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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2020年05月31日

未来塾(40)「正しく、恐る」を学ぶ 後半 

ヒット商品応援団日記No767(毎週更新) 2020.5.31.




「正しく、恐る」を学ぶ


緊急事態宣言を終え、首都圏を含め段階的に社会経済を取り戻す「出口」戦略が始まった。その「出口」には2月から始まったコロナ禍の評価と、それらを踏まえた「次」の日常のあり方を模索し行動することにある。
この4ヶ月間は厚労省・専門家会議からの一方的な「要請」に従ってきたが、それら要請は感染症という疫学からの根拠によるものであった。そして、政府はやっと諮問委員会の組織に拡大し4名の経済学者を有識者として加え「出口」の指針を社会経済からの視点を踏まえたものへと進めてきた。
やっとという感がするのだが、この間観光産業や飲食業、あるいはスポーツや文化イベント業界は経営の悪化は勿論のこと倒産・失業が急速に増加してきている。休業などへの支援事業や給付金の支給など、困窮する事業者や生活者にはほとんどが届いていない状況となっている。こうしたニュースは日々報道されているのでここでは書き留めることはしない。

さて本題に戻るが、これから「出口」とすべき「行動」をどうしたら良いのか、それはとりもなおさずこれから長い付き合いとなるコロナウイルスとの付き合い方、共存のあり方でもあるからだ。そのためには本当に専門家いぎが行ってきた対策で良いのか、それは疫学的な意味だけでなく、生活者が取り入れることのできる物でなければならないということである。
まず専門家会議が予測してきたシュミレーションは尽く外れてきた。その象徴が「このままでは42万人が死ぬ」というまるで予言者のような発言であったが、死者数は700名台で人口比で言うと極めて少ない国となっている。韓国、台湾、タイなども同様で、欧米と比較スレな数十倍どころか数百倍の少なさである。新型コロナウイルスへの対応が遅れ、PCR検査も少ない日本が何故少ないのか逆に世界の注目を集めている状況でもある。ある感染症学者に言わせると、「結果、オーライでいいじゃないか」と。そんな非科学的な考えの感染症学者がいるとは驚きであるが、少なくとも「出口」をどうすべきか、今わかっている「事実」をもとに考えていくことが必要である。

「正しく」理解、そのための第一歩

今、何が正しいのか、新型コロナウイルスの正体は明らかにはなっていない。唯一、国民が疑問に思うことや、専門性の高いことの理解う促すために最新の情報を公開してくれている。専門家会議がよく使う言葉に、実効再生産数がある。人にどれだけ移したか、その感染度合いを図る指標で、1未満であると感染は縮小にあり、1以上であると拡大にあると言うもので世界各国で「出口」を考えるうえで使われる指標である。山中教授は日本の各都市からデータを取り寄せ、自ら計算し、各地域の感染状況を報告してくれている。残念なことに東京はデータが不備であったことからグラフ化されてはいないが、少なくとも国民の多くの理解に応えてくれている。新規感染者の増減で一喜一憂するのではなく、どんな感染状にいるのかを「正しく」理解する第一歩となっている。
こうした理解をしているのだが、最大の疑問は何故日本は各国と異なり、感染者数、死亡者数が少ないのか、その理由についてである。それは「結果オーライ」ではなく、どんな「出口」を目指していくのか、一人ひとりのこれからの行動に直接つながっていくからである。
ちなみに、山中教授はわかっていないことをファクターXと呼び、次のように提示してくれている。
ファクターXの候補
・感染拡大の徹底的なクラスター対応の効果
・マスク着用や毎日の入浴などの高い衛生意識
・ハグや握手、大声での会話などが少ない生活文化
・日本人の遺伝的要因
・BCG接種など、何らかの公衆衛生政策の影響
・2020年1月までの、何らかのウイルス感染の影響
・ウイルスの遺伝子変異の影響

極めてわかりやすい疑問点である。本来専門家会議が答えるべきことであるが、やむにやまれず提言してくれていると言うことだろう。




山中教授もマスク着用などの生活習慣があることを挙げており、世界に誇れる国民皆保険や高い医療技術も致死率を下げていることは生活実感からもわかる。ちなみにマスクの着用は100年前のスペイン風邪が流行ったときに着用され、以降生活習慣化している。
前述の免疫学者多田富雄さんは多くの対談をしているのだが、その中で免疫をわかりやすく解き明かしてくれている。例えば、私たちは海外へ出かけ、その土地の水や食べ物によって下痢など体調を崩したことがあったと思う。勿論、現地の人にとっては何の問題もないのだが、それは図の左にある「自然免疫」が備わっているからであると。
今回の新型コロナウイルスについても何らかの自然免疫を促すようなものがあるのではないかと言うことである。実は、こうした自然免疫との関係は明らかにしてはいないが、あの山中教授もそうした何かを「日本の感染拡大が欧米に比べて緩やかなのは、絶対に何か理由があるはずだ」と指摘。その理由をファクターXと呼んでいるが、感染症研究者ではないことから具体的には語っていない。これは勝手な推測であるが、日本人の多くには何らかの遺伝子が備わっているのではないか、つまり自然免疫が備わっていると言う仮説である。
何故、こうしたことに言及するのは、医療の世界ではワクチンや治療薬の開発に役立つこととともに、私たちの生活行動のあり方に一つの「視点」を与えてくれるからである。つまり、「出口」への取組につながるからである。
注)東京新聞の解説では次のように解説している。
「獲得免疫とは、感染した病原体を特異的に見分け、それを記憶することで、同じ病原体に出会った時に効果的に病原体を排除できる仕組みです。適応免疫とも呼ばれます。自然免疫に比べると、応答までにかかる時間は長く、数日かかります。」

緊急事態宣言が解除され、全国で「出口」と言う入り口がスタートした

専門家会議からコロナとの共存を図るための「生活様式」が提示されている。とにかくあれもこれもと、大きなお世話であるようなことまで事細かなものだが、内容については具体的なものはほとんどない。当たり前のことだが、唯一確認しなければと思うことは「出来る限り接触」を避けることであろう。
ソーシャルデイスタンス、あるいは三密・・・・・・そんなこと言われるまでもなく、何十年もの間季節性インフルエンザで経験してきたことを横文字を使ったり、欧米で使われている言葉を持ち込んだりしているだけである。




写真を見ていただきたい。緊急事態宣言中の東京の通勤風景である。2mの距離ではないが、少なくとも「密」な距離ではなく、ごく自然に一つの間隔をとって歩いていることがわかる。
しかも、なんと全員がマスク着用である。専門家会議に言われるまでもなく、よくわきまえた「大人」の行動をとっている。こうしたことを話すと、休業要請に従わないパチンコ屋とその開店を待つ行列を非難するTVメディアのコメンテーターがいる。できれば一定期間休業して欲しいとは思うが、行列を作る人たちの多くは「ギャンブル依存症」であり、しかも両替換金と言う違法ギャンブルは黙認されたままである。そして、一番重要なことは、パチンコ屋で大きな感染クラスターが発生したかである。そうした事実を踏まえないで非難することは「自粛警察」と何ら変わらない。
また、出来る限り外出を控えるようにとのことだが、これも山中教授が公開しているのだが、Googleが行っている世界各国の「移動」データについてもロックダウン(都市封鎖)した都市よりも東京の方が移動は小さい。移動についても十分わきまえた行動を一人ひとりとっていることがわかる。

