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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2019年04月24日

未来塾(36)「賑わい再考・東京高円寺」後半  

ヒット商品応援団日記No734(毎週更新) 2019.4.24




「にぎわい再考」に学ぶ


冒頭に書いたように気になって仕方がなかった街の一つが高円寺という街であった。それは江東区の湾岸豊洲のように、工場群跡地の再開発によって新たに造られた街ではなく、東京という都市の発展そのままが中央線沿線に残っている街だからである。その「発展」には「何を残し」、「何を変えていくか」がわかりやすく街に現れている。

よく「住みたい街」と「住みやすい街」という2つの表現が使われることがある。前者には理想として願望が込められた表現であり、後者は現実としての住み心地の良さとしての表現である。勿論、後者の街が高円寺であり、「住み心地の良さ」として賑わいが持続している街である。以前から人を惹きつける意味として「観光地化」というキーワードで街の賑わいを学んできたが、高円寺の場合は「生活しやすさ」としての賑わいで、生活それ自体を楽しめる点にある。例えば、観光地化というキーワードに即して高円寺を表現するならば、「生活のしやすさ」がテーマとなる。デフレが日常化し常態化した時代にあって、デフレを楽しめるような街が高円寺の最大特徴になっているということだ。

残したいものと変えていくもの

ここ数年「未来塾」で学ぶべき主要なテーマは、「何を残し」「何お変えていくのか」であった。俯瞰的な視座に立てば、顧客市場の変化にどう応えていくのかということと同義である。高円寺と同じ中央線に「住みたい街NO1」の吉祥寺という街がある。バブル崩壊後、吉祥寺も大きな変化を受けて百貨店の撤退や家電量販店への転換など大きく街は変化した。(詳細は「街から学ぶ 吉祥寺編」を参照してください)
吉祥寺駅北口前の一等地にはハーモニカ横丁という戦後の闇市の雰囲気を残した昭和レトロな一角がある。武蔵野市の都市計画では再開発の計画が構想されてたが、若い世代の間でそのレトロ感が素敵だと人気の観光スポットになった。それまであった小さな家電販売店などは飲食店へと転換し今日のハーモニカ横丁へと再生された。

実は同じような再生のケースが高円寺にもある。駅北口直近の青果店の裏手にある「大一市場」である。名前は市場であるが小さなL字型の横丁と表現した方がわかりやすい。古くから高円寺に住んでいた人に言わせると吉祥寺のハーモニカ横丁と同様乾物店など昔ながらの商店が入っていたとのこと。
しかし、写真のように現在ではその薄暗い怪しげな雰囲気は残ってはいるものの、ベトナム料理や焼肉店、カレー専門店などアジアの屋台料理店へと変貌したという。

その変化は2000年代始めから始まり、生麺のフォーを提供するベトナム料理の「チョップスティックス」は2003年にオープン。その支店として2014年には吉祥寺にも出店しているのも偶然ではないと思う。(ただし、場所はハーモニカ横丁ではなく、ヨドバシカメらの裏手であるが)
この大一市場をテーマパーク的視点で見ていくならば、若い世代に人気の「アジアの飲食屋台村」となる。
このテーマは既ににあるものの活用であり、周知のように空き家から始まり過疎地まで多くの試みと同様である。少し前の未来塾で取り上げた大阪梅田裏の中崎町における古い民家をリノベーションしたカフェパークや空掘地区における古い家屋の移築やリノーベーションによる観光地化も既にあるものの活用である。そのとき重要なことは「どの顧客」を想定し、「どんなアイディア」を持って変えていくかである。
垣根文化の街

約8年ほど首都圏や大阪の街を歩いて感じることは、賑わいのあるところには賑わいを創る人の息遣いが聞こえてくることであった。例えば、秋葉原がアキバと呼ばれるように、それまでの電気街からアニメやコミックなどのサブカルチャーを求めて街へとやってくるオタク達によって街の表情が変わったように。あるいは、周囲を大型商業施設に囲まれた江東区の砂町銀座商店街のように、「モノマネをしない」という商人の原点ともいうべきポリシーによって「手作り惣菜横丁」とでも表現したくなる商店街には他の商店街とは全く異なるエネルギーを感じる。

ところで、以前日本固有の生活文化を「垣根文化」と呼んだことがあった。もう少し正確にいうならば、垣根というコミュニティ文化のことで 隣を隔ててはいるが、隣家の人と話ができる遮断された垣根ではなかった。それは江戸時代の長屋に似ていて、つまり、長屋という共同体、複数のファミリー の住まい方、生活の仕方にはオープンなコミュニティの考え方が色濃く残っていた。その長屋は開かれたものではあるが、プライ バシーを保ちながら、炊事場や洗濯あるいはトイレなどは共同で使い合う、そんな生活の場であった。そうして生まれたコ ミュニティ発想か生まれ育ったものが「垣根文化」で ある。 数年前から若い世代に流行り始めた「シェアハウス」はいわば先祖返りのような住まい方である。

高円寺という街を歩いて感じたことは、”この街は遮断された塀で作られたものではなく、垣根の街なんだな”というものであった。駅北口の商店街を歩いて1軒の甘味処の店頭写真を撮っていたところ、隣の店の方と思われる人から声をかけられた。昔ながらの甘味処で、甘味の他には稲荷すしなどは定番であったが、その「あづま」にはラーメンがメニューにあり、そんな珍しさの会話をしたが、ラーメンもいいけど白玉あずきが美味しいですよと勧められたことがあった。
また、前述の小杉湯を探していたところ通りがかった若い男性に道を教えてもらおうと声をかけたが、方向が同じだから案内しましょうと親切に応えてくれた。
多くの街を歩いたが、例えば谷根千の谷中ギンザ商店街や原宿竹下通りの多くの店舗では写真撮影は禁止となっている。肖像権の問題やマナーの悪い観光客対策としてであるが、高円寺はオープンな街だなと感じた。

