝したという。それだけ豊かな川であるということだ。この美山川の先には「自然文化村」という宿泊施設のある都市生活者との交流拠点がある。ここを拠点に、修学旅行生の農作業体験など数多くのイベントメニューが実施されている。東京ディズニーランドにおけるアトラクションと同じである。
こうした実感をもとに、基調講演とその後のパネルディスカッションをさせていただいた。東京ディズニーランドの収入の70数%が物販によるものであることを踏まえ、もっともっと特産品を作り、このネイチャーヴィレッジを更に磨くために儲けてくださいと申し上げた。そして、資源を使っていない、もったいないいくつかのポイントを指摘をさせていただいた。会場からも多くの質問が出て良い地域フォーラムであったと思う。そして、何よりも主体はそこに住む人達であり、特にお年寄りが主役になっていることであった。お年寄りが元気であることによって、コミュニティの元気が生まれ、そんな人達が住む日本の原点とも言える町に人は訪れる。結果、若い家族のIターンも生まれる。私の講演も少しの元気の素になったら幸いである。(続く)
2010年02月17日
情報の質とは
ヒット商品応援団日記No445(毎週2回更新) 2010.2.17.
1年ほど前、週刊東洋経済は日本のマスメディアが抱える問題を指摘し陥落へと向かうであろうと特集を組んだ。そして、また1年後「新聞・テレビ断末魔」という少々おドロドロしいタイトルで特集を組んでいる。既に1ヶ月以上前に、米国のニューヨークタイムズ紙が経営危機に陥りリストラが始まったとの情報を得ていたが、インターネットを含め情報源の多様さにどう向き合うかの問題は米国も日本も同じである。
今号では新聞各社の経営内容について詳しく分析されているが、一言でいえば、新聞広告離れが激しく、不動産事業等本業以外の事業でなんとか経営を継続している、という内容であった。つまり、インターネットという無料経済の嵐の中、広告と言う収入源によるビジネスモデルは最早崩壊し、次のビジネスモデルの構築が急がれているということだ。更に言うと、朝日新聞が特徴的であるが、本業以外の不動産事業の収益性が悪くなっており、楽観できない情況にあるという点である。ちなみに、今年末で退店すると発表した有楽町西武の大家さんは朝日新聞である。そして、超一等地ではあるが、西武百貨店が支払っていた家賃がそのまま得られるか、都心の地価が下がっていることもあり、収入減へと向かう恐れがあるということだ。
もう一つのマスメディアTV局であるが、昨年秋からスポット広告の復調の兆しが見え始めたこと。更に各社とも大幅な制作経費削減によって危機に対し踏みとどまっている。そして、地デジ整備への投資もほぼ終わり、経営的には楽になると分析されているが、疲弊した地方経済にネットワークを組んでいるキー局にとってネットワークを維持していくことは極めて難しいと指摘している。
つまり、制作経費削減は番組の質の低下を招き、視聴率という商品の価格を下げる結果となっている。その典型がTBSの「総力報道!THE NEWS」(18:40〜19:40)である。報道という一番制作経費のかからない便組であるが、一桁台の視聴率しか獲得出来ていない。TBSの経営も放送事業という本業は113億円という巨大な赤字であるが、「赤坂サカス」という不動産事業収入によってなんとか黒字を見込んでいる。これも朝日新聞と同じビジネス構造だ。
つまり、本業の再定義が問われているということである。このブログでもあらゆる業種・業態が次へと転換していく様を書いてきたが、一番遅れていたのがマスメディアということだ。なんとも皮肉なことであるが、情報を取り扱うマスメディアが時代に対し非情報的であったということである。
米国の経済紙ウオールストリートジャーナルは購読料を支払った購読者のみに閲覧できる有料モデルが成功を収めつつあるようだが、これも一つの方法である。いずれにせよ「情報の質」が問われているのであって、その質とは「未知なる情報」「限定・希少な情報」「面白い情報」の3つに分類できる。そして、各々の情報は「使うに足る」「使用性の高い」もので、「知られにくい情報」だけにお金を支払うということである。
こうした情報を受け止める購読者、視聴者と共に、広告と言う情報を提供するスポンサーの側も変わり始めている。まだテスト段階のようであるが、TVCMの標準である15秒CMが「5秒CM」が登場した。シャープの「プラズマクラスター」や日本コカコーラの「ジョージア」であるが、メディア・ミックス上の費用対効果等を測定していると考えられる。
こうした常識を破った「5秒CM」のように、他の業種・業態でも「次」を見据えたテストマーケティングが行われている。ブランドと提携した宝島社のおまけ付き雑誌、最近では調理道具付きのレシピ本を書店で売っているように、例えば書店も大きく変わろうとしている。
