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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2018年08月19日

原点を忘れた阿波踊り

ヒット商品応援団日記No720(毎週更新) 2018.8.19.



徳島の阿波踊りが終わり、その人出が昨年より約15万人少ない108万人で、記録が残る1974年以降最少だったと報道されている。かなり前から週刊誌報道を含め、それまでの観光協会による累積赤字が4億円に及び、運営主体を徳島市長による実行委員会に移管され、踊り手の中心となっている連との感情的な確執を含め、阿波踊りの華とも言われる「総踊り中止」というところまで進んでしまった。当たり前のことだが、観客動員数の減少は当初から予測されていたことである。しかも、実行委員会の当初の目的であった赤字も間違いなく解消されることはないであろう。

まず、徳島市長による赤字改善というお題目で強引に観光協会を潰したことから始まる。雨による中止があれば4000~5000万円の払い戻しがあるという。あるいは観客の送迎バスなどのサービスもあり、費用負担は間違いなく増えてくる。週刊誌報道が事実であれば、表舞台に出てこない一方の協賛社である徳島新聞グループによる利権も赤字要因の一つであろう。祭りが大きくなればなるほど利権が構造化されやすい。しかも、祭りの原点・ポリシーもまた変質してくる。こうした本質について私見を述べるには情報が少ないためコメントしかねるが、少なくともマーケティングされていないことだけは事実である。

まず、観客が踊りを楽しむ演舞場が市内4カ所に設定されており、その1箇所に人気が集まってしまうことから、観客を分散化しチケットの売れ行きを平均化し売り上げを上げ赤字解消を図る意図であった。少なくともマーケティングをその職とした人間であれば、真逆のことをやっており、売り上げは更に下げてしまうことは火を見るより明らかであった。
何故なら4箇所の演舞場を踊りの舞台とした連には当然好き嫌い、人気不人気が出てくる。阿波踊りというテーマ集積力が魅力であって、分散してしまえば魅力は半減するのは当たり前のことである。私のブログを読まれている読者であれば理解が早いと思うが、九州阿蘇の黒川温泉の再生の見事さを思い出して欲しい。以下その内容を再録する。

『温泉街の再生には目指すコンセプトの第一段階としてテーマ設定がなされ、「自然の雰囲気」となる。そのテーマを生かすにはと考えたのが露天風呂で、全旅館がその露天風呂を造ることとなる。そして、「すべての旅館の露天風呂を開放してしまったらどうか」という提案があり、昭和61年、すべての旅館の露天風呂に自由に入ることのできる「入湯手形」を1枚1000円で発行し、1983年から入湯手形による各旅館の露天風呂巡りが実施される。さらに、町全体に自然の雰囲気を出すため、全員で協力して雑木林をイメージして木を植え替え、町中に立てられていたすべての看板約200本を撤去する。その結果、温泉街全体が自然に包まれたような風景が生まれ、宿には昭和の鄙びた湯の町情緒が蘇ったという事例である。』

好きな連、人気の連が出る演舞場のチケットが売れるのはやむを得ないことで、踊り手とともに観客あっての阿波踊りである。黒川温泉がやったことは「入湯手形」という選択肢を作り、こんな露天風呂、あんな露天風呂、多様な楽しみ方を提供したことによって黒川温泉全体の魅力をさらに高めた事例を私たちは熟知している。マーケティングを職とする者にとっては、テーマを集積し、高める方法というテーママーケティングの基本事例てある。今回の阿波踊りにあてはめれば、人気の連には他の三箇所にも出演してもらう、という入湯手形のような手法を取り入れれば阿波踊りの底上げにもなる。勿論、人気のない連も他の演舞場に出演する。相互に交流し合い楽しみ合う阿波踊りである。黒川温泉にも人気・不人気の旅館・露天風呂はある。しかし、昭和の面影を残す懐かしい温泉街に、顧客は黒川温泉に来て良かったと思うのである。こうして昭和の温泉テーマパークとして再生したのである。各旅館の合言葉は「街全体が一つの宿、通りは廊下、旅館は客室」と見立て、共に繁栄していこうという独自の理念を定着させたことによる。阿波踊りに置き換えれば「徳島市全体が一つの演舞場、通りは4つの踊り場、そして市民全てが踊り子」と見立て運営してきたはずである。

阿波踊りも盆踊りをその起源とした歴史ある伝統庶民芸能である。連という踊り好きが集まるグループはその「好き」の数だけあり、それぞれ個性溢れる踊りとなる。しかし、時間の経過とともに次第に規模を追い求める商業主義に染まって行く。継続するには運営のための商業としての資金確保は必要とはなる。しかし、その資金は誰のためであるか、踊り手とそれを応援する観客のためである。次第に参加団体・チームはセミプロ化し、コンテストが行われ、賞取りチームのイベントとなる。その代表例が高知から生まれ育った札幌の「よさこいソーラン祭り」である。参加チームだけでなく、市民の祭りとしては低迷し続けている。まるでダンスコンテストを札幌で行う観光ショーになってしまい、結果参加する市民とのズレが生じていると指摘する市民は多い。これも原点を忘れ始めた事例であろう。

実行委員会の総踊り中止の意向に反し、演舞場ではない歩行者天国の通りで行われた「総踊り」はTV報道で見る限りものすごい盛り上がりであった。手を伸ばせば踊り手に触れることができる「近さ」が一層の盛り上がりに拍車をかけたのだと思う。恐らくこの総踊りは今年の阿波踊り一番の見どころとなった。チケットという収入にはならなかったと皮肉交じりに言うコメンテーターもいるが、実はこの観客との「近さ」こそが盆踊り・祭りの原点ということだ。観光客を含め市民全てが踊り子になり、「総踊り」という華が咲いたということである。黒川温泉が入湯手形によって温泉好き・露天風呂好きを創ったことにより再生したが、阿波踊りも踊り手も観客も一体となる「近さ」が阿波踊り好きを創り、入湯手形のような再生へのヒントになるかと思う。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:15Comments(0)新市場創造

2018年08月16日

顧客のいない「騒動」  

ヒット商品応援団日記No719(毎週更新) 2018.8.16.