「垣根」は互いに顔が見え、なおかつ会話ができる人間関係の象徴であるが、更に「何か」を進めていくに当たっても垣根文化の発想は高円寺の街に根付いている。その良きケースが「阿波踊り」というイベントである。「高円寺阿波おどり連協会」には30もの「連」が紹介されているが、それぞれ個性あふれる連となっている。この連という発想の源は江戸時代に生まれ、「文化」を広げ継承していく方法の一つであった。江戸時代 の都市部で広がっていた「連」は少人数の創造グループのことを指す出入自由な「団体」のことである。 江戸時代では浮世絵も解剖学書も落語も、このような組織から生まれた。その組織を表現するとすれば、 適正規模を保っていく世話役はあっても、強力なリーダーはいない。常に全員が何かを創造しており、創る人、享受する者が一体であり、金銭が伴わない関係である。勿論、他のグループにも開かれていて出入自由。様々な年齢、 性、階層、職業が混じっていて、一人づつが無名である。そして、常に外の情報を把握する努力をしていて、ある意味、本業をやりながらの「運動体」であり、「ネットワーク」を持った「場」であった。
つまり、高円寺という街はこうした垣根文化の発想によって創られた街であるということだ。ここに、コミュニティ再生の良き着眼がある。

デフレを楽しむ街の意味

「デフレ」という言葉が頻繁に使われるようになったのは1997年以降である。それまでの右肩上がりであった収入が減少へと転じ、当然消費も大きな転換を迎える。その転換を劇的に促したのが「消費税5%」の導入であった。モノの価格が下がり経済全体が収縮していく悪循環を指した言葉であるが、2000年代前半東京にミニバブルが起きた時期はあったものの、今なおデフレは続いている。最近ではデフレという言葉を使わずに長期停滞とか、長期低迷といった言葉で経済を語るようになってきた。
ただ、バブルを経験した世代と平成育ちの若い世代とでは「バブル」の意味や「デフレ」の意味の受け止め方は根本からして異なる。

今から9年ほど前、この若い世代からヒット商品が生まれないことから「欲望喪失世代」と呼んだことがあった。日経MJにおけるヒット商品番付を踏まえ次のようにこの喪失世代の消費をブログに次のように書いたことがあった。

『2010年度もそうであったが、ここ数年前頭程度のヒット商品は生まれるものの、上位にランクされるような若い世代向けのメガヒット商品はほとんどない。1960年代〜70年代にかけて、資源を持たない日本はそれらを求め、また繊維製品や家電製品を売りに世界各国を飛び回っていた。そんな日本を見て各国からはエコノミック・アニマルと揶揄された。1960年代からの高度成長期のいざなぎ景気(1965年11月〜1970年7月/57ヶ月間の年平均成長率11.5%)が象徴するのだが、3C(カラーTV、クーラー、車)と言われた一大消費ブームが起きた。そうした消費欲望の底にはモノへの渇望、生活のなかに多くの商品を充足させたいとした飢えの感覚があった。国家レベルでは資源への飢え、外貨への飢え、多くの飢えを満たすためにアニマルの如く動き回り、個人レベルにおいても同様であった。1980年代に入り、豊かさを感じた当時の若い世代(ポスト団塊世代)は消費の質的転換とも言うべき多くの消費ブームを創って来た。ファッションにおいてはDCブームを始め、モノ商品から情報型商品へと転換させる。情報がそうであるように、国との境、人種、男女、年齢、こうした境目を超えた行動的な商品が生まれた。その象徴例ではないが、こうした消費を牽引した女性達を漫画家中尊寺ゆっこは描き「オヤジギャル」と呼んだ。
さて、今や欲望むき出しのアニマル世代(under30)は草食世代と呼ばれ、肉食女子、女子会という消費牽引役の女性達は、境目を軽々と超えてしまう「オヤジギャル」の迫力には遠く及ばない。私が以前ネーミングしたのが「20歳の老人」であったが、達観、諦観、という言葉が似合う世代である。消費の現象面では「離れ世代」と呼べるであろう。TV離れ、車離れ、オシャレ離れ、海外旅行離れ、恋愛離れ、結婚離れ、・・・・・・執着する「何か」を持たない、欲望を喪失しているかのように見える世代である。唯一離さないのが携帯を始めとした「コミュニケーションツールや場」である。「新語・流行語大賞」のTOP10に入った「〜なう」というツイッター用語に見られる常時接続世界もこの世代の特徴であるが、これも深い関係を結ぶための接続ではなく、私が「だよね世代」と名付けたように軽い相づちを打つようなそんな関係である。例えば、居酒屋にも行くが、酔うためではなく、人との関係を結ぶ軽いつきあいとしてである。だから、今や居酒屋のドリンクメニューの中心はノンアルコールドリンクになろうとしている。』

少々長い再録となってしまったが、生活価値観が根本から異なっていることが分かるであろう。アニマル世代である私が平成世代の消費とまともに向き合って、なるほどなと実感したのは大阪駅ビル「ルクアイーレ」の地下にある飲食街バルチカに若い世代で常に満席状態の洋風居酒屋「紅白(コウハク)」での体験であった。
周知のようにJR大阪駅ビルにおける百貨店売り場(三越伊勢丹)の失敗から、新たなSC(ショッピングセンター)として2015年に誕生したのがルクアイーレである。そのリニューアル後の変化の中で特筆すべき現象を大阪の知人から教えてもらったのが「紅白」であった。若い「離れ世代」には「コミュニケーションと場」が必要であると考えていたが、まさに「紅白」はそうした場そのものであった。欲望を喪失しているのではなく、欲望に沿ったメニューと価格帯、更にはスタイルが用意されてこなかったという実感であった。カジュアルでリーズナブルな店の象徴が「フレンチおでん」で「大根ポルチーニ茸ソース 180円」。その後、バルチカは成功し、フードフロアとして拡大リニューアルしたのは周知のとおりである。

敢えてこうした事例を持ち出したのも、高円寺の街を歩いて感じたのがこの「離れ世代」が住む街であるということであった。大阪のルクアイーレはSCとしての大きなリニューアルであったが、高円寺という街の居心地の良さに共通していることはこの「場」づくりであった。いささか日本語としては意味不明になるかもしれないが、阿波踊りの連に見られるような「出入り自由」な街、銭湯小杉湯の塩谷さんではないが新しい発想に基づく「コト起こし」ができる街、スターバックスはないが多様な好みの生活・スタイルを可能とする街・・・・・・・・そうした「転がる石」を可能にしてくれるコストパフォーマンスの良い街。少々褒め過ぎかもしれないが、高円寺はそんな転がる自由を可能としてくれる街ということになる。このコストパフォーマンスの良い街は大きな再開発事業もなかったことから、時間をかけてじっくり熟成して出来上がった街であるということだ。