パラダイムチェンジ、価値観の転換期にはこうした本業を生かすためのテスト、小さなチャレンジが必要なのだ。インターネットという無料経済の中で、生活者が求める情報の質とは、インターネット検索では出てこない、知られにくい、未だ知らない、興味を喚起してくれる情報、ニュースということである。つまり、新商品開発、新業態開発と何一つ変わらないということだ。(続く)
1年ほど前、週刊東洋経済は日本のマスメディアが抱える問題を指摘し陥落へと向かうであろうと特集を組んだ。そして、また1年後「新聞・テレビ断末魔」という少々おドロドロしいタイトルで特集を組んでいる。既に1ヶ月以上前に、米国のニューヨークタイムズ紙が経営危機に陥りリストラが始まったとの情報を得ていたが、インターネットを含め情報源の多様さにどう向き合うかの問題は米国も日本も同じである。
今号では新聞各社の経営内容について詳しく分析されているが、一言でいえば、新聞広告離れが激しく、不動産事業等本業以外の事業でなんとか経営を継続している、という内容であった。つまり、インターネットという無料経済の嵐の中、広告と言う収入源によるビジネスモデルは最早崩壊し、次のビジネスモデルの構築が急がれているということだ。更に言うと、朝日新聞が特徴的であるが、本業以外の不動産事業の収益性が悪くなっており、楽観できない情況にあるという点である。ちなみに、今年末で退店すると発表した有楽町西武の大家さんは朝日新聞である。そして、超一等地ではあるが、西武百貨店が支払っていた家賃がそのまま得られるか、都心の地価が下がっていることもあり、収入減へと向かう恐れがあるということだ。
もう一つのマスメディアTV局であるが、昨年秋からスポット広告の復調の兆しが見え始めたこと。更に各社とも大幅な制作経費削減によって危機に対し踏みとどまっている。そして、地デジ整備への投資もほぼ終わり、経営的には楽になると分析されているが、疲弊した地方経済にネットワークを組んでいるキー局にとってネットワークを維持していくことは極めて難しいと指摘している。
つまり、制作経費削減は番組の質の低下を招き、視聴率という商品の価格を下げる結果となっている。その典型がTBSの「総力報道!THE NEWS」(18:40〜19:40)である。報道という一番制作経費のかからない便組であるが、一桁台の視聴率しか獲得出来ていない。TBSの経営も放送事業という本業は113億円という巨大な赤字であるが、「赤坂サカス」という不動産事業収入によってなんとか黒字を見込んでいる。これも朝日新聞と同じビジネス構造だ。
つまり、本業の再定義が問われているということである。このブログでもあらゆる業種・業態が次へと転換していく様を書いてきたが、一番遅れていたのがマスメディアということだ。なんとも皮肉なことであるが、情報を取り扱うマスメディアが時代に対し非情報的であったということである。
米国の経済紙ウオールストリートジャーナルは購読料を支払った購読者のみに閲覧できる有料モデルが成功を収めつつあるようだが、これも一つの方法である。いずれにせよ「情報の質」が問われているのであって、その質とは「未知なる情報」「限定・希少な情報」「面白い情報」の3つに分類できる。そして、各々の情報は「使うに足る」「使用性の高い」もので、「知られにくい情報」だけにお金を支払うということである。
こうした情報を受け止める購読者、視聴者と共に、広告と言う情報を提供するスポンサーの側も変わり始めている。まだテスト段階のようであるが、TVCMの標準である15秒CMが「5秒CM」が登場した。シャープの「プラズマクラスター」や日本コカコーラの「ジョージア」であるが、メディア・ミックス上の費用対効果等を測定していると考えられる。
こうした常識を破った「5秒CM」のように、他の業種・業態でも「次」を見据えたテストマーケティングが行われている。ブランドと提携した宝島社のおまけ付き雑誌、最近では調理道具付きのレシピ本を書店で売っているように、例えば書店も大きく変わろうとしている。
パラダイムチェンジ、価値観の転換期にはこうした本業を生かすためのテスト、小さなチャレンジが必要なのだ。インターネットという無料経済の中で、生活者が求める情報の質とは、インターネット検索では出てこない、知られにくい、未だ知らない、興味を喚起してくれる情報、ニュースということである。つまり、新商品開発、新業態開発と何一つ変わらないということだ。(続く)
2010年02月14日
凍えた風景
ヒット商品応援団日記No444(毎週2回更新) 2010.2.14.
今年の冬は暖冬との長期予報であったが、見事に外れた。ユニクロのヒートテックを始めとした肌着類は予測が外れ、どこも品切れ状態が続いている。どのメーカーも小売業も、無理はせず、全てを控え目にした結果であろう。控え目とは収縮であり、展望の無さを証明していることでもある。
ところで、今年もまた「サラリーマン川柳」の入選作100選が発表された。時代の空気感を表した一つであるが、私が使ってきたキーワードを組み合わせると次のようになる。
・巣ごもり消費/エコライフ 行かず動かず 何もせず 後始末
/ウチだって インフルだけは 新型だ シロップリン
/手抜きした 妻の言いわけ エコ弁当 とらさん