「消費税10%時代の迎え方」というテーマで未来塾を展開しているが、こうしたテーマ設定の背景には次の時代をどう見据えるか、どう次のフレーズへと進むことができるかという避けて通ることができない課題がある。消費税10%とはよりシビアな消費になることは間違いないし、生半可な形ばかりの改革あるいはプロモーションなどでは解決できない。新しい価値観に基づく計画が問われているということからである。


実は日経ビジネスオンラインにをきっかけに、今IDC大塚家具の低迷についてその身売り騒動を面白おかしく「お家騒動」「骨肉の争い」が報道されている。3年前IDC大塚家具の経営が娘の久美子社長に移ったことをきっかけに、IDC大塚家具創業者の勝久氏がつくった匠大塚も共に赤字続きである。一方、家具インテリア業界は周知のニトリや良品計画、さらにはIKEAも順調に売り上げを伸ばしている。勿論、デフレ下のビジネスであり、海外での製造輸入(SPA)や郊外型店舗による組み立て持ち帰り業態など工夫が見える経営となっている。それらの結果がリーズナブルな価格、日常消費型のMDなど顧客の興味関心事に沿った経営を行なった結果の成長である。その経営はショールームに表れており、この1年ほど前からキーワードとして使われている「オムニチャネル化」にもトライしている。簡単に言うと、店舗・ショールームとウェブサイトで、サイズやカラーなどの在庫情報検索、受取りを店舗でも自宅でも可能な物流までもを統合したサービスである。スマホという消費行動の必須ツールが家具インテリア分野にも及んでいるということである。古くは有店舗・無店舗というテーマが今やスマホによって、その場で多様な「ショールーム」を検索し、好みが決まれば最安値が選択できる時代にいる。つまり、多様なショールームを渡り歩く時代ということだ。

勿論、以前のIDC大塚家具のように会員制による顧客サービスは高級家具市場として小さなマーケットとしては残ってはいるが、匠大塚の売り上げが低迷しているように限られた市場である。一方、IDC大塚家具はどうかといえば、誰でもが気軽に見られるショールームを目指し、商品もカジュアル化が進められアウトレット商品も取り扱ったようだが、その価格設定とMDは私に言わせれば中途半端であり、顧客にとって生まれ変わったIDC大塚家具には映らない。例えば、良品計画との単純比較にはならないが、スマートフォンアプリ「MUJI passport」をオムニチャネル専用アプリとしてリリースしている。このアプリでは、ニュース配信、在庫検索など6つの機能を搭載しており、その中でも注目されるのがマイレージ型のポイントプログラムで、レジでスキャンするだけでマイルがたまる仕組みになっている。 こうした試み、インテリア小物雑貨という裾野を広げるMDと洗濯しやすさ、それにリーズナブルな価格というバランスのとれた経営がIDC塚家具にはまるでないというのが実情である。

また、このブログでも「価格帯市場」という表現を使っているが、顧客の眼はどんどんシビアになっており、一つの価格帯の中においても熾烈な競争が行われており、そのブランドを引っ張るヒット商品が必要となっている。例えば、上から下まで1万円以下で収まるカジュアルファッション市場で急成長したguもそのスタートは990円ジーンズであり、その勢いを加速させたのが周知のガウチョパンツのヒットであった。つまり、ブランドの牽引には属する価格帯市場の中にあってヒット商品は不可欠であるということである。
良品計画はシンプルデザインというライフスタイルコンセプトとして実績があり、同じデザインに特徴を持たせたIKEAも、ニトリのお値段以上の「何か」を有している。この3社のマーケティングに共通することは、インテリア小物、雑貨という日常消費型の雑貨的商品を入り口に、しかも安価な価格帯の商品の品揃えを充実させ、その実績の上でのインテリア家具商品である。良品計画においては周知のようにホテルが造られ、その室内は勿論自社デザインの商品で埋め尽くされている。さらにはこうしたシンプルデザインコンセプトによるライフスタイルは中国においても多くの支持を得ている。

IDC大塚家具の場合、価格帯としては高級家具市場との中間価格帯、ニトリや良品計画に近い価格帯という裾野を広げることを狙ったと思うが、顧客興味に応えたヒット商品は誕生してはいない。実は家具業界関係者であれば周知のことと思うが、高級家具の製造小売で知られた飛騨産業という会社がある。業界関係者には釈迦に説法であるが、素材である木材には多くの場合多様な「節」があり、節を避けて家具をつくるとなると非効率な高価格商品になってしまう。そんな型通りの高級家具市場から脱皮したブランド「森のことば」という「節を活かした家具」「個性溢れる家具」作りによってバブル崩壊以降低迷する会社を再生する。いわゆる逆転の発想によるヒット商品、今まで使えないと思われていた素材を活かしきる発想への転換である。90年という歴史のある老舗企業であるが、バブル崩壊以降縮小する家具市場にあって、飛騨の木工文化を発展させるにはこうした逆転の発想・アイディアが必要であったということである。IDC大塚家具のHPの冒頭には大塚久美子社長の写真と共に「幸せをレイアウトしよう」とある。なんとも情緒的な表現で、顧客が求めることに応えたものとはなってはいない。飛騨産業が飛騨の森を愛し、匠の技を持って「節」のある木材を使い切るコンセプト「森のことば」というネーミングに、ニトリではないが「お値段以上の何か」が物の見事に商品に表れている。デフレ時代にはこうした思い切ったコンセプトによる転換が必要であるということだ。

デフレ経済が長く続き、消費者の眼は肥えるだけでなく、多くの経験を積んできた。家具市場で言えば市場規模はバブル期までの規模のわずか半分になっている。3年前のIDC大塚家具のお家騒動とその後も、そこには顧客は居なかった。居るのは株主と従業員、そして創業一族であった。つまり、顧客のいないところでの「騒動」である。ニトリも、良品計画も、IKEAも、そして飛騨産業にもデフレをどう克服するか、つまり顧客への新しい価値提案を行って今日がある。極論ではあるが、顧客の居ない企業が身売りされたとしても、困るのは株主と創業者一族と従業員だけで顧客にとってほとんど意味はない。
この「騒動」から学ぶとすればデフレ経済下の戦略を間違えればわずか3年で100億円以上あった現預金を食いつぶし、破綻へと向かってしまうという事実である。新生IDC大塚家具の新しさの一つとしてアウトレット商品の仕組みをテーマとしていたが、売り手は多かったようだが、アウトレット商品の買い手は極めて少なく導入後すぐに撤退したとのこと。家具の中古市場はいわゆるヴィンテージ商品市場があるぐらいで、それも極めて小さな市場である。あるいは個人間の売買であれば周知のメルカリやジモティといった市場となる。どんな商品をどれだけ安い価格で仕組み化したのか定かではないが、家具の流通業であるIDC大塚家具がどんな流通を目指したのか市場の大きさ、つまり顧客が求めるものとの乖離しか見出せない。製造小売業ではないIDC大塚家具はインテリア家具の流通業である。ある意味セレクトショップであり、つまり「価格差」で競争することはできない業態ということである。顧客が求める「セレクト」とは何か、顧客に代わって今一度問い直す、そんな原点に立ち戻ることだ。それは「幸せをレイアウトしよう」というメッセージなどではないことだけは間違いない。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 12:56Comments(0)新市場創造

