2010年03月17日
キョロキョロ消費文化論
ヒット商品応援団日記No451(毎週2回更新) 2010.3.17.
好きな沖縄に行っていたのでブログの更新に一週間ほど経ってしまった。ところで、前回も相対立する異なる消費、例えばヘルシー系とガツン系を行ったり来たり、振り子のように揺れる消費の様を書いてきた。昨年のヒット商品の最大特徴であった過去回帰型消費、歴史回帰型消費も、過去と今を行ったり来たりする消費である。インターネットで人気の「脱出ゲーム」も、イベント「リアル脱出ゲーム」のチケット入手が困難であるように、仮想と現実、デジタル世界とアナログ世界を行ったり来たり、といった振り子型消費である。古くは古民家ブームのように洋スタイルから和スタイルへ行ったり来たり、あるいは週末の田舎暮らしのように都市と田舎の行ったり来たりも同様である。
何故、こうした振り子のように行ったり来たり現象が起きるかである。以前、和と洋が振り子のように振れる様を「日本の思想」という名著を書いた丸山真男の考えを基に、日本の精神文化の特殊性を「雑居文化」によるものであると、私はブログに書いた。例えば、戦争といった大きな事件に遭遇すると、雑居であるが故に突如として日本古来の思想へと先祖帰りする。何千年として受け継いで来た自然思想、仏教思想と明治維新後の外来近代思想とが並列同居し、一つの文化にまでなっていないという指摘で、何かがある度に振り子のように振れるということである。
つまり、内側に明確な物差し、標準を持たないということである。常に外側を意識し、それによって動かされる。丸山真男はそんな日本人の精神構造を指して、外ばかりを「キョロキョロ」していると指摘していた。今風の消費に置き換えるとすれば、例えば皆が良いと言っているからといったランキング信仰から取り敢えず第一位のものは試してみよう、あるいはマスコミから流される断片情報から「わけあり商品」の「わけ」を試してみよう、そんな外側にあるブーム(=雰囲気・空気感)に乗り遅れまいとする精神文化である。だからブームは一瞬の内に終わるのである。
ある意味、KY語という社会現象はそうした精神性を良く表している。かなり前から高校生の仲間言葉として使われていたものだが、コミュニケーションスピードを上げるために圧縮・簡略化してきた一種の記号である。特に、ケータイのメールなどで使われている絵文字などもこうした使われ方と同様であろう。こうしたコミュニケーションは理解を促し、理解を得ることにあるのではない。「返信」を相互に繰り返すだけであると指摘する専門家がいるように、実は一方的なコミュニケーションである。
もう一つの背景が家庭崩壊、学校崩壊、コミュニティ崩壊といった社会の単位の崩壊がある。つまり、バラバラになって関係性を失った「個」同士が「聞き手」を欲求する。つながっているという「感覚」、「仲間幻想」を保持したいということからであろう。裏返せば、仲間幻想を成立させるためにも「外側」に異なる世界の人間を必要とし、その延長線上には「いじめ」もある。これは中高生ばかりか、大人のビジネス社会でも同様に起こっていることだ。外の誰がをいじめることによって、「仲間幻想」を維持するという構造である。この構造は今流行っているツイッターも同じである。
外を気にしてキョロキョロしていると書いたが、それらが全て悪い訳ではない。とにかく新しいものを取り入れてみる、学べるものは学んでみる、そうした無防備とも言える進取性こそが今日の日本を創ってきた。あのトヨタ自動車がGMを抜いてNO1となったが、その本音はNO2のままでいたかったことに象徴されている。NO1は世界の自動車業界の標準を創造し、お手本を示さなければならないからだ。最早、トヨタには学ぶべき「外」、比較すべき「外」がないということである。今後のトヨタはプリウス問題を筆頭に「正しい未来」を語らなければならないということだ。つまり、トヨタ標準が世界標準になったということである。
さて、消費に戻るが、丸山真男が指摘した太平洋戦争という大事件に遭遇した日本知識人の変容、先祖帰りほどではないが、昨年のヒット商品の多くが過去回帰、歴史回帰によるものであった。その背景を「時代転換の踊り場」と私は表現してきた。次に進むために踊り場で「外」へ「過去」へとキョロキョロ見回しているということである。生活者の視点に立てば、10年で年収100万円減少した時代における生活の見直し学習、標準という物差しを求めた学習、これが巣ごもり生活の本質である。ここから多くのヒット商品が生まれてきたことは、私のブログを読んでいただいている読者にとっては周知の通りである。そして、昨年末ブログに書いたように、今エコライフ元年を迎えている。国も、自治体も、勿論生活者も収入が減少した時代に沿って、エコロジーの基本である「無駄を減らし」、結果「エコはお得」な世界を創り始めたということである。これも学べるものは学んでいこうとするもので、「外」からの学びは時として「外」が持っている技術や知識を超えた副産物、予想外の発見を得ることが出来るものである。そうした意味を含め、エコライフ元年と私は呼んだのだが、今後この副産物、予想外の発見によるヒット商品が誕生する。
つまり、振り子の中心点の一つがエコライフという仮説である。そして、更に言うと、雑居文化的消費から雑種文化的消費へと向かうであろうという仮説でもある。確か1年ほど前に日経MJにも取り上げられていたレタスなどの葉もの野菜のハイテク「野菜工場」もその一つである。環境に優しいLED技術による光と無農薬農法から学んだ水耕栽培による野菜工場である。工場は空き店舗や空き工場を活用し、全国へと展開していくとのことであった。そして、このソフト&ハードといった全体システムを一つのビジネスフォーマット化し、輸出も考えていると聞く。輸出先は砂漠地帯のカタールなどと聞いている。
中国冷凍餃子事件に端を発した食料自給率の改革、それに伴う国内の消費需要に応えることがこのビジネスを後押しした。安心安全を目標としたハイテク&ローテク、共に自前の技術と経験による野菜工場は、日本の知恵と技術による雑種文化のたまものである。「外」にはない、逆に「外」から高い評価を受け始めている新しい産業の芽である。これもクールジャパンの一つになるであろう。日本人がキョロキョロ外を見ている時、世界はどこにも無い素晴らしさを高く評価しているということだ。(続く)
好きな沖縄に行っていたのでブログの更新に一週間ほど経ってしまった。ところで、前回も相対立する異なる消費、例えばヘルシー系とガツン系を行ったり来たり、振り子のように揺れる消費の様を書いてきた。昨年のヒット商品の最大特徴であった過去回帰型消費、歴史回帰型消費も、過去と今を行ったり来たりする消費である。インターネットで人気の「脱出ゲーム」も、イベント「リアル脱出ゲーム」のチケット入手が困難であるように、仮想と現実、デジタル世界とアナログ世界を行ったり来たり、といった振り子型消費である。古くは古民家ブームのように洋スタイルから和スタイルへ行ったり来たり、あるいは週末の田舎暮らしのように都市と田舎の行ったり来たりも同様である。
何故、こうした振り子のように行ったり来たり現象が起きるかである。以前、和と洋が振り子のように振れる様を「日本の思想」という名著を書いた丸山真男の考えを基に、日本の精神文化の特殊性を「雑居文化」によるものであると、私はブログに書いた。例えば、戦争といった大きな事件に遭遇すると、雑居であるが故に突如として日本古来の思想へと先祖帰りする。何千年として受け継いで来た自然思想、仏教思想と明治維新後の外来近代思想とが並列同居し、一つの文化にまでなっていないという指摘で、何かがある度に振り子のように振れるということである。
つまり、内側に明確な物差し、標準を持たないということである。常に外側を意識し、それによって動かされる。丸山真男はそんな日本人の精神構造を指して、外ばかりを「キョロキョロ」していると指摘していた。今風の消費に置き換えるとすれば、例えば皆が良いと言っているからといったランキング信仰から取り敢えず第一位のものは試してみよう、あるいはマスコミから流される断片情報から「わけあり商品」の「わけ」を試してみよう、そんな外側にあるブーム(=雰囲気・空気感)に乗り遅れまいとする精神文化である。だからブームは一瞬の内に終わるのである。
ある意味、KY語という社会現象はそうした精神性を良く表している。かなり前から高校生の仲間言葉として使われていたものだが、コミュニケーションスピードを上げるために圧縮・簡略化してきた一種の記号である。特に、ケータイのメールなどで使われている絵文字などもこうした使われ方と同様であろう。こうしたコミュニケーションは理解を促し、理解を得ることにあるのではない。「返信」を相互に繰り返すだけであると指摘する専門家がいるように、実は一方的なコミュニケーションである。
もう一つの背景が家庭崩壊、学校崩壊、コミュニティ崩壊といった社会の単位の崩壊がある。つまり、バラバラになって関係性を失った「個」同士が「聞き手」を欲求する。つながっているという「感覚」、「仲間幻想」を保持したいということからであろう。裏返せば、仲間幻想を成立させるためにも「外側」に異なる世界の人間を必要とし、その延長線上には「いじめ」もある。これは中高生ばかりか、大人のビジネス社会でも同様に起こっていることだ。外の誰がをいじめることによって、「仲間幻想」を維持するという構造である。この構造は今流行っているツイッターも同じである。
外を気にしてキョロキョロしていると書いたが、それらが全て悪い訳ではない。とにかく新しいものを取り入れてみる、学べるものは学んでみる、そうした無防備とも言える進取性こそが今日の日本を創ってきた。あのトヨタ自動車がGMを抜いてNO1となったが、その本音はNO2のままでいたかったことに象徴されている。NO1は世界の自動車業界の標準を創造し、お手本を示さなければならないからだ。最早、トヨタには学ぶべき「外」、比較すべき「外」がないということである。今後のトヨタはプリウス問題を筆頭に「正しい未来」を語らなければならないということだ。つまり、トヨタ標準が世界標準になったということである。
さて、消費に戻るが、丸山真男が指摘した太平洋戦争という大事件に遭遇した日本知識人の変容、先祖帰りほどではないが、昨年のヒット商品の多くが過去回帰、歴史回帰によるものであった。その背景を「時代転換の踊り場」と私は表現してきた。次に進むために踊り場で「外」へ「過去」へとキョロキョロ見回しているということである。生活者の視点に立てば、10年で年収100万円減少した時代における生活の見直し学習、標準という物差しを求めた学習、これが巣ごもり生活の本質である。ここから多くのヒット商品が生まれてきたことは、私のブログを読んでいただいている読者にとっては周知の通りである。そして、昨年末ブログに書いたように、今エコライフ元年を迎えている。国も、自治体も、勿論生活者も収入が減少した時代に沿って、エコロジーの基本である「無駄を減らし」、結果「エコはお得」な世界を創り始めたということである。これも学べるものは学んでいこうとするもので、「外」からの学びは時として「外」が持っている技術や知識を超えた副産物、予想外の発見を得ることが出来るものである。そうした意味を含め、エコライフ元年と私は呼んだのだが、今後この副産物、予想外の発見によるヒット商品が誕生する。
つまり、振り子の中心点の一つがエコライフという仮説である。そして、更に言うと、雑居文化的消費から雑種文化的消費へと向かうであろうという仮説でもある。確か1年ほど前に日経MJにも取り上げられていたレタスなどの葉もの野菜のハイテク「野菜工場」もその一つである。環境に優しいLED技術による光と無農薬農法から学んだ水耕栽培による野菜工場である。工場は空き店舗や空き工場を活用し、全国へと展開していくとのことであった。そして、このソフト&ハードといった全体システムを一つのビジネスフォーマット化し、輸出も考えていると聞く。輸出先は砂漠地帯のカタールなどと聞いている。
中国冷凍餃子事件に端を発した食料自給率の改革、それに伴う国内の消費需要に応えることがこのビジネスを後押しした。安心安全を目標としたハイテク&ローテク、共に自前の技術と経験による野菜工場は、日本の知恵と技術による雑種文化のたまものである。「外」にはない、逆に「外」から高い評価を受け始めている新しい産業の芽である。これもクールジャパンの一つになるであろう。日本人がキョロキョロ外を見ている時、世界はどこにも無い素晴らしさを高く評価しているということだ。(続く)
2010年03月10日
まだら模様に、第三の市場
ヒット商品応援団日記No450(毎週2回更新) 2010.3.10.