・年間所得100万円減少時代/一・二・三 我が家のビール 変遷史 しゅう
/逆らえず ウチのこづかい 仕分け人 愛妻家
/草食系? いいえ我が家は 粗食系 頑張れパパ
/節約と 人には言わず エコと言う 環境問題
数年前までは、夫婦や上司・部下といった人間模様の川柳が多かったが、年々笑うに笑えない現実をテーマにしたものが多くなってきた。庶民が本格的に言葉遊びを楽しみ始めたのは江戸時代の川柳である。初代柄井川柳(からいせんりゅう)が始めたものだが、庶民誰でもが参加できるように前句というお題に対し、それに続く句を詠む遊びである。この前句から続く後の句が独立したのが「川柳」である。
サブプライムローン問題が表面化する前、ちょうど3年前に、この「サラリーマン川柳」を取り上げていた。既に、消費低迷を感じていた私は一つの心理的打開策として、次のように書いていた。
『敢えて、川柳を取り上げたのは、私たちのビジネスの考え方として、時代というお題に対し、後の句をどう詠んでいったらよいかよく似ているからである。しかも、川柳はくすっと笑える、そうそうとうなづける表現形式である。不安ばかりが増幅されている時代、停滞気味の市場情況の中にあって、顧客のこころの扉を開けるにはユーモア、遊び感覚こそ必要となる。』
3年後、今年の入選作を読んでみたが、あまりにリアルすぎてユーモアにならない句が多い。そうそうと頷けるが、その後の笑いはない。言葉遊びどころではない、というのが生活実感である。
前句という時代のお題は、「巣ごもり消費」や「年間所得100万円減少」である。元来、日本文化の無防備とも言える開放性によって、外から様々なモノや文化を取り入れてきた。つまり、周りを気にする民族であるが、周りは今年の冬のように凍えた風景ばかりである。
こうしてブログを書いてきたが、子供の非行、薬物中毒の悲惨さに夜回りをして救いの手を差しのべている水谷修先生の言葉を思い出す。少女達に、つらい過去ではなく、明日を語らせなければいけないと。今は閉鎖されているが、その水谷先生の掲示板のタイトルは「春不遠」であった。(続く)
今年の冬は暖冬との長期予報であったが、見事に外れた。ユニクロのヒートテックを始めとした肌着類は予測が外れ、どこも品切れ状態が続いている。どのメーカーも小売業も、無理はせず、全てを控え目にした結果であろう。控え目とは収縮であり、展望の無さを証明していることでもある。
ところで、今年もまた「サラリーマン川柳」の入選作100選が発表された。時代の空気感を表した一つであるが、私が使ってきたキーワードを組み合わせると次のようになる。
・巣ごもり消費/エコライフ 行かず動かず 何もせず 後始末
/ウチだって インフルだけは 新型だ シロップリン
/手抜きした 妻の言いわけ エコ弁当 とらさん
・年間所得100万円減少時代/一・二・三 我が家のビール 変遷史 しゅう
/逆らえず ウチのこづかい 仕分け人 愛妻家
/草食系? いいえ我が家は 粗食系 頑張れパパ
/節約と 人には言わず エコと言う 環境問題
数年前までは、夫婦や上司・部下といった人間模様の川柳が多かったが、年々笑うに笑えない現実をテーマにしたものが多くなってきた。庶民が本格的に言葉遊びを楽しみ始めたのは江戸時代の川柳である。初代柄井川柳(からいせんりゅう)が始めたものだが、庶民誰でもが参加できるように前句というお題に対し、それに続く句を詠む遊びである。この前句から続く後の句が独立したのが「川柳」である。
サブプライムローン問題が表面化する前、ちょうど3年前に、この「サラリーマン川柳」を取り上げていた。既に、消費低迷を感じていた私は一つの心理的打開策として、次のように書いていた。
『敢えて、川柳を取り上げたのは、私たちのビジネスの考え方として、時代というお題に対し、後の句をどう詠んでいったらよいかよく似ているからである。しかも、川柳はくすっと笑える、そうそうとうなづける表現形式である。不安ばかりが増幅されている時代、停滞気味の市場情況の中にあって、顧客のこころの扉を開けるにはユーモア、遊び感覚こそ必要となる。』
3年後、今年の入選作を読んでみたが、あまりにリアルすぎてユーモアにならない句が多い。そうそうと頷けるが、その後の笑いはない。言葉遊びどころではない、というのが生活実感である。
前句という時代のお題は、「巣ごもり消費」や「年間所得100万円減少」である。元来、日本文化の無防備とも言える開放性によって、外から様々なモノや文化を取り入れてきた。つまり、周りを気にする民族であるが、周りは今年の冬のように凍えた風景ばかりである。
こうしてブログを書いてきたが、子供の非行、薬物中毒の悲惨さに夜回りをして救いの手を差しのべている水谷修先生の言葉を思い出す。少女達に、つらい過去ではなく、明日を語らせなければいけないと。今は閉鎖されているが、その水谷先生の掲示板のタイトルは「春不遠」であった。(続く)
2010年02月11日
サバイバル時代の知恵
ヒット商品応援団日記No443(毎週2回更新) 2010.2.11.