2018年08月08日

未来塾(33)「消費税10%時代の迎え方」(2)後半



生き残る力・3つの商店街から学ぶ

砂町銀座商店街、興福寺松原商店街、谷中銀座商店街


1、新市場・観光地化における問題と機会

1年2ヶ月ほどで消費税10%を迎えるが、その中で一番大きな市場機会となり得るのが2年ほど前から指摘をしてきた訪日外国人市場である。そして、その市場機会は観光の中心であった都市部から地方へ、寺社仏閣や城といった歴史遺産観光からいわゆる庶民の生活文化観光へと、観光市場の裾野が広がってきた。つまり、新たに生まれる市場機会をどう受け止めるかという課題である。

観光産業は平和産業である。ツーリストの観点に立てば、平和とは「安全」であり「安心」して観光を楽しめることと同義である。周知のように日本はツーリストへの窃盗強盗あるいは傷害など極めて少ない安全な国として知られている。特に若い女性ツーリストの一人旅でも安心できることが旅行先を決める大きな要因となっている。但し、今回の西日本豪雨災害のように、地震地震を含めた自然災害への対応、訪日外国人への対策が国レベルで必要となっている。そして、この夏の異常気象・猛暑は気象庁が言うように自然災害でもある。こうした災害に対して、国は勿論であるが、訪日観光客に対し事前のアナウンスは勿論のこと、その対応・医療を含めた制度が必要になっている。
ところで東京谷根千の旅館澤の屋の「おもてなし」という家族サービスは下町人情サービスであるとともに、実は安心できる宿泊先であることに直接つながっている。トリップアドバイザーや宿泊体験者の口コミでそうした「おもてなし」が伝わって行くのだが、もう一つの理由は宿泊料金の安さにもある。現状世界のホテルなどの宿泊施設は高級ラグジュアリーホテルと格安バジェットホテルの二極化が進んでいるが、旅館澤の屋は後者の安さと先駆的な役割「安心旅館」を家族サービスを通じて果たしている。結果、訪日観光客の高い支持を得てきたといえよう。

文化の「衝突」ではなく、文化を「楽しむ」への転換

この家族サービスはこれまで言われてきたような「文化の違い」、マナーやルールを守るということを伝えるだけでなく、実はそれを通し「違い」を楽しんでもらう、「日本文化」を楽しんでもらうことへと転換することによって強制的なルールから解き放させてくれる。
例えば、谷根千には昔ながらの銭湯もある。我々日本人であれば銭湯や温泉に入る時にはその入り方を教わり知っている。「おもてなし」といった会話によって、江戸時代に庶民の交流娯楽場所でもあった銭湯文化を伝えるといったことまでは難しいと思うが、「入浴作法」を踏まえた「お風呂の楽しみ方」を伝えることはできる。マナーやルール遵守といった訪日観光客との文化衝突を口にする前に、こうした小さな「日本文化の楽しみ方」をこそ伝えることが必要ということだ。つまり、文化を「守る」から「楽しむ」への転換である。

観光地価格という課題

もう一つの課題は観光地化によって起こされる「誰を顧客とするのか」という課題である。端的に言うならば地元住民、観光客どちらを中心として考えて行くのかという課題である。谷根千・谷中ぎんざ商店街の場合は来街調査にも表れているようにウイークデー顧客(地元住民顧客)は減り、土日祝日顧客(観光客)が増え、逆転してしまっている。それは如実に「価格」に表れてくる。つまり観光地価格という地元住民には高い価格設定になってしまうということである。これは観光地となった大阪の黒門市場でも起こっており、次第に谷根千と同じように地元客は減少に向かっていくと推測される。
世界の観光潮流はLCCをはじめエコノミーホテルがスタンダードになりつつある。こうした潮流にあって、日本のデフレについても訪日観光客は熟知している。消費税が免税され更なるお得感が日本観光の楽しさを倍加させている。そして、日本観光客の半分以上を占めるリピーター客は滞在日数を増やし日本の庶民の生活文化、日常生活を自ら体験してみたいと考えている。法外な「観光地価格」は次第に問題になってくることは間違いない。地元住民ばかりか訪日観光客にもそっぽを向かれかねないということである。

2、明快なコンセプトと売り切る力の醸成

谷中ぎんざ商店街が明らかにしているように、商店街消滅への危機は3つあった。1つは地下鉄千代田線千駄木駅開通による通行量の激変というアクセスの変化。2度目は昭和52年の近隣への大型スーパーの進出。3度目は昭和60年代のコンビニエンスストアーの浸透という3つの危機である。
砂町銀座商店街も大型商業施設の開業やコンビニ進出といった商環境は同じである。面白いことに砂町銀座商店街や松原商店街についてはこうした商環境は同じであるが、駅から飛び地のように離れていることによってより独自な商店街の魅力・性格が磨かれてきたという点であろう。結果、それぞれが少しずつ異なるポリシー・コンセプトを持つこととなる。ある意味、地方の商店街への一つの変革への着眼にはなるかと思う。一方、アクセスの良い谷中ぎんざ・谷根千エリアはそのアクセスの良さもあって訪日観光客という新たな市場機会を手にしたということができる。逆に言えば、訪日観光客という新市場を取り込むことをしなかったとすれば、他の商店街と同様衰退の道を歩んでいたかもしれないということでもある。つまり、3商店街に共通して言えることは、変化を恐れず持っている資源をとにかく力にしてきたことによる。

今以上に戦略となる「手作り」

商店街は地域コミュニティが求める共同体の一つである。ただ単に商売人が集まって商店街が作られた訳ではない。商店街は間違いなく周辺住民が求める商品やサービスを提供するという過不足さを満足させる商売から始まるが、高度消費社会にあってはその「高度さ」とは顧客要望の変化そのもののことである。極論ではあるが、例えば常に変化を店頭化し進化し続けるコンビニに勝てる方策はあるのか、生業である事業主だけでその高度な消費を満足させることができるであろうか。
この高度消費社会にあって変化(新製品など)と共に重要なことが「違い」「個性」の創造である。つまり手作り&作りたてによるものがまずます重要なこととなる。つまり、「高度さ」とは他にはない、ここだけ、この店だけの味であり、サービスが求められ提供できることでもある。その「手作り」は相対によって顧客にどれだけの手間と工夫が込められているかがわかる世界である。冒頭の表紙写真(砂町銀座商店街の総菜店)ではないが、煮卵ですら立派な名物商品になり得る時代ということである。この「手作り&作りたて」を今以上に戦略的に活用して行くことである。つまり、文字通り「売り切れ御免」商店街を目指すということである。表現を変えて言うならば、生鮮三品と言う表現があるように、生鮮商店街、鮮度商店街と言うことだ。
また、こうした手作り戦略はチェーンビジネスの側からも取り入れられてくるであろう。何故なら、「違い」を競い合う競争市場下にあっては「安さ」だけでは十分ではないことに気づいているからである。