行列のない賑わいの街

高円寺をスターバックスのない街という表現をした。数年前、鳥取県は自虐ネタとして”スターバックスはないけれど「スナバの喫茶店」はある”と知事自ら話題としたが、高円寺には自虐ネタとは無縁の街である。敢えて、スターバックスを持ち出したのも、単なる新しさだけの「都市」というスタイルには与しないという意味である。私の言葉で言えば、「行列のない街」となるが、地元の人たちはそれなりの行列ができている街である。つまり、高円寺以外の人たちにとって「話題」となって広域集客する、つまり「隠れた何か」を求めた観光地としての高円寺ではないということである。住んでみないとその良さがわからない街、それが高円寺ということだ。

人が集まる、そうした賑わいには必ず「行列」という形容詞がつく。今から5年ほど前に高円寺で話題となった店の一つが「たまごランチ」の天ぷら専門店の「天すけ」であった。私もそんな話題に惹かれて食べにきたことがあった。当時は「行列店」であったが、今は近隣の人たちとたまごランチを忘れられないフアンで一杯ではあるが当時のような行列はないようだ。賑わいづくりにはテーマを持った観光地化が必要であると指摘をしてきたが、地元住民だけでも十分賑わっている街の一つである。


消費税10%時代の商店街

10月の消費税10%導入に向けた軽減税率やポイント還元策&キャッシュレス推進策などの詳細が公表されるに従って、各社の対応も同時に見えてきた。人手不足や経費増大からコンビニの24時間化に対する課題もあるが、コンビニ市場はほぼ飽和状態にあることもあって、これまでの新規出店という拡大戦略から、既存店の見直しに基づくスクラップ&ビルド戦略へと転換し始めた。ちょうど数年前に牛丼のすき家が24時間店舗の閉鎖による業績悪化と、その後のV字回復の経緯を考えてのことであろう。一言で言えば、足元を今一度見直す、つまり既存店の営業時間やそれまでの労働環境の改善、あるいはシステムを考え直すというものである。(その詳細については過去のブログを参照してください)

ところで街場の商店街はどのように対応すべきか個々の商店会で「売り出しプラン」などが考えられていると思う。高円寺の10の商店街を歩いて感じたことだが、「特別なこと」はあまり考えなくても良い商店街だなというのが素直な感想であった。その理由は高円寺には街場の商人、生業としての商人が商う店が多いなというのがその理由であった。そして、何故か、東北仙台秋保温泉の小さなスーパー「主婦の店 さいち」を思い出した。その「さいち」は家庭で食べるお惣菜を初めて販売したスーパーである。できるだけ人手を減らし、合理化して商品を安く提供するのがスーパーであると考える時代にあって、真逆の経営をしてきたスーパーである。思い出していただけたであろうか。過去のブログにも書いたことがあるがそのインタビュー記事を採録する。(2010年9月21日ダイヤモンドオンラインより抜粋引用)

『絶対に人マネをしないというのがさいちの原則です。マネをしたら、お手本の料理をつくった人の範囲にとどまってしまう。・・・・・先生や親方の所に聞きにいかずに、自分たちで考える。そうすると、自分がつくったものに愛情がわく。自分の子どもに対する愛情と同じです。』

さいちのお惣菜は500種類を超え、多品種・少量ということから、手間がかかり、利益が出ないのではという質問に対しは次のように答えていた。

『全部売ってくれないと困る。そのためには、「真心を持って100%売れる商品をつくるのが、絶対条件ですよ」と、言っています。うちではロス(廃棄)はゼロとして原価率を計算しています。いくら原価率を低く想定しても、売れ残りが出てしまえば、その分、原価率は上がってしまいます。』

こうした経営のあり方を私は「売り切る力」と呼んできた。人手不足の時代と言われ、今やセルフレジが導入され、数年先には特定の業種においては無人店舗でキャッシュレスという時代が来ることと思う。但し、そこには単なる必要に迫られた「売り買い」しかないこととなる。
バブル以降デフレの時代の旗手の一社であったダイソーを当時多くの顧客が支持したのは次の3つの魅力であった。
1.「買い物の自由」;
すべて100円、価格を気にせず買える。買い物の解放感、普段の不満解消。「ダイソーは主婦のレジャーランド」。(現在は200円やそれ以上の商品もあるが、今なお基本は100円である。)
2.「新しい発見」;
「これも100円で買えるの?!」という新鮮な驚き。月80品目新製品導入。(現在ではもっと多く導入となっている)
3.「選択の自由」;
色違い、型違い、素材違い、どれを取ってもすべて100円。

効率さ、便利さ、売る側も買う側もこうしたことばかりを追い求めてきた時代と共に、「人」が介在することによって生まれる豊かな買い物へと、そんな体験からの揺れ戻しが始まっている。都市においても「買い物難民」は存在し、移動販売スーパーがシニア世代の人気となっている。その理由の多くはダイソーのような買い物の「自由」と「会話」を求めてのことによる。

高円寺の特徴の一つとして「安さ=お得」があると書いたが、ダイソーの「100円」を「ワンコイン(500円)ランチ」に置き換えても同じ自由さが高円寺にはある。ちなみに写真は永く地域住民に愛されてきた洋食の「薔薇亭」のメニュー看板である。写真が小さくて見づらいが、カキフライなどは1250円と学生には少し高いが、チキンカツカレーは550円とコストパフォーマンスの良いメニューも用意されている。

豊かな時代、生活の「質」が消費のパラダイム転換のキーワードとなって久しいが、実はこうした小売りの原則は商店街にこそ求められ、そして応えることが商店街の明日を創っていくことになる。3年半ほど前に「未来の消滅都市論」を書いたが、消滅に向かう入り口は人口減少にあるのだが、その予兆は商業に見事に現れてくる。そうした意味で、高円寺という街はコミュニティ再生のモデルケースになっている。多くの人は「消滅」をすべて人口の流出にあると考えがちである。しかし、実は「流出入」という出入り自由な街、阿波踊りの連に見られるような「自由」を楽しむことができること、このことこそがコミュニティ再生の鍵となっていることがわかる。10月に導入される10%の消費税に対し「特別なこと」は必要ないとしたのもこうした理由からである。つまり、高円寺にはこの増税という壁を越える顧客への「自由」と「会話」が根付いている街だからである。(続く)
  


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2019年04月21日

未来塾(36)「賑わい再考・東京高円寺」前半   

ヒット商品応援団日記No734(毎週更新) 2019.4.21.