少し前に、西武百貨店とYahooショッピングのコラボレーション事例を取り上げて、仮想と現実、虚構と体験、これらの「行ったり来たり」全体を視野に入れたビジネスを考えなければならないとブログに書いた。流通というライフスタイルを映し出した世界を象徴的に見てきた訳であるが、もう少し大きな「パラダイム(価値観)の転換」という視点でこの「行ったり来たり」を考えてみたい。
ライフスタイル変化を見ていくには「食」に注目すると良いのだが、最近東京の「食」で話題となっているのが「野菜料理」である。量をこなすレストランでは郊外農家から畑を借りて作られた自家製野菜をメインディッシュにしたものだ。焼く、蒸す、煮込む、素材の持ち味をいかしたもので、いわゆるヘルシー系の代表的な食である。一方、ガツン系は無くなったかと言うとそうではない。若い世代を中心に特盛り人気は根強く存在している。こうしたガツン系のなかでヒット商品となったのがマクドナルドの「テキサスバーガー」を始めとした”Big America”キャンペーンであろう。前者のヘルシー系を若い女性、OL層、後者のガツン系を若い男性、学生層が中心となっていて市場はまだら模様の如くではあるが、この2つの異なる市場を「行ったり来たり」する市場もある。この異なる市場の往来を促しているのが、各種カロリー計算と消費を促す体重計や万歩計といったソフトと機器類である。つまり、5〜6年前のようなサプリメント依存症に象徴されるような極端なダイエットではなく、食という欲望をセルフコントロールする時代に入ってきたということだ。つまり、「行ったり来たり」という第三の市場が生まれつつあるということである。
このように従来の考え方では相対立する価値観が、ヤジロベーのように振り子が一定のところに収まるような傾向が出てきている。例えば、表通りと横丁路地裏。どこにでもあるつまらない表通りを避けて横丁路地裏散策が盛んであるが、表通りに変化が起きることによって表も裏も活性する事例が出てきた。その代表的な通りが東京の表参道であろう。表通りには高級インポートブランドのフラッフショップが並んでいるが、横丁路地裏にはマンションメーカーなどの小さなショップがあり、そんな強い個性を求めて若い女性達が集まっていた。こうしたどこにでもあるブランドの表通りを一変させたのが2006年にオープンした「表参道ヒルズ」である。行かれた方は分かると思うが、若い女性達にとって手が届かない高価格のものは少ない。その多くは買いやすい、利用しやすいものばかりだ。そして、昨年のクリスマス時期に表通りがLED電球によるツリーで彩られることによって、シニア世代も若い世代も歩きたくなる街、歩いて絵になる街へと変貌した。つまり、表通りと裏通りを行ったり来たり、という面として活性化し、そこに新たな市場も生まれたということである。
第三のビールではないが、従来の異なるものとの融合、今風に言えばハイブリッドな市場に着眼することである。男と女、若い世代とシニア、洋と和、ハレ(非日常)とケ(日常)、人工と自然、昼と夜、オリジナルと複製、高機能と単機能、トレンドと定番、所有と使用、・・・・・こうした異なるものとの境界、境目に新しい市場が生まれてくる。例えば、ハレ(非日常)とケ(日常)の対比のなかでは、ハレの日は記念日、特別な日として華やかさを暮らしに取り入れるが、ケは慎ましく済ます。ある意味その境目である週末の過ごし方に新たな市場が生まれる可能性があるということだ。既に、人工と自然という対比のなかでは、その境目には里山があり、この里山のある住宅を積水ハウスは数年前から販売している。昼と夜という対比のなかでは、その境目は早朝と深夜ということになる。早朝には多くのセミナーなど自習機会が組まれていたり、深夜にはコンサートや芝居が組まれているように。オリジナルと複製という対比では、ロングセラー商品となった「かにかま」等が該当する。複製を芸のものまねとすれば、コロッケなんかは芸として確立しており、オリジナルと複製の境目と言えなくはない。
そもそもカジュアル衣料のGAPはそのギャップというネーミング=コンセプトにあるように、男と女(性差)、若い世代とシニア世代(年齢差)といったギャップを埋めるところに着眼した。このGAPをお手本にしたのがユニクロで、大ヒット商品となったフリースはユニセックス商品である。
今、最も着目されているのが価格帯で、高価格と低価格、この価格差の真ん中の価格ゾーンである。既にホテル業界ではシティホテルとビジネスホテルの中間ゾーン、ビジネスホテルとカプセルホテルの中間ゾーンに第三の市場開発を模索している。あるいは、本格和食や本格フレンチとB級グルメとの中間価格ゾーンへの進出も見られ始めており、本格派は中間価格ゾーンであるランチマーケットを開発し、これも第三の市場と言える。この第三の市場では既に「鎌倉シャツ」のように紳士服量販店の低価格シャツと百貨店における高価格シャツとの中間ゾーン5000円という価格帯で成功している。
この2年半ほど低価格戦略が市場を席巻してきたが、ある意味隙き間市場であった中間価格ゾーン市場へ、第三の市場へと向かい始めた。つまり、巣ごもり生活は続いてはいるが、相対立する概念市場としてはっきりとしたまだら模様は、その輪郭が崩れ、新しい市場の芽が出てきたということだ。(続く)
少し前に、西武百貨店とYahooショッピングのコラボレーション事例を取り上げて、仮想と現実、虚構と体験、これらの「行ったり来たり」全体を視野に入れたビジネスを考えなければならないとブログに書いた。流通というライフスタイルを映し出した世界を象徴的に見てきた訳であるが、もう少し大きな「パラダイム(価値観)の転換」という視点でこの「行ったり来たり」を考えてみたい。
ライフスタイル変化を見ていくには「食」に注目すると良いのだが、最近東京の「食」で話題となっているのが「野菜料理」である。量をこなすレストランでは郊外農家から畑を借りて作られた自家製野菜をメインディッシュにしたものだ。焼く、蒸す、煮込む、素材の持ち味をいかしたもので、いわゆるヘルシー系の代表的な食である。一方、ガツン系は無くなったかと言うとそうではない。若い世代を中心に特盛り人気は根強く存在している。こうしたガツン系のなかでヒット商品となったのがマクドナルドの「テキサスバーガー」を始めとした”Big America”キャンペーンであろう。前者のヘルシー系を若い女性、OL層、後者のガツン系を若い男性、学生層が中心となっていて市場はまだら模様の如くではあるが、この2つの異なる市場を「行ったり来たり」する市場もある。この異なる市場の往来を促しているのが、各種カロリー計算と消費を促す体重計や万歩計といったソフトと機器類である。つまり、5〜6年前のようなサプリメント依存症に象徴されるような極端なダイエットではなく、食という欲望をセルフコントロールする時代に入ってきたということだ。つまり、「行ったり来たり」という第三の市場が生まれつつあるということである。
このように従来の考え方では相対立する価値観が、ヤジロベーのように振り子が一定のところに収まるような傾向が出てきている。例えば、表通りと横丁路地裏。どこにでもあるつまらない表通りを避けて横丁路地裏散策が盛んであるが、表通りに変化が起きることによって表も裏も活性する事例が出てきた。その代表的な通りが東京の表参道であろう。表通りには高級インポートブランドのフラッフショップが並んでいるが、横丁路地裏にはマンションメーカーなどの小さなショップがあり、そんな強い個性を求めて若い女性達が集まっていた。こうしたどこにでもあるブランドの表通りを一変させたのが2006年にオープンした「表参道ヒルズ」である。行かれた方は分かると思うが、若い女性達にとって手が届かない高価格のものは少ない。その多くは買いやすい、利用しやすいものばかりだ。そして、昨年のクリスマス時期に表通りがLED電球によるツリーで彩られることによって、シニア世代も若い世代も歩きたくなる街、歩いて絵になる街へと変貌した。つまり、表通りと裏通りを行ったり来たり、という面として活性化し、そこに新たな市場も生まれたということである。
第三のビールではないが、従来の異なるものとの融合、今風に言えばハイブリッドな市場に着眼することである。男と女、若い世代とシニア、洋と和、ハレ(非日常)とケ(日常)、人工と自然、昼と夜、オリジナルと複製、高機能と単機能、トレンドと定番、所有と使用、・・・・・こうした異なるものとの境界、境目に新しい市場が生まれてくる。例えば、ハレ(非日常)とケ(日常)の対比のなかでは、ハレの日は記念日、特別な日として華やかさを暮らしに取り入れるが、ケは慎ましく済ます。ある意味その境目である週末の過ごし方に新たな市場が生まれる可能性があるということだ。既に、人工と自然という対比のなかでは、その境目には里山があり、この里山のある住宅を積水ハウスは数年前から販売している。昼と夜という対比のなかでは、その境目は早朝と深夜ということになる。早朝には多くのセミナーなど自習機会が組まれていたり、深夜にはコンサートや芝居が組まれているように。オリジナルと複製という対比では、ロングセラー商品となった「かにかま」等が該当する。複製を芸のものまねとすれば、コロッケなんかは芸として確立しており、オリジナルと複製の境目と言えなくはない。
そもそもカジュアル衣料のGAPはそのギャップというネーミング=コンセプトにあるように、男と女(性差)、若い世代とシニア世代(年齢差)といったギャップを埋めるところに着眼した。このGAPをお手本にしたのがユニクロで、大ヒット商品となったフリースはユニセックス商品である。
今、最も着目されているのが価格帯で、高価格と低価格、この価格差の真ん中の価格ゾーンである。既にホテル業界ではシティホテルとビジネスホテルの中間ゾーン、ビジネスホテルとカプセルホテルの中間ゾーンに第三の市場開発を模索している。あるいは、本格和食や本格フレンチとB級グルメとの中間価格ゾーンへの進出も見られ始めており、本格派は中間価格ゾーンであるランチマーケットを開発し、これも第三の市場と言える。この第三の市場では既に「鎌倉シャツ」のように紳士服量販店の低価格シャツと百貨店における高価格シャツとの中間ゾーン5000円という価格帯で成功している。
この2年半ほど低価格戦略が市場を席巻してきたが、ある意味隙き間市場であった中間価格ゾーン市場へ、第三の市場へと向かい始めた。つまり、巣ごもり生活は続いてはいるが、相対立する概念市場としてはっきりとしたまだら模様は、その輪郭が崩れ、新しい市場の芽が出てきたということだ。(続く)
2010年03月07日
問題点と市場機会
ヒット商品応援団日記No449(毎週2回更新) 2010.3.7.
「問題点と市場機会」という言葉はマーケティング立案の要となるもので、私が若い頃外資系広告代理店に在籍していた頃、戦略を導き出すための方法として盛んに使ってきたものである。一言でいうならば、生活者の問題にこそ、解決すべきヒントやアイディアが隠されているという原理原則のことである。問題点というと堅苦しく聞こえるが、もっと役に立つには、もっと喜んでもらうにはと考えても良い。そして、生活者が困り求めている主要な問題点4〜5つぐらいを左ページに置き、それらに対する解決策を右ページに置き、それら全体を俯瞰的に見据えながら市場の可能性を探るわけである。そうした意味で、徹底した問題点の抽出と分析を行う方法である。
先日NHKの番組で高齢化社会をプラスの面から見直す良き事例が取り上げられていた。社会保障費の負担が増え続け、介護現場には人手不足、・・・・多くの課題を抱えていることは周知のことであるが、この高齢者の介護食に世界の注目が集まっているという。栄養素はもとより味も見た目も優れた介護食が作られており、嚥下障害や摂食障害に対する解決ノウハウも蓄積されつつある。世界一の長寿国ならではの一つの「商品」、輸出可能なビジネスの可能性を持っているということだ。他にも、ロボット技術を生かした介護ロボットも研究されている。これも高齢化社会における問題点=市場機会ということだ。
先日基調講演で訪問した京都府美山でも限界集落が多数存在していた。自然資源を豊富に持つところであるが、高度成長期には都市との交流を活性化するために山にトンネルを掘り道路を整備した。しかし、逆に若い世代はそのトンネルをくぐって都市へと出かけ、人口が流出してしまう、そんな笑えない現実があるところであった。しかし、美山は主産業である林業が衰退していくなかで、その森をマイナスに見ていくのではなく自然観光資源へと転換した、これも良き事例である。100%実施されてはいないと聞いたが、間伐がなされた美しい森林であった。森が保たれていれば、そこに流れる美山川も清流となる。そして、美山の小学校にはプールがなく、夏には美山川がプールになる。結果、そんな自然との生活を求めて若い世代のIターンも増えつつあるという。
昨年のヒット商品の最大特徴の一つが「過去回帰型商品」で、しかも若い世代へと広がっていた点にあった。サントリー角ハイボールやオリンパスペンのようなOLD NEW ・古(いにしえ)が新しいとする過去回帰型商品と共に、映画「Always 三丁目の夕日」ではないが昭和回帰といった「思い出消費型商品」の2つの方向の回帰型商品がある。後者については一時期流行った「揚げパン」のように、小学校の給食で出された揚げパンを懐かしく思う「プチ思い出商品」も含まれる。昨年のお化け商品としてヒットしたベーブレードなどは父親にとっては懐かしいベーゴマであり、子にとっては新しい遊び道具である。
問題点と市場機会という整理の仕方に準じれば、「つらい現実」や「突破したい現実」、あるいは「うまくいかない現実」といった問題を解決するために「楽しかった過去」へと向かう。介護食も美味しかった楽しかった若い時を思い出させ、食べる力を引き出すことへとつながるという。理屈っぽく言えば、過去回帰とは、一種の現実に対する自己癒し、心理的な自己治癒行為としてある。
そして、何よりも重要なことは誰を顧客とし、どの問題の解決にあたるかである。前回も指摘したようにマスメディアからの情報は全て断片情報として扱わなければならない。本来であれば、顧客調査を実施すべきと思うが、多くの費用を必要とし、誰もが実行することは難しい。既にあるそれら断片情報も情報であり、異なる世界の多くの断片情報にも共通項を見出すことも可能である。その共通項こそ顧客が抱えている問題点であるということだ。私が社会的事件を取り扱ったり、どんな歌が流行っているか、どんな本が読まれているか、そんな現象を取り上げるのも共通項としての生活者心理の在り方を見定めるためである。
私は時代転換の踊り場にいるという表現をよく使うが、それだけ問題が奔出しているということでもある。断片情報ばかりで問題を見えなくさせている時代には、「それは本当に問題なのか」と4〜5回繰り返し突き止めたら良い。大小、複雑に絡み合った問題をほどき整理していく作業である。そうすれば問題の本質にたどり着くことができる。そして、最後は思い切ったアイディアに着眼してみることだ。勿論、実行は小さくであるが。(続く)
「問題点と市場機会」という言葉はマーケティング立案の要となるもので、私が若い頃外資系広告代理店に在籍していた頃、戦略を導き出すための方法として盛んに使ってきたものである。一言でいうならば、生活者の問題にこそ、解決すべきヒントやアイディアが隠されているという原理原則のことである。問題点というと堅苦しく聞こえるが、もっと役に立つには、もっと喜んでもらうにはと考えても良い。そして、生活者が困り求めている主要な問題点4〜5つぐらいを左ページに置き、それらに対する解決策を右ページに置き、それら全体を俯瞰的に見据えながら市場の可能性を探るわけである。そうした意味で、徹底した問題点の抽出と分析を行う方法である。
先日NHKの番組で高齢化社会をプラスの面から見直す良き事例が取り上げられていた。社会保障費の負担が増え続け、介護現場には人手不足、・・・・多くの課題を抱えていることは周知のことであるが、この高齢者の介護食に世界の注目が集まっているという。栄養素はもとより味も見た目も優れた介護食が作られており、嚥下障害や摂食障害に対する解決ノウハウも蓄積されつつある。世界一の長寿国ならではの一つの「商品」、輸出可能なビジネスの可能性を持っているということだ。他にも、ロボット技術を生かした介護ロボットも研究されている。これも高齢化社会における問題点=市場機会ということだ。
先日基調講演で訪問した京都府美山でも限界集落が多数存在していた。自然資源を豊富に持つところであるが、高度成長期には都市との交流を活性化するために山にトンネルを掘り道路を整備した。しかし、逆に若い世代はそのトンネルをくぐって都市へと出かけ、人口が流出してしまう、そんな笑えない現実があるところであった。しかし、美山は主産業である林業が衰退していくなかで、その森をマイナスに見ていくのではなく自然観光資源へと転換した、これも良き事例である。100%実施されてはいないと聞いたが、間伐がなされた美しい森林であった。森が保たれていれば、そこに流れる美山川も清流となる。そして、美山の小学校にはプールがなく、夏には美山川がプールになる。結果、そんな自然との生活を求めて若い世代のIターンも増えつつあるという。
昨年のヒット商品の最大特徴の一つが「過去回帰型商品」で、しかも若い世代へと広がっていた点にあった。サントリー角ハイボールやオリンパスペンのようなOLD NEW ・古(いにしえ)が新しいとする過去回帰型商品と共に、映画「Always 三丁目の夕日」ではないが昭和回帰といった「思い出消費型商品」の2つの方向の回帰型商品がある。後者については一時期流行った「揚げパン」のように、小学校の給食で出された揚げパンを懐かしく思う「プチ思い出商品」も含まれる。昨年のお化け商品としてヒットしたベーブレードなどは父親にとっては懐かしいベーゴマであり、子にとっては新しい遊び道具である。
問題点と市場機会という整理の仕方に準じれば、「つらい現実」や「突破したい現実」、あるいは「うまくいかない現実」といった問題を解決するために「楽しかった過去」へと向かう。介護食も美味しかった楽しかった若い時を思い出させ、食べる力を引き出すことへとつながるという。理屈っぽく言えば、過去回帰とは、一種の現実に対する自己癒し、心理的な自己治癒行為としてある。
そして、何よりも重要なことは誰を顧客とし、どの問題の解決にあたるかである。前回も指摘したようにマスメディアからの情報は全て断片情報として扱わなければならない。本来であれば、顧客調査を実施すべきと思うが、多くの費用を必要とし、誰もが実行することは難しい。既にあるそれら断片情報も情報であり、異なる世界の多くの断片情報にも共通項を見出すことも可能である。その共通項こそ顧客が抱えている問題点であるということだ。私が社会的事件を取り扱ったり、どんな歌が流行っているか、どんな本が読まれているか、そんな現象を取り上げるのも共通項としての生活者心理の在り方を見定めるためである。
私は時代転換の踊り場にいるという表現をよく使うが、それだけ問題が奔出しているということでもある。断片情報ばかりで問題を見えなくさせている時代には、「それは本当に問題なのか」と4〜5回繰り返し突き止めたら良い。大小、複雑に絡み合った問題をほどき整理していく作業である。そうすれば問題の本質にたどり着くことができる。そして、最後は思い切ったアイディアに着眼してみることだ。勿論、実行は小さくであるが。(続く)
2010年03月03日
断片情報化社会
ヒット商品応援団日記No448(毎週2回更新) 2010.3.3.