まとまる「力」

砂町銀座商店街の場合、小売業が行う通常の季節ごとの売り出し、今であれば中元福引の売り出しなどは行っているが、名物となっているのが毎月10日の「ばか値市」である。文字通り「バカみたい」に安い売り出しであるが、それは各店の裁量で行われる。ここで必要なことは前述の「売り切る力」ではないが、安くしても売り切ることによって「継続」が生まれる。
松原商店街の場合も毎日がバーゲンといったわけあり売り出しとなっているが、上野のアメ横同様年末には正月用の食材を買い求める顧客が押し寄せる大売り出しが組まれる。上野のアメ横同様年末の風物詩にもなっており、これも継続できればこその風物詩である。そして、継続によって生まれるものの一つがブランドである。

この継続、そして成長については以前未来塾で良き事例として取り上げたことがあった。九州阿蘇の温泉街黒川温泉の再生で、ゴーストタウン化した温泉街の再生には目指すコンセプトの第一段階としてテーマ設定がなされ、「自然の雰囲気」となる。そのテーマを生かすにはと考えたのが露天風呂で、全旅館がその露天風呂を造ることとなる。そして、「すべての旅館の露天風呂を開放してしまったらどうか」という提案があり、昭和61年、すべての旅館の露天風呂に自由に入ることのできる「入湯手形」を1枚1000円で発行し、1983年から入湯手形による各旅館の露天風呂巡りが実施される。さらに、町全体に自然の雰囲気を出すため、全員で協力して雑木林をイメージして木を植え替え、町中に立てられていたすべての看板約200本を撤去する。その結果、温泉街全体が自然に包まれたような風景が生まれ、宿には昭和の鄙びた湯の町情緒が蘇ったという事例である。そして、黒川温泉が一つのテーマパークとなった合言葉が「街全体が一つの宿 通りは廊下 旅館は客室」であることは、温泉旅館という業界を超えて広く知られるまでになっている。

この黒川温泉が一つのコンセプトのもとで、より強いものとしていくために「入湯手形」による露天風呂巡りが可能となったように、谷中ぎんざ商店街も「売り出し」ではなく、谷根千というエリア全体の「散策」を楽しめるようにしており、古い住宅をリノベーションしたレトロなカフェが次々とオープンしている。また、早くから訪日外国人観光客向けにツーリストインフォメーションセンターがつくられ、茶道や書道など日本の文化体験ができる場もつくられている。勿論、谷根千以外の日本観光のガイドが実施されていることはいうまでもない。
砂町銀座商店街、松原商店街に置き換えても同じで、テーマは「安値」であり、その進化は「どこよりも安く」である。黒川温泉の「入湯手形」に当てはまるのが、「ばか値市」であり、「年末の大売り出し」ということになる。「入湯体験」ではないが、この2つの商店街の「安さ」を含めた賑わい体験を経験してみると、こんな商店街が近くにあったらと思うはずである。こうした「このテーマ」で「この時」にまとまる「力」が商店街を成立させていると言うことだ。この力を喪失する時、商店街のシャッター通り化が始まる。

今、地方で「このテーマ」で「この時」にまとまって売り出しを行なっているのが「市場」である。それは漁港や道の駅から始まり、街の横丁商店街まで、朝市・夜市などイベント的なものから本格的な軽トラ市場まで多様な市場である。こうした試みは大切で、回数を重ねて行くことによって顧客要望が見えてくる。結果、市場のテーマがより明確になってくる。同時に顧客の側もそのテーマの魅力を求めて裾野が広がって行くと言うことだ。
今から5年ほど前、地方の商店街が100円均一市」を行なったことがあった。当時は話題になったが、100円商品には魅力はあってもそれが単発・イベントに終わることが多かった。今、ダイソー始め100円ショップ自身の競争軸は新たなアイディア機能やデザインの良さの競争となっており、既に価格だけに軸足は置いてはいない。市場には100円商品が置いてあっても、近隣の生産者が作った朝取れ野菜であったり、朝水揚げされた魚が市場に並んでいることが一番の魅力である。

3、考えるべきは新たな「顧客関係」づくり

さて本題の消費税10%への消費心理の変化である。10%という「わかりやすさ」とは、買うか、買わないかが瞬時に決まることである。つまり、価格=満足度がわかってしまうということである。安い、高い、といった比較心理は勿論のこと、財布の中身を考えながらの判断である。
ところで過去多くの企業はデフレ経済下における価格政策で間違いを冒してきた。その代表例であるが、日本マクドナルドにおいては100円バーガーの取り扱いの迷走、数年前にも中華の幸楽苑のラーメン価格の迷走。飲食ばかりか数年前にもユニクロの値上げの失敗。全てデフレ心理の読み間違い、価格への判断ミスであった。

そうした中、売れない右肩下がりの出版業界にあって景品付き雑誌に人気が集まり、書店の店頭には雑誌ではなく景品の陳列場所となった。その景品付き雑誌の最近の売り上げはといえば、日本abc協会によれば女性ファッション雑誌1位は「スウィート(sweet)」で月間平均販売部数25万7554部どなっている。それを売れていると見るかどうかであるが、私の見方は景品付きでも25万部程度かという考えである。つまり、売り手である出版社も買い手である若い女性も、「景品」の意味を互いに良くわかっている市場ということになる。少し短絡的な言い方になるが、景品を付けずに、価格も安くした雑誌として販売すればどうなるか。ちなみに5月号は春コスメセット&ポーチ付きで880円。おそらくその販売価格設定にもよるが、25万部どころかその半分以下になること間違いないと推測される。つまり、雑誌情報が求められいるということではないということである。

ところで、雑誌という同じカテゴリーにあって手堅いフアン(オタク)が読む鉄道雑誌がある。以前にも取り上げたことがあるが、交友社の「鉄道フアン」は公称ではあるが22万五千部である。歴史のある雑誌で価格も1,100円 - 1,200円と結構高く設定されており、勿論景品などない。デフレが常態化した時代にあっても、売り手も買い手もコンテンツの意味合い(情報価値)が良くわかっているから部数の凸凹はない。
つまり、こうした現象が起きているのも雑誌市場そのものが変わってきているということだ。これは旧来の雑誌業界の市場が変わってきていることで、その変化を促しているのは勿論消費者、顧客によってである。景品付きファッション雑誌がこれ以上販売できるかどうか、それは1985年当時おまけ付きのビックリマンチョコのような、ゲームとしてのおまけ(シール)収集の仕組みが可能であれば販売部数は増えるかと思う。それが可能となった時、シールを集めるためだけで購入しチョコを捨てると同じように、本体の雑誌の多くが捨てられることになる。そんな無駄が今日の社会に許されるか、雑誌社は批判に晒されることは間違いない。