ここ2年ほど、10年間で100万円所得が減少した時代、いわば所得減少に伴ってどんな消費傾向が見られてきたかを書いてきた。そうした消費傾向を「巣ごもり消費」と呼んできた訳であるが、「消費は所得の関数」としての意味合いと共に、もう一つの消費価値観を再考してみたい。そのことは何よりも価格競争を脱することや新市場の創造への着眼につながるからである。
「消費は所得の関数」、その現象としては低価格商品や低価格店への志向は勿論のこと、更に回数減、となって現れてくる。ある意味、使えるお金の中で単純に金額と回数を減らすという消費である。しかし、昨年のヒット商品であるLED電球やHV車のように、最初は少々高くつくが長い目で見れば財布にも地球にも優しい「エコはお得」といった価値観商品、新しい市場も生まれてきた。一方、車で言うと、都市部ではカーシェアリングが急速に普及し始めている。両者の根底にある価値観は、所有価値と使用価値である。多様な価値観の時代に向かっていると、そう決めつけて終わることは簡単であるが、しかし答えにはならずその多様さについて考えてみたい。
ところで、1980年代から数年前まで、「トレンド」というキーワードがマーチャンダイジング&マーケティングで言われてきた。簡単に言えば、新しい、珍しい、面白い、そんな消費傾向(トレンド)を探り、その商品をどこよりも早く、顧客に提供しようとするビジネスである。しかし、それは競合社によってすぐに類似商品が生まれ、価格競争市場に向かう。この繰り返しを続けてきた訳である。そして、今なおこうしたマーケティングによる消費傾向は巣ごもり生活においても続いてはいるが、新しいは「既にあるもの」へ、珍しいは「使い回し」へ、面白いは「私の好み」へ、そんな変化が顧客の側に見られるようになった。「既にあるもの」を「使い回し」て「私の好み」にする、そんなライフスタイル観である。
もっとくだけた表現をすれば、「冷蔵庫にある残り物をプロの料理人がごちそうに変身させ、しかもお得」、いわゆる賄い料理のような、生活のプロ志向化、生活の達人に向かうライフスタイルと言える。極端な表現をすれば、消費のプロから生活のプロへの転換ということである。下取りセールの成功、今なお続くアウトレット人気、リサイクルショップの普及&定着、・・・・・・こうしたエコロジー的視座による見直しが、個々の生活の細部にわたって進行しているということである。結果どういうことが起きているか、例えば使いこなせない圧力釜や洗濯機等の家電メーカーは使い方教室を開催し、人気となっている。あるいは、衣類の修復やしみ抜きのプロ福永真一さんやクリーニングのプロ中村祐一さんに注目が集まるのも、既に「有るもの」を生かし切る、価値を最大化させる知恵が求められている良き事例である。
3年ほど前、「今、地方ビジネスがおもしろい」というテーマでブログを書いたことがあった。地方に埋もれた「既にあるもの」に着眼して欲しいと願ってであったが、ネット通販という方法によって、次々にヒット商品を生んでいることは周知の通りである。「既にあるものへの再認識」とは、価値観でいうと「有用性」への認識ということである。生活者にとって、単純な新しい、珍しい、面白いといった欲望としての消費に、「有用性」という新たな物差しを持ち始めたということだ。その有用性には「長い目で見た費用対効果」もあれば、「使い回すことによる新たな満足」もある。その新たな満足には、「私」としての好み以外に、守るべき家族の健康や、もっと広げればエコにも良いといった「公」としての小さな満足もある。こうした認識は巣ごもり生活を通じ再認識し得られたものであるが、小資源国日本ならではの一種の能力、日本人が先駆的に持っているDNAのようなものだ。
経済指標を持ち出すまでもなく、企業も生活者も生き残るための戦いをしている。この「有用性」を企業経営という世界に当てはめてみると生き残り策が見えてくる。日本は世界の中で圧倒的に老舗、継続し続ける企業が多い。1400年以上続く大阪の宮大工金剛組を持ち出さなくても、地方を歩けば数百年続く会社は山ほどある。良く言われることであるが、継続を可能とするには「変化対応力」が不可欠であると。しかし、同時に「守るべき何か」「継続すべきは何か」を明確にするということである。
企業経営における「有用性」という視座に立てば、まず「有るもの」を見直し、使い回したり、転用したり、知恵を駆使して生き延びてきた。「有るもの」、それは技術であったり、人材であったり、お金では買えない信用・暖簾であったりする。勿論、こうした無形のものの前に、有形の土地や建物、設備といった資産の活用も前提としてある。つまり、サバイバル時代の重要な戦略は、変えるべきことと、継続すべき、守るべき何かを明確にすることから始まる。
洋食器の製造で知られている新潟燕三条では、金型製造技術や研磨技術が携帯電話や小型航空機の部品製造にまで転用されている。タオルの産地である四国今治のタオル製造の再生もしかりである。農産物でも、10年ほど前から米やりんごを中国を始めヨーロッパへと輸出している。日本酒もしかり、ドバイショックでその後どうなったか確認していないが、中東にスイカまで売りに行っている。国や業界という垣根を越えて、それぞれ「有るもの」を自在に生かし切る知恵の結果である。
サバイバル時代に生き残るための知恵、それは既に「有るもの」に対し、少し離れて見る、俯瞰的な視座を必要とする。それは企業も生活者もサバイバル時代を生きることにおいて同じである。そして、提供する側の目的や意図とは違って、使い回したり、転用したり、何かの替わりに使ったり、思いがけないところでヒット商品が生まれる、それがサバイバル時代の特徴だ。(続く)