昨日、2010年度の国家予算92兆円余が衆院で可決し、年度内に通過することが決まったと報じられた。このブログは政治ブログではないので取り上げるつもりはないが、ここ数ヶ月間の「政治とカネ」を巡る問題にいいかげんにして欲しいという気持ちで一杯である。
「未来はわからない」というのが私の持論であるが、必ずやってくるのが高齢化社会であった。確か1990年代半ばであったと思うが、私が記憶する限り唯一警鐘を鳴らしていたのが堺屋太一さんであった。少子化もそうであるが高齢化という課題はこれからの日本の未来、いや現実の日本という国家をどのような方向へと向かわせていくか極めて重要なことであった。それは単なる社会保障・福祉の問題としてではなく、生き方を一人ひとりが選択すべきものでもあった筈である。しかし、今もそうであるが、1988年当時の政府与党であった竹下政権は福祉目的税を準備していたが、周知のリクルート事件という「政治とカネ」の問題によって、日本の「次」について国民の信を問うことがなく今日に至っている。勿論、民主主義国家として「政治とカネ」の問題を見て見ぬ振りをすればよいというわけでは決してない。しかし、江副氏によって書かれた「リクルート事件・江副浩正の真実」(中央公論新社刊)を読んでも、今回の陸山会の政治資金規正法違反の新聞報道を読んでも、不可解さが残ったままである。
東京のローカル紙東京新聞(3/3朝刊)は今回の国会論戦について皮肉まじりに次のような「迷言名言」として順位をつけている。
第一位:「まさに平成の脱税王だ」 (鳩山首相に対する与謝野馨元財務省の発言)
第二位:「命を守りたい」(鳩山首相施政方針演説)
第三位:「今日のところはそのくらいにしておきましょう」(政治資金問題追及を途中で切り上げた谷垣自民総裁の発言)
第四位:「うるさい」(野党の野次に対する亀井金融大臣の発言)
一昨年秋のリーマンショックの火種は全世界へ広がり、鎮火せずにドバイショックへ、更にはギリシャへとくすぶり続けている時代の最中である。更に、トヨタのリコール問題は大きな日米同盟問題へと発展しなかったのは幸いであったが、内にも外にも難問が山積している。一企業、一エリア、一個人では解決出来ない問題ばかりである。3月という時期は企業であれば倒産、個人であれば自殺者の多い月だ。
ところで、こうしたやりきれない時代はいつから始まったのかと思い起こすと、やはり1995年のオウムサリン事件と阪神淡路大震災であったと思う。心理の奥底にどこかでぬぐい去ることができない不可解さが今なお残っている。言葉としていえば「不安」という二文字となってしまうが、2003年から数年ミニバブルが都市で起こったものの常に不安は底流し続けている。その底流の中に、秋葉原連続殺傷事件もあれば、最近では昨年11月の島根女子大生殺人事件もある。つまり、不可解という不安であり、不可解さを解くために人は否応なくその源を辿ろうとする。
つまり、断片情報ばかりが圧倒的なスピードで行き交う情報の時代とは、当然不可解さを解き明かしたいという欲求がごく自然に生まれてくる。作家村上春樹の本が根強く読まれていたり、昨年の国宝阿修羅像に若い世代も注目する。あるいは、自身のルーツを探るために家系図を作ったり、歴女ブームのように真田幸村の生涯を調べたり、最近では「古代文字」の謎解きブームなんかも、こうした「知らないことへの不安や興味」、あるいは「不可解さを解き明かしたい」という欲求に依るものである。こうした現象も高度情報化社会という断片情報化社会故の現象であろう。
数年前までは占いが不安を解消する一つであった。しかし、もはやそんな占い程度では払拭できない深刻さに向き合っているのだと思う。その深刻さとは、極論ではあるが、断片情報化社会にあって「知らないことへの恐怖」とでも呼べるものだ。そして、TV番組や雑誌は雑学流行となった。以前「うわさの法則」という社会心理の法則にふれたことがあったが、知らないことへの「恐怖の法則」にまで病状が悪化してきているのではないかと思うことがある。
こうした断片情報化社会から学ぶべきことは、事実に基づいた物語をていねいにコミュニケーションすることだ。そして、コミュニケーションしてもなお不可解さが残るようであれば、その源に実際に触れ体験してもらうことだ。昔流行った言葉に「事実は小説より奇なり」とあったが、今や「体験は小説より奇なり」いや「体験は事実より奇なり」という時代にいる。(続く)
昨日、2010年度の国家予算92兆円余が衆院で可決し、年度内に通過することが決まったと報じられた。このブログは政治ブログではないので取り上げるつもりはないが、ここ数ヶ月間の「政治とカネ」を巡る問題にいいかげんにして欲しいという気持ちで一杯である。
「未来はわからない」というのが私の持論であるが、必ずやってくるのが高齢化社会であった。確か1990年代半ばであったと思うが、私が記憶する限り唯一警鐘を鳴らしていたのが堺屋太一さんであった。少子化もそうであるが高齢化という課題はこれからの日本の未来、いや現実の日本という国家をどのような方向へと向かわせていくか極めて重要なことであった。それは単なる社会保障・福祉の問題としてではなく、生き方を一人ひとりが選択すべきものでもあった筈である。しかし、今もそうであるが、1988年当時の政府与党であった竹下政権は福祉目的税を準備していたが、周知のリクルート事件という「政治とカネ」の問題によって、日本の「次」について国民の信を問うことがなく今日に至っている。勿論、民主主義国家として「政治とカネ」の問題を見て見ぬ振りをすればよいというわけでは決してない。しかし、江副氏によって書かれた「リクルート事件・江副浩正の真実」(中央公論新社刊)を読んでも、今回の陸山会の政治資金規正法違反の新聞報道を読んでも、不可解さが残ったままである。
東京のローカル紙東京新聞(3/3朝刊)は今回の国会論戦について皮肉まじりに次のような「迷言名言」として順位をつけている。
第一位:「まさに平成の脱税王だ」 (鳩山首相に対する与謝野馨元財務省の発言)
第二位:「命を守りたい」(鳩山首相施政方針演説)
第三位:「今日のところはそのくらいにしておきましょう」(政治資金問題追及を途中で切り上げた谷垣自民総裁の発言)
第四位:「うるさい」(野党の野次に対する亀井金融大臣の発言)
一昨年秋のリーマンショックの火種は全世界へ広がり、鎮火せずにドバイショックへ、更にはギリシャへとくすぶり続けている時代の最中である。更に、トヨタのリコール問題は大きな日米同盟問題へと発展しなかったのは幸いであったが、内にも外にも難問が山積している。一企業、一エリア、一個人では解決出来ない問題ばかりである。3月という時期は企業であれば倒産、個人であれば自殺者の多い月だ。
ところで、こうしたやりきれない時代はいつから始まったのかと思い起こすと、やはり1995年のオウムサリン事件と阪神淡路大震災であったと思う。心理の奥底にどこかでぬぐい去ることができない不可解さが今なお残っている。言葉としていえば「不安」という二文字となってしまうが、2003年から数年ミニバブルが都市で起こったものの常に不安は底流し続けている。その底流の中に、秋葉原連続殺傷事件もあれば、最近では昨年11月の島根女子大生殺人事件もある。つまり、不可解という不安であり、不可解さを解くために人は否応なくその源を辿ろうとする。
つまり、断片情報ばかりが圧倒的なスピードで行き交う情報の時代とは、当然不可解さを解き明かしたいという欲求がごく自然に生まれてくる。作家村上春樹の本が根強く読まれていたり、昨年の国宝阿修羅像に若い世代も注目する。あるいは、自身のルーツを探るために家系図を作ったり、歴女ブームのように真田幸村の生涯を調べたり、最近では「古代文字」の謎解きブームなんかも、こうした「知らないことへの不安や興味」、あるいは「不可解さを解き明かしたい」という欲求に依るものである。こうした現象も高度情報化社会という断片情報化社会故の現象であろう。
数年前までは占いが不安を解消する一つであった。しかし、もはやそんな占い程度では払拭できない深刻さに向き合っているのだと思う。その深刻さとは、極論ではあるが、断片情報化社会にあって「知らないことへの恐怖」とでも呼べるものだ。そして、TV番組や雑誌は雑学流行となった。以前「うわさの法則」という社会心理の法則にふれたことがあったが、知らないことへの「恐怖の法則」にまで病状が悪化してきているのではないかと思うことがある。
こうした断片情報化社会から学ぶべきことは、事実に基づいた物語をていねいにコミュニケーションすることだ。そして、コミュニケーションしてもなお不可解さが残るようであれば、その源に実際に触れ体験してもらうことだ。昔流行った言葉に「事実は小説より奇なり」とあったが、今や「体験は小説より奇なり」いや「体験は事実より奇なり」という時代にいる。(続く)
2010年02月26日
ニュースの無い時代
ヒット商品応援団日記No447(毎週2回更新) 2010.2.26.
京都府南丹市美山に講演に行ってきたせいか、東京にはニュースがないなとその実感を強くした。一般的にはは逆ではないかと思われるかもしれないが、地方の方がニュースに溢れている。今、バンクーバーで行われている冬期オリンピックも、日々起こる事件も、あるいは歌番組にもニュースが感じられない。ニュースは社会という広がりを持ってこそニュース足りえるのであるが、どうもその社会、あるいは世間と言っても良いが、そんな共通する話題・関心事は東京、都市には無くなっている。
数日前訪問した京都の美山では、例年になく雪が少ないことや鹿が増え過ぎてしまいその被害の話しが話題の中心となっていた。身近で、そのことによって何らかの行動を起こす、そうした情報こそがニュースとなっている。コミュニティの関心事、生活の関心事、善かれ悪しかれ「縁」が生きている世界にしかニュースはない。
一方、都市においては、個人化社会といってしまえばそれで話は終わってしまうが、膨大な情報が行き交っている割には個人関心事においてしかニュースはない。ツイッターが流行っているように、顔の見えない相手同士が唯一共有できる関心事について仮想のコミュニケーションが行われる。ツイッターは「私の興味」という一点においてのみ、リアリティをもったニュースとして存在する。歌で言えば、生まれては流れてゆく流行歌のようなものである。ツイッターがソーシャルメディアとして定着するか未知数ではあるが、少なくともそのライブ感、スピード感は他のどのメディアよりもニュース的である。
前々回、「情報の質とは」のところでも書いたが、インターネットという無料経済の中で、生活者が求める情報の質とは、インターネット検索では出てこない、知られにくい、未だ知らない、興味を喚起してくれる情報、ニュースということである。こうした情報世界が提供可能なのは、都市ではなく、もっと出来事の現場に近い、小さな単位の地方ということである。東京も一地方として見ていくということだ。つまり、マスコミは全てミニコミにならなければならないということである。勿論、結果そのネットワークによってマスコミとなることはあってもである。そうした意味で、今一番情報的でニュースなのはローカル局をネットワークし、それら地方の情報を生かそうとしているNHKということだ。
地方にしかニュースがないと同時に、「今」という時代にもニュースがない。どれほどの「過去」であるかは別にして、タイムトンネルをくぐった先にしかニュースがない。2/19の日経MJにも、歴女ブームは更に深化し、「古代文字」の世界に関心を寄せる若者が増加しているとの記事があった。これも、都市では見出すことが出来ない自然や神と一体であった古代の物語が極めて新鮮なニュースとなっているということだ。こうした古代文字の先にある物語を読み解く面白さとは、想像する面白さということである。ニュースの本質は想像を刺激してくれる情報であることによって初めてニュースとなるのだ。
昨年直木賞を受賞した天童荒太氏の「悼む人」のように、過剰な情報社会の中で、「何」が自分にとって必要で、大切な情報なのかを気づかせてくれ、実は裏側に潜む情報へと向かわせてくれた。膨大な情報が流れていけばいくほど、それら常識という皮膜をはがし、「先」に何かを見出すことへと向かっていく。つまらない表通りから何かを探しに横丁路地裏へ、表メニューから賄い料理のような裏メニューへ、公式見解から本音の話しへ、こうした興味の深化はニュースを求める情報の時代の宿命としてある。深化の先が過去へ向かえば一種の回帰現象となり、自然や生命力といった世界であれば地方に向かう。人と人との関係であれば絆の取り戻しであり、それは家族やコミュニティから始まる。
ジャーナリスト筑紫哲也さんが亡くなられた時、コラムニスト天野祐吉さんは「ニュースに声を与えてくれた人」と語っていた。それは同時に、膨大な情報を整理し、防波堤の役割を果たしてくれていたと思う。多事という情報を争論できるようにしてくれた訳である。このことは情報の時代におけるコミュニケーションの原則としてある。意味のない情報を削ぎ落とし、その先にある「声」は否応なく私たちの想像力を刺激する。
それはビジネスにおいても同様で、業界用語になってしまうが、その「声」とはコンセプトということである。なんとなくあれもあるこれもあるではなく、これしかないこの一点において顧客に向かい合う。そして、その「声」は必ずニュースとなる。(続く)
京都府南丹市美山に講演に行ってきたせいか、東京にはニュースがないなとその実感を強くした。一般的にはは逆ではないかと思われるかもしれないが、地方の方がニュースに溢れている。今、バンクーバーで行われている冬期オリンピックも、日々起こる事件も、あるいは歌番組にもニュースが感じられない。ニュースは社会という広がりを持ってこそニュース足りえるのであるが、どうもその社会、あるいは世間と言っても良いが、そんな共通する話題・関心事は東京、都市には無くなっている。
数日前訪問した京都の美山では、例年になく雪が少ないことや鹿が増え過ぎてしまいその被害の話しが話題の中心となっていた。身近で、そのことによって何らかの行動を起こす、そうした情報こそがニュースとなっている。コミュニティの関心事、生活の関心事、善かれ悪しかれ「縁」が生きている世界にしかニュースはない。
一方、都市においては、個人化社会といってしまえばそれで話は終わってしまうが、膨大な情報が行き交っている割には個人関心事においてしかニュースはない。ツイッターが流行っているように、顔の見えない相手同士が唯一共有できる関心事について仮想のコミュニケーションが行われる。ツイッターは「私の興味」という一点においてのみ、リアリティをもったニュースとして存在する。歌で言えば、生まれては流れてゆく流行歌のようなものである。ツイッターがソーシャルメディアとして定着するか未知数ではあるが、少なくともそのライブ感、スピード感は他のどのメディアよりもニュース的である。
前々回、「情報の質とは」のところでも書いたが、インターネットという無料経済の中で、生活者が求める情報の質とは、インターネット検索では出てこない、知られにくい、未だ知らない、興味を喚起してくれる情報、ニュースということである。こうした情報世界が提供可能なのは、都市ではなく、もっと出来事の現場に近い、小さな単位の地方ということである。東京も一地方として見ていくということだ。つまり、マスコミは全てミニコミにならなければならないということである。勿論、結果そのネットワークによってマスコミとなることはあってもである。そうした意味で、今一番情報的でニュースなのはローカル局をネットワークし、それら地方の情報を生かそうとしているNHKということだ。
地方にしかニュースがないと同時に、「今」という時代にもニュースがない。どれほどの「過去」であるかは別にして、タイムトンネルをくぐった先にしかニュースがない。2/19の日経MJにも、歴女ブームは更に深化し、「古代文字」の世界に関心を寄せる若者が増加しているとの記事があった。これも、都市では見出すことが出来ない自然や神と一体であった古代の物語が極めて新鮮なニュースとなっているということだ。こうした古代文字の先にある物語を読み解く面白さとは、想像する面白さということである。ニュースの本質は想像を刺激してくれる情報であることによって初めてニュースとなるのだ。
昨年直木賞を受賞した天童荒太氏の「悼む人」のように、過剰な情報社会の中で、「何」が自分にとって必要で、大切な情報なのかを気づかせてくれ、実は裏側に潜む情報へと向かわせてくれた。膨大な情報が流れていけばいくほど、それら常識という皮膜をはがし、「先」に何かを見出すことへと向かっていく。つまらない表通りから何かを探しに横丁路地裏へ、表メニューから賄い料理のような裏メニューへ、公式見解から本音の話しへ、こうした興味の深化はニュースを求める情報の時代の宿命としてある。深化の先が過去へ向かえば一種の回帰現象となり、自然や生命力といった世界であれば地方に向かう。人と人との関係であれば絆の取り戻しであり、それは家族やコミュニティから始まる。
ジャーナリスト筑紫哲也さんが亡くなられた時、コラムニスト天野祐吉さんは「ニュースに声を与えてくれた人」と語っていた。それは同時に、膨大な情報を整理し、防波堤の役割を果たしてくれていたと思う。多事という情報を争論できるようにしてくれた訳である。このことは情報の時代におけるコミュニケーションの原則としてある。意味のない情報を削ぎ落とし、その先にある「声」は否応なく私たちの想像力を刺激する。
それはビジネスにおいても同様で、業界用語になってしまうが、その「声」とはコンセプトということである。なんとなくあれもあるこれもあるではなく、これしかないこの一点において顧客に向かい合う。そして、その「声」は必ずニュースとなる。(続く)
2010年02月23日
今、地方が元気だ
ヒット商品応援団日記No446(毎週2回更新) 2010.2.23.