ここ数年新たな賑わいの芽について大阪の街を取り上げることが多かった。勿論、東京においても新たな賑わい、というより以前からエネルギッシュな活力を見せており気になっていた街がある。JR中央線快速を利用すれば新宿からわずか6分という交通至便な街高円寺を取り上げてみた。



消費税10%時代の迎え方(5)

にぎわい再考
その良き事例から学ぶ(3)

ザ・コミュニティ、東京高円寺
出入り自由な街


高円寺と言えば特筆すべき話題はほとんどなく、せいぜい年に一度ニュースに取り上げられる阿波踊りの街、あるいは劇場やライブハウスなどのサブカルチャーの街として知られている。しかし、街が生き生きとした表情を見せている証明になるかと思うが、実は駅を中心に大規模商店街が10もある。北口には高円寺純情商店街や高円寺あづま通り商店会など、南口には高円寺パル商店街、高円寺ルック商店街などがある。都心に隣接する住宅街で、今なおこれほどの歴史ある商店街がシャッター通り化することなく残っている街は高円寺を置いて他にはない。そして、それら商店街は繋がり、交差する先に住宅地が広がる、まさに駅を起点とした生活と共にある「日常の街」である。

シニア世代にとって高円寺と言えば、やはり詩人・作家であるねじめ正一が描いて直木賞となった『高円寺純情商店街』であろう。ねじめ正一本人の実家の乾物屋と商店街での話が元になった小説で、舞台は昭和30年代の実在する商店街に暮らす人々を描いた下町情緒溢れる作品である。「下町」という呼称は数多く使われているが、高円寺はまさに昭和の「ザ・下町」とでも表現したくなる街である。
ところで「JR時刻表」などの刊行物で知られている交通新聞社に「散歩の達人」という月刊誌がある。主に首都圏の町歩きのガイド雑誌であるが、2年ほど前に「東京ディープ案内」を編集テーマにした雑誌が発刊されたことがあった。東京を深く知るための雑誌で、例えば”センベロ名酒場””町中華の真髄””シビれる銭湯はここだ”といった編集に見られるように「散歩オタク」のための雑誌である。そうしたオタクのメインテーマに「東京ディープ案内  トップ10」の第一位に選ばれたのが高円寺であった。そのディープさについて、怪しい、怖い、濃い、・・・・・・面白すぎる、新しすぎる、古すぎる。つまり、「普通」ではない街ランキングの第一位の街ということである。
ここで言う「普通」ではない街の意味は、そこに住む歴史ある生活文化が色濃く残っている地域のことである。高円寺もそうした普通でない下町の一つであり、ある意味再開発から外れた街、昭和という時代が今なお残っている街、生活臭がいたるところに残っている街、そんな街である。そして、高円寺の特徴の一つとして若い世代を取り込んだ「新しい下町」へと変化してきた歴史と今が見えてくる。そうした意味で、商業の発展を見ていくにはまたとないモデル地区の街である。

スターバックスのない街

当たり前のことだが、街は「人」がつくる。再開発であれ、昔からの歴史を刻んだ街であれ、その街をつくるのは「人」であり「生活」である。
まず杉並区の人口推移を見ていくと世帯数・人口ともに伸長している。更に、年齢構成を見ていくとわかるが、他の区と同様65歳以上の老年人口は増加傾向にあるものの21〜2%程度となっており、一方年少人口(0〜14歳)は10%を超えている。また、特徴的なことは単身世帯の構成が56.3%と高く、住宅も低層階のアパートやマンションが多く、高層タワーマンションなどは極めて少ない、そんな人たちが住む生活の街である。ちなみに、杉並区の20階建以上のマンションはわずか1棟である。
その単身世帯についてだが、東京都全体では45.71% であるのに対し、杉並区は56.46% と比較的高いことがわかる。その対象 エリアを見ていくと、高円寺南1 丁目、2 丁目等の単身世帯の割合は68.67% となっており、区全体の傾向よりも高く、約7 割近くが単身者と いうことがわかる。また、対象エリア内の居住者の年齢構成をみると、20 ~ 39 歳の割合が34.8% と最も高く、約半数を40 歳未満が占めていること から、比較的独身の若い世代が住む街ということだ。
ところで独身者の生活を考える一つの指標に転出入人口がある。ちなみに杉並区の平成27年度における転入人口は48,823人、転出人口は42,712人となっている。同じ中央線の吉祥寺が子育てファミリーに人気であるのに対し、高円寺は単身の若いサラリーマンや学生が好んで住む街で、転居など移動の激しい街ということがわかる。
そして、見事なくらい住む人たちによって街がつくられているのだが、それは生活に必要とされる「商業」として反映される。シャッター通り商店街も、賑わいを見せる商店街も「人」によって創られる。結果、その街がどんな商業によって発展してきたか、その内容を見れば住む人たちの暮らしが見えてくる。ちなみに高円寺にはスターバックスはないが、レトロな個性あふれる喫茶店は数多くある。

生活の匂いがする街

例えば”その街はどんな街ですか”と問われた場合、緑の多い水辺の街とか、近代的でモダンな街並み、あるいは映画の1シーンのような歩いて絵になる街といった表現をすることが多い。しかし、高円寺の街を歩いて感じたのは、街にも固有の匂いがあるということであった。それはビジネス街であれ、住宅地であれ、そこに住む人々、仕事をする人々、移動途中の人々、そうした人々の匂いが街のいたるところに染み付いている。
例えば高層ビル群であるオフィス街の丸の内や大手町のビルの地下街には昔ながらの洋食レストランがあってビジネスマンの空腹を満たす独特な生活の匂いがある。あるいは銀座にもスーパーブランドのフラッグショップが居並ぶビルの谷間にも昭和の匂いをさせた食堂がある。