緊急事態宣言下にも、生活者の賢明さが生まれていた

「巣ごもり」要請は守りつつ、専門家会議が提示した感染のリスクが大きい「三密」を巧み避ける懸命さは生活の至る所で見せていた。それは理屈と言うより、東京の場合は屋形船であり、大阪の場合はライブハウスのクラスター発生を実感したことによる。
そうした「密」の逆は何か、それは「オープンエア」であると誰もが考える。公園の散歩やキャンプ好きであれば家族とのバーベキュー。ジョギング好きであれな、東京の場合多摩川の土手沿いのコストなる。休みの日には河川敷のゴルフ練習場もテニスコートもいっぱいとなる。こうした光景をTV曲のコメンテーターはさも心配そうに「自粛」を勧める。まるで「自粛警察」の応援団の如き有様である。




この傾向は街中の飲食店にそのまま取り入れられていく。少し前に大阪梅田や横浜桜木町の「立ち飲み」居酒屋を取り上げたことがあったが、オープンエアの店づくりは今後さらに広がっていく。閉じられた空間ではなく、外の空間と一体のような店づくりである。居酒屋は勿論カフェも食の物販も同様である。ある意味「屋台」感覚の新しい店づくりとなる。冬場はどうするのかと言う横槍が入りそうだが、博多天神の屋台村を参考にすれば良い。既にこうした試みは佐賀県では「ナイトテラス」として一つの実験が始まっている。これは店前の歩道をテラスとして使う許可を与えての実験である。

経営の指標が変わってきた

飲食店の場合、坪効率と言う判断指標がある。経営者であれば熟知しているものだが、「三密」を避けることから、従来の坪効率の考え方を変える必要が生まれる。顧客同士、あるいはスタッフとの間の距離を広くとることが必要であり、結果客数は従来と比較し半分以下となる。同じ売り上げを目指すとなると客単価を上げることしかない。もしくは賃料を下げてもらうことしかない。
出口を目指しすた^としているが、恐怖後遺症は残っており、今までと同じような客数も期待できない。この緊急事態宣言中、多くの飲食店は一斉に「弁当販売」を始めた。ある天ぷら専門店は、お弁当屋さんになってしまったと嘆いていたが、生き延びるためには必要なことであった。
勿論、弁当販売だけでは経営は成立しない。例えば、飲食チェーン店の場合、これから先の生き延びる道は「テイクアウト」や「通販」と言う方法で新たな売り上げ・利益を得ていく方法しかない。その事例は、定食チェーンの「大戸屋」における冷凍食品の通販事業である。このように他の流通チャネルとのコラボレーションや提携によって経営を維持させていこうと言う試みである。
もう一つの試みが、人件費を削減する試みで、「セルフスタイル」の導入である。人によるサービスを減らし、賃料と共に重い負担となっている人件費を、顧客自身によってサーブしてもらう仕組みへの転換である。例えば、居酒屋であればビールサーバーを用意し顧客自身にやってもらうとか、あるいは調理の多くをロボットで行うなど、人件費を抑えた経営となる。

こうした試み以外に専門店としてどう生き延びりかである。先日、東京美々卯6店舗が廃業することを決めたと報道された。少し前には152年の歴史ある歌舞伎座前の弁当店「木挽町辨松」が廃業となった。こうした老舗だけではなく、街中のある中華屋さんも蕎麦屋さんも「文化」はある。特に、寿司店などはどうすべきか悩むところであろう。江戸前寿司の場合、握ってくれる職人に相対して、すぐに食べる、そんな文化である。天ぷら然り、焼き鳥も同じである。顧客は味だけでなく、文化をも楽しんでいるのだ。しかし、そんな文化を少しの間止めることも必要である。職人も顧客も「仕方がない」ものとして理解するであろう。

全国で「出口」を目指した活動が始まった。当分の間、「恐怖」の後遺症は残っており、不安は依然として心の片隅にある。散々煽って来たTVメディア、特にワイドショーは次に秋冬の季節インフルエンザが心配であると視点をずらし不安を増幅させている。
そうした中、「セルフダウン」という成熟した賢明な市民は浮かれることもなく日常に戻っていく。そもそも「自粛」には明確な物差しなどない。一人ひとりの判断に任せられていると言うこと以外にはない。私のブログには過去のヒット商品をはじめ検索する人が多くなっている。次の「出口」模索していることがひしひしと伝わってくる。

1980年代、1990年代初頭のバブル崩壊後、大きな転換期には必ず新たな「何か」によって新たな需要をつくって来た。それは、新しい、面白い、珍しい、「何か」であった。今回の「出口」に必要なことは何かである。まだその次なる「芽」を見ることはできない。しかし、間違いなく「外」からの着眼ではなく、足元にある「内」に眠る何かであろう。1ヶ月前のブログに観光産業、インバウンド事業について少し書いたが、それは「バブル」であったと言う認識からのスタートであると。それは単なる原点回帰としての「何か」ではなく、もう少し奥にある「何か」である。見過ごされて来た何か、当たり前であった何か、小さすぎて大事に思ってこなかった何か、つまり、日常の中に埋もれさせて来たものを今一度表へとテーマにしてみると言うことである。
インバウンド的な見方に立てば、日本人がある意味「無視」して来たことに、多くの海外の人たちが「クールジャパン」としてアニメやコミックが世界の表舞台に上がったように。それは地方の観光地にも必ずあると私は確信している。今は入国制限されているが、次第にコロナ禍は鎮静化していくであろう。いつになるかそれはわからない。しかし、生き延びれた時、その「何か」は多くの人を魅了するはずである。

観光は文字通り平和産業である。その最大の障害が実は「不安」であり「恐怖心」である。いつまで恐怖が残るかそれはわからない。3.11東日本大震災の時もそうであったが、その後の「余震」によって恐怖心が蘇って来た。今回のコロナ禍も新たな感染者報道によって同様の恐怖心が蘇るであろう。
そして、原発事故によってもたらされた放射能汚染。汚染された福島は「怖い」という風評が至る所で起こったことがあった。これもまた同じようにコロナ汚染の巣であるかのように東京人を見る差別があり、しかもコロナと最前線で戦っている「病院」があたかも感染の巣であるかのような根拠のない「うわさ」が流布されている。結果、地域住民の病院利用者が激減し、病院経営が苦しくなっていると日本医師会はその窮状を訴えている。これも「恐怖心」からである。
出口を前にして「正しく 恐る」という原点に立ち返ることが、今問われていると言うことだ。







  
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Posted by ヒット商品応援団 at 13:02Comments(0)新市場創造

2020年05月29日

未来塾(40)「正しく、恐る」を学ぶ 前半 

 ヒット商品応援団日記No766(毎週更新) 2020.5.29.