ここ2年ほど、10年間で100万円所得が減少した時代、いわば所得減少に伴ってどんな消費傾向が見られてきたかを書いてきた。そうした消費傾向を「巣ごもり消費」と呼んできた訳であるが、「消費は所得の関数」としての意味合いと共に、もう一つの消費価値観を再考してみたい。そのことは何よりも価格競争を脱することや新市場の創造への着眼につながるからである。
「消費は所得の関数」、その現象としては低価格商品や低価格店への志向は勿論のこと、更に回数減、となって現れてくる。ある意味、使えるお金の中で単純に金額と回数を減らすという消費である。しかし、昨年のヒット商品であるLED電球やHV車のように、最初は少々高くつくが長い目で見れば財布にも地球にも優しい「エコはお得」といった価値観商品、新しい市場も生まれてきた。一方、車で言うと、都市部ではカーシェアリングが急速に普及し始めている。両者の根底にある価値観は、所有価値と使用価値である。多様な価値観の時代に向かっていると、そう決めつけて終わることは簡単であるが、しかし答えにはならずその多様さについて考えてみたい。
ところで、1980年代から数年前まで、「トレンド」というキーワードがマーチャンダイジング&マーケティングで言われてきた。簡単に言えば、新しい、珍しい、面白い、そんな消費傾向(トレンド)を探り、その商品をどこよりも早く、顧客に提供しようとするビジネスである。しかし、それは競合社によってすぐに類似商品が生まれ、価格競争市場に向かう。この繰り返しを続けてきた訳である。そして、今なおこうしたマーケティングによる消費傾向は巣ごもり生活においても続いてはいるが、新しいは「既にあるもの」へ、珍しいは「使い回し」へ、面白いは「私の好み」へ、そんな変化が顧客の側に見られるようになった。「既にあるもの」を「使い回し」て「私の好み」にする、そんなライフスタイル観である。
もっとくだけた表現をすれば、「冷蔵庫にある残り物をプロの料理人がごちそうに変身させ、しかもお得」、いわゆる賄い料理のような、生活のプロ志向化、生活の達人に向かうライフスタイルと言える。極端な表現をすれば、消費のプロから生活のプロへの転換ということである。下取りセールの成功、今なお続くアウトレット人気、リサイクルショップの普及&定着、・・・・・・こうしたエコロジー的視座による見直しが、個々の生活の細部にわたって進行しているということである。結果どういうことが起きているか、例えば使いこなせない圧力釜や洗濯機等の家電メーカーは使い方教室を開催し、人気となっている。あるいは、衣類の修復やしみ抜きのプロ福永真一さんやクリーニングのプロ中村祐一さんに注目が集まるのも、既に「有るもの」を生かし切る、価値を最大化させる知恵が求められている良き事例である。
3年ほど前、「今、地方ビジネスがおもしろい」というテーマでブログを書いたことがあった。地方に埋もれた「既にあるもの」に着眼して欲しいと願ってであったが、ネット通販という方法によって、次々にヒット商品を生んでいることは周知の通りである。「既にあるものへの再認識」とは、価値観でいうと「有用性」への認識ということである。生活者にとって、単純な新しい、珍しい、面白いといった欲望としての消費に、「有用性」という新たな物差しを持ち始めたということだ。その有用性には「長い目で見た費用対効果」もあれば、「使い回すことによる新たな満足」もある。その新たな満足には、「私」としての好み以外に、守るべき家族の健康や、もっと広げればエコにも良いといった「公」としての小さな満足もある。こうした認識は巣ごもり生活を通じ再認識し得られたものであるが、小資源国日本ならではの一種の能力、日本人が先駆的に持っているDNAのようなものだ。
経済指標を持ち出すまでもなく、企業も生活者も生き残るための戦いをしている。この「有用性」を企業経営という世界に当てはめてみると生き残り策が見えてくる。日本は世界の中で圧倒的に老舗、継続し続ける企業が多い。1400年以上続く大阪の宮大工金剛組を持ち出さなくても、地方を歩けば数百年続く会社は山ほどある。良く言われることであるが、継続を可能とするには「変化対応力」が不可欠であると。しかし、同時に「守るべき何か」「継続すべきは何か」を明確にするということである。
企業経営における「有用性」という視座に立てば、まず「有るもの」を見直し、使い回したり、転用したり、知恵を駆使して生き延びてきた。「有るもの」、それは技術であったり、人材であったり、お金では買えない信用・暖簾であったりする。勿論、こうした無形のものの前に、有形の土地や建物、設備といった資産の活用も前提としてある。つまり、サバイバル時代の重要な戦略は、変えるべきことと、継続すべき、守るべき何かを明確にすることから始まる。
洋食器の製造で知られている新潟燕三条では、金型製造技術や研磨技術が携帯電話や小型航空機の部品製造にまで転用されている。タオルの産地である四国今治のタオル製造の再生もしかりである。農産物でも、10年ほど前から米やりんごを中国を始めヨーロッパへと輸出している。日本酒もしかり、ドバイショックでその後どうなったか確認していないが、中東にスイカまで売りに行っている。国や業界という垣根を越えて、それぞれ「有るもの」を自在に生かし切る知恵の結果である。
サバイバル時代に生き残るための知恵、それは既に「有るもの」に対し、少し離れて見る、俯瞰的な視座を必要とする。それは企業も生活者もサバイバル時代を生きることにおいて同じである。そして、提供する側の目的や意図とは違って、使い回したり、転用したり、何かの替わりに使ったり、思いがけないところでヒット商品が生まれる、それがサバイバル時代の特徴だ。(続く)
2010年02月07日
コンプライアンスの本質
ヒット商品応援団日記No442(毎週2回更新) 2010.2.7.