高円寺には若い世代が集まるサブカルチャーの街、あるいは古着ショップの多い街といったことから下北沢によく似た街であると言われるが、「街の匂い」ということから比較するとまるで異なる匂いのする街であることがわかる。その匂いとは言葉を変えれば、「文化」が醸し出す生活臭の匂いとなる。匂いは絵にはならない、暮らして感じ取るものである。そうした意味で、下北沢はおしゃれなカフェや古着ショップなどインスタ映えするが、高円寺は肌で感じる街と言えるであろう。
杉並区はタワーマンション1棟が示しているように、首都圏では最近人気となっている恵比寿や江東区豊洲、あるいは武蔵小杉といった「新しい都市生活」を楽しむライフスタイルを提供する街とは異なり、古くからの街とそこに新たに住む人が好む暮らしに必要なものが加わっていく。そんな新陳代謝のある、ある意味街の成長のモデルにもなり得る街である。それはJR高円寺駅を中心に広がる商店街を見ても分かるように、そのほとんどはシャッター通りとは無縁の賑わいを見せている。しかも、商店街にはいわゆる全国チェーン店も見かけるが、地元高円寺では知られた店々ではあるものの、そのほとんどが全国的には無名の店ばかりである。

「雑」が溢れる面白さ

「雑」とは雑然・雑踏・複雑・乱雑・猥雑(わいざつ)といった人間の持つ自然体を表したいわばまとまらない面白さ、整然としていない居心地感、悪く言えば粗雑ないい加減さのある街、それが高円寺である。「雑」の反対語ではないが、「純」とは真逆の構えない、ありのままの自然体、いやリラックスした日常で居られる世界、「素」のままで居られる心地よさ、そんな表現がふさわしい街である。
何故、そんな「雑」な街が出来上がったのか、それは旧住民と新住民が混在しているからに他ならない。どんな人間も受け入れる懐の深い街といったらカッコは良すぎるが、「雑」はそんな街にふさわしい。多くの商店街がシャッター通り化しているのに比べ、街の成長・賑わいにこの「旧」と「新」がバランスよく作られていることが分かる。

少し前の未来塾「エスニックタウンTOKYO」では新宿百人町の通称「イスラム横丁」や池袋北口の「チャイナタウン」、あるいは高田馬場の「リトルヤンコン」を取り上げたことがあった。訪日外国人が新たに創った街についてである。訪日観光客ではなく、留学生や研修生、あるいは労働ビザを取得した訪日外国人の暮らしを満たす街である。そこから生まれたものとしては、新宿イスラム横丁では「ハラル料理」であり、池袋チャイナタウンでは「ネイティブチャイナ料理」、リトルヤンコンでは「モヒンガーを始めとしたミャンマー料理」となる。
訪日外国人が集まるコミュニティと共に、日本人にとっても特異なエスニック文化を体験できる街となっている。以前からこうした特異な専門店は東京にはあったが、「街」としては初めてである。これがエスニックタウンと言う「雑・都市TOKYO」の面白さである。
もう一つ雑の面白さとして取り上げたのが闇市から一大商業観光地へ発展した上野アメ横である。「地球の胃袋 雑エンターティメント」と言うタイトルでこれも未来塾でレポートしたことがあった。上野アメ横については周知のことでこれ以上書くことはないが、実はこうした雑食文化はある意味古くから日本にはあるもので特筆すべきものではない。

つまり、雑・都市である東京の面白さと言うことになる。そもそも江戸時代から江戸は「参勤交代」で知られているように日本全国から武家大名が集まった都市である。話す言葉も文化も異なる地方出身者,それも単身者が集まり120万人にも膨れ上がった都市、それが江戸であった。その江戸にはそうした単身者向けのビジネスが損料屋(レンタルショップ)を始め夜鳴きそばで知られる屋台といった外食産業が大いに流行った都市である。こうしたビジネスは京都や大阪にはなかったことを考えると、東京はその歴史を見ても分かるように独自な「雑」集積都市であることが分かる。中でも中央線沿線、高円寺はそんな「雑」が溢れる街である。

育てる「雑文化」の街

高円寺というとサブカルチャーの街として知られているが、その多くは下北沢と同じ小劇場、小劇団、アーチストやミュージシャンの卵たちが集まるそんなことを指している街のことである。まだ磨かれている途中のゴツゴツとした「小さな」個性が雑然とうもれている街のことでもある。
あの作詞家阿久悠は大ヒット曲「津軽海峡・冬景色」を18歳の少女であった石川さゆりに歌わせたが、晩年「転がる石」という曲を歌わせている。自分も転がる人生であったし、転がることを嫌がって、立場や過去に囚われてしまったら、苔むす石になってしまう、後年自分も石川さゆりも転がり続けてきたと語っていた。ちなみに「転がる石」は次のような歌詞であるが、そんな転がる石たちが高円寺周辺にいくつも見出すことができる。

転がる石はどこへ行く、
転がる石は坂まかせ、
どうせ転げていくのなら、
親の知らない遠い場所・・・・・

勿論、東京は多くの地方出身者が集まる街である。「一極集中」は今始まったことではなく、日本の高度経済成長を支えたのも地方の中学生で就職列車で上京した。その集団就職の風景は映画「Always三丁目の夕日」に描かれている。今は集団就職列車ではなく、個人の夢を乗せた夜行バスで上京するのだが、そんな夢追い少年少女を温かく迎えてくれた街の一つが高円寺であった。

そんな上京した一人がエッセイを始めとしたマルチな活動を行なっている「みうらじゅん」であろう。もともと京都出身のみうらじゅんは着いた東京駅から中央線に乗って高円寺に来たと語っているように便利でわかりやすい街ということであった。そして、高円寺のアパートで仕事をするのだが、糸井重里氏の勧めもあってわずか1年半ほどで原宿へと引っ越しをする。しかし、以降もその居心地の良さもあって様々なところで高円寺を語り、特に当時ほとんど知られていなかった「インド雑貨」を広め、雑文化カルチャーの騎手となる。そのみうらじゅんの活動は極めて幅広く、上京当時は雑誌「ガロ」に投稿した漫画家であったが、以降エッセイスト、小説家、イラストレーター、DJ、あるいはミュージシャンなど多彩な才能を発揮する人物である。まさに雑多なカルチャーを身にまとったマルチタレントと呼ぶにふさわしいアーチストである。