お値段以上の「何か」を交換する関係

要約すれば、消費税10%時代とは、原則に立ち返り顧客関係の再構築として考えなければならないということである。その関係の総称を「オタク化」と私は呼んでいる。好きで好きで何を置いてもこれだけは、と「共感」してもらえる関係である。その中身・コンテンツが「人」であれば看板娘や名物オヤジになる。砂町銀座商店街にも松原商店街にもそんな「人」はいる。「商品」であれば訳あり価格であったり、その手作り内容であったり、「この時」ということであれば砂町銀座商店街であれば毎月10日の「ばか値市」であり、松原商店街であれば年末の数日間ということになる。谷中ぎんざ商店街はどうかと言えば、やはり谷根千一帯であり、そこには歴史にある寺社もあり、季節ごとの自然が楽しめ、古くからの名店での食事もあって、疲れたらおしゃれなカフェもある「下町の情緒」を満喫できる固有な「場の散策」ということになる。新しいブランド創りにも通じる顧客関係づくりと言うことだ。
つまり、ニトリのキャッチフレーズではないが、お値段以上の「何か」を交換し合える顧客関係を「何」によって構築するかと言うことである。

4、インバウンドビジネスが教えてくれたこと

デフレという消費経済は訪日観光客も熟知しており、消費税10%の免税はより消費を活性化させていくことが予測される。今までは家電製品の爆買いに始まり、ドラッグストアにあるような日常消費商品が売れ、日本人が利用する街場の飲食店へとその消費は向かってきた。更に観光地も地方へと広がってきた。10年前、東京JR山手線の一車両にはせいぜい数名の外国人を見かけていたが、今や東京都内は鉄道車両ばかりかいたるところ訪日外国人で溢れている。つまり、そうした風景はすでに日常になったということである。
さて来年秋以降はどんな消費を見せるであろうか。ある意味、訪日前に調べた観光ルートや消費体験は一巡したと考えた方が良い。2020東京オリンピック・パラリンピックというスポーツイベントには日本観光が初めてという観光客も訪れると想定される。そして、数年前の日本観光のゴールデンルートが踏襲されると思うが、消費のコア・オピニオンとなるのは何回か日本を訪れた経験のある「リピーター=日本オタク予備軍」になると考える。いや「オタク化」を進めないと単なる表面的な寺社仏閣・城跡あるいは富士山などの日本観光で終わってしまい、リピーターにはならないということである。小売業をやっている人間であれば、リピーターによってしかビジネスの裾野は広がらないことは熟知していると思う。つまり、観光産業も回数化によってのみ初期投資が回収されるということだ。

和食から郷土食への転換

そして、日本の場合観光資源としてはまだまだ豊かなものが存在している。特に地方には季節ごとの祭りや行事、そして何よりもその土地ならではの「食」、郷土食がある。一昨年から観光先の西高東低が進み、例えば大阪は京都観光の入り口でもあることから昨年平成29年には大阪府を訪れた訪日外国人客数が1100万人、消費額も1兆1731億円になったと報道されている。そしてその消費内容であるが口コミサイト・トリップアドバイザーの人気レストランを見てもわかるようにお好み焼きやたこ焼きである。よくよく考えればこれらは大阪の粉もん郷土食である。つまり、大阪の生活文化を色濃く映し出した庶民の食である。


ところで戦後の「食」を見ていくとわかるのだが、その歴史は給食の歴史でもあった。カロリー、栄養をどう給食によって補っていくかが「食育」という当初の目的であり、経済的豊かさと共に次第に時代が求める児童の好みを満たすなど和食なども取り入れられてくる。その食育には「健康」はあっても、残念ながら「文化」はなかった。せいぜい、地場で採れた魚介や農産物を給食メニューの素材に取り入れる程度である。
戦後直後の物資のない窮乏時代 のカロリー摂取量はわずか1903Calであった。その後経済成長と共に所得も増え生活の豊かさが進み摂取Calも増えたが、1980年代に入り急激に摂取量は減少へと向かう。そして、グラフのように既に摂取Calはその戦後直後を大きく下回るレベルへと進んできている。(詳しくは未来塾「パラダイム転換から学ぶ−4を再読いただきたい)

美容、痩身、あるいは成人病予防といったことからカロリーオフが多くの食品に求められてきていることは周知の通りである。しかし、よくよく考えてみれば、戦後のモノ不足の窮乏時代の食こそ日本人の「健康」を考えたものであり、そこには生活文化、美味しく食べる知恵や工夫があった。それは簡略に事例として言えば、京都のおばんざいであり、大阪のお好み焼きであった。つまり、日本人にとってもそうした郷土食は健康食として再認識しなければならないテーマということだ。

実は根本から考え直すことが求められているということである。食育のコンセプトは必要とされるカロリーと栄養その確保だけではなく、その土地ならではの郷土食、文化食をこそ目指すことが求められているということである。東京築地が観光地になって久しい。訪日外国人にとって日本食、市場で働く食のプロが食べにくる場外市場の飲食店はまさに日本食のテーマパークになっている。日本人にとってみれば築地は江戸、東京のローカルフーズであり、江戸前の寿司も郷土食で、築地に集まる食材のその先にある地方には独自文化から生まれたもう一つの食があることを知っている。インバウンド市場のこれからは、地方へと移りその戦略観光メニューは「郷土食」となるであろう。
つまり谷根千というエリアの散策メニューにもこの郷土食が必要になってくるということである。既に「谷中メンチ」や「根津のたいやき」など食べ歩きやおしゃれなカフェはあるが、実は隠れた名店が多くあることはあまり知られてはいない。穴子寿司で有名な「すし 乃池」や俳優の根津甚八が無名時代に通い詰め、この店の名をもらってから売れたというエピソードがある昭和レトロな居酒屋「根津の甚八」。あるいは有形文化財にもなっている串揚げの「はん亭」や根津の「鷹匠」はじめ蕎麦の名店も多い。小さいエリアだが東京の「下町郷土食パーク」と名付けたいほどである。

アニメや漫画がそうであったようにクールジャパンは「外部」、一部の熱烈なフアン・オタクによって創られてきた。日本が本格的に観光産業に取り組むのであれば、谷根千がそうであるように自ら「変化」を創らなければならないということである。意味的に言うならば、富士山観光でもなければ、京都伏見稲荷でもない日本、そんな「日本」を小さくても谷根千においても創っていかなければならないということである。そして、その一歩として「下町レトロパーク」づくりが始まったということである。
こうした試みはインバウンドビジネスを超えて、日本の生活文化、食育など根本から見直す機会にもなるということである。勿論、その先には消費税10%時代を生き抜く着眼・術があることは言うまでもない。(続く)