3日ほど京都・大阪に出かけていた。その目的は京都府南丹市美山で行われた地域フォーラムの基調講演であった。関西方面の人にとってはある程度知られた地域であるが、美山という名前が示しているように美しい山間の町である。どの地方も同じであるが、主産業である林業が衰退し、人口は流出し、高齢化が進んだ地域である。こうした問題が象徴的に進んだことから、恐らく全国でもいち早く住民が主体となって、行政を含め取り組み、そうした意味で地方における村起こし、産業起こしを先駆的に実践してきた地域である。
講演のテーマを「都市生活者の今と市場開発の着眼」としたのだが、どこにでもある田舎をここにしかない田舎にするために、持っている多くの資源・資産を使って、魅力的な固有の田舎になって欲しいとの願いがあった。そして、業界や競争相手を見る前に、「都市生活者の今」を見つめることから始め、「次」に進んでいくためのアイディア、着眼をいくつかの事例を交えて話をさせていただいた。
昭和50年代から始まった村起こしの体験と実績からであろう、更にはそうした結果として10年前には「優秀観光地づくり賞」の金賞に輝いた地域ということから、200名近くの住民の方々が集まり熱心に聞いていただいた。
実はこの基調講演の前に、京都の友人に美山町を2時間半ほど案内してもらった。その実感であるが、見事なネイチャーヴィレッジ、ネイチャーテーマパークになっているなと。それは東京ディズニーランドのマーケティング構図を重ねることができるものであった。勿論、昭和50年代から始まった村起こしであり、東京ディズニーランドが出来るはるか以前からの、住民と行政の手による日本そのもののテーマパークである。テーマパークというと、何か人工的なものと思いがちであるが、美山のそれは自然に寄り添って生活している住民の人達による自然を生かしたテーマパークである。東京ディズニーランドが米国のフォークロアとして物語化されたのに対し、美山は日本のフォークロアとして住む人達の手で継承され磨かれてきたものだ。
その構図とはこうである。美山地区への入り口・ゲートには国道162号線沿いに「ふれあい広場」という農産物等を販売している道の駅がある。東京ディズニーランドがそうであるようにゲートをくぐると両側にお土産物のショップが並んでいるのと同じである。道の駅から美山町に入ると杉や檜の森林が迎えてくれる。冬の真っ最中であるが、とにかく美しい景観である。道路脇には一切の広告物はない。住民の人達の総意で景観が守られている。ほどなくいくつかの集落があり、かやぶきの家が点在している。のどかな山間の農村風景である。それら集落の先に現れたのが文化財保護法による保存地区「かやぶきの里」である。見事なかやぶきの家が集積・保存されていて、東京ディズニーランドの構図から言えば、シンデレラ城にあたる。「かやぶきの里」は美山地区のランドマークということだ。寒い季節にも関わらず、カメラを手にした何名ものマニヤが撮影をしていた。このかやぶきの里の前には清流美山川が流れている。鮎の名釣り場として関西の釣りフアンに知られた川であるが、聞くと利き酒ならぬ「利き鮎大会」で準優勝したという。それだけ豊かな川であるということだ。この美山川の先には「自然文化村」という宿泊施設のある都市生活者との交流拠点がある。ここを拠点に、修学旅行生の農作業体験など数多くのイベントメニューが実施されている。東京ディズニーランドにおけるアトラクションと同じである。
こうした実感をもとに、基調講演とその後のパネルディスカッションをさせていただいた。東京ディズニーランドの収入の70数%が物販によるものであることを踏まえ、もっともっと特産品を作り、このネイチャーヴィレッジを更に磨くために儲けてくださいと申し上げた。そして、資源を使っていない、もったいないいくつかのポイントを指摘をさせていただいた。会場からも多くの質問が出て良い地域フォーラムであったと思う。そして、何よりも主体はそこに住む人達であり、特にお年寄りが主役になっていることであった。お年寄りが元気であることによって、コミュニティの元気が生まれ、そんな人達が住む日本の原点とも言える町に人は訪れる。結果、若い家族のIターンも生まれる。私の講演も少しの元気の素になったら幸いである。(続く)
3日ほど京都・大阪に出かけていた。その目的は京都府南丹市美山で行われた地域フォーラムの基調講演であった。関西方面の人にとってはある程度知られた地域であるが、美山という名前が示しているように美しい山間の町である。どの地方も同じであるが、主産業である林業が衰退し、人口は流出し、高齢化が進んだ地域である。こうした問題が象徴的に進んだことから、恐らく全国でもいち早く住民が主体となって、行政を含め取り組み、そうした意味で地方における村起こし、産業起こしを先駆的に実践してきた地域である。
講演のテーマを「都市生活者の今と市場開発の着眼」としたのだが、どこにでもある田舎をここにしかない田舎にするために、持っている多くの資源・資産を使って、魅力的な固有の田舎になって欲しいとの願いがあった。そして、業界や競争相手を見る前に、「都市生活者の今」を見つめることから始め、「次」に進んでいくためのアイディア、着眼をいくつかの事例を交えて話をさせていただいた。
昭和50年代から始まった村起こしの体験と実績からであろう、更にはそうした結果として10年前には「優秀観光地づくり賞」の金賞に輝いた地域ということから、200名近くの住民の方々が集まり熱心に聞いていただいた。
実はこの基調講演の前に、京都の友人に美山町を2時間半ほど案内してもらった。その実感であるが、見事なネイチャーヴィレッジ、ネイチャーテーマパークになっているなと。それは東京ディズニーランドのマーケティング構図を重ねることができるものであった。勿論、昭和50年代から始まった村起こしであり、東京ディズニーランドが出来るはるか以前からの、住民と行政の手による日本そのもののテーマパークである。テーマパークというと、何か人工的なものと思いがちであるが、美山のそれは自然に寄り添って生活している住民の人達による自然を生かしたテーマパークである。東京ディズニーランドが米国のフォークロアとして物語化されたのに対し、美山は日本のフォークロアとして住む人達の手で継承され磨かれてきたものだ。
その構図とはこうである。美山地区への入り口・ゲートには国道162号線沿いに「ふれあい広場」という農産物等を販売している道の駅がある。東京ディズニーランドがそうであるようにゲートをくぐると両側にお土産物のショップが並んでいるのと同じである。道の駅から美山町に入ると杉や檜の森林が迎えてくれる。冬の真っ最中であるが、とにかく美しい景観である。道路脇には一切の広告物はない。住民の人達の総意で景観が守られている。ほどなくいくつかの集落があり、かやぶきの家が点在している。のどかな山間の農村風景である。それら集落の先に現れたのが文化財保護法による保存地区「かやぶきの里」である。見事なかやぶきの家が集積・保存されていて、東京ディズニーランドの構図から言えば、シンデレラ城にあたる。「かやぶきの里」は美山地区のランドマークということだ。寒い季節にも関わらず、カメラを手にした何名ものマニヤが撮影をしていた。このかやぶきの里の前には清流美山川が流れている。鮎の名釣り場として関西の釣りフアンに知られた川であるが、聞くと利き酒ならぬ「利き鮎大会」で準優勝したという。それだけ豊かな川であるということだ。この美山川の先には「自然文化村」という宿泊施設のある都市生活者との交流拠点がある。ここを拠点に、修学旅行生の農作業体験など数多くのイベントメニューが実施されている。東京ディズニーランドにおけるアトラクションと同じである。
こうした実感をもとに、基調講演とその後のパネルディスカッションをさせていただいた。東京ディズニーランドの収入の70数%が物販によるものであることを踏まえ、もっともっと特産品を作り、このネイチャーヴィレッジを更に磨くために儲けてくださいと申し上げた。そして、資源を使っていない、もったいないいくつかのポイントを指摘をさせていただいた。会場からも多くの質問が出て良い地域フォーラムであったと思う。そして、何よりも主体はそこに住む人達であり、特にお年寄りが主役になっていることであった。お年寄りが元気であることによって、コミュニティの元気が生まれ、そんな人達が住む日本の原点とも言える町に人は訪れる。結果、若い家族のIターンも生まれる。私の講演も少しの元気の素になったら幸いである。(続く)
2010年02月17日
情報の質とは
ヒット商品応援団日記No445(毎週2回更新) 2010.2.17.