暮らしやすさの第一は物価の「安さ」

新宿から数分という便利さから家賃相場は決して安くはない。一人暮らしであれば8万円前後の物件が多いが、駅から離れれば5万円といった家賃のアパートも結構ある。そんな高円寺での暮らしに不可欠なのが、やはり物価であろう。その物価の優等生といったら卵ともやしとなるが、暮らしやすさの優等生としては何と言っても高円寺である。これまで江東区の砂町銀座商店街やハマのアメ横興福寺松原商店街など多くの激安商店街をブログにて公開してきたが、「街」としては高円寺となる。

高円寺は激安の象徴であるような小売業、スーパーマーケットがいくつかある。世界の巨大流通業であるエブリデーロープライスをポリシーとするウオルマートの傘下に入ったDS西友、そのウオルマートを見に行かなくても日本ですでに実践しているDSオーケー。更に、業務スーパーもあり、勿論100円ショップのダイソーもある。そして、普通でない高円寺にはそうしたディスカウントストアチェーンに負けない地域小売店が多くある。駅北口近くには昔ながらの駅前の高野青果店や行列の絶えないジャンプといった精肉店もある。

こうした安さを売り物とした生鮮三品の他に単身者向けの飲食店が極めて多い街である。ワンコインという言葉が流行るはるか前から、高円寺では500円で空腹を満たすことができる飲食店は特別な店ではなかった。つまり、普通の店として理解されてきた。「高円寺、500円ランチ」というキーワードでネット検索してみるといかに多くの飲食店が出てくるかがわかる。
そうした飲食店の代表的な店の一つがハンバーグをメインとした老舗洋食店の「ニューバーグ」であろう。人気メニューはサービスセット(570円)で、ハンバーグ、コロッケ、ポテト、スパゲッティ、目玉焼き、サラダ、味噌汁、ライスがついている。ちなみに、ハンバーグランチであれば、確か470円であったと思う。

もう一軒挙げるとすれば阿佐ヶ谷方向へ少し歩いた高架下にある食堂タブチであろう。定食を始めなんでもある食堂であるが、ここの名物は何と言っても牛丼&カレーである。山盛りライスにはこれでもかと牛丼とカレーがかけられていて1日分の摂取カロリーはこれで十分といったメニューである。お腹を空かせたアルバイト学生には嬉しい一品である。値段は650円、カレーだけだと確か400円であったと思う。日替わりランチは560円であった。
他にも南口から数分のところにある中華料理 味楽もそうしたボリューム、味、価格を兼ね備えた人気である。ランチと言えば山盛りのライスにアジフライや目玉焼きなど・・・・・これで450円。

このように書いていくと「安さ」だけが売り物の街のように考えがちであるが、多様な「好み」に応じた店も多くある。例えば、今流行りの高級食パンであるが、ここ高円寺にもそうした食パン専門店はある。北口から歩いて5分ほどの庚申通り商店街にある「一本堂」である。1斤330円程度で少しだけ安い価格となっている。また安さだけでなく、南口から少し歩くが新高円寺近くにはウサギ型の食パンを販売し話題となっているベーカリー兎座LEPUSがあるが、ここもウサギ型食パン1斤300円と手頃である。

サブカルの街と言われて


サブカルの街と言われる高円寺であるが、杉並区がつくった区立杉並芸術会館(「座・高円寺1」、「座・高円寺2」、「阿波おどりホール」の3つのホール等を有する施設)を母体とした活動で、その誕生は10年ほど前で新しく、下北沢の本多劇場の歴史とは異なる。
周知のように本多劇場の誕生は元映画俳優本多一夫氏が飲食店を開店することから下北沢における演劇の街が始まる。そして、1981年最初の劇場「ザ・スズナリ」を開場する。ある意味、大手劇団俳優座などの表舞台とは異なったサブカルチャー文化、その第一次演劇文化が下北沢であったのに対し、座・高円寺は第二次演劇文化となる。

この区立芸術会館には「阿波おどりホール」があり、高円寺という街のユニークさはこうした「市民文化」の街としての側面が見えてくる。阿波踊りの歴史は古く、昭和32年8月。現在の高円寺パル商店街振興組合に青年部が誕生したことから始まる。いわゆる町起しであるが、スタート当初は徳島の阿波踊りを真似た「高円寺ばか踊り」であった。古くから言われてきたことだが、町おこしには3人の「人」の力が必要であると。若者、よそ者、馬鹿者の3人である。まるで絵に描いたようにこの3者によって阿波踊りを含め高円寺文化も創られてきている。阿波踊りは次第に「本場」の踊りへと向かい、その規模も大きくなり、今や100万人もの観客を集めるまでになったように、商店街を中心にした今で言うところの「参加型」イベントとなった。
実はこの「参加」による文化創造が区立芸術会館を造らせたと言っても過言ではない。

「座・高円寺1では多くの小劇団の公演も行われているが、その最大特徴の一つが「劇場創造アカデミー」にある。劇作家、演出家、俳優、映像オペレーター、批評家から劇場経営まで演劇に関する全てを学ぶアカデミーである。アカデミーのコースには1年制と2年制の2つがある。このアカデミーの講師を始め、「座・高円寺1の創設には、あのアンダーグランドと言われた自由劇場創立者の一人である佐藤信氏が助力されており、「演劇文化創造」の起点となっている。
下北沢が本多氏による文化創造であるのに対し、高円寺の文化創造は誰でもが携われる、触れることができる「街ぐるみの文化」を目指していると言えよう。

高円寺のもう一つの「文化」がライブハウスである。私は一時期沖縄のライブハウスオタクになり、沖縄の主要なライブハウスを一通り楽しんだことがあった。三線を使った沖縄民謡のライブハウスとエレキギターによるオールディズの2つのライブハウスに大別されるが、琉球大学の学生による三線を使った今風のオリジナル曲を演奏するミュージシャンの卵たちもいて、沖縄料理の居酒屋の片隅で演奏していたことを思い出した。
ところで高円寺のライブハウスであるが、古い歴史ある「ペンギンハウス」というライブハウスに行ってみた。場所はといえば、駅北口の純情通り商店街から突き当たりを左に曲がったところの庚申通り商店街のビルの地下にある小さなライブハウスである。駅からわずか数分、生鮮スーパーや飲食店が立ち並ぶ人通りの多い庚申通りにある。後で気がついたのだが、以前天ぷらの店でたまごランチが話題になった「天すけ」の近くにあり、通り過ぎてしまうようなビルの地下であった。商店街にあるライブハウスで、毎日3組ほどのミュージシャンの卵が演奏してくれる。前述の「転がる石」の若者たちで、上手い下手ではなくこれも「時代の今」を感じさせてくれている。