車の免許証は持ってはいるものの、ここ十数年ハンドルを握ったことがない。そうしたこともあって、減税&補助金による需要先食いがどこまで続くかといったことは考えてはいたものの、HV車新型「プリウス」のブレーキ不良にはあまり注目してこなかった。もっと正確に言えば、HV車やEV車という次世代カーを成立させる技術そのものへの関心は、せいぜい一般紙や経済誌で扱われている程度のものであった。
今回問題となったブレーキ不良は、雪道走行時に使われる「アンチロックブレーキシステム(ABS)」が作動する時の問題で。このABSが油圧、回生両ブレーキ併用状態から油圧ブレーキだけに切り替わる時1秒ほど感覚的なタイムラグがあり、ブレーキが効かないまま走ることになる、そんな説明であった。勿論、2つのブレーキシステムはコンピュータで制御されている訳であるが、そのタイムラグの感覚は、人さまざまである。何か、車のシステムに人の感覚を合わせて乗ることが必要であるかの感がしてならない。
また、昨秋からアクセル不良問題が表面化し、欧米、中国で販売されたカローラやカムリ等のリコールが始まっている。1990年代初頭の米国との貿易摩擦以降、海外での現地生産が行われ、トヨタでは海外生産は全体の4割に及んでいるという。勿論、自動車は2〜3万点もの部品が使われ、今回問題となったアクセルペダルは米国の部品メーカーCTSコーポレーションと報道されている。たった一つの不良品がこうした五百数十万台のリコールという結果を生む、これがグローバルビジネスである。あたかも、リーマンショックを引き起こしたサブプライムローンのように、汚染された証券が世界中にばらまかれたことを想起させる。
先日、トヨタ車の品質問題で豊田章男社長が記者会見を行っていたが、どこかの危機管理コンサルタントの受け売りのような陳謝と説明であった。ジャストインタイム、かんばん方式、カイゼン、といった言葉で表現されるトヨタ生産方式は、1973年の石油ショック、1991年のバブル崩壊、こうした危機を乗り越えるために多くの企業がトヨタから学んできた。モノづくりの精神が現場の一人ひとりに共有され、解決のために考え、アイディアを出し、行動し、結果を自ら引き受ける、つまり人が変わるための日本的な革新であり、モノづくり文化である。こうした日々の結果、世界NO1の自動車メーカーとなった訳である。しかし、技術は輸出できるが、徹底した現場主義から生まれ育ってきたモノづくり文化までは輸出できない。
作家冷泉彰彦氏がJMMのUSAレポートで2度にわたり北米でのトヨタ問題を報告してくれているが、想像以上にトヨタパッシングが激しく、ここぞとばかりにフォードはトヨタからの乗り換え促進を進めているいう。今度はトヨタ自身が危機に直面している。危機はトヨタブランド、安全と品質への不信というかたちで。しかも、日本国内もそうであるが、特に次世代カー「プリウス」の問題は極めて大きい。トヨタブランドを牽引する戦略車種、未来への牽引者種であるからだ。トヨタブランドは何十年にも渡って創られてきたものであるが、ブランドは常にいとも簡単に崩壊する。
こうした問題が起きる度に、危機管理が叫ばれ、危機管理コンサルタントがコメントを出す。記者会見といった広報レベルであれば、百歩譲ってその必要は認めるが、コトの本質解決とはならない。トヨタ自動車を今日のトヨタにしたのは、人、現場の人によってである。これは推測ではあるが、トヨタのことだから「アンチロックブレーキシステム(ABS)」について現場では多くの試行錯誤と検討がなされてきた筈である。従来のガソリン車とは異なる運転スタイルを必要とし、そのための人間研究、身体と心理の研究がなされてきたと思う。HV車は未来の車の入り口である。であればこそ、陳謝は必要ではあるが、運転する人にとっての問題と共に、未来の車のある生活、未来の運転スタイル、未来実感を描くことこそ、真のコンプライアンスとなる。
豊田章男社長の記者会見では象徴的なシーンがあった。外国人記者からの質問で、世界に向けて英語でメッセージを述べて欲しいというものであった。グローバル企業、NO1企業の最大の責務は陳謝と共に未来を語ることであり、そのために具体性をもって明日からの行動を述べることだ。そして、トヨタ自動車の実質的創業者である豊田喜一郎は部品の不具合があれば、即、現場、ユーザーへと足を運んだ筈である。日々問題が起きる現場について、HONDAの創業者である本田宗一郎は日経ビジネスのインタビューに次のように答えていた。
「人間はね、一人ひとりみんな違っているからいいんだよ。みんな同じなら、社長は人を雇わずにロボットをいっぱい買って仕事をさせてりゃいいでしょう。」
(続く)
車の免許証は持ってはいるものの、ここ十数年ハンドルを握ったことがない。そうしたこともあって、減税&補助金による需要先食いがどこまで続くかといったことは考えてはいたものの、HV車新型「プリウス」のブレーキ不良にはあまり注目してこなかった。もっと正確に言えば、HV車やEV車という次世代カーを成立させる技術そのものへの関心は、せいぜい一般紙や経済誌で扱われている程度のものであった。
今回問題となったブレーキ不良は、雪道走行時に使われる「アンチロックブレーキシステム(ABS)」が作動する時の問題で。このABSが油圧、回生両ブレーキ併用状態から油圧ブレーキだけに切り替わる時1秒ほど感覚的なタイムラグがあり、ブレーキが効かないまま走ることになる、そんな説明であった。勿論、2つのブレーキシステムはコンピュータで制御されている訳であるが、そのタイムラグの感覚は、人さまざまである。何か、車のシステムに人の感覚を合わせて乗ることが必要であるかの感がしてならない。