1年ほど前、週刊東洋経済は日本のマスメディアが抱える問題を指摘し陥落へと向かうであろうと特集を組んだ。そして、また1年後「新聞・テレビ断末魔」という少々おドロドロしいタイトルで特集を組んでいる。既に1ヶ月以上前に、米国のニューヨークタイムズ紙が経営危機に陥りリストラが始まったとの情報を得ていたが、インターネットを含め情報源の多様さにどう向き合うかの問題は米国も日本も同じである。
今号では新聞各社の経営内容について詳しく分析されているが、一言でいえば、新聞広告離れが激しく、不動産事業等本業以外の事業でなんとか経営を継続している、という内容であった。つまり、インターネットという無料経済の嵐の中、広告と言う収入源によるビジネスモデルは最早崩壊し、次のビジネスモデルの構築が急がれているということだ。更に言うと、朝日新聞が特徴的であるが、本業以外の不動産事業の収益性が悪くなっており、楽観できない情況にあるという点である。ちなみに、今年末で退店すると発表した有楽町西武の大家さんは朝日新聞である。そして、超一等地ではあるが、西武百貨店が支払っていた家賃がそのまま得られるか、都心の地価が下がっていることもあり、収入減へと向かう恐れがあるということだ。
もう一つのマスメディアTV局であるが、昨年秋からスポット広告の復調の兆しが見え始めたこと。更に各社とも大幅な制作経費削減によって危機に対し踏みとどまっている。そして、地デジ整備への投資もほぼ終わり、経営的には楽になると分析されているが、疲弊した地方経済にネットワークを組んでいるキー局にとってネットワークを維持していくことは極めて難しいと指摘している。
つまり、制作経費削減は番組の質の低下を招き、視聴率という商品の価格を下げる結果となっている。その典型がTBSの「総力報道!THE NEWS」(18:40〜19:40)である。報道という一番制作経費のかからない便組であるが、一桁台の視聴率しか獲得出来ていない。TBSの経営も放送事業という本業は113億円という巨大な赤字であるが、「赤坂サカス」という不動産事業収入によってなんとか黒字を見込んでいる。これも朝日新聞と同じビジネス構造だ。
つまり、本業の再定義が問われているということである。このブログでもあらゆる業種・業態が次へと転換していく様を書いてきたが、一番遅れていたのがマスメディアということだ。なんとも皮肉なことであるが、情報を取り扱うマスメディアが時代に対し非情報的であったということである。
米国の経済紙ウオールストリートジャーナルは購読料を支払った購読者のみに閲覧できる有料モデルが成功を収めつつあるようだが、これも一つの方法である。いずれにせよ「情報の質」が問われているのであって、その質とは「未知なる情報」「限定・希少な情報」「面白い情報」の3つに分類できる。そして、各々の情報は「使うに足る」「使用性の高い」もので、「知られにくい情報」だけにお金を支払うということである。
こうした情報を受け止める購読者、視聴者と共に、広告と言う情報を提供するスポンサーの側も変わり始めている。まだテスト段階のようであるが、TVCMの標準である15秒CMが「5秒CM」が登場した。シャープの「プラズマクラスター」や日本コカコーラの「ジョージア」であるが、メディア・ミックス上の費用対効果等を測定していると考えられる。
こうした常識を破った「5秒CM」のように、他の業種・業態でも「次」を見据えたテストマーケティングが行われている。ブランドと提携した宝島社のおまけ付き雑誌、最近では調理道具付きのレシピ本を書店で売っているように、例えば書店も大きく変わろうとしている。
パラダイムチェンジ、価値観の転換期にはこうした本業を生かすためのテスト、小さなチャレンジが必要なのだ。インターネットという無料経済の中で、生活者が求める情報の質とは、インターネット検索では出てこない、知られにくい、未だ知らない、興味を喚起してくれる情報、ニュースということである。つまり、新商品開発、新業態開発と何一つ変わらないということだ。(続く)
1年ほど前、週刊東洋経済は日本のマスメディアが抱える問題を指摘し陥落へと向かうであろうと特集を組んだ。そして、また1年後「新聞・テレビ断末魔」という少々おドロドロしいタイトルで特集を組んでいる。既に1ヶ月以上前に、米国のニューヨークタイムズ紙が経営危機に陥りリストラが始まったとの情報を得ていたが、インターネットを含め情報源の多様さにどう向き合うかの問題は米国も日本も同じである。
今号では新聞各社の経営内容について詳しく分析されているが、一言でいえば、新聞広告離れが激しく、不動産事業等本業以外の事業でなんとか経営を継続している、という内容であった。つまり、インターネットという無料経済の嵐の中、広告と言う収入源によるビジネスモデルは最早崩壊し、次のビジネスモデルの構築が急がれているということだ。更に言うと、朝日新聞が特徴的であるが、本業以外の不動産事業の収益性が悪くなっており、楽観できない情況にあるという点である。ちなみに、今年末で退店すると発表した有楽町西武の大家さんは朝日新聞である。そして、超一等地ではあるが、西武百貨店が支払っていた家賃がそのまま得られるか、都心の地価が下がっていることもあり、収入減へと向かう恐れがあるということだ。
もう一つのマスメディアTV局であるが、昨年秋からスポット広告の復調の兆しが見え始めたこと。更に各社とも大幅な制作経費削減によって危機に対し踏みとどまっている。そして、地デジ整備への投資もほぼ終わり、経営的には楽になると分析されているが、疲弊した地方経済にネットワークを組んでいるキー局にとってネットワークを維持していくことは極めて難しいと指摘している。
つまり、制作経費削減は番組の質の低下を招き、視聴率という商品の価格を下げる結果となっている。その典型がTBSの「総力報道!THE NEWS」(18:40〜19:40)である。報道という一番制作経費のかからない便組であるが、一桁台の視聴率しか獲得出来ていない。TBSの経営も放送事業という本業は113億円という巨大な赤字であるが、「赤坂サカス」という不動産事業収入によってなんとか黒字を見込んでいる。これも朝日新聞と同じビジネス構造だ。
つまり、本業の再定義が問われているということである。このブログでもあらゆる業種・業態が次へと転換していく様を書いてきたが、一番遅れていたのがマスメディアということだ。なんとも皮肉なことであるが、情報を取り扱うマスメディアが時代に対し非情報的であったということである。
米国の経済紙ウオールストリートジャーナルは購読料を支払った購読者のみに閲覧できる有料モデルが成功を収めつつあるようだが、これも一つの方法である。いずれにせよ「情報の質」が問われているのであって、その質とは「未知なる情報」「限定・希少な情報」「面白い情報」の3つに分類できる。そして、各々の情報は「使うに足る」「使用性の高い」もので、「知られにくい情報」だけにお金を支払うということである。
こうした情報を受け止める購読者、視聴者と共に、広告と言う情報を提供するスポンサーの側も変わり始めている。まだテスト段階のようであるが、TVCMの標準である15秒CMが「5秒CM」が登場した。シャープの「プラズマクラスター」や日本コカコーラの「ジョージア」であるが、メディア・ミックス上の費用対効果等を測定していると考えられる。
こうした常識を破った「5秒CM」のように、他の業種・業態でも「次」を見据えたテストマーケティングが行われている。ブランドと提携した宝島社のおまけ付き雑誌、最近では調理道具付きのレシピ本を書店で売っているように、例えば書店も大きく変わろうとしている。
パラダイムチェンジ、価値観の転換期にはこうした本業を生かすためのテスト、小さなチャレンジが必要なのだ。インターネットという無料経済の中で、生活者が求める情報の質とは、インターネット検索では出てこない、知られにくい、未だ知らない、興味を喚起してくれる情報、ニュースということである。つまり、新商品開発、新業態開発と何一つ変わらないということだ。(続く)
2010年02月14日
凍えた風景
ヒット商品応援団日記No444(毎週2回更新) 2010.2.14.
今年の冬は暖冬との長期予報であったが、見事に外れた。ユニクロのヒートテックを始めとした肌着類は予測が外れ、どこも品切れ状態が続いている。どのメーカーも小売業も、無理はせず、全てを控え目にした結果であろう。控え目とは収縮であり、展望の無さを証明していることでもある。
ところで、今年もまた「サラリーマン川柳」の入選作100選が発表された。時代の空気感を表した一つであるが、私が使ってきたキーワードを組み合わせると次のようになる。
・巣ごもり消費/エコライフ 行かず動かず 何もせず 後始末
/ウチだって インフルだけは 新型だ シロップリン
/手抜きした 妻の言いわけ エコ弁当 とらさん
・年間所得100万円減少時代/一・二・三 我が家のビール 変遷史 しゅう
/逆らえず ウチのこづかい 仕分け人 愛妻家
/草食系? いいえ我が家は 粗食系 頑張れパパ
/節約と 人には言わず エコと言う 環境問題
数年前までは、夫婦や上司・部下といった人間模様の川柳が多かったが、年々笑うに笑えない現実をテーマにしたものが多くなってきた。庶民が本格的に言葉遊びを楽しみ始めたのは江戸時代の川柳である。初代柄井川柳(からいせんりゅう)が始めたものだが、庶民誰でもが参加できるように前句というお題に対し、それに続く句を詠む遊びである。この前句から続く後の句が独立したのが「川柳」である。
サブプライムローン問題が表面化する前、ちょうど3年前に、この「サラリーマン川柳」を取り上げていた。既に、消費低迷を感じていた私は一つの心理的打開策として、次のように書いていた。
『敢えて、川柳を取り上げたのは、私たちのビジネスの考え方として、時代というお題に対し、後の句をどう詠んでいったらよいかよく似ているからである。しかも、川柳はくすっと笑える、そうそうとうなづける表現形式である。不安ばかりが増幅されている時代、停滞気味の市場情況の中にあって、顧客のこころの扉を開けるにはユーモア、遊び感覚こそ必要となる。』
3年後、今年の入選作を読んでみたが、あまりにリアルすぎてユーモアにならない句が多い。そうそうと頷けるが、その後の笑いはない。言葉遊びどころではない、というのが生活実感である。
前句という時代のお題は、「巣ごもり消費」や「年間所得100万円減少」である。元来、日本文化の無防備とも言える開放性によって、外から様々なモノや文化を取り入れてきた。つまり、周りを気にする民族であるが、周りは今年の冬のように凍えた風景ばかりである。
こうしてブログを書いてきたが、子供の非行、薬物中毒の悲惨さに夜回りをして救いの手を差しのべている水谷修先生の言葉を思い出す。少女達に、つらい過去ではなく、明日を語らせなければいけないと。今は閉鎖されているが、その水谷先生の掲示板のタイトルは「春不遠」であった。(続く)
今年の冬は暖冬との長期予報であったが、見事に外れた。ユニクロのヒートテックを始めとした肌着類は予測が外れ、どこも品切れ状態が続いている。どのメーカーも小売業も、無理はせず、全てを控え目にした結果であろう。控え目とは収縮であり、展望の無さを証明していることでもある。
ところで、今年もまた「サラリーマン川柳」の入選作100選が発表された。時代の空気感を表した一つであるが、私が使ってきたキーワードを組み合わせると次のようになる。
・巣ごもり消費/エコライフ 行かず動かず 何もせず 後始末
/ウチだって インフルだけは 新型だ シロップリン
/手抜きした 妻の言いわけ エコ弁当 とらさん
・年間所得100万円減少時代/一・二・三 我が家のビール 変遷史 しゅう
/逆らえず ウチのこづかい 仕分け人 愛妻家
/草食系? いいえ我が家は 粗食系 頑張れパパ
/節約と 人には言わず エコと言う 環境問題
数年前までは、夫婦や上司・部下といった人間模様の川柳が多かったが、年々笑うに笑えない現実をテーマにしたものが多くなってきた。庶民が本格的に言葉遊びを楽しみ始めたのは江戸時代の川柳である。初代柄井川柳(からいせんりゅう)が始めたものだが、庶民誰でもが参加できるように前句というお題に対し、それに続く句を詠む遊びである。この前句から続く後の句が独立したのが「川柳」である。
サブプライムローン問題が表面化する前、ちょうど3年前に、この「サラリーマン川柳」を取り上げていた。既に、消費低迷を感じていた私は一つの心理的打開策として、次のように書いていた。
『敢えて、川柳を取り上げたのは、私たちのビジネスの考え方として、時代というお題に対し、後の句をどう詠んでいったらよいかよく似ているからである。しかも、川柳はくすっと笑える、そうそうとうなづける表現形式である。不安ばかりが増幅されている時代、停滞気味の市場情況の中にあって、顧客のこころの扉を開けるにはユーモア、遊び感覚こそ必要となる。』
3年後、今年の入選作を読んでみたが、あまりにリアルすぎてユーモアにならない句が多い。そうそうと頷けるが、その後の笑いはない。言葉遊びどころではない、というのが生活実感である。
前句という時代のお題は、「巣ごもり消費」や「年間所得100万円減少」である。元来、日本文化の無防備とも言える開放性によって、外から様々なモノや文化を取り入れてきた。つまり、周りを気にする民族であるが、周りは今年の冬のように凍えた風景ばかりである。
こうしてブログを書いてきたが、子供の非行、薬物中毒の悲惨さに夜回りをして救いの手を差しのべている水谷修先生の言葉を思い出す。少女達に、つらい過去ではなく、明日を語らせなければいけないと。今は閉鎖されているが、その水谷先生の掲示板のタイトルは「春不遠」であった。(続く)
2010年02月11日
サバイバル時代の知恵
ヒット商品応援団日記No443(毎週2回更新) 2010.2.11.
ここ2年ほど、10年間で100万円所得が減少した時代、いわば所得減少に伴ってどんな消費傾向が見られてきたかを書いてきた。そうした消費傾向を「巣ごもり消費」と呼んできた訳であるが、「消費は所得の関数」としての意味合いと共に、もう一つの消費価値観を再考してみたい。そのことは何よりも価格競争を脱することや新市場の創造への着眼につながるからである。
「消費は所得の関数」、その現象としては低価格商品や低価格店への志向は勿論のこと、更に回数減、となって現れてくる。ある意味、使えるお金の中で単純に金額と回数を減らすという消費である。しかし、昨年のヒット商品であるLED電球やHV車のように、最初は少々高くつくが長い目で見れば財布にも地球にも優しい「エコはお得」といった価値観商品、新しい市場も生まれてきた。一方、車で言うと、都市部ではカーシェアリングが急速に普及し始めている。両者の根底にある価値観は、所有価値と使用価値である。多様な価値観の時代に向かっていると、そう決めつけて終わることは簡単であるが、しかし答えにはならずその多様さについて考えてみたい。
ところで、1980年代から数年前まで、「トレンド」というキーワードがマーチャンダイジング&マーケティングで言われてきた。簡単に言えば、新しい、珍しい、面白い、そんな消費傾向(トレンド)を探り、その商品をどこよりも早く、顧客に提供しようとするビジネスである。しかし、それは競合社によってすぐに類似商品が生まれ、価格競争市場に向かう。この繰り返しを続けてきた訳である。そして、今なおこうしたマーケティングによる消費傾向は巣ごもり生活においても続いてはいるが、新しいは「既にあるもの」へ、珍しいは「使い回し」へ、面白いは「私の好み」へ、そんな変化が顧客の側に見られるようになった。「既にあるもの」を「使い回し」て「私の好み」にする、そんなライフスタイル観である。
もっとくだけた表現をすれば、「冷蔵庫にある残り物をプロの料理人がごちそうに変身させ、しかもお得」、いわゆる賄い料理のような、生活のプロ志向化、生活の達人に向かうライフスタイルと言える。極端な表現をすれば、消費のプロから生活のプロへの転換ということである。下取りセールの成功、今なお続くアウトレット人気、リサイクルショップの普及&定着、・・・・・・こうしたエコロジー的視座による見直しが、個々の生活の細部にわたって進行しているということである。結果どういうことが起きているか、例えば使いこなせない圧力釜や洗濯機等の家電メーカーは使い方教室を開催し、人気となっている。あるいは、衣類の修復やしみ抜きのプロ福永真一さんやクリーニングのプロ中村祐一さんに注目が集まるのも、既に「有るもの」を生かし切る、価値を最大化させる知恵が求められている良き事例である。
3年ほど前、「今、地方ビジネスがおもしろい」というテーマでブログを書いたことがあった。地方に埋もれた「既にあるもの」に着眼して欲しいと願ってであったが、ネット通販という方法によって、次々にヒット商品を生んでいることは周知の通りである。「既にあるものへの再認識」とは、価値観でいうと「有用性」への認識ということである。生活者にとって、単純な新しい、珍しい、面白いといった欲望としての消費に、「有用性」という新たな物差しを持ち始めたということだ。その有用性には「長い目で見た費用対効果」もあれば、「使い回すことによる新たな満足」もある。その新たな満足には、「私」としての好み以外に、守るべき家族の健康や、もっと広げればエコにも良いといった「公」としての小さな満足もある。こうした認識は巣ごもり生活を通じ再認識し得られたものであるが、小資源国日本ならではの一種の能力、日本人が先駆的に持っているDNAのようなものだ。