街全体が「文化の売り出し」

昨年の12月から今年の3月にかけて数回高円寺の街を歩いたが、阿波踊りのような大きなイベントではなく、各商店街で小さなイベントが行われている。例えば、昨年秋には純情商店街では「ビックり市」が行われたり、隣の庚申通り商店街では日光猿軍団のイベントが行われる。各商店街が高円寺フェス実行委員会のもとで小さな売り出しを含めたイベントが一斉に行われる。3月には「高円寺演芸まつり」として小さな落語会が行われていた。
こうした各商店街のイベントの根底には廃れつつある商店街をなんとかしたいと立ち上がった「ばかおどり(阿波踊り)」の歴史が継承されているからであろう。結果、街を歩けば面白い何か、楽しい何か、新しい何かに出会える、そんな街全体がアミューズメントパークであるかのような街がつくられている。

新しい生活文化としての銭湯

高円寺の街巡りを始めて数ヶ月経ったそんな時期に、よく見るTV番組「情熱大陸」に一人の若い女性が取り上げられていた。16年末から銭湯の建物内部を俯瞰図で描く「銭湯図解」シリーズをツイッター上で公開し、話題となった28歳の塩谷歩波(えんや・ほなみ)さんである。小杉湯の店主の勧めもあって、番頭になり週に何回か店にも来ているようだ。その小杉湯は高円寺で80年以上愛されている銭湯である。周知の通り、銭湯は衰退業種と言われ今なお廃業が続いているが、一方銭湯オタクも多く人気銭湯の一つが小杉湯である。駅北口から庚申度りを5分ほど歩いたところの少々分かりにくい住宅地にある小さな銭湯である。入り口には小杉湯だけの「ミルク風呂」との看板がかかっており、次回高円寺に来るときには体験してみようと思った。

冒頭で高円寺は「新しい下町」という表現をしたが、その一つがこの小杉湯であろう。その「新しさ」とは銭湯の楽しみ方であると同時に、その楽しさの伝え方にある。塩谷さんが大学の時建築を学んでいたこともあって、自ら体験した銭湯の図解をイラストで表現し、ツイッター上で公開するといった新しさである。
その代表的な楽しいイベントとして昨年6月に行われたのが小杉湯×フィンランド『 夏至祭 - Midsummer Festival - 』であろう。「銭湯と公衆サウナ」をキーワードに、日本とフィンランドの違いや、それを形作るフィンランドの文化、公衆浴場が形づくる豊かさを伝えるイベントとのこと。HP上のイベントを図解したイラストを見る限り、銭湯の浴室と屋外のサウナ、さらには物販店までもが用意されており、新しい着眼による「銭湯文化」、楽しみ方となっている。このイベントの背景には小杉湯が「交互浴の聖地」、暖かい湯と冷たい水を交互に入る入浴の聖地と呼ばれ、銭湯オタクにはたまらない「場」になっていることがわかる。
更に面白いイベントも行われている。その一つが昨年8月に行われた「いどばたアート in 小杉湯」で、「触れるアート、話せる空間」をテーマに、発泡ビーズが入った銭湯の浴槽に着衣のまま入浴するアートコンテンツを用意。参加者同士がコミュニケーションできる空間を演出するといったイベントである。

もともと江戸時代に生まれた銭湯はコミュニティにおける社交の場で、江戸っ子の銭湯好きは大変なもので「銭湯の出前」まであったほどである。こうした新しい発想による銭湯文化の創造も高円寺ならではのものであろう。
一時代を創ったスーパー銭湯も「スーパー銭湯のアイドル純烈」といったエンターティメント志向と東京鶯谷にある巨大銭湯「萩の湯」ではネパール人店長による本格カレーが人気であるように、「次」の温浴施設の試みがなされている。高円寺小杉湯は「入浴」という基本を時代に合わせてどのように変化発展させていくのか、そんな銭湯の本道を歩んでおり、これも一つの生き方であろう。

「個族」の暮らし

「個族」という言葉を使ったのは今から11年半ほど前に「個族の居場所」というタイトルでブログに書いたの最初であった。俯瞰した視座で時代を見ていくならば、個人化社会の進行と共に、社会の単位も家族から個人へと変化したことによって生まれたキーワードである。
高円寺の街について若い単身者の街であると書いたが、私の言葉で言えば「個族」の暮らしを支える環境があるということである。小さなバスタブやシャワーだけの狭いアパートの暮らしに対し、銭湯小杉湯もそうした個族の暮らしをひととき豊かにしてくれる場となっている。
他にも前述の500円ランチに代表される飲食店のように多種多様な好みに合わせ、デフレを満喫できる街ということができる。しかも、深夜時間まで営業している店も極めて多い。人手不足の時代から、深夜営業をやめたり撤退する店もある中で、高円寺には深夜営業店が極めて多い。勿論、需要と供給がバランス良く深夜営業店が営業できているということであろう。中でも高円寺の地元で愛されてきている沖縄料理の「抱瓶 (ダチビン)」は朝5時まで営業している。(後半へ続く)










  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:36Comments(0)新市場創造

2019年04月04日

ことば遊びのすすめ 

ヒット商品応援団日記No733(毎週更新) 2019.4.4.