また、昨秋からアクセル不良問題が表面化し、欧米、中国で販売されたカローラやカムリ等のリコールが始まっている。1990年代初頭の米国との貿易摩擦以降、海外での現地生産が行われ、トヨタでは海外生産は全体の4割に及んでいるという。勿論、自動車は2〜3万点もの部品が使われ、今回問題となったアクセルペダルは米国の部品メーカーCTSコーポレーションと報道されている。たった一つの不良品がこうした五百数十万台のリコールという結果を生む、これがグローバルビジネスである。あたかも、リーマンショックを引き起こしたサブプライムローンのように、汚染された証券が世界中にばらまかれたことを想起させる。
先日、トヨタ車の品質問題で豊田章男社長が記者会見を行っていたが、どこかの危機管理コンサルタントの受け売りのような陳謝と説明であった。ジャストインタイム、かんばん方式、カイゼン、といった言葉で表現されるトヨタ生産方式は、1973年の石油ショック、1991年のバブル崩壊、こうした危機を乗り越えるために多くの企業がトヨタから学んできた。モノづくりの精神が現場の一人ひとりに共有され、解決のために考え、アイディアを出し、行動し、結果を自ら引き受ける、つまり人が変わるための日本的な革新であり、モノづくり文化である。こうした日々の結果、世界NO1の自動車メーカーとなった訳である。しかし、技術は輸出できるが、徹底した現場主義から生まれ育ってきたモノづくり文化までは輸出できない。
作家冷泉彰彦氏がJMMのUSAレポートで2度にわたり北米でのトヨタ問題を報告してくれているが、想像以上にトヨタパッシングが激しく、ここぞとばかりにフォードはトヨタからの乗り換え促進を進めているいう。今度はトヨタ自身が危機に直面している。危機はトヨタブランド、安全と品質への不信というかたちで。しかも、日本国内もそうであるが、特に次世代カー「プリウス」の問題は極めて大きい。トヨタブランドを牽引する戦略車種、未来への牽引者種であるからだ。トヨタブランドは何十年にも渡って創られてきたものであるが、ブランドは常にいとも簡単に崩壊する。
こうした問題が起きる度に、危機管理が叫ばれ、危機管理コンサルタントがコメントを出す。記者会見といった広報レベルであれば、百歩譲ってその必要は認めるが、コトの本質解決とはならない。トヨタ自動車を今日のトヨタにしたのは、人、現場の人によってである。これは推測ではあるが、トヨタのことだから「アンチロックブレーキシステム(ABS)」について現場では多くの試行錯誤と検討がなされてきた筈である。従来のガソリン車とは異なる運転スタイルを必要とし、そのための人間研究、身体と心理の研究がなされてきたと思う。HV車は未来の車の入り口である。であればこそ、陳謝は必要ではあるが、運転する人にとっての問題と共に、未来の車のある生活、未来の運転スタイル、未来実感を描くことこそ、真のコンプライアンスとなる。
豊田章男社長の記者会見では象徴的なシーンがあった。外国人記者からの質問で、世界に向けて英語でメッセージを述べて欲しいというものであった。グローバル企業、NO1企業の最大の責務は陳謝と共に未来を語ることであり、そのために具体性をもって明日からの行動を述べることだ。そして、トヨタ自動車の実質的創業者である豊田喜一郎は部品の不具合があれば、即、現場、ユーザーへと足を運んだ筈である。日々問題が起きる現場について、HONDAの創業者である本田宗一郎は日経ビジネスのインタビューに次のように答えていた。
「人間はね、一人ひとりみんな違っているからいいんだよ。みんな同じなら、社長は人を雇わずにロボットをいっぱい買って仕事をさせてりゃいいでしょう。」
(続く)
2010年02月03日
消費の砂漠化
ヒット商品応援団日記No441(毎週2回更新) 2010.2.3.
2/1のNHK「クローズドアップ現代」は「フードデザート」がテーマであった。「フードデザート」とは食の砂漠化との意味で、生鮮食品の買い物に行けない高齢者の食が缶詰やレトルト食品といった栄養面においても偏った食生活になっている、そんな特集であった。都市に生活している人間には分かりづらいが、地方都市の中心部ですら商店街はシャッター通り化し、過疎地の山間には商店すらない。いわゆる限界集落に生活する高齢者の実態の特集であった。鉄道やバスといった公共交通が赤字のため廃止されていくなかで、運転免許を持たない、ましてやPCなど使えない高齢者にとって、買い物ができない孤立した生活となっている。以前、ブログにも取り上げた鹿児島阿久根市のAZスーパーセンターのように、1回100円の買い物バスを運行し、高齢者にもやさしく、ビジネスとしても成功しているところもあるが、ほとんどの地方都市は「フードデザート」状態である。
一方、同じ2/1の日経MJにはインターネットを駆使した先進流通である「ネットプライスドットコム」のインタビュー記事が掲載されていた。周知のように、安く手に入るギャザリング(共同購入)や中古品の宅配買い取りといった時代変化に即応したビジネス企業である。若い世代、ネット活用世代にとっては極めて便利なネット流通である。
この記事を読みながら、都市と地方の経済格差ばかりか、情報格差もここまできたのかという感がした。食の砂漠化と共に、情報の砂漠化である。
私は地方に出かける場合、ほとんどの方と同じように航空券やホテルはPCを使って予約&決済している。昨年12月頃から、航空運賃やホテルなどのバーゲンメールがひっきりなしに届く。しかし、どれだけの人がバーゲンメールに誘われて旅行するだろうか。昨年春頃から、消費現場では目的買いのみで、ついで買いはほとんどしなくなっている。こうしたメールも単なる砂漠に吹き荒れる砂嵐のように思えて仕方がない。