経済指標を持ち出すまでもなく、企業も生活者も生き残るための戦いをしている。この「有用性」を企業経営という世界に当てはめてみると生き残り策が見えてくる。日本は世界の中で圧倒的に老舗、継続し続ける企業が多い。1400年以上続く大阪の宮大工金剛組を持ち出さなくても、地方を歩けば数百年続く会社は山ほどある。良く言われることであるが、継続を可能とするには「変化対応力」が不可欠であると。しかし、同時に「守るべき何か」「継続すべきは何か」を明確にするということである。
企業経営における「有用性」という視座に立てば、まず「有るもの」を見直し、使い回したり、転用したり、知恵を駆使して生き延びてきた。「有るもの」、それは技術であったり、人材であったり、お金では買えない信用・暖簾であったりする。勿論、こうした無形のものの前に、有形の土地や建物、設備といった資産の活用も前提としてある。つまり、サバイバル時代の重要な戦略は、変えるべきことと、継続すべき、守るべき何かを明確にすることから始まる。
洋食器の製造で知られている新潟燕三条では、金型製造技術や研磨技術が携帯電話や小型航空機の部品製造にまで転用されている。タオルの産地である四国今治のタオル製造の再生もしかりである。農産物でも、10年ほど前から米やりんごを中国を始めヨーロッパへと輸出している。日本酒もしかり、ドバイショックでその後どうなったか確認していないが、中東にスイカまで売りに行っている。国や業界という垣根を越えて、それぞれ「有るもの」を自在に生かし切る知恵の結果である。
サバイバル時代に生き残るための知恵、それは既に「有るもの」に対し、少し離れて見る、俯瞰的な視座を必要とする。それは企業も生活者もサバイバル時代を生きることにおいて同じである。そして、提供する側の目的や意図とは違って、使い回したり、転用したり、何かの替わりに使ったり、思いがけないところでヒット商品が生まれる、それがサバイバル時代の特徴だ。(続く)
ここ2年ほど、10年間で100万円所得が減少した時代、いわば所得減少に伴ってどんな消費傾向が見られてきたかを書いてきた。そうした消費傾向を「巣ごもり消費」と呼んできた訳であるが、「消費は所得の関数」としての意味合いと共に、もう一つの消費価値観を再考してみたい。そのことは何よりも価格競争を脱することや新市場の創造への着眼につながるからである。
「消費は所得の関数」、その現象としては低価格商品や低価格店への志向は勿論のこと、更に回数減、となって現れてくる。ある意味、使えるお金の中で単純に金額と回数を減らすという消費である。しかし、昨年のヒット商品であるLED電球やHV車のように、最初は少々高くつくが長い目で見れば財布にも地球にも優しい「エコはお得」といった価値観商品、新しい市場も生まれてきた。一方、車で言うと、都市部ではカーシェアリングが急速に普及し始めている。両者の根底にある価値観は、所有価値と使用価値である。多様な価値観の時代に向かっていると、そう決めつけて終わることは簡単であるが、しかし答えにはならずその多様さについて考えてみたい。
ところで、1980年代から数年前まで、「トレンド」というキーワードがマーチャンダイジング&マーケティングで言われてきた。簡単に言えば、新しい、珍しい、面白い、そんな消費傾向(トレンド)を探り、その商品をどこよりも早く、顧客に提供しようとするビジネスである。しかし、それは競合社によってすぐに類似商品が生まれ、価格競争市場に向かう。この繰り返しを続けてきた訳である。そして、今なおこうしたマーケティングによる消費傾向は巣ごもり生活においても続いてはいるが、新しいは「既にあるもの」へ、珍しいは「使い回し」へ、面白いは「私の好み」へ、そんな変化が顧客の側に見られるようになった。「既にあるもの」を「使い回し」て「私の好み」にする、そんなライフスタイル観である。
もっとくだけた表現をすれば、「冷蔵庫にある残り物をプロの料理人がごちそうに変身させ、しかもお得」、いわゆる賄い料理のような、生活のプロ志向化、生活の達人に向かうライフスタイルと言える。極端な表現をすれば、消費のプロから生活のプロへの転換ということである。下取りセールの成功、今なお続くアウトレット人気、リサイクルショップの普及&定着、・・・・・・こうしたエコロジー的視座による見直しが、個々の生活の細部にわたって進行しているということである。結果どういうことが起きているか、例えば使いこなせない圧力釜や洗濯機等の家電メーカーは使い方教室を開催し、人気となっている。あるいは、衣類の修復やしみ抜きのプロ福永真一さんやクリーニングのプロ中村祐一さんに注目が集まるのも、既に「有るもの」を生かし切る、価値を最大化させる知恵が求められている良き事例である。
3年ほど前、「今、地方ビジネスがおもしろい」というテーマでブログを書いたことがあった。地方に埋もれた「既にあるもの」に着眼して欲しいと願ってであったが、ネット通販という方法によって、次々にヒット商品を生んでいることは周知の通りである。「既にあるものへの再認識」とは、価値観でいうと「有用性」への認識ということである。生活者にとって、単純な新しい、珍しい、面白いといった欲望としての消費に、「有用性」という新たな物差しを持ち始めたということだ。その有用性には「長い目で見た費用対効果」もあれば、「使い回すことによる新たな満足」もある。その新たな満足には、「私」としての好み以外に、守るべき家族の健康や、もっと広げればエコにも良いといった「公」としての小さな満足もある。こうした認識は巣ごもり生活を通じ再認識し得られたものであるが、小資源国日本ならではの一種の能力、日本人が先駆的に持っているDNAのようなものだ。
経済指標を持ち出すまでもなく、企業も生活者も生き残るための戦いをしている。この「有用性」を企業経営という世界に当てはめてみると生き残り策が見えてくる。日本は世界の中で圧倒的に老舗、継続し続ける企業が多い。1400年以上続く大阪の宮大工金剛組を持ち出さなくても、地方を歩けば数百年続く会社は山ほどある。良く言われることであるが、継続を可能とするには「変化対応力」が不可欠であると。しかし、同時に「守るべき何か」「継続すべきは何か」を明確にするということである。
企業経営における「有用性」という視座に立てば、まず「有るもの」を見直し、使い回したり、転用したり、知恵を駆使して生き延びてきた。「有るもの」、それは技術であったり、人材であったり、お金では買えない信用・暖簾であったりする。勿論、こうした無形のものの前に、有形の土地や建物、設備といった資産の活用も前提としてある。つまり、サバイバル時代の重要な戦略は、変えるべきことと、継続すべき、守るべき何かを明確にすることから始まる。
洋食器の製造で知られている新潟燕三条では、金型製造技術や研磨技術が携帯電話や小型航空機の部品製造にまで転用されている。タオルの産地である四国今治のタオル製造の再生もしかりである。農産物でも、10年ほど前から米やりんごを中国を始めヨーロッパへと輸出している。日本酒もしかり、ドバイショックでその後どうなったか確認していないが、中東にスイカまで売りに行っている。国や業界という垣根を越えて、それぞれ「有るもの」を自在に生かし切る知恵の結果である。
サバイバル時代に生き残るための知恵、それは既に「有るもの」に対し、少し離れて見る、俯瞰的な視座を必要とする。それは企業も生活者もサバイバル時代を生きることにおいて同じである。そして、提供する側の目的や意図とは違って、使い回したり、転用したり、何かの替わりに使ったり、思いがけないところでヒット商品が生まれる、それがサバイバル時代の特徴だ。(続く)
2010年02月07日
コンプライアンスの本質
ヒット商品応援団日記No442(毎週2回更新) 2010.2.7.
車の免許証は持ってはいるものの、ここ十数年ハンドルを握ったことがない。そうしたこともあって、減税&補助金による需要先食いがどこまで続くかといったことは考えてはいたものの、HV車新型「プリウス」のブレーキ不良にはあまり注目してこなかった。もっと正確に言えば、HV車やEV車という次世代カーを成立させる技術そのものへの関心は、せいぜい一般紙や経済誌で扱われている程度のものであった。
今回問題となったブレーキ不良は、雪道走行時に使われる「アンチロックブレーキシステム(ABS)」が作動する時の問題で。このABSが油圧、回生両ブレーキ併用状態から油圧ブレーキだけに切り替わる時1秒ほど感覚的なタイムラグがあり、ブレーキが効かないまま走ることになる、そんな説明であった。勿論、2つのブレーキシステムはコンピュータで制御されている訳であるが、そのタイムラグの感覚は、人さまざまである。何か、車のシステムに人の感覚を合わせて乗ることが必要であるかの感がしてならない。
また、昨秋からアクセル不良問題が表面化し、欧米、中国で販売されたカローラやカムリ等のリコールが始まっている。1990年代初頭の米国との貿易摩擦以降、海外での現地生産が行われ、トヨタでは海外生産は全体の4割に及んでいるという。勿論、自動車は2〜3万点もの部品が使われ、今回問題となったアクセルペダルは米国の部品メーカーCTSコーポレーションと報道されている。たった一つの不良品がこうした五百数十万台のリコールという結果を生む、これがグローバルビジネスである。あたかも、リーマンショックを引き起こしたサブプライムローンのように、汚染された証券が世界中にばらまかれたことを想起させる。
先日、トヨタ車の品質問題で豊田章男社長が記者会見を行っていたが、どこかの危機管理コンサルタントの受け売りのような陳謝と説明であった。ジャストインタイム、かんばん方式、カイゼン、といった言葉で表現されるトヨタ生産方式は、1973年の石油ショック、1991年のバブル崩壊、こうした危機を乗り越えるために多くの企業がトヨタから学んできた。モノづくりの精神が現場の一人ひとりに共有され、解決のために考え、アイディアを出し、行動し、結果を自ら引き受ける、つまり人が変わるための日本的な革新であり、モノづくり文化である。こうした日々の結果、世界NO1の自動車メーカーとなった訳である。しかし、技術は輸出できるが、徹底した現場主義から生まれ育ってきたモノづくり文化までは輸出できない。
作家冷泉彰彦氏がJMMのUSAレポートで2度にわたり北米でのトヨタ問題を報告してくれているが、想像以上にトヨタパッシングが激しく、ここぞとばかりにフォードはトヨタからの乗り換え促進を進めているいう。今度はトヨタ自身が危機に直面している。危機はトヨタブランド、安全と品質への不信というかたちで。しかも、日本国内もそうであるが、特に次世代カー「プリウス」の問題は極めて大きい。トヨタブランドを牽引する戦略車種、未来への牽引者種であるからだ。トヨタブランドは何十年にも渡って創られてきたものであるが、ブランドは常にいとも簡単に崩壊する。
こうした問題が起きる度に、危機管理が叫ばれ、危機管理コンサルタントがコメントを出す。記者会見といった広報レベルであれば、百歩譲ってその必要は認めるが、コトの本質解決とはならない。トヨタ自動車を今日のトヨタにしたのは、人、現場の人によってである。これは推測ではあるが、トヨタのことだから「アンチロックブレーキシステム(ABS)」について現場では多くの試行錯誤と検討がなされてきた筈である。従来のガソリン車とは異なる運転スタイルを必要とし、そのための人間研究、身体と心理の研究がなされてきたと思う。HV車は未来の車の入り口である。であればこそ、陳謝は必要ではあるが、運転する人にとっての問題と共に、未来の車のある生活、未来の運転スタイル、未来実感を描くことこそ、真のコンプライアンスとなる。
豊田章男社長の記者会見では象徴的なシーンがあった。外国人記者からの質問で、世界に向けて英語でメッセージを述べて欲しいというものであった。グローバル企業、NO1企業の最大の責務は陳謝と共に未来を語ることであり、そのために具体性をもって明日からの行動を述べることだ。そして、トヨタ自動車の実質的創業者である豊田喜一郎は部品の不具合があれば、即、現場、ユーザーへと足を運んだ筈である。日々問題が起きる現場について、HONDAの創業者である本田宗一郎は日経ビジネスのインタビューに次のように答えていた。
「人間はね、一人ひとりみんな違っているからいいんだよ。みんな同じなら、社長は人を雇わずにロボットをいっぱい買って仕事をさせてりゃいいでしょう。」
(続く)
車の免許証は持ってはいるものの、ここ十数年ハンドルを握ったことがない。そうしたこともあって、減税&補助金による需要先食いがどこまで続くかといったことは考えてはいたものの、HV車新型「プリウス」のブレーキ不良にはあまり注目してこなかった。もっと正確に言えば、HV車やEV車という次世代カーを成立させる技術そのものへの関心は、せいぜい一般紙や経済誌で扱われている程度のものであった。
今回問題となったブレーキ不良は、雪道走行時に使われる「アンチロックブレーキシステム(ABS)」が作動する時の問題で。このABSが油圧、回生両ブレーキ併用状態から油圧ブレーキだけに切り替わる時1秒ほど感覚的なタイムラグがあり、ブレーキが効かないまま走ることになる、そんな説明であった。勿論、2つのブレーキシステムはコンピュータで制御されている訳であるが、そのタイムラグの感覚は、人さまざまである。何か、車のシステムに人の感覚を合わせて乗ることが必要であるかの感がしてならない。
また、昨秋からアクセル不良問題が表面化し、欧米、中国で販売されたカローラやカムリ等のリコールが始まっている。1990年代初頭の米国との貿易摩擦以降、海外での現地生産が行われ、トヨタでは海外生産は全体の4割に及んでいるという。勿論、自動車は2〜3万点もの部品が使われ、今回問題となったアクセルペダルは米国の部品メーカーCTSコーポレーションと報道されている。たった一つの不良品がこうした五百数十万台のリコールという結果を生む、これがグローバルビジネスである。あたかも、リーマンショックを引き起こしたサブプライムローンのように、汚染された証券が世界中にばらまかれたことを想起させる。
先日、トヨタ車の品質問題で豊田章男社長が記者会見を行っていたが、どこかの危機管理コンサルタントの受け売りのような陳謝と説明であった。ジャストインタイム、かんばん方式、カイゼン、といった言葉で表現されるトヨタ生産方式は、1973年の石油ショック、1991年のバブル崩壊、こうした危機を乗り越えるために多くの企業がトヨタから学んできた。モノづくりの精神が現場の一人ひとりに共有され、解決のために考え、アイディアを出し、行動し、結果を自ら引き受ける、つまり人が変わるための日本的な革新であり、モノづくり文化である。こうした日々の結果、世界NO1の自動車メーカーとなった訳である。しかし、技術は輸出できるが、徹底した現場主義から生まれ育ってきたモノづくり文化までは輸出できない。
作家冷泉彰彦氏がJMMのUSAレポートで2度にわたり北米でのトヨタ問題を報告してくれているが、想像以上にトヨタパッシングが激しく、ここぞとばかりにフォードはトヨタからの乗り換え促進を進めているいう。今度はトヨタ自身が危機に直面している。危機はトヨタブランド、安全と品質への不信というかたちで。しかも、日本国内もそうであるが、特に次世代カー「プリウス」の問題は極めて大きい。トヨタブランドを牽引する戦略車種、未来への牽引者種であるからだ。トヨタブランドは何十年にも渡って創られてきたものであるが、ブランドは常にいとも簡単に崩壊する。
こうした問題が起きる度に、危機管理が叫ばれ、危機管理コンサルタントがコメントを出す。記者会見といった広報レベルであれば、百歩譲ってその必要は認めるが、コトの本質解決とはならない。トヨタ自動車を今日のトヨタにしたのは、人、現場の人によってである。これは推測ではあるが、トヨタのことだから「アンチロックブレーキシステム(ABS)」について現場では多くの試行錯誤と検討がなされてきた筈である。従来のガソリン車とは異なる運転スタイルを必要とし、そのための人間研究、身体と心理の研究がなされてきたと思う。HV車は未来の車の入り口である。であればこそ、陳謝は必要ではあるが、運転する人にとっての問題と共に、未来の車のある生活、未来の運転スタイル、未来実感を描くことこそ、真のコンプライアンスとなる。
豊田章男社長の記者会見では象徴的なシーンがあった。外国人記者からの質問で、世界に向けて英語でメッセージを述べて欲しいというものであった。グローバル企業、NO1企業の最大の責務は陳謝と共に未来を語ることであり、そのために具体性をもって明日からの行動を述べることだ。そして、トヨタ自動車の実質的創業者である豊田喜一郎は部品の不具合があれば、即、現場、ユーザーへと足を運んだ筈である。日々問題が起きる現場について、HONDAの創業者である本田宗一郎は日経ビジネスのインタビューに次のように答えていた。
「人間はね、一人ひとりみんな違っているからいいんだよ。みんな同じなら、社長は人を雇わずにロボットをいっぱい買って仕事をさせてりゃいいでしょう。」
(続く)
2010年02月03日
消費の砂漠化
ヒット商品応援団日記No441(毎週2回更新) 2010.2.3.