新元号が決まった。その元号「令和」の「令」と「和」は万葉集の序文からのものであると説明がなされた。それまでの中国の漢詩などからのヒントの他に日本の古典からも広く典拠する方針に沿ったものであった。日本の古典からの典拠案に決まるであろうと考えていたが、予測通りであった。元号選定の有識者の多くが日本の古典、国書からの典拠による元号に賛成であったと報じられている。国書であれば、古事記という最古の古代日本人が考え創造した「文学」も検討されたと思う。元号が発表されてから万葉集ブームが起こり、出版不況の中にあってまるで神風が吹いた如くのブームが起きている。

ところで日本語の誕生の時期はいつ頃であるかというと専門家によって若干違うものの、漢字が中国から朝鮮半島から渡ったのは紀元前2世紀頃で、日本語としての完成は、万葉仮名と略された片仮名(カタカナ)が生まれ、どこから見ても漢字ではない文字・平仮名(ひらがな)が生み出されたとき、日本語(和語)が本当に始まったと言われている。そして、平安中期からから全国へと普及し、鎌倉~室町時代、戦国時代へと、武士階級から農民へと広がっていった。実は、ながながと日本語の歴史を簡略化したのも、日本語は漢字・カタカナ・ひらがなを持ち、漢字は音と訓を持つ。しかもその漢語の意味も音ももはや中国語ではなく、かつ日本語も固有語の影を残しながらも形成されて来たものである。にもかかわらず、外来(漢意=漢字)と固有(和心=ひらがな)の匂いをなお持ち続け、一つの文字を二つに読み分ける世界唯一の稀有な言語が日本語である。日本人はわからない民族だとよく言われるが、日本語の複雑な構造、文化の構造を理解するには日本人ですら少なくなっている。
万葉集はその名の通り万葉仮名で書かれた和歌であり、日本人の瑞々しい感性に触れるには良き書である。日本語が乱れていると若い世代を揶揄しがちであるが、時代を映し出した新しいことば遊びから生まれる感性もあり、それは万葉集にも通じるものである。新元号を一つの機会として、日本語のもつ魅力・文化を再認識、勉強する人も出てくるであろう。

万葉集を始め和歌を詠むといった貴族文化は一つの季節行事として残ってはいるが、庶民が本格的に言葉遊びを楽しみ始めたのは江戸時代の川柳であった。初代柄井川柳(からいせんりゅう)が始めたものだが、庶民の誰でもが参加できるように前句というお題に対し、それに続く句を詠む遊びである。日曜日の夕方日本テレビ系列の「笑点」を見ている方は分かると思う。この前句から続く後の句が独立したのが「川柳」である。連歌の練習としてスタートしたが、懸賞募集をしたことから庶民へと広まったと言われている。今は第一生命がスポンサーとして、同じように募集しているのが「サラリーマン川柳」である。時代の雰囲気、世相をおもしろおかしく、ユーモアたっぷりに句が作られており、好きな人も多くいると思う。例えば、2018年度の第一位は次のような句であった。
◆  スポーツジム 車で行って チャリをこぐ
和歌はどちらかと言えば宮廷文化であるのに対し、川柳は庶民文化の一つである。もっと簡略化していうならば、駄洒落を含めた言葉遊びの時代として考えた方が良い。
しかも、川柳はくすっと笑える、そうそうとうなづける表現形式である。明日が見えないそんな不安ばかりが増幅されている時代、長期停滞の経済日本にあって、顧客のこころの扉を開けるにはユーモア、遊び感覚こそ必要となっている。以前、「標準語から方言へ」というテーマでブログを書いたことがあったが、この方言をうまく使ったのは吉本の芸人が使う大阪弁であり、元宮崎県知事の東国原氏の「どげんかせんといかん」発言が流行語大賞になったように、ある意味で標準語に対するカウンターカルチャーとしての方言だ。最近では人気のサンドイッチマンやU字工事も同様で、地方出身者の漫才である。つまり、今流行っているものに対し、「アンチ」「反」「逆」を行ってみようということである。

かなり以前に話題になったことだが、福岡のもんじゃ焼きの店で出した「こどもびいる」なんかはまさに遊び感覚、駄洒落気分でやった良き事例である。実はアルコール度ゼロの泡の出るガラナジュースという「びいる」である。当時もちょっと笑える話題の商品であった。
洒落は今で言うオシャレの語源で気の利いたことを指し示す言葉であるが、洒落に「駄」をつけると何か低級でセンスの無さを感じてしまうが決してそうではない。江戸時代上方から江戸に伝わってくるものを「下りもの」と呼んで珍重していたが、いつしか対抗して江戸の文化が生まれてくる。江戸文化の研究者の方から指摘を受けるかもしれないが、洒落に対する駄洒落は一種のカウンターカルチャー(対抗文化)のようなものと私は理解している。上方の押し寿司に対し、江戸ではにぎり寿司が生まれたように、文化という「違い」を楽しむ時代になってきている。その文化発祥の地である上方、大阪には商いの楽しさ、面白さの原型が今なお残っている。それはおもしろがりの精神によるもので、例えばなんばグランド花月の裏路地にあるうどん店「千とせ」の名物は「肉吸い」といううどん抜きの肉うどんである。あるいは南船場にある元祖きつねうどんの「うさみ亭マツバヤ」には「おじやうどん」といううどんとご飯のおじやを両方楽しめるメニューがある。前述の「こどもびいる」も同様で、しかも福岡にあるもんじゃ焼きの店のドリンクである。こうしたおもしろがりから生まれたメニューこそ求められている。

成熟時代のビジネスは、どのように顧客の「こころを動かす」かが最大のテーマとなった。その心の動きはSNSの「いいね」という共感の言葉で評価され結果が出る時代である。しかし、何故「いいね」なのか、ツイッターの文字数が140から280文字まで増やされても意味を深めることはできない。(日本語・中国語などは現在のままである)
作家五木寛之は鬱状態の自分に対し、『人は「関係ない」では生きられない』とし、「あんがと(ありがとう)ノート」を書き、鬱状態から脱したと著書「人間の関係」(ポプラ社刊)で書いている。人間の成長は4つの段階で変わっていく。幼少期から少年期には「おどろくこと」で成長し、やがて「よろこぶ」時代を過ごす。そして、ある時期から「かなしむ」ことの大切さに気づき、しめくくりは「ありがとう」ではないかと。
五木寛之の言葉を借りれば、ビジネスであれなんであれそこには必ず「人間」が介在し、「言葉」が発せられる。そして、その「人間」に不可欠なものとして「泣き」「笑い」と言う2つの情動がある。心を動かす情動は言葉によってであり、言葉として発せられてはいない沈黙ですら、沈黙の言葉として人の心を動かす。
そして、欧米諸国からは「日本病」と言われているように長期停滞という鬱の時代はこれから先も続くであろう。残念ながら新元号の時代になっても、鬱という不透明、不確かなモヤモヤ時代は続く。そのためにも時間をかけて創られてきた文化、そうした言葉の持つ力を持ってコミュニケーションしなければならないということだ。商品のみならず、店頭も、人も、少し広げれば街も、「いいね」の先を語る時代が来たということである。(続く)
  
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