コロナ禍から学ぶ(1)

「正しく、恐る」
その原点に立ち返る

ファクターXと言う仮説、
恐怖後遺症の行方。


4月7日緊急事態宣言が発令され、街も、生活も、働き方も一変した。その根幹にあるのは「移動」の制限であり、それはウイルスは人によって運ばれるということからであった。既に、2月11日のブログで「移動抑制が消費を直接低下させる 」というテーマで、しかも昨年12月からの季節性インフルエンザの流行は予測を大きく下回る感染であることが報告されているとも。これは1月後半からの新型コロナウイルスに対する自己防衛によるところが大きいと分析する医師も多いと書いた。つまり、海外から持ち込まれるウイルスの防疫強化以前に既に生活者の「自己防衛」は1月末から始まっているという指摘であった。そして、実はのちにわかったことだが、感染のピーク4月1日はちょうど新型コロナウイルスによって急死した志村けんさんと同じ時期であった。その間感染の拡大に対し、政府も専門家会議も感染対策は遅れに遅れたと指摘されてもやむおえないであろう。既に1月23日には中国の武漢は封鎖されていた。




また、最近の研究などから専門家会議によって行われた多くのシュミレーション、「このままであれば42万人が死亡する」といった恫喝・脅しとも取れる発表に対し、その数理モデル計算式が誤りではないかとの他の専門家からの指摘も出てきた。現実はシュミレーションとは大きく異なり、感染者数も死亡者数もある意味世界でも不思議であると注目されているほど少ない。一時期、専門家会議メンバーは「米国NYのようになる、地獄になる」と発言し恐怖を増幅させていたが、これもそんな現実は起こっていないことは周知の通りである。この専門家会議のシュミレーションを鵜呑みにした感染症の大学教授が盛んにTV番組で煽り立てる発言をしていたが、現実は全く異なる展開となっている。専門家会議や鵜呑みにした某大学教授の責任を問う声もあるが、未来塾はその任にはない。
それではその「現実」はどうであるのか、緊急事態宣言後1ヶ月半ほど経ち5月25日全面解除となった。その後新たに分かったことが数多く出てきている。例えば、マスクの効用についてWHOは否定的であったが、その後の動物実験ではうつさないだけでなくうつされない効果が得られたとの研究結果も出てきた。今回は専門家会議が提言した新型コロナとの付き合い方、その生活様式をどのように受け止めたら良いのかを考えてみた。

公衆衛生の始まり

ところで少し前に「不確かな時代の不安」をテーマにブログを書いたことがあった。それは江戸時代の台風・水害などの災害対策についてであったが、次のようにも書いた。

『江戸時代における最大の不安は疾病や病気であった。周知のように最初に隅田川の川開きに打ち上げられた花火は京保18年が最初であった。この年の前年には100万人もの餓死者が出るほどの大凶作で、しかも江戸市内でころり(コレラ)が流行し多くの死者が出た年であった。八代将軍吉宗は多くの死者の魂を供養するために水神祭が開かれ、その時に打ち上げられた花火が今日まで続いている。弔いの花火であったが、ひと時華やかな打ち上げ花火を観て不安を打ち消すというこれも江戸の知恵であった。』

このコレラが日本にもたらされたのは文政5(1822)年で中国(清)経由で沖縄、九州に上陸したと考えられている。しかし、この時には江戸には本格的な感染拡大はしなかったと言われている。当時の花火大会も一種の「お祓い」の意味もあり、それまでの疫病に対しては全て祈禱によって行われていた。
このコレラが猛威をふるったのは江戸から明治へと移行する開国の時期であった。安政5(1858)年。感染源はペリー艦隊に属していた米国艦船ミシシッピー号で、中国を経由して長崎に入った際、乗員にコレラ患者が出たと言われている。そして、江戸の死者数は約10万人とも、28万人や30万人に及んだとも言われている。

日本に衛生観念を植え付けたコレラ

実はコレラの流行まで、日本国内に医学的な感染症対策はほとんどなかった。加持祈禱(かじきとう)に頼り、疫病退散のお札を戸口に貼って家に閉じこもったり、病気を追い払おうと太鼓や鐘を打ち鳴らしたりしたという非科学的なものであった。例えば、今も続いているのが、おばあちゃんの聖地、巣鴨とげぬき地蔵尊のある高岩寺は本尊の姿を刷った御影(おみかげ)に祈願・またはその札を水などと共に飲むなどして、病気平癒に効験があるとされている。
医師緒方洪庵や長崎のオランダ医師ポンペの治療法が一定の効果をみせたこともあり、江戸幕府は文久2年に洋書調所に命じて『疫毒預防説(えきどくよぼうせつ)』を刊行させている。オランダ医師のフロインコプスが記した『衛生全書』の抄訳本で、「身体と衣服を清潔に保つ」「室内の空気循環をよくする」「適度な運動と節度ある食生活」などを推奨している。今日の感染症対策にも通じるものであることがわかる。幕末の1858(安政5)年、安政の五カ国条約が調印されたこの年にコレラの乱が起きる。海外からもたらされた病であることから、当時の攘夷思想に拍車をかけたといえよう。また、コレラは感染すると、激しい嘔吐、下痢が突然始まり、全身痙攣をきたす病であった。瞬 く間に死に至るため、幕末から明治にかけて「三日コロリ」「虎列刺」「虎狼痢」「暴瀉 病 」と よばれた。

清潔な町江戸はエコシステムによってつくられた

120万人という世界で類を見ない都市であった江戸では、その高度技術の象徴として流れる上水道を取り上げたことがあったが、下水道もまた衛生管理されたものであった。例えば、トイレの糞尿は河川に流すことなど禁止されており、定期的に糞尿は汲み取られ近隣の田畑の肥料として使われていた。それら糞尿は農家に売られ町の財源となり道路の補修などに使われていた。他にもゴミ捨ては禁止され汚水をつくらない対策が講じられていた。これが江戸社会が極めて優れたエコシステムであることの一つの例となっている。ちなみに、ゴミの不法投棄を一掃するため、明暦元年(1655年)に「全てのゴミは隅田川の河口の永代島(えいたいじま)に捨てる」というルールを発布している。
面白いことに、江戸の街は東京湾の埋め立てによってつくられたものだが、ゴミの分別もきちんとなされ、埋め立て用のゴミ、燃料用のゴミ、堆肥用のゴミ、に分けられゴミひとつない清潔な町が造られていた。当時の大都市ロンドンなどと比較した資料を見てもわかるように、糞尿に塗れたロンドンとは大違いであった。
銭湯という清潔習慣

日本は火山列島であり、至る所で温泉があり、日本書紀にも記述されている。その効用は泉質により多様であるが、治療をはじめ広く健康のための入浴が行われてきた。
江戸時代には市内で広く銭湯として日常のライフスタイルの重要な一つとなっていた。上水道の水は飲料の他に銭湯にも使われていた。当時の江戸の町は土埃の多い町であったことから、仕事前に朝風呂、仕事終わりに夕風呂と少なくとも2回は入ったようで、1日に何回も銭湯を使っていた。入浴料金は大人8文(約120円)、子ども6文(約90円)とそば1杯の値段の半分とリーズナブルな料金であった。さらにお風呂好きにはうれしいことに「羽書(はがき)」というフリーパスもあり、1ヶ月148文(約2200円)で何度でも入浴することができる仕組みさえ出来ていた。
江戸市民のライフスタイル上、欠かせない習慣となり、町も身体も清潔なものとなっていた。