2/1のNHK「クローズドアップ現代」は「フードデザート」がテーマであった。「フードデザート」とは食の砂漠化との意味で、生鮮食品の買い物に行けない高齢者の食が缶詰やレトルト食品といった栄養面においても偏った食生活になっている、そんな特集であった。都市に生活している人間には分かりづらいが、地方都市の中心部ですら商店街はシャッター通り化し、過疎地の山間には商店すらない。いわゆる限界集落に生活する高齢者の実態の特集であった。鉄道やバスといった公共交通が赤字のため廃止されていくなかで、運転免許を持たない、ましてやPCなど使えない高齢者にとって、買い物ができない孤立した生活となっている。以前、ブログにも取り上げた鹿児島阿久根市のAZスーパーセンターのように、1回100円の買い物バスを運行し、高齢者にもやさしく、ビジネスとしても成功しているところもあるが、ほとんどの地方都市は「フードデザート」状態である。
一方、同じ2/1の日経MJにはインターネットを駆使した先進流通である「ネットプライスドットコム」のインタビュー記事が掲載されていた。周知のように、安く手に入るギャザリング(共同購入)や中古品の宅配買い取りといった時代変化に即応したビジネス企業である。若い世代、ネット活用世代にとっては極めて便利なネット流通である。
この記事を読みながら、都市と地方の経済格差ばかりか、情報格差もここまできたのかという感がした。食の砂漠化と共に、情報の砂漠化である。
私は地方に出かける場合、ほとんどの方と同じように航空券やホテルはPCを使って予約&決済している。昨年12月頃から、航空運賃やホテルなどのバーゲンメールがひっきりなしに届く。しかし、どれだけの人がバーゲンメールに誘われて旅行するだろうか。昨年春頃から、消費現場では目的買いのみで、ついで買いはほとんどしなくなっている。こうしたメールも単なる砂漠に吹き荒れる砂嵐のように思えて仕方がない。
ところで、今日は2月3日節分の日である。豆まきといった行事は家庭ではほとんど行われず、恵方巻きを食べる日となった。10日後にはバレンタインデーとなるが、小売り現場は恵方巻き一色である。義理チョコからミーギフトへ、今年あたりは友チョコや逆チョコといった変化を持ち込んだバレンタインデーであるが、もはやそんな余裕、いや空気感は全くない。手頃な価格で恵方巻きを食べた方が実質的で、百貨店からコンビニまで、恵方巻きのセール一色である。これが素直な消費現場の実態である。
この恵方巻きは節分の日に食べると縁起が良いとされるが、その発祥には諸説あり、そのいわれを物語にして大阪の海苔問屋が仕掛けた販促キャンペーンが起源だ。バレンタインデーの起源も諸説あるようだが、日本においてはチョコレートメーカーが販促として仕掛けたものである。こうした記念日は別に悪いことではなく、業界全体が「この時」という拡販時期を設定し、各社が競ってコトを起こすキャンペーンである。他にも、成功した事例では「孫の日」があるが、これも百貨店業界が仕掛けた日である。
しかし、こうした記念日という売り出し方も何か空々しく思えるほどの空気感となっている。ハレ(非日常)とケ(日常)という言い方がある。ハレの日ぐらいは少し華やいで何かをしよう、そんな気持ちになるものであるが、残念ながらそんな気が起きないほどである。せいぜい恵方巻きを丸かじりして、満腹感に浸りたい、そんな感じとなっている。
今、ショウガを使って身体を暖める食がブームとなっているが、これもお金をかけずに寒い冬を乗り越える消費氷河期ならではの知恵であろう。本来であれば、単なる冷え対策としてだけではなく、低体温症の根本対策としてマクロビオテクスなどが注目されてしかるべきである。しかし、そこまでも行かない、いや行けないほどの消費氷河期、いや無味乾燥な消費の砂漠化が始まっている。(続く)
2/1のNHK「クローズドアップ現代」は「フードデザート」がテーマであった。「フードデザート」とは食の砂漠化との意味で、生鮮食品の買い物に行けない高齢者の食が缶詰やレトルト食品といった栄養面においても偏った食生活になっている、そんな特集であった。都市に生活している人間には分かりづらいが、地方都市の中心部ですら商店街はシャッター通り化し、過疎地の山間には商店すらない。いわゆる限界集落に生活する高齢者の実態の特集であった。鉄道やバスといった公共交通が赤字のため廃止されていくなかで、運転免許を持たない、ましてやPCなど使えない高齢者にとって、買い物ができない孤立した生活となっている。以前、ブログにも取り上げた鹿児島阿久根市のAZスーパーセンターのように、1回100円の買い物バスを運行し、高齢者にもやさしく、ビジネスとしても成功しているところもあるが、ほとんどの地方都市は「フードデザート」状態である。
一方、同じ2/1の日経MJにはインターネットを駆使した先進流通である「ネットプライスドットコム」のインタビュー記事が掲載されていた。周知のように、安く手に入るギャザリング(共同購入)や中古品の宅配買い取りといった時代変化に即応したビジネス企業である。若い世代、ネット活用世代にとっては極めて便利なネット流通である。
この記事を読みながら、都市と地方の経済格差ばかりか、情報格差もここまできたのかという感がした。食の砂漠化と共に、情報の砂漠化である。
私は地方に出かける場合、ほとんどの方と同じように航空券やホテルはPCを使って予約&決済している。昨年12月頃から、航空運賃やホテルなどのバーゲンメールがひっきりなしに届く。しかし、どれだけの人がバーゲンメールに誘われて旅行するだろうか。昨年春頃から、消費現場では目的買いのみで、ついで買いはほとんどしなくなっている。こうしたメールも単なる砂漠に吹き荒れる砂嵐のように思えて仕方がない。
ところで、今日は2月3日節分の日である。豆まきといった行事は家庭ではほとんど行われず、恵方巻きを食べる日となった。10日後にはバレンタインデーとなるが、小売り現場は恵方巻き一色である。義理チョコからミーギフトへ、今年あたりは友チョコや逆チョコといった変化を持ち込んだバレンタインデーであるが、もはやそんな余裕、いや空気感は全くない。手頃な価格で恵方巻きを食べた方が実質的で、百貨店からコンビニまで、恵方巻きのセール一色である。これが素直な消費現場の実態である。
この恵方巻きは節分の日に食べると縁起が良いとされるが、その発祥には諸説あり、そのいわれを物語にして大阪の海苔問屋が仕掛けた販促キャンペーンが起源だ。バレンタインデーの起源も諸説あるようだが、日本においてはチョコレートメーカーが販促として仕掛けたものである。こうした記念日は別に悪いことではなく、業界全体が「この時」という拡販時期を設定し、各社が競ってコトを起こすキャンペーンである。他にも、成功した事例では「孫の日」があるが、これも百貨店業界が仕掛けた日である。
しかし、こうした記念日という売り出し方も何か空々しく思えるほどの空気感となっている。ハレ(非日常)とケ(日常)という言い方がある。ハレの日ぐらいは少し華やいで何かをしよう、そんな気持ちになるものであるが、残念ながらそんな気が起きないほどである。せいぜい恵方巻きを丸かじりして、満腹感に浸りたい、そんな感じとなっている。
今、ショウガを使って身体を暖める食がブームとなっているが、これもお金をかけずに寒い冬を乗り越える消費氷河期ならではの知恵であろう。本来であれば、単なる冷え対策としてだけではなく、低体温症の根本対策としてマクロビオテクスなどが注目されてしかるべきである。しかし、そこまでも行かない、いや行けないほどの消費氷河期、いや無味乾燥な消費の砂漠化が始まっている。(続く)
2010年01月31日
聖域、家計における教育支出の削減
ヒット商品応援団日記No440(毎週2回更新) 2010.1.31.
確か昨年9月頃のブログに、現状は消費氷河期の入り口あたりで未だ本格的には極寒状態ではないと書いた。その理由として、遊び・レジャー支出が減少する中で、固定フアン(リピーター)によって支えられている東京ディズニーリゾートの集客が減少傾向には至ってはいないこと。(昨年度との比較だけではないという意味)また、当時の家計調査による教育支出が横ばい傾向にあったこと、この2点によるものであった。所得が減少し続ける家計状態、わけあり商品や少しでも安いバーゲン商品、あるいは官製販促支援を受け燃費もお得なHVカーを・・・・・こうした生活防衛的支出にあって、好きを超えたディズニー・オタクに近い遊びへの支出と子供への教育支出。後者については、そんな親の子への気持ちの表れが家計支出の指標に出てきていると考えたことに依る。
周知のように、教育への支出(私費負担)は韓国に次いで日本は二番目に高い。OECDによると、データがあるすべての国で教育に対する国による財政支出は1995年から2006年の間に増加している。一方、私費負担は4分の3以上の国で国の財政支出の伸びを上回る率で増えておりOECD平均では教育支出の15.3%が私費負担となっている。日本の場合、この私費負担が33.3%とOECD平均を倍以上上回っており、OECD加盟国の中で日本より私費負担が高いのは韓国(41.2%)だけだ。つまり、日本は家計への負担が極めて高い国ということである。
ところで、この教育支出について1/27文科省から発表があった。塾や習い事といった「学校外活動費」が前回06年度の調査結果と08年度と比較し大幅に支出が減っている。高校では私立が1人当たり23.9%(6万2千円)減の約19万8千円、公立は9.8%(1万7千円)減の約15万9千円と、いずれも94年に現在の形の調査が始まって以来、最低になったと。しかも、この調査の実施時期は08年4月ー09年3月で、つまりリーマンショック以前も含まれており、この数字以上に現状は悪くなっているということだ。学費の高い私立高においても、学校外教育への支出減少は、多くの生活者に不況が広く浸透していることが分かる。ちょうど大学への受験シーズンであるが、学費の高い私大ではなく安い国公立大、しかも生活費の安い地方大学への志望が高くなっているという。
世帯収入別のデータや幼稚園から高校卒業までの学習費の総額も出ており、文科省のHPを参照されたらと思う。(文科省、『平成20年度「子どもの学習費調査」の結果について』より)
東京ディズニーリゾートの下半期の集客予想が公表されていないので何とも言えないが、子への教育私費負担の減少を見ると、やはり消費厳寒期に入っていると見なければならない。子は親にとって未来であり、子への教育費は取り崩したくない聖域である。しかし、その聖域が崩れ始めてきたということだ。
2010年度の国家予算の論議が国会でこれから始まるが、子ども手当を含めた教育関連予算がすんなり通ったとしても6月からの支給となり、その政策効果が出るのは夏頃からであろう。エコカー減税やエコポイント制の住宅への拡充があったとしても、需要の先食いであり、昨年から始まったこの制度がどこまで内需活性を伸ばしきれるか、暗澹たる思いがしてならない。
前回のブログでも書いたが、東京有楽町西武が今年度末をもって閉店すると報じられ、マスコミは一斉に苦境にある百貨店業界を取り上げた。いつものパターンで、「昔の百貨店には夢があった」などといったインタビューコメントを添えていたが、夢を持ち得ない時代にいることを指摘することはない。百貨店を支えてきた中流層はこの10年間で崩壊し、その中で最後のサバイバル競争に臨んでいるのが百貨店である。昨年9月、大阪梅田阪急百貨店が部分リニューアルしたが、その時従来のフロア構成を変えて、1階をスイーツ売り場とした。これも生き残るための一つの方策である。三越・伊勢丹グループを始め、高島屋もそうであるが、中国へ進出する、出店を加速させる、これも一つの方策である。従来のビジネス慣習から、自らMDし、リスクを負って1万円台のスーツを製造販売する、これも一つの方策である。売れ残ったお歳暮商品をわけあり商品として販売する・・・・・・・小売業は常に顧客の消費価値観を体現するものである。
情報の時代とは断片情報が行き交う時代のことである。数年前、食品偽装という体験を通し、断片情報の時代の生活の仕方を学んできた。体験、リアル、実感、そうした確かなものにしか価値を認めない、そうした自己防衛的ライフスタイルを持つに至った。また、断片情報は常に憶測を生み、憶測は更なる憶測を生む。それは噂になり、疑惑へと進み、結果不安を生じさせる。無数の小さな不安は、いつしか不信となり、内側へ、内側へと消費心理は向かう。そうした心理市場にあっては、安全、安心、更には信用、信頼という基本原則をかたくなに貫き通すということだ。
聖域といわれてきた子どもへの教育支出が削減に向かっている。こうした時代のビジネスは、信用・信頼という原則を愚直にまで実践し続けることだ。結果、閉ざされた心理の扉を開けることへとつながっていく。(続く)
確か昨年9月頃のブログに、現状は消費氷河期の入り口あたりで未だ本格的には極寒状態ではないと書いた。その理由として、遊び・レジャー支出が減少する中で、固定フアン(リピーター)によって支えられている東京ディズニーリゾートの集客が減少傾向には至ってはいないこと。(昨年度との比較だけではないという意味)また、当時の家計調査による教育支出が横ばい傾向にあったこと、この2点によるものであった。所得が減少し続ける家計状態、わけあり商品や少しでも安いバーゲン商品、あるいは官製販促支援を受け燃費もお得なHVカーを・・・・・こうした生活防衛的支出にあって、好きを超えたディズニー・オタクに近い遊びへの支出と子供への教育支出。後者については、そんな親の子への気持ちの表れが家計支出の指標に出てきていると考えたことに依る。
周知のように、教育への支出(私費負担)は韓国に次いで日本は二番目に高い。OECDによると、データがあるすべての国で教育に対する国による財政支出は1995年から2006年の間に増加している。一方、私費負担は4分の3以上の国で国の財政支出の伸びを上回る率で増えておりOECD平均では教育支出の15.3%が私費負担となっている。日本の場合、この私費負担が33.3%とOECD平均を倍以上上回っており、OECD加盟国の中で日本より私費負担が高いのは韓国(41.2%)だけだ。つまり、日本は家計への負担が極めて高い国ということである。
ところで、この教育支出について1/27文科省から発表があった。塾や習い事といった「学校外活動費」が前回06年度の調査結果と08年度と比較し大幅に支出が減っている。高校では私立が1人当たり23.9%(6万2千円)減の約19万8千円、公立は9.8%(1万7千円)減の約15万9千円と、いずれも94年に現在の形の調査が始まって以来、最低になったと。しかも、この調査の実施時期は08年4月ー09年3月で、つまりリーマンショック以前も含まれており、この数字以上に現状は悪くなっているということだ。学費の高い私立高においても、学校外教育への支出減少は、多くの生活者に不況が広く浸透していることが分かる。ちょうど大学への受験シーズンであるが、学費の高い私大ではなく安い国公立大、しかも生活費の安い地方大学への志望が高くなっているという。
世帯収入別のデータや幼稚園から高校卒業までの学習費の総額も出ており、文科省のHPを参照されたらと思う。(文科省、『平成20年度「子どもの学習費調査」の結果について』より)
東京ディズニーリゾートの下半期の集客予想が公表されていないので何とも言えないが、子への教育私費負担の減少を見ると、やはり消費厳寒期に入っていると見なければならない。子は親にとって未来であり、子への教育費は取り崩したくない聖域である。しかし、その聖域が崩れ始めてきたということだ。
2010年度の国家予算の論議が国会でこれから始まるが、子ども手当を含めた教育関連予算がすんなり通ったとしても6月からの支給となり、その政策効果が出るのは夏頃からであろう。エコカー減税やエコポイント制の住宅への拡充があったとしても、需要の先食いであり、昨年から始まったこの制度がどこまで内需活性を伸ばしきれるか、暗澹たる思いがしてならない。
前回のブログでも書いたが、東京有楽町西武が今年度末をもって閉店すると報じられ、マスコミは一斉に苦境にある百貨店業界を取り上げた。いつものパターンで、「昔の百貨店には夢があった」などといったインタビューコメントを添えていたが、夢を持ち得ない時代にいることを指摘することはない。百貨店を支えてきた中流層はこの10年間で崩壊し、その中で最後のサバイバル競争に臨んでいるのが百貨店である。昨年9月、大阪梅田阪急百貨店が部分リニューアルしたが、その時従来のフロア構成を変えて、1階をスイーツ売り場とした。これも生き残るための一つの方策である。三越・伊勢丹グループを始め、高島屋もそうであるが、中国へ進出する、出店を加速させる、これも一つの方策である。従来のビジネス慣習から、自らMDし、リスクを負って1万円台のスーツを製造販売する、これも一つの方策である。売れ残ったお歳暮商品をわけあり商品として販売する・・・・・・・小売業は常に顧客の消費価値観を体現するものである。
情報の時代とは断片情報が行き交う時代のことである。数年前、食品偽装という体験を通し、断片情報の時代の生活の仕方を学んできた。体験、リアル、実感、そうした確かなものにしか価値を認めない、そうした自己防衛的ライフスタイルを持つに至った。また、断片情報は常に憶測を生み、憶測は更なる憶測を生む。それは噂になり、疑惑へと進み、結果不安を生じさせる。無数の小さな不安は、いつしか不信となり、内側へ、内側へと消費心理は向かう。そうした心理市場にあっては、安全、安心、更には信用、信頼という基本原則をかたくなに貫き通すということだ。
聖域といわれてきた子どもへの教育支出が削減に向かっている。こうした時代のビジネスは、信用・信頼という原則を愚直にまで実践し続けることだ。結果、閉ざされた心理の扉を開けることへとつながっていく。(続く)
2010年01月27日
100ー1=0、マニュアルという罠
ヒット商品応援団日記No439(毎週2回更新) 2010.1.27.