ところで、今日は2月3日節分の日である。豆まきといった行事は家庭ではほとんど行われず、恵方巻きを食べる日となった。10日後にはバレンタインデーとなるが、小売り現場は恵方巻き一色である。義理チョコからミーギフトへ、今年あたりは友チョコや逆チョコといった変化を持ち込んだバレンタインデーであるが、もはやそんな余裕、いや空気感は全くない。手頃な価格で恵方巻きを食べた方が実質的で、百貨店からコンビニまで、恵方巻きのセール一色である。これが素直な消費現場の実態である。
この恵方巻きは節分の日に食べると縁起が良いとされるが、その発祥には諸説あり、そのいわれを物語にして大阪の海苔問屋が仕掛けた販促キャンペーンが起源だ。バレンタインデーの起源も諸説あるようだが、日本においてはチョコレートメーカーが販促として仕掛けたものである。こうした記念日は別に悪いことではなく、業界全体が「この時」という拡販時期を設定し、各社が競ってコトを起こすキャンペーンである。他にも、成功した事例では「孫の日」があるが、これも百貨店業界が仕掛けた日である。
しかし、こうした記念日という売り出し方も何か空々しく思えるほどの空気感となっている。ハレ(非日常)とケ(日常)という言い方がある。ハレの日ぐらいは少し華やいで何かをしよう、そんな気持ちになるものであるが、残念ながらそんな気が起きないほどである。せいぜい恵方巻きを丸かじりして、満腹感に浸りたい、そんな感じとなっている。
今、ショウガを使って身体を暖める食がブームとなっているが、これもお金をかけずに寒い冬を乗り越える消費氷河期ならではの知恵であろう。本来であれば、単なる冷え対策としてだけではなく、低体温症の根本対策としてマクロビオテクスなどが注目されてしかるべきである。しかし、そこまでも行かない、いや行けないほどの消費氷河期、いや無味乾燥な消費の砂漠化が始まっている。(続く)
2/1のNHK「クローズドアップ現代」は「フードデザート」がテーマであった。「フードデザート」とは食の砂漠化との意味で、生鮮食品の買い物に行けない高齢者の食が缶詰やレトルト食品といった栄養面においても偏った食生活になっている、そんな特集であった。都市に生活している人間には分かりづらいが、地方都市の中心部ですら商店街はシャッター通り化し、過疎地の山間には商店すらない。いわゆる限界集落に生活する高齢者の実態の特集であった。鉄道やバスといった公共交通が赤字のため廃止されていくなかで、運転免許を持たない、ましてやPCなど使えない高齢者にとって、買い物ができない孤立した生活となっている。以前、ブログにも取り上げた鹿児島阿久根市のAZスーパーセンターのように、1回100円の買い物バスを運行し、高齢者にもやさしく、ビジネスとしても成功しているところもあるが、ほとんどの地方都市は「フードデザート」状態である。
一方、同じ2/1の日経MJにはインターネットを駆使した先進流通である「ネットプライスドットコム」のインタビュー記事が掲載されていた。周知のように、安く手に入るギャザリング(共同購入)や中古品の宅配買い取りといった時代変化に即応したビジネス企業である。若い世代、ネット活用世代にとっては極めて便利なネット流通である。
この記事を読みながら、都市と地方の経済格差ばかりか、情報格差もここまできたのかという感がした。食の砂漠化と共に、情報の砂漠化である。
私は地方に出かける場合、ほとんどの方と同じように航空券やホテルはPCを使って予約&決済している。昨年12月頃から、航空運賃やホテルなどのバーゲンメールがひっきりなしに届く。しかし、どれだけの人がバーゲンメールに誘われて旅行するだろうか。昨年春頃から、消費現場では目的買いのみで、ついで買いはほとんどしなくなっている。こうしたメールも単なる砂漠に吹き荒れる砂嵐のように思えて仕方がない。
ところで、今日は2月3日節分の日である。豆まきといった行事は家庭ではほとんど行われず、恵方巻きを食べる日となった。10日後にはバレンタインデーとなるが、小売り現場は恵方巻き一色である。義理チョコからミーギフトへ、今年あたりは友チョコや逆チョコといった変化を持ち込んだバレンタインデーであるが、もはやそんな余裕、いや空気感は全くない。手頃な価格で恵方巻きを食べた方が実質的で、百貨店からコンビニまで、恵方巻きのセール一色である。これが素直な消費現場の実態である。
この恵方巻きは節分の日に食べると縁起が良いとされるが、その発祥には諸説あり、そのいわれを物語にして大阪の海苔問屋が仕掛けた販促キャンペーンが起源だ。バレンタインデーの起源も諸説あるようだが、日本においてはチョコレートメーカーが販促として仕掛けたものである。こうした記念日は別に悪いことではなく、業界全体が「この時」という拡販時期を設定し、各社が競ってコトを起こすキャンペーンである。他にも、成功した事例では「孫の日」があるが、これも百貨店業界が仕掛けた日である。
しかし、こうした記念日という売り出し方も何か空々しく思えるほどの空気感となっている。ハレ(非日常)とケ(日常)という言い方がある。ハレの日ぐらいは少し華やいで何かをしよう、そんな気持ちになるものであるが、残念ながらそんな気が起きないほどである。せいぜい恵方巻きを丸かじりして、満腹感に浸りたい、そんな感じとなっている。
今、ショウガを使って身体を暖める食がブームとなっているが、これもお金をかけずに寒い冬を乗り越える消費氷河期ならではの知恵であろう。本来であれば、単なる冷え対策としてだけではなく、低体温症の根本対策としてマクロビオテクスなどが注目されてしかるべきである。しかし、そこまでも行かない、いや行けないほどの消費氷河期、いや無味乾燥な消費の砂漠化が始まっている。(続く)