ところで、感染症の歴史であるが、明治17(1884)年、結核菌の発見でも知られるドイツのコッホによって、コレラがコレラ菌による伝染病であることが突き止められ、その後、パンデミックなどの大流行が見られることはなくなりました。
ペニシリンをはじめとした治療薬が次々と発見され、原因や対処法が判明してきた現在でも、コレラは全滅したわけではない。人類はウイルスや細菌との戦いの歴史だと言われてきたが、ウイルスや細菌と共存した歴史でもあるということである。

昭和から平成の時代へ

江戸時代からいきなり昭和の時代に移ってしまうが、戦後の荒廃した時代の生活は「雑菌」と「ウイルス」の中の生活、今で言うところの雑菌やウイルスとの「共生」であった。食べ物すらも衛生的とは言えない環境にあって、生きるとはそうした共生そのものであった。今、テーマとなっている「免疫」をテーマとした研究者、いや私にとっては作家である多田富雄さんの著書「免疫の意味論」を読んだ記憶がある。覚えているのは免疫の科学的知見ではなく、生活するうえで”ああそんなことなのか”と経験に即した意味論であった。戦後の不潔な環境ではそれなりに打ち勝つために免疫が自然と高まるという理解であった。
というのも1990年代当時問題となっていた過剰な「清潔」「無菌社会」に対する一つの警鐘となった記憶であった。清潔の考えが極端に振れた社会で、同じように「健康」がダイエットにとってかわり、必要カロリーに満たないという現象が起きた。共に、豊かであるが故の奇妙な変換が起きた時代であった。そうした変換のキーワードは何かといえば、「過剰」ということになる。こうした豊かさを背景に、一部生活者はタクシーがわりの救急車を使ったり、病院の待合室がサロン化するといった現象も見られるようになる。こうした意識は今回の新型コロナウイルスのような「未知」に対しても過剰に反応することとなる。その過剰さの先が「恐怖」である。

そして、一方では2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)、09年には新型インフルエンザが流行したが、パンデミックのような大きな流行が起こらなかったことから、リスク対策が行われず今回の新型コロナウイルスを迎えることになる。特に、受け入れる病院、あるいは保健所もそうであるが、行革の対象となり、医療現場は削減したまま今回のコロナ禍を迎えることとなった。医療危機が叫ばれているが、その背景はこうした経緯がある。ただ問題なのは行革は単なる施設や人員の削減だけではなく、ITなどを駆使したシステムでなくてはならない。しかし、特別給付金のマイナンバーカードによる給付に見られたように、ITによるシステムがいかに遅れているかが露呈した。自宅での就労、リモートワークはまだまだ一部であり、学校の休校に伴うオンライン授業も同様である。それは大学においても同様で授業を始めた途端サーバーがダウンしてしまう、そんなITとは名ばかりの実情が次々と社会の面へと出てきた。

新型コロナウイルスの迎え方

ところで1月末にはいち早く生活者は認識いていたと書いた。その背景であるが、周知のように季節インフルエンザは例年より早く昨年11月ごろから流行り始めていた。昨年の12月にはマスク姿の人たちが街中に多く見られるようになった。しかも、グラフを見てもわかるように、季節インフルエンザの罹患者は例年より極めて少なくなっている。(東京都)




赤い線が今年の罹患者のグラフである。多くの人は今年のインフルエンザは軽かったなというのが印象であったと思う。ちなみに全国ののインフル患者数は昨年は1210万人であったのに対し、今年は729万人と減少している。
何故、季節性インフルエンザは減少したのか。季節性インフルエンザに代わるように新型コロナウイルスの感染が始まるのだが、その際、生活者のマスク着用や手洗い・うがいといった日常の感染対策は新型コロナウイルス感染を防御し得たのかどうか、実はこうした疑問点について専門家会議も明確な答えられてはいない。極論を言えば、「疫学」という専門研究の世界だけの知見であって、生活者のライフスタイルをどう変えて行ったら良いのかという視点が決定的に欠けている。つまり、専門家会議の提案する「生活様式」が素直に受け止められないのはこうしたことに起因している。




こうした季節性インフルエンザの実態を踏まえ、多くの感染症研究者は単なる季節性インフルエンザの延長線上で新型コロナウイルスを受け止めていた。しかし、冒頭に書いたように既に中国の感染実態に触れ、勿論一部の研究者や医師の間では感染対策をどうすべきかと言った声は1月には上がっていた。

コロナの正体が少しづつわかってきた

新型コロナウイルスの対策を始めその情報のほとんどは政府専門家会議(現在は諮問委員会)のメンバーによるものであった。しかし、海外の情報を始め感染症以外の科学者からの発言が多く見られるようになった。そうした発言の中で、新型コロナウイルスと戦っている現場の医療従事者を始め、多くの国民の支持を得てきたのがあのiPS細胞研究所の山中伸弥教授である。ノーベル賞の受賞研究者ではあるが、多くの国民にとっては難病患者のために努力し続けている誠実で真摯な人物であると理解している。情報の時代、つまり過剰な新型コロナウイルス情報に対し、科学者の目で冷静に「今」わかっている新型コロナウイルスの正体を「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」したうえで、「5つの提言」をHPを通じて投げかけてくれている。

国民が求めていることは新型コロナウイルスとは何かという本質である




山中伸弥教授の発言によって、新型コロナウイルスの姿が少しづつわかってきた。これは政府専門家会議による広報では得られない多面的、多様な情報である。それは本来「正しく、恐る」という理解であるはずの理解を促すべきところを、「恐怖」によって移動の自粛を行う戦略を採ったことへの疑義であると私は受け止めている。山中教授は異なるコロナ理解、つまり冷静に理性的に確認できる「事実」を「正しく」伝えることが重要で、その姿勢が多くの国民の理解を得つつある。
専門家会議によるコロナ対策、クラスターという小集団対策、ある意味もぐらたたき戦略は、一方でコロナの「恐怖」を提示することによってある時までは成立してきた。それはもぐらたたきが可能であった時期までである。既に3月に入り欧米に観光で出かけた観光客が帰国した頃から、主に都市における市中感染が始まっている。これは専門家会議も認めていることだが、PCR検査体制を抑制したこともあり、この感染の防疫の対策を持ち得なかった。残ったのは「恐怖」だけであった。それも何による恐怖なのかという具体性のない、漠たる恐怖であった。

現段階で分かったこと、その証拠が正しい可能性が高いかどうかを冷静に整理してくれている。ここには理性を持って新型コロナウイルスに向き合う態度がある。マスメディア、特に「刺激」ばかりを追い求めてきたTVメディアの態度とは真逆である。こうした「証拠」に基づいた提言こそが必要であり、恐怖による行動変容は一時期的に表面的な自粛が行われても、同時に人と人との間に憎しみや争いを生むことになる。