  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:22Comments(0)新市場創造

2018年08月05日

未来塾(33)「消費税10%時代の迎え方」(2)前半



消費税10%時代の迎え方(2)

生き延びる商店街から学ぶ

コンセプトの異なる3つの商店街

砂町銀座商店街、興福寺松原商店街、谷中銀座商店街


2014年2月第1回「浅草」をスタートに多くの街や商店街の変化を観察してきた。数年前からは首都圏だけでなく大阪まで足を延ばし何が顧客を惹きつけ元気であるかを肌身で感じてきた。その街や商店街の変化は、誕生の歴史的背景や周辺商環境の変化、そして最近では何よりも訪日外国人市場という新たな市場によって街の風景もそれぞれ異なってきている。
ところで第一回では消費税が10%になってもなお顧客支持が得られるであろう専門店の「誕生物語」その広げ方と、今まで消費から遠い存在と考えられてきた20歳代の新たな若者市場の誕生について、大阪という今一番元気な街の変化として観察・レポートした。
こうした観察のたびに感じることだが、街や商店街は、例えば耕作放棄地が荒れ果てイノシシが住み着く土地へと変貌するように、手を加えない街や商店街は都市であっても閑散としたシャッター通りとなり、街全体が衰退していくこととなる。中小企業庁によれば5割を超える商店街で来街者は減少し、下げ止まりの傾向はあるものの空き店舗数は13%を超えている。来年秋には消費税10%時代を迎えることとなるが、第2回目は過去の消費税導入や大型商業施設をはじめとした商環境の激変を乗り超えてきた3つの商店街を取り上げ、その共通する「商業力」と個々の「独自力」を明らかにしてみた。その「力」とは何か、消費税10%時代を迎えるヒントとしていただきたい。

開発から取り残された地域の商店街

面白いことにこの3つの商店街に共通していることの第一は戦後の都市開発から取り残された地域の商店街である。取り残されてなお「何か」を力とし生き延びる、いや成長する源泉となっている。私の言葉でいうとコンセプトということになるのだが、戦後の荒廃した街から生まれた商店街である。言葉を変えていうならば、日本固有の小売業そのものである。禅宗には「無一物中無尽蔵」という言葉がある。文字通り、無一物とは本来執すべき一物も無い、何も無い戦後にあって、商人として何ものにも執着しない、無心で生きてきた商店街である。そうした意味で3商店街各々異なるコンセプトを持ち、その後の発展も全く異なる商店街として今日に至っている。商店街誕生の経緯を簡単に整理すると次のようになる。

町銀座商店街の場合

東京砂町銀座商店街のある江東区北砂は、豊洲や東雲、臨海副都心といったタワーマンションに象徴される開発地域とは異なり、東西を隅田川と荒川に挟まれ、北は都営新宿線と南は東西線とに囲まれた、つまりアクセスするには都営バスしかないある意味不便な場所に立地した商店街である。この商店街のある北砂は1945年の東京大空襲で焦土と化す。戦後になって店舗が増え始め1963年ごろに長さ670メートル、店舗数約180のほぼ現在の形になり、今もなお昭和の色影を残した下町の商店街として今日に至る。
ちなみに北砂の人口は約38,000人ほどである。周辺にはURの賃貸住宅や都営アパート、あるいは大規模マンション群が見られるが、砂町銀座商店街から脇道を一歩入ると、そこには木造家屋の古い住宅地となっている。商店街の北側と南側徒歩10分圏はこうした住宅地で、いわゆるご近所商店街となっている。
毎月10日には「ばか値市」と呼ばれる大安売りを行っている。平日で1日のべ15,000人、休日でのべ20,000人が訪れる。日本経済新聞2005年2月5日号の「訪れてみたい商店街」で、巣鴨の地蔵通り、横浜の元町に次いで3位に選ばれた、そんな商店街である。安さもさることながら、訪れてわかることだが、惣菜店の多さに象徴されるように日常生活に必要な商品を相対で販売する商店ばかりである。コンセプト的にいうならば、文字通り看板娘や名物オヤジのいる「ご近所商店街」である。

興福寺松原商店街の場合

「ハマのアメ横」と呼ばれる洪福寺松原商店街は横浜から相鉄線に乗り3つめの天王町駅から徒歩8分ほどのところにある。横浜の3大商店街の内、横浜橋通り商店街は横浜市営地下鉄阪東橋駅徒歩2分、六角橋商店街は東急東横線白楽駅の駅前にある。多くの商店街が駅前という好立地にあるのだが、松原商店街は砂町銀座商店街と同様に駅から離れたところにある。
昭和24年米軍の車両置き場として接収されていた天王町界隈や松原付近が解除返還される。住宅もまばらだった一角に昭和25年商店街1号店とも言うべき萩原醤油店が開店する。醤油1升につき3合の景品付きで値段も安く評判を呼ぶ。その後八百屋、乾物店、魚屋など相次いで店舗を構え現在では80店舗ほどの商店街である。
その松原商店街の歴史であるが、昭和27年には18店舗になるが、周辺の住宅はまだまだ少なく、ある程度広域集客することがビジネス課題となる。そこでつけたキャッチフレーズが「松原安売り商店街」であった。上野のアメ横も戦後の焼け野原からの、ゼロからの出発であった。そして、お客を呼ぶにはどうしたら良いのか、まだまだ物が不足している時代にあって、安く提供することが「上野のアメ横」も「ハマのアメ横」も同様の商売のポリシーでありその原点であった。平均の人出は平日約2万人、休日2万5千人。年末には県外からバスツアー客も来ることもあり、10万人にも及ぶ。コンセプト的にはハマの激安商店街となる。
この激安コンセプトを掲げた専門店はドン・キホーテをはじめ他にもあるが、商店街全体のテーマとした例は珍しい。上野のアメ横同様、松原商店街も年末の正月用食材の大売り出しには買い物客が大挙して押し寄せ文字通り「ハマのアメ横」となり、年末の風物詩となっている。