恐怖による行動変容

ところで社会心理学を持ち出すまでもなく、行動の変容を促すには恐怖と強制が効果的であると言われている。そして、恐怖は憎悪を産み、分断・差別を促す。憎むべきウイルスは次第にルールを逸脱する人間へと変わっていく。少し前になるが、ゼミやサークルの懇親会で新型コロナウイルスのクラスター(感染者集団)が発生した京都産業大の学生に対し、抗議や意見の電話やメールが数百件寄せられているとの報道があった。抗議どころかあるTV番組のコメンテーターはウイルスを撒き散らした学生にはまともな治療を受けさせるなと暴言を吐く始末である。
あるいは同じ番組であるが、今度は外出の自粛要請の休日に禁止されている区域に潮干狩りをしているとの報道を踏まえてと思うが、感染症学の教授が「二週間後はニューヨークになってる。地獄になってる」と発言したのには驚きを越えてこの人物は大学教授なのか、教育者としての知性・人間性を疑ってしまった。ニューヨークのようになってはならないと発言するのであればわかるが、それにしても「地獄」などといった言葉は間違っても使ってはならない。つまり、恐怖心をただ煽っただけで、しかも専門分野の教授の発言であるからだ、





「自粛」を促すには恐怖と強制が常套手段であると書いたが、「2週間後にはニュ-ヨークになる」「地獄になってる」といった恐怖を煽るようなTVコメンテーターの発言も現実・事実がそのように推移しなくなったことから、その刺激的な発言もトーンダウンしてきた。一方私権を制限することが法的にもできない日本においては「強制」できない現実から「自粛警察」といったキーワードが流行る嫌な現象が生まれている。『自粛警察』とは、例えばクラスター感染のシンボリックな場所・施設となったライブハウスへの中傷で、東京高円寺の街では休業中の店舗などに休業を促す張り紙をしたり、張り紙に文言を書き込んだりすることを指すとされる。他にも居酒屋など休業要請を指定されてはいない店舗への嫌がらせも出てくる状況が生まれている。私に言わせれば、「正義」の仮面をかぶった一種の嫌がらせであるが、憎むべき敵であるコロナウイルスが休業していない店舗にすり替えられての行為が至る所で見られるようになった。「恐怖」はこうした中傷をはじめとした差別を連れてきている。その象徴が『自粛警察』である。また、カラオケについてもあたかも密=クラスターの発生源であるかのような発言をするコメンテーターもいて、勝手なイメージが一人歩きする。

ロックダウンではなく、セルフダウン

東日本大震災の時もそうであったが、「現場」で新しい新型コロナウイルスとの戦いが始まっている。医療現場もそうであるが、マスクや医療用具の製造などメーカーは自主的に動き始めている。助け合いの精神が具体的行動となって社会の表面に出てきたということである。「できること」から始めてみようということである。その良き事例としてあのサッカーのレジェンド「キングカズ」はHP上で「都市封鎖をしなくたって、被害を小さく食い止められた。やはり日本人は素晴らしい」。そう記憶されるように。力を発揮するなら今、そうとらえて僕はできることをする。ロックダウンでなく「セルフ・ダウン」でいくよ、と発信している。そして、「自分たちを信じる。僕たちのモラル、秩序と連帯、日本のアイデンティティーで乗り切ってみせる。そんな見本を示せたらいいね。」とも。恐怖と強制による行動変容ではなく、キングカズが発言しているように、今からできることから始めるということに尽きる。人との接触を80%無くすとは、一律ではなく、一人一人異なっていいじゃないかということである。どんな結果が待っているかはわからない。しかし、それが今の日本を映し出しているということだ。
東日本大震災の時に生まれたのが「絆」であった。今回の新型コロナウイルス災害では「連帯」がコミュニティのキーワードとなって欲しいものである。

大阪らしい戦い方

一足先にコロナ禍からの出口戦略に組み出した大阪は知事を中心に大阪らしい戦い方を見せてくれている。それはコロナ禍が始まって以降大阪が行ってきた対策はどこよりも的確でスピードのあるものであった。中国観光客のバスガイドが感染したことを踏まえ、徹底的にその行動履歴を明らかにして感染拡大を防ぐ行動をとった。その後、周知の和歌山県で起きた院内集団感染拡大に対しても、和歌県の要請を受けてPCR検査を肩代わりする、つまり近隣県とのネットワークも果たしている。更に、ライブハウスで感染クラスターが明らかになったときもライブハウス参加者に呼びかけ、つまりここでも情報公開を行ってきている。更には早い段階で軽症感染者や重症感染者など症状に応じた「トリアージ」の考え方を取り入れ、病院崩壊を防ぐ対策をとってきている。また、病床確保にも動いており、十三にはコロナ専門病院も用意している。・・・・・・・こうした情報公開と準備を踏まえたうえでの「出口」の提示であるということである。大阪府民が支持するのも当然であろう。少なくともPCR検査を含め東京都とは違いデータの収集分析はシステマチックになされている。勿論、他県も同様であるが、東京が正確なデータで「出口」を示せないのに対し、大阪はかなり先へ進んでいる。東京の場合、ロードマップという工程表を提示しているが、4段階のうち、第一段階は進めたとしても、第二段階、第三段階などどんな「目標・数値」が達成できれば次の段階へ進めると言ったことが明確になっていないこと。つまり、数字での判断ではなく、「成り行きまかせ」で、いつになったら「出口」となるのか各業種ごと不明であるという点が大阪と大きな違いとなっている。







こうした対策に呼応するように府民も戦っていることがわかる。それは商売の街・大阪の戦い方によく出ている。東京が休業協力金を出すことができるという財政に余裕があるのに対し、大阪の場合余裕はない。当然戦い方も異なり、府民の「協力」しか武器はないということである。その武器は何か、大阪らしさ、大阪のアイデンティティに依拠した戦い方である。
そのキャッチフレーズは「負けへんで」。臨時休業の告知だけではつまらない、「どうせ耐えるなら楽しく」やろうじゃないかということだ。きっかけはお好み焼きのチェーン店「千房」で、「負けへんで 絶対ひっくり返したる」と書かれたポスターである。お好み焼きのコテにひっかけた、ウイットのある大阪らしい表現である。今やギンザセブンにも出店している串カツの「だるま」は、ソースの二度ずけ禁止」にかけ「負けへんで コロナの流行は禁止やで」と。そして、「二度ずけ禁止」という大阪文化は少しの間お預けして、かけるボトルソースを用意し、少しでも感染予防になればと工夫が凝らされている。
この「負けへんで」死rーずの延長線上に営業再開のポスターが作られている。大阪の友人にお願いしてその大阪らしい「心意気」、商人文化を撮ってもらっtあ一部である。(後半へ続く)


  


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2020年05月10日

恐怖から自制へ 

ヒット商品応援団日記No765(毎週更新) 2020.5.10.


新型コロナウイルスの衝撃がピークを迎えたのは志村けんさんが亡くなった時であった。後に専門家会議が発表した諸データの中に期しくも感染数のピークであったことがわかった。時代の空気は恐怖によって張り詰めたピリピリとしたものであった。緊急事態宣言はその後に発令されたが、外出と休業自粛の中で新型コロナウイルスに向き合うことによってその正体は徐々にわかるようになってきた。つまり、理性を取り戻し、感情ではなく理解しようとし始めたと言うことである。

ところでツイッター誕生の時に言われてきたことだが、その「つぶやき」は即時性、同時性にあり、「本音」であると。しかし、同時に感情剥き出しの言葉でもある。周知のように、「ツイート」と呼ばれる280文字(日本語、中国語、韓国語は全角140文字)以内のメッセージや画像、動画、URLを投稿できるパーソナルメディアである。その効用は大いに認めるものであるが、同時にその限界もまたある。生活者は明確には意識化されてはいないが、そのメッセージの短さに反応するだけになってしまう。つまり、次第に感情任せになり、深く考える理性判断へと向かうことが少なくなってしまった。その答えが「いいね」の一言に象徴される。どんな「いいね」なのか、「悪いね」はないのか、あるいは「どちらでもない」こころの揺れ動きは表現できなくなっていく。実は、そうした心理の環境の中で、「空気」は作られていく。

若い頃、広告というコミュニケーションを通じて目標とする「イメージ像」を創ることに携わってきた経験がある。外資系企業ということから多くのコミュニケーションの方法を学んだ。その一つがリーチ(到達の広がり)とフリークエンシー(回数・頻度)」というメディアの基本活用について出会った。単純化していうと、リーチという伝えたい視聴者の広がりとフリークエンシーという視聴頻度の関係で、どんなメッセージをどの視聴者層にどの程度の頻度で伝えれば、どんな効果(消費行動)につながるかという理論である。現在は大手広告会社によって、より効率の良い効果的なメディアミックスについて考えられている。横道に逸れてしまったが、こうしたメッセージを送る基本には「頻度」という回数多く送ることで、俗な言葉で言えば「刷り込み」である。
そして、このツイッターの時代はスピードが最大特徴であるが、反面深い理解を求めるメディアではない。それは「反応」であり、感情のコミュニケーションということになる。繰り返し断片的な映像やメッセージによって恐怖は深刻化していく。

今回のコロナ禍の場合、ウイルスの「恐怖」が徹底的にTVメディアを中心に刷り込みが行われてきた。その結果については前回のブログで「自粛警察」に触れ、差別や偏見が広く蔓延し、一つの空気感を創ることへと繋がってきた。その象徴は専門家会議・西浦教授による「このままだと42万人が死ぬことになる」発言であった。繰り返し、その功罪については書くことはしないが、このコロナ恐怖は次第に他の恐怖へと、抽象的な恐怖から身近な恐怖へと変化してきた。それは第一段階の小中高の一斉休校であり、社会・経済への影響がどれだけ甚大なものであるか実感することとなる。次に4月7日の緊急事態宣言による外出自粛という移動制限と休業要請であった。結果、家計はもとより対象となった飲食店をはじめ不安を通り越した恐怖に近い心理へと変化してきた。そうした恐怖を煽るような無自覚な報道から、次第に客観的俯瞰的なものへと変化してきた、その変化の中心には東日本大震災の時と同じように「現場」で苦労している医療スタッフへの感謝と支援があることは言うまでもない。

そして、この心理変化に大きな役割を果たしてくれたのが何回か取り上げてきたあのiPS細胞研究所の山中教授であった。「正しく恐れる」という感染症の基本認識が、その「正しく」が実は極めておかしな現実にはそぐわない結果になっていたことがわかってきたからだ。前回のブログで専門家会議がやっと公開したデータによれば感染のピークは緊急事態宣言の前であったことなど予測と現実がまるで異なるものであることがわかった。そして、感染の実態理解に不可欠である実効再生産数(1人の感染者が他者にどれだけうつしたか)の数値が緊急事態宣言の根拠にはなっていないことなど何のための専門家会議であるが極めて疑念を抱かせるものであった。
そうした誰もが疑念に思えるテーマを実は山中教授はそのHPで試算してくれている。勿論、その計算式を明確に公開し、試算していることは言うまでもない。「問題提起のために、専門外ではありますがあえて計算してみました。」とあるが、大阪をはじめ京都などの指標となる数値が計算されている。
また、もう一つ重要なことがわかりやすく説明されている。それは「The Hammer and the Dance」についてで、日本のコロナ対策の基本方針としていることを西村大臣から発表されているが、勿論専門家会議の主要メンバーである西浦教授の考えであることは言うまでもない。おそらくこの理論に沿って緊急事態宣言の解除、「出口戦略」が作られるものと思う。これはロックダウン(都市封鎖)支持派のテキストとして広く読まれているが、西浦モデルはこの考えに沿ったものだ。ロックダウンという言葉を使わないで、三密を踏まえて「接触率80%減」を目指すという目標設定をしたというわけだ。しかし、実はこの理論とは全く異なる「現実・結果」が日本では進んでいる。つまり、「ハンマーなしでダンス」を目指すということである。こうした西浦モデルの背景は山中教授によって丸裸にされたと私は理解する。
何回も言うが、専門家会議の立てた理論は現実によって破綻宣告されており、そうしたことが徐々に広がりつつある。TVメディアも5月3日TBSの「サンデーモーニング」ではレギュラーコメンテーターである寺島実郎氏は西浦教授の発言を指して「恫喝するような対策は許さない」と語気を強めてコメントしていた。あるいはTBSの午後の帯番組「Nスタ」でもゲストコメンテーターである中部大学教授細川昌彦氏も専門家会議のクラスター戦略に沿ったPCR検査の絞り込みよって生まれた多くの問題に対し、更には正確なデータ不備について、その象徴である東京都の実態について厳しく指摘をしていた。

こうした「空気」を更に変えたのが大阪府知事による「出口戦略」の発表であろう。これはわかりやすい数値目標、つまり府民にとって努力可能なものとして提示したものである。大阪の場合、遡って見てもわかるように、中国観光客のバスガイドが感染したことを踏まえ、徹底的にその行動履歴を明らかにして感染拡大を防ぐ行動をとった。その後周知の和歌山県で起きた院内集団感染感染拡大に対しても、和歌県の要請を受けてPCR検査を肩代わりする、つまり近隣県とのネットワークも果たしている。更に、ライブハウスで感染クラスターが明らかになったときもライブハウス参加者に呼びかけ、つまりここでも情報公開を行ってきている。更には早い段階で病床確保にも動いており、十三にはコロナ専門病院も用意している。・・・・・・・こうした情報公開と準備を踏まえたうえでの「出口」の提示であるということである。大阪府民が支持するのも当然であろう。少なくともPCR検査を含め東京都とは違いデータの収集分析はシステマチックになされている。勿論、他県も同様であるが、東京が正確なデータで「出口」を示せないのに対し、大阪はかなり先へ進んでいる。

こうした「出口」を示す大阪に対し、東京都はロードマップによって感染収束の道筋を示すと記者会見で都知事は説明している。何故ロードマップなのか、それはPCR検査の収集管理が統一されたシステムによって行われてこなかったことによる。例えば、新規の検査者と既存感染者の2回目3回目の検査とが混在してしまっていたり、検査結果と検査日の日数のズレなどがあったり、・・・・・・・・保健所の職員の人たちも苦労しているのだが、今なお手書き情報で収集しているといった超アナログな状態であると聞いている。こうした情報収集の結果から不確かなものとなり、例えば「陽性率」のような重要な指標が出せないでいる状態である。都知事は大阪と比較し東京の規模は大きいからと説明するが、東京都の人口は1395万人、大阪府は882万人である。何倍もの規模ではない。東京都民は新規感染者数のグラフを示されるだけで、感染がどのように拡大しているのか、それとも収束に向かっているのか一つの指標である実効再生産数の数値などはタイムリーに示されないままである。これでは「出口」を数値で提示し、目標とすることはできないということである。大阪は財政に余裕がなく府民の協力を得るしかなく、東京は財政的に余力があり休業補償などへの協力金が用意できることからと、その違いを説明する専門家もいる。こうした違いの象徴ではないが、大阪府が新型コロナウイルスと向き合う医療現場のスタッフを支援する目的で創設した基金への寄付額が10億円を突破したと報じられている。これは入院患者の治療にあたる医師など医療従事者に一律20万円を支給するとのこと。府民・都民の「出口」の受け止め方であるが、やはりリーダーシップの違いにあるとするのが常識であろう。