谷中ぎんざ商店街の場合

東京の中心部、特に下町と呼ばれた江東区や台東区の多くは戦災に遭い建物を含めその多くを焼失した。例えば、その象徴でもある上野アメ横のスタートは焼け野原のなかのバラックからのスタートであった。
その上野の北側にある台東区谷中から西側の文京区根津一帯は戦災を免れた昔ながらの木造住宅などの街並が今なお残っている。谷中ぎんざ商店街も昭和20年ごろから自然発生的に商店が誕生し、一つの商店街を形作っていく。
最寄り駅はJR日暮里駅あるいは地下鉄千代田線千駄木駅、根津駅であるが、地方の人にとっては上野公園の北側・西側と言った方がわかりやすい。東京に永く住む人にとっては谷中霊園のさくら、あるいはつつじの名所にもなっている根津神社があり、この一帯をヤネセン(谷根千)と呼んでいるがその中心にあるのが谷中ぎんざ商店街である。再開発が進み変貌する東京にあって、「昭和」「下町」といった生活文化の匂いが色濃く残っている地域である。
ところでJR日暮里駅から谷中ぎんざに向かう坂道(階段)も西日暮里三丁目ということもあり、その坂道から見る夕日が素晴らしく、多くの人は2005年の日本アカデミー賞を受賞した映画「Always三丁目の夕日」を思い浮かべる、そんな夕日の町である。
日本全国朝日と夕日の絶景スポットといわれる場所は数多くある。絶景マニアが撮影したい時と場所はこの時この場所という非日常の風景である。しかし、この谷中ぎんざ商店街を見下ろす坂の上からの夕焼けは絶景というより、だんだんと日が暮れていく日常の風景、今日一日お疲れさまとでも表現したくなるような、そんなありふれた時間の夕焼けである。感動するなどといった絶景ではなく、1日が終わりどこかほっとするそんな日常風景の夕焼けである。
まさに「下町レトロ」というコンセプトにふさわしいこの谷根千に観光客が続々と訪れるようになる。そして、今や日本人だけでなく訪日観光客の東京観光プログラムにも載るようになり、国内の「観光地化」の良きモデルとなっている。それは訪日観光客の日本への興味関心がクールジャパンから次第にその裾野を広げ、「下町レトロ」という日本の生活文化に向かっているということでもある。

ここで言うコンセプトとは商店街の誕生物語のことで、戦後の何も無いなかで個々の商店にとっては「生業」そのものであった。生きるための商売といっても過言では無い。その生業をある方向にまとめ「力」としたことが生き残る、いや今日の成長の「素(もと)」になっている。
この「素(もと)」とは小売業の本質で、徹底した顧客主義であり、それは売り手にとっては「売り切る力」のことでもある。「売り切る」とは、顧客にとってみれば単なる理解を超えた「納得・共感」のことである。いや「納得」と言う表現は誤解を招くので訂正するが、ある意味顧客が喜んで「買う」、自ら進んで「買う」ことに他ならない。その共感世界は3つの商店街各々異なるが、元を辿ればそれは誕生物語への共感ということだ。
顧客は「何」に共感するのか

必要でモノを買う時代、生きるためにモノを買う時代はすでに終えている。3つの商店街も戦後のモノ不足の時代にあって必死にモノを仕入れ販売してきた。そうした歴史を踏まえ今日に至るのだが、一定のモノ充足時代、多くの流通業が誕生し活動する競争下にあって、「何」を力とし、顧客の共感を得てきたかを学ぶこととする。
まず学ぶべきは3つの商店街にはいわゆる全国チェーン店は極めて少なく、そのほとんどが地場の商店である。シャッター通り化する時代にあって、地場の商店が中心になって商店街を構成し、多くの顧客を惹きつけ集客している点である。構成する商店は独立した事業者である。そうした事業者が目指す世界、コンセプトを共有できるか否かがまず超えなければならない最初の壁となる。

砂町銀座商店街の場合/手作りが持つ「力」

どの商店街もそうであるが、砂町銀座商店街も周辺にはアリオ北砂をはじめ大型商業施設に囲まれている。そうしたなか、何を「力」としているか、それは「生業」であることを力としていることに他ならない。小売業はアイディア業と言われるように、顧客が求めることを察知し、それにアイディアを加味して顧客に相対する。「工夫をまとった手作り商品」「作った本人が販売」「顧客反応を受け止めるのも本人」・・・・・・・・売上も何もかも本人次第、これが生業である。
ところでこうした生業の良さを強みに変えた小さなスーパーを思い出す。それは東北仙台郊外の小さな市場にも関わらず、全国から多くの流通業者が注目し学習しに通う主婦の店「さいち」である。人口わずか4700人の小さな温泉町に、1日平均5000個、土日祝日は1万個以上、お彼岸になると2万個もの「おはぎ」を売る。
その「さいち」は実は家庭で食べるお惣菜をスーパーで初めて販売したスーパーであるが、できるだけ人手を減らし、合理化して商品を安く提供するのがスーパーだと考える時代にあって、その真逆を進めたスーパーである。そんな非常識経営を進めていくのだが、そんな理由を次のように答えている。(2010年9月21日ダイヤモンドオンラインより抜粋引用)

『絶対に人マネをしないというのがさいちの原則です。マネをしたら、お手本の料理をつくった人の範囲にとどまってしまう。・・・・・先生や親方の所に聞きにいかずに、自分たちで考える。そうすると、自分がつくったものに愛情がわく。自分の子どもに対する愛情と同じです。』

「さいち」のお惣菜は500種類を超え、多品種・少量ということから、手間がかかり、利益が出ないのではという質問に対しては、
『全部売ってくれないと困る。そのためには、「真心を持って100%売れる商品をつくるのが、絶対条件ですよ」と、言っています。うちではロス(廃棄)はゼロとして原価率を計算しています。いくら原価率を低く想定しても、売れ残りが出てしまえば、その分、原価率は上がってしまいます。』

主婦の店さいちがそうであるように、砂町銀座商店街の多くが生業ならではの独自性を力に変えていることがわかる。チェーン店には無い「手作り」という独自が顧客の舌に応えているということである。しかも、「相対」という売り手と顧客とが真正面に向き合い、その日一番勧めたい商品、買いたい商品とを互いにぶつけ合う、勿論価格もであるが、売り切る力もこの相対によって培われる。そして、小売業は売り切ることの中に「信頼」が生まれる。その信頼が日々繰り返されることによって、感じ合う関係、共感関係にまで高めることへと向かう。

興福寺松原商店街の場合/元祖わけありの力

「ハマのアメ横」と自らそのように呼ぶ松原商店街であるが、その顧客を魅了する「安さ」は上野アメ横のそれとはいまひとつ異なる。それは2008年のリーマンショック後に急速に消費のキーワードになった「わけあり」は、実は松原商店街が元祖であった。
商店街創業のなかでも、今日の集客の中心的店舗である魚幸水産は当時からユニークな商法であった。三崎漁港や北海道から直接仕入れ激安で大量に売りまくる。今日でいうところの「わけあり商売」を当時から行っていたということである。入り口の奥まったところではマグロの解体ショーと共に、ブロックになったマグロを客と相対で値段をやり取りして売っていく、そんな実演商売である。これも上野のアメ横商売を彷彿とさせる光景が日常的に繰り広げられている。
魚幸水産と共に、商店街の集客のコアとなっているのが外川商店という青果店である。年末のTV報道で取り上げられる青果店であるが、次から次へと商品が売れ、売るタイミングを逃さないために、空となった段ボール箱をテントの上に放り投げ、一時保管するといった松原商店街の一種の風物詩にもなっている青果店である。
炎天下の昼時という最も買い物時間にはふさわしくない時であったが、テントの上には段ボールの空箱がいくつも積まれていた。
この外川商店も激安商品で溢れている。季節柄果物は桃の最盛期で1個100円程度とかなり安く売られている。この外川商店も魚幸水産と同様、見事なくらいの「わけあり商品」が店頭に並んでいる。写真の商品はきゅうりであるが、なんと一山100円である。そして、見ていただくとわかるが、見事なくらい曲がった規格外商品である。商店街には青果店は他にも3店ある。例えば、規格外ではないまっすぐなきゅうりを売っている青果店の場合、一山150円であった。

エブリデーロープライスというローコスト経営

松原商店街も上野のアメ横同様年末には多くの買い物客が押し寄せその爆発的な売上がニュースになり、風物詩っとして報道されるが、商店街の誕生から今日に至るまで毎日が特売日、エブリデーロープライスである。エブリデーロープライスは周知の世界最大の小売業であるウオルマートの経営ポリシーであるが、松原商店街も「売り出し」に経費をかけることなどしない、勿論折込チラシなどしない売上高経費率という視点から見れば各店共に10%程度の経費しかかけないローコスト経営商店街となっている。顧客の側もこうしたローコスト経営をよく理解したうえでの「安売り」であることに共感を覚えるのである。

谷中ぎんざ商店街の場合/新しい市場・変化を捉える力

谷中ぎんざ商店街は昭和20年頃に自然発生的に生まれる。ご近所相手の近隣型商店街として発展してきたが、商店街のHPにも書かれているが、現在に至るまでには大きな危機が3度あったという。”1度目は昭和43年の千代田線の千駄木駅開通による通行量の激変、2度目は昭和52年の近隣への大型スーパーの進出、3度目は昭和60年代のコンビニエンスストアーの続々の開店です。危機が訪れる度に商店街が一丸となり、1割引特売、商店街夏まつりの創設、スタンプによるディナー招待など、アイデアと工夫で乗り越えてきた。危機をバネにしてきた、われながら、たくましい商店街であると思っている”と書かれている。
交通アクセスによる人の移動変化は小売り商売にとっては極めて大きい。大型スーパーやコンビニの進出は全国同様の地場小売店の共通課題であるが、取り上げた砂町銀座商店街や横浜洪福寺松原商店街もまた、谷中ぎんざと同様乗り越えてきた商店街である。こうした商店街に共通することは、顧客主義に基づいた固有なテーマをもって一丸となったことにある。

テーマによって観光地となる、その集客効果

谷中ぎんざ商店街による来街調査では、平成に入り、谷根千工房による地域メディア戦略が浸透し、谷中・根津・千駄木の界隈が「谷根千」と呼ばれ注目が集まる。平成8年にはNHKのテレビ小説「ひまわり」の舞台となり、11年に商店街外観整備、13年にホームページ開設、18年には日よけの統一や袖看板の設置、さらに20年には猫のストリートファニチャー設置も実施し、商店街の観光や散策の地としての魅力を高めてきた。結果、平成26年の来街者調査では、金曜に約7千人、土曜には約1万4千人が訪れている。平成3年時には平日、休日とも約8千人であったことから、平日は約1割減、休日は7割増え遠くから多くの顧客が来街する商店街となっているとのこと。つまり、ヤネセンというエリアに注目が集まったことによって、平日の来街者(ご近所顧客)は減ったが、休日には多くの観光客が訪れ商店街として活性され、逆に成長したということである。つまろ、観光という変化を巧みに捉えたということである。
谷中ぎんざもそうであるが、観光地化の目安の一つが食べ歩きを含めた食である。砂町銀座もそうであったが、ここ谷中ぎんざも座って食べられるような工夫や食べ歩きしやすい包装など顧客の要望に応えている。そして、更に集客を促進しているのが人であり、砂町銀座ではあさり屋の看板娘(おばあちゃん)であったが、谷中ぎんざも同様で名物の谷中メンチも看板娘が元気に店頭に立って売っている。観光客にとって分かりやすい目印になっているということだ。

訪日観光客の関心事の一つが庶民の生活文化

谷根千の魅力をひと言で言うとすれば「下町レトロ」、つまり旧い街並みだけでなく、庶民の生活文化が残っている魅力のことである。ここ数年、訪日観光客が増えてきたが、それまでも寺町でもある谷根千には春には谷中霊園の桜、5月には根津神社のツツジといった散策に多くの日本人観光客は訪れていた。しかし、数年前から訪日観光客を惹きつけたのはこの庶民の生活文化にふれてみたいという要望に応えたエリアであることがわかる。実はこうしたブーム以前にこの庶民文化を提供してきた旅館が根津にある。
1982年に日本旅館としていち早く外国人の受け入れを開始し、今や宿泊客の約9割が外国人という「澤の屋旅館」である。その澤の屋旅館については以前ブログに取り上げ次のように書いたことがあった。

『ここ数年訪日外国人が泊まるゲストハウスとして注目されている東京根津の旅館「澤の屋」はまさに家族でもてなすサービス、いやもっと端的にいうならば「下町人情」サービスという「お・も・て・な・し」である。これも澤さん一家が提供する固有なサービス、日本の下町文化に絶大な評価を得ているということである。そして、重要なことは澤の屋だけでなく地域の街全体が訪日外国人をもてなすという点にある。グローバル経済、日本ならではの固有な文化ビジネスが既に国内において始まっているということである。』

澤の屋も今は注目されているが、訪日外国人受け入れ転換時は大分苦労されたようだ。英語も都心のホテルスタッフのようにはうまくない、たどたどしい会話であったが、それを救ってくれたのが家族でもてなす下町人情サービスであったとのこと。この家族サービスが口コミとなり、谷根千が東京の観光地の一つとなり、結果澤の屋の今に繋がっていると言うことである。
日本国内ではオタクと蔑まれてきたアニメやコミックがクールジャパンとして海外から高い評価を受け、秋葉原・アキバがその聖地になったように、常に「外」から教えられる日本である。ヤネセンが下町人情のアキバになれるかどうかこれからであるが、もう一つのクールジャパン物語の時代が始まったことだけは確かである。
こうした訪日観光客という新たな市場によって文字通り「観光地」となり、数年前から新たなホテルや和雑貨などの土産物店なども谷根千一帯に誕生している。3度にわたる危機をこの「観光地化」によって乗り越えてきた谷根千・谷中ぎんざ商店街であるが、これも一つの生き残り策と言えよう。(後半へ続く)

記 人口減少時代の都市論については下記の拙著電子書籍をご一読ください。
「衰退する街 未来の消滅都市論」 Kindle版 ¥291


  


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