さて、出口戦略というからには当然「入り口」があったはずである。勿論入り口は緊急事態宣言である。大きくは外出自粛という移動制限であり、その移動先である対象となる業種の休業要請となる。この宣言が出されたのは1ヶ月少し前の4月7日であった。その入り口の根拠となるのが、周知の三密を避ける行動、「接触80%減」という西浦モデルであった。しかし、宣言を行う前に感染のピークとなっており、感染力となる実効再生産数も既に東京は0.5、大阪も0.7と感染収束に向かっている数値であった。何故、緊急事態宣言なのか。宣言など出す必要があったのかという疑義である。特に実効再生産数については専門家会議からはその数式も素データも提示されていないが、前述の通り、山中伸弥教授がすでに試算し公開してくれている。大阪の吉村知事もこの実効再生産数の数値を目標としたかったようだが、そのデータ根拠が既に発表されている政府の数値と異なることもあって出口戦略に組み込まなかったようだ。最終的には政府の責任となるが、その根拠をつくった専門家会議の責任は極めて大きい。

こうした背景から専門家会議主導のコロナ対策から、大阪をはじめとした各地域のリーダーシップによる「出口」への空気が一挙に変わりはじめた。TV局もそうしたことに反応し、面白いことに「2週間後は東京もニューヨークの惨状になる。地獄になる!」と予言した感染症の大学教授も、「脅し・恫喝」から「心配」へと発言のトーンも変化しはじめた。そして、特定警戒都道府県以外の地方はそれまでの規制解除が始まった。そうした動きを加速させたのが、ドイツや韓国など各国の解除である。
解除された地域で感染者が拡大するのではないかという心配はあるが、国民は今までもそうであるがこれからもその懸命さで乗り越えるであろう。その象徴としてサッカーのキングカズの提言である「ロックダウンではなく、セルフダウン」を裏付けるようなデータ「Google行動解析」によって確認されている。これも山中教授のHPにて公開してくれている。ロックダウン、都市封鎖をした各国との比較で「日本は欧米よりは緩やかな制限により、最初の危機を乗り越えようとしていることがわかる。」とコメントしている。ここにも「正しく、恐れる」賢明な成熟した日本人がいることが見て取れる。

また、5月8日の深夜厚労省は記者会見で、新型コロナウイルスのPCR検査について、新たな相談の目安を公表し、「37度5分以上の発熱が4日以上」とした表記を取りやめたとのこと。数ヶ月前から検査の抑制理由を、医療崩壊につながることからと専門家会議も説明してきたが、ここでもやっと検査方針の転換を認め始めた。指定感染症という法律の付けの問題もあるが、相談窓口に保健所の「帰国者・接触者相談センター」とした制度設計自体が既に破綻してきている。既に、江戸川区においては独自にドライブスルー方式のPCR検査センターが実働に入っている。
この厚労省のガイドラインの方針転換についても、それまで「検査の抑制は医療崩壊につながる」とTV番組などでコメントしてきた感染症の大学教授達は今後どんなコメントをするのであろうか。
こうした時代の空気を受けて、恐怖から「出口」に向かっていく。大阪における「出口」戦略は、今後起こるであろう第2波、第3波の「入り口」にもつながるものであり、大阪の動きからも学ぶべきあろう。(続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:02Comments(0)新市場創造

2020年05月03日

問われているのは「出口戦略」    

ヒット商品応援団日記No764(毎週更新) 2020.5.3.


ポストコロナ、あるいはコロナ後の世界といったキーワードが政治・経済をはじめ多くの分野で盛んに使われるようになった。いつの時代も予測好きはいるのだが、コロナ禍は現在進行中であり、少なくともまだまだ続く。そして聞こえてくるのは悲鳴しかなく、特に中小零細の飲食業の人たちの悲痛な声ばかりである。そうしたことを踏まえ、前回のブログでは「生き延びる知恵」を働かせて欲しいと書いた。ここ数日やっと日本経済への影響がリーマンショック以上の深刻さであることが報じられてきた。コロナ感染によって失われる命どころではない深刻なさが差し迫ってきていることにマスメディアもやっと気づき始めた。
ところで、「自粛」を促すには恐怖と強制が常套手段であると書いたが、「2週間後にはニュークになる」「地獄になってる」といった恐怖を煽るようなTVコメンテーターの発言も事実がそのように推移しなくなったことからその刺激的な発言もトーンダウンしてきた。一方私権を制限することが法的にもできない日本においては「強制」できない現実から「自粛警察」といったキーワードが流行る嫌な現象が生まれている。『自粛警察』とは、例えばクラスター感染のシンボリックな場所・施設となったライブハウスへの中傷で、営業中の店舗などに休業を促す張り紙をしたり、張り紙に文言を書き込んだりすることを指すとされる。他にも居酒屋など休業要請を指定されてはいない店舗への嫌がらせも出てくる状況が生まれている。私に言わせれば、「正義」の仮面をかぶった一種の嫌がらせであるが、憎むべき敵であるコロナウイルスが休業していない店舗にすり替えられての行為が至る所で見られるようになった。「恐怖」はこうした中傷をはじめとした差別を連れてきている。その象徴が『自粛警察』である。

こうした社会が生まれないように、新型コロナウイルスに関する「情報」を今確認できる事実に基づき、理性的に抑制的に伝えたいと発言しているあのiPS細胞研究所の山中教授医のHPを敢えてブログに書きリンクまでした。過剰な情報の中で、「何を」信用したら良いのかという直面する課題に対してである。山中教授の最新のHPの中に「新型コロナウィルス感染症対策に関する、研究者・臨床家から報道機関への要望書」が提言されており、その中で米国NYの医療従事者の自死に触れ「このウィルスは未知であるがゆえに、 人々の不安や分断を引き起こし、感染者に対する差別や偏見が高まっています。特に、もっとも感染リスクの高い医療従 事者が、差別や偏見を受けるという残念な状況も起きています。」と報道機関に向けて書かれている。
差別や偏見を助長している一つに報道があり、その根底には未知のウイルスであるが故の「不安」と「恐怖」がある。特にTV番組がそうであるのだが、ワイドショーという名前がそうであるように「ショー」という演出を否定はしないが、過剰なまでの表現・発言が多い。先日もテレビ朝日「モーニングショー」で”東京都の新型コロナウイルス感染者数が39人だったことについて、「(すべて)民間(医療機関)の検査の件数。土日は行政機関の(検査をしている)ところが休みになる」と発言したことについて、誤りだったして謝罪した。”多くの生活者が極度に敏感な中での誤りは極めて重大である。自覚なきTV番組はいずれ淘汰されるであろう。

ところで来週の5月6日には緊急事態宣言が発令されて1ヶ月になる。専門家会議や日本医師会は延長する可能性を示唆し、安倍首相もその方向で検討に入っていると報じられている。前述のテレビ朝日の誤報道ではないが、緊急事態宣言の発令の時、安倍首相は以下のようにその背景・根拠を記者会見で説明している。

「東京都では感染者の累計が1,000人を超えました。足元では5日で2倍になるペースで感染者が増加を続けており、このペースで感染拡大が続けば、2週間後には1万人、1か月後には8万人を超えることとなります。」

さて感染の現実はどう推移してきたかである。毎日のように感染者数は報道されてはいるが、東京都の感染者数は4000名ほどで後数日で8万人に至るであろうか。感染症専門家でなくても到底至らないことは自明である。政府は専門家会議の提言を受けての発令であるが、その専門家会議の提言の根拠が示されていないため一定の理解はあっても実感し得るものではない。未知のウイルスであることから予測は当らないとする意見もあるが、現実はまるで異なる結果となっている。
何故、そうした誤差とは言い難い結果となっているのかまるで理解しがたい。多くの国民が自ら「自粛」した結果であるという意見もあるが、果たしてそれで納得できるであろうか。少し前のブログにも書いたが、「理屈」では納得はしない。行動の変容を促すには強制と恐怖であると指摘をしてきた。勿論日本は私権を制限することはできないことから「自粛」という方向を打ち出し、私も賛成するものであるが、「恐怖」を根拠とした政策には同意できない。その根拠であるが、専門家会議のメンバーである西浦教授の説明によれば(YouTube)、感染拡大の数理モデルにはドイツにおける感染率、実効再生産数1.7を使ったとのこと。実はこの数理モデルの鍵はこの一人の感染者が他者何人にうつすかという変数の設定にあることがわかる。実は今回専門家会議からの説明でやっとこの鍵となる数値が出てきた。
その中で注目すべき驚くべき内容が明らかにされた。確か3月中旬時点での感染率、実効再生産数1.7を使ったとのことであったが、やっとこの現実データが明らかになった。ちなみに4月10日時点での全国庭訓では0.71、東京においてはなんと0.53であったという驚くべき事実であった。しかも、安倍首相が緊急事態宣言を発令されたのは4月7日である。実効再生産数は1以下であれば収束に向かい、1以上であれば感染拡大に向かう値される指標であるが、発令の時にはある意味収束に向かっていた時期であった。この実効再生産数は日本の場合、算出するのに時間がかかっているとのことであるが、安倍首相の発令時に説明した理由にあった感染拡大の数しがまるで異なる結果になったのはある意味当たり前のことである。

もう一つ出てきたデータが感染者がいつ発症したかというデータである。TV報道においても繰り返し確認されているが、PCR検査によって確認された日と実際に発症した日にはほぼ2週間ほどの違いがあると。今回やっと発症日という正確なデータが公開されている。このデータ(グラフ)を見てさらに驚いたのは感染のピークは4月1日であったということである。緊急事態宣言の1週間前であったということである。そして、そのピーク時はあの志村けんさんが亡くなった日(3月29日)とほぼ重なっていることに気づく。当時の衝撃について次のようにブログに書いた。

『前回のブログでTV番組出演し感染の恐ろしさを繰り返し話しても伝わりはしないと指摘をしてきた。感染学の講義、つまり「理屈」では人を動かすことはできないということである。数日前に亡くなったコメディアンの志村けんさんの「事実」の方が衝撃的なメッセージとなっている。感染後わずか6日後に亡くなってしまうその恐ろしさ、最後の別れすらできない感染病のつらさ。それらは極めて強いメッセージとして心に突き刺さる。いみじくも政府の専門家会議の主要メンバーが国民に「伝えられなかった」と反省の弁を述べていたが、その通りで志村けんさんの「死」の方が何百倍も伝わったということである。』

専門家会議の提言を踏まえ緊急事態宣言が1ヶ月jほど延長されることになると思うが、コロナ危機の出口戦略についてまるで見出すことができていない専門家会議だけの方針では不十分と言うより経済の専門家の意見をも取り入れなくてはならない。続々と倒産件数・失業者数が増えてきている。企業破綻は即家計破綻であり、社会のシステムをも壊し始めている。その破綻を防ぐ一つの示唆をあのiPS細胞研究所の山中伸弥教授はその更新された一番新しいHPで明確に次のように提言してくれている。

有効再生産数(Rt)が経済活動再開の指標
『武漢での1月から3月までの有効再生産数(Rt)に関する論文を紹介し、アメリカの経済活動再開を決めるための指標として、CDCが全米および各州のRtを毎週発表することの重要性を主張している。活動を徐々に再開してもRtが1を超えないかを確認してく必要があると主張している。科学的根拠に基づいた透明性の高い政策決定が求められる。』

つまり、多くの感染ウイルスがそうであるように、今回も長期化していく。問われているのはその「出口戦略」で、経済抜きではあり得ない。専門家会議の提言にある「新たな生活様式」は単なる戦術レベルの話で、問われているのは社会経済全体への「指標」となるものではない。「三密」を否定はしないが、必要なのは長期に渡ってウイルスと付き合っていく「物差し」である。慶應大学病院や最近では神戸市立医療センター中央市民病院において「抗体検査」が行われている。同病院のチームによれば、4月7日の緊急事態宣言が出る前に、既に2.7%に当たる約4万1千人に感染歴があったことになるという。何故、感染しているのに発症しないのかと言う「免疫」の問題である。ある意味ウイルスと共生していくことになると思うが、その根幹となる「免疫」の解明である。専門家会議も「クラスター対策班」から、「免疫解明班」にシフトした方が良いかと思う。

ところでここ数年個人においても企業においても、ある意味「三密」が求められてきた経緯がある。例えば、「気合わせ会」といった小さな飲み会に会社から援助金が出たり、全社レベルにおいても運動会のようなイベントが行われ職場単位で競争したり、・・・・・こうした個人単位、専門部署単位の仕事の壁からひととき離れた時間や場所が求められてきたことによる。つまり、既にテレワークなどと言わなくても現実は先に進んでいるのだ。「自粛」と言うキーワードに変わるものがあるとすれば、それは「自制」であろう。更に、個々人、個々の企業、個々の団体、が自制すると言うことだが、その自制の中にアイディアもまた生まれる。
コロナ禍の震源と揶揄されたライブハウスがネットを使った「ライブ配信」をはじめたように。飲食では店頭での弁当販売からチルド商品や冷凍食品にしてネット通販を始めているように。つまり、新しい業態の可能性を探っている。これらは「自制」の模索から生まれたものだ。言うまでもなく、この「自制」とは顧客との関係におけることで、「自粛警察」とは真逆のことである。サッカーのキングカズが提言しているように、ロックダウンではなく、「セルフダウン」の意味と同じである。自ら律した行動を取ろうと言うことだ。現場的に言えば、「自制」の先に出口が見出せると言うことである。(続く)

型コロナウイルス感染症対策専門家会議
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000627254.pdf
  
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