先日、2〜3のメーカーによるバーゲン催事、百貨店のバーゲンセールを見て歩いた。どこも90−50%offといったセールで混雑するほどの集客であった。しかし、ひと頃のようにこの時だけといったまとめ買い顧客は少なく、せいぜい1〜2点の買い物に終わっている。いわゆる客数は若干増えたが、客単価は減り、前年並みもしくは前年割れといったところである。勿論、催事フロア以外は閑散としていたことは言うに及ばない。
そして、通年であると2月のバレンタイン商戦へと向かうのであるが、その小売りエネルギーを感じることがない。恐らく、来週あたりから「婚活」女子向けのバレンタインといったテーマでマスコミが動くであろうが、それすらも寒々しい空虚な情報となるであろう。昨日、昭和59年にオープンした東京有楽町西武が年内に撤退すると発表があった。まさに消費の今を象徴した発表である。
ところで、私はこの2年間ほど、東京のOKストアを始め、鹿児島阿久根市のAZスーパーセンター、京都のスーパーNISHIYAMA、といった中堅の地域スーパーを取り上げてきた。勿論、東京にはOKストア以外にも、オオゼキやサミットストアなど頑張っている特徴あるスーパーも存在している。それぞれ地域スーパーの元気さの根底には、地域顧客が求める日常的要望をしっかりと捉まえているからである。日経MJ的に言えば、顧客情報のデータベースによるMD分析や社員力の向上、変化対応のある売り場づくり、徹底した無駄の排除・・・・至極当たり前のことをきちんと実行しているスーパーである。そして、顧客が求める日常的要望として、安心価格、安心品質、安心できる売り場環境、そして安心できるサービス、こうした原則を踏まえた上での「特徴」である。この特徴の出し方に違いはあっても、全て共通しているのが「現場力」「人力経営」である。
今、実質倒産したJALの再建が、経済誌やマスコミに大きく取り上げられている。破綻に至った経緯や問題点については多くが語られているのでここでは指摘はしないこととする。ただ、一番気になったことがある。破綻後のキャビンアテンダントへの取材で、それまでの顧客サービスをマニュアルによるものではなく、各個人が柔軟に対応するというものであった。私に言わせれば、放漫経営であると同時に、放漫現場であったということである。実はマニュアルというツールに安住してきたということだ。しかし、安住できる場所など無いというのが現実である。半官半民、エリート世界とはこのようなものであると分かってはいても、倒産を前にやっと理解し得たのか、遅れているなというのが私の実感である。これでは潰れるべくして潰れたのだと納得した。
少し古い話になるが、JALの破綻で思い起こされたのが1948年創業の東京の名所観光バス「はとバス」の再建についてである。「はとバス」も1990年代末債務超過に落ち入り倒産寸前となる。背景にはバブル崩壊による客数の減少であるが、1998年に東京都交通局長であった宮端清次氏が社長に就任する。宮端さんがおこなった改革の中でも一番大きなことが、現場での意識改革であった。大きくは2つの運動を提起し、宮端さん自ら行動する。一つめが「なら、しか運動」と呼ばれるもので、”私ならこうする、私しかできない”現場サービスをやろうというものである。奈良(なら)と鹿(しか)という分かりやすさで、一人ひとりが「はとバス」ブランドを創っていこうというものである。そして、理屈っぽくならないように「自分の信者をつくろう。”信””者”をつなげれば”儲”になる」という分かりやすい説明と共にスタートする。二つ目が顧客情報の収集と活用であった。ドライバーや添乗員がその日あったお客さまの小さな声、本音をメモし、それを「お帰りボックス」に毎回入れる。そうした小さな声を集め以降多くのヒットメニューを生み出すこととなる。今では当たり前となっているが、「レディスシート」、「ゆったり座れる28人乗りのピアニシモ」、「1人で2席のゆったりシート」、あるいは昼食ぐらいは家族で食べたいという声から「個室昼食プラン」、富裕層向けには「12万円の箱根日帰りツアー/往路にヘリコプターを利用」・・・・従来の団体・貸し切りという「量」を追いかけてきた経営から、一人ひとりの顧客を大切にする、リピーターによる現場経営への転換であった。勿論、わずか数年で復配できる企業へと生まれ変わった。
マニュアルはチェーンオペレーションを必要とする業種・業態で活用されてきた。マニュアルに準じれば、一定の商品品質、一定のサービス品質が得られるためのもので、多様な言語・文化を持つ移民の国米国で生まれたシステム運営ツールである。いわば提供する側の合理的なツールであるが、今や多様に変化し続ける顧客に対してはマニュアルを超えた自在な対応力が求められている。極論ではあるが、マニュアルは顧客にとって合理的ではないということだ。
巣ごもり生活における消費は、常に価格を軸としながら消費移動を繰り返している。その変化移動の動きを唯一キャッチできるのが現場であり、人である。顧客の多様さに向き合うにはマニュアルを捨てなければならないということだ。そして、現場の人材を信じることでもある。それは必ず現場の人間に伝わり、結果顧客にも伝わる。1990年代半ば、米国からストックオプションに代表されるような成果主義に基づいた評価の仕組みが導入された。しかし、周知のようにバラバラとなった個人化社会にあって、荒んだ競争しか生まれなかった。勿論、成果すら挙げることはできなかったということである。
私は現場のスタッフに常に言うことの一つに、「貴方はお客さんを好きになれますか」と。それは、とりもなおさず、経営者に対しても「現場のスタッフを好きになり、信じて任せられますか」ということと同じである。当時、私はこうした市場の在り方に対し、次のような記号で表現した。
100-1=99 ではなく 0であり
100+1=∞の可能性を追求すべきであると
つまり、1(イチ)とは何かということである。市場が心理化している時代にあって、1(イチ)はマニュアルには現れては来ない「何か」で、現場、人しか分からない「何か」ということだ。例えば、飲食店では最初に水やお茶を出しながらオーダーを聞きにくる。その時、厨房が混んでいて10分間待たされたとする。しかし、オーダーの時に「今、このメニューだと10分かかります。こちらだと5分で召し上がれます。いかがなさいますか。」と言われるか否かで、待たされた時間への気持ちは大きく変わる。これも1(イチ)である。チョットした気遣い、一言、アイディア溢れる応対、そして何よりもマニュアル(テクニック)ではない自然な笑みということだ。(続く)
先日、2〜3のメーカーによるバーゲン催事、百貨店のバーゲンセールを見て歩いた。どこも90−50%offといったセールで混雑するほどの集客であった。しかし、ひと頃のようにこの時だけといったまとめ買い顧客は少なく、せいぜい1〜2点の買い物に終わっている。いわゆる客数は若干増えたが、客単価は減り、前年並みもしくは前年割れといったところである。勿論、催事フロア以外は閑散としていたことは言うに及ばない。
そして、通年であると2月のバレンタイン商戦へと向かうのであるが、その小売りエネルギーを感じることがない。恐らく、来週あたりから「婚活」女子向けのバレンタインといったテーマでマスコミが動くであろうが、それすらも寒々しい空虚な情報となるであろう。昨日、昭和59年にオープンした東京有楽町西武が年内に撤退すると発表があった。まさに消費の今を象徴した発表である。
ところで、私はこの2年間ほど、東京のOKストアを始め、鹿児島阿久根市のAZスーパーセンター、京都のスーパーNISHIYAMA、といった中堅の地域スーパーを取り上げてきた。勿論、東京にはOKストア以外にも、オオゼキやサミットストアなど頑張っている特徴あるスーパーも存在している。それぞれ地域スーパーの元気さの根底には、地域顧客が求める日常的要望をしっかりと捉まえているからである。日経MJ的に言えば、顧客情報のデータベースによるMD分析や社員力の向上、変化対応のある売り場づくり、徹底した無駄の排除・・・・至極当たり前のことをきちんと実行しているスーパーである。そして、顧客が求める日常的要望として、安心価格、安心品質、安心できる売り場環境、そして安心できるサービス、こうした原則を踏まえた上での「特徴」である。この特徴の出し方に違いはあっても、全て共通しているのが「現場力」「人力経営」である。
今、実質倒産したJALの再建が、経済誌やマスコミに大きく取り上げられている。破綻に至った経緯や問題点については多くが語られているのでここでは指摘はしないこととする。ただ、一番気になったことがある。破綻後のキャビンアテンダントへの取材で、それまでの顧客サービスをマニュアルによるものではなく、各個人が柔軟に対応するというものであった。私に言わせれば、放漫経営であると同時に、放漫現場であったということである。実はマニュアルというツールに安住してきたということだ。しかし、安住できる場所など無いというのが現実である。半官半民、エリート世界とはこのようなものであると分かってはいても、倒産を前にやっと理解し得たのか、遅れているなというのが私の実感である。これでは潰れるべくして潰れたのだと納得した。
少し古い話になるが、JALの破綻で思い起こされたのが1948年創業の東京の名所観光バス「はとバス」の再建についてである。「はとバス」も1990年代末債務超過に落ち入り倒産寸前となる。背景にはバブル崩壊による客数の減少であるが、1998年に東京都交通局長であった宮端清次氏が社長に就任する。宮端さんがおこなった改革の中でも一番大きなことが、現場での意識改革であった。大きくは2つの運動を提起し、宮端さん自ら行動する。一つめが「なら、しか運動」と呼ばれるもので、”私ならこうする、私しかできない”現場サービスをやろうというものである。奈良(なら)と鹿(しか)という分かりやすさで、一人ひとりが「はとバス」ブランドを創っていこうというものである。そして、理屈っぽくならないように「自分の信者をつくろう。”信””者”をつなげれば”儲”になる」という分かりやすい説明と共にスタートする。二つ目が顧客情報の収集と活用であった。ドライバーや添乗員がその日あったお客さまの小さな声、本音をメモし、それを「お帰りボックス」に毎回入れる。そうした小さな声を集め以降多くのヒットメニューを生み出すこととなる。今では当たり前となっているが、「レディスシート」、「ゆったり座れる28人乗りのピアニシモ」、「1人で2席のゆったりシート」、あるいは昼食ぐらいは家族で食べたいという声から「個室昼食プラン」、富裕層向けには「12万円の箱根日帰りツアー/往路にヘリコプターを利用」・・・・従来の団体・貸し切りという「量」を追いかけてきた経営から、一人ひとりの顧客を大切にする、リピーターによる現場経営への転換であった。勿論、わずか数年で復配できる企業へと生まれ変わった。
マニュアルはチェーンオペレーションを必要とする業種・業態で活用されてきた。マニュアルに準じれば、一定の商品品質、一定のサービス品質が得られるためのもので、多様な言語・文化を持つ移民の国米国で生まれたシステム運営ツールである。いわば提供する側の合理的なツールであるが、今や多様に変化し続ける顧客に対してはマニュアルを超えた自在な対応力が求められている。極論ではあるが、マニュアルは顧客にとって合理的ではないということだ。
巣ごもり生活における消費は、常に価格を軸としながら消費移動を繰り返している。その変化移動の動きを唯一キャッチできるのが現場であり、人である。顧客の多様さに向き合うにはマニュアルを捨てなければならないということだ。そして、現場の人材を信じることでもある。それは必ず現場の人間に伝わり、結果顧客にも伝わる。1990年代半ば、米国からストックオプションに代表されるような成果主義に基づいた評価の仕組みが導入された。しかし、周知のようにバラバラとなった個人化社会にあって、荒んだ競争しか生まれなかった。勿論、成果すら挙げることはできなかったということである。
私は現場のスタッフに常に言うことの一つに、「貴方はお客さんを好きになれますか」と。それは、とりもなおさず、経営者に対しても「現場のスタッフを好きになり、信じて任せられますか」ということと同じである。当時、私はこうした市場の在り方に対し、次のような記号で表現した。
100-1=99 ではなく 0であり
100+1=∞の可能性を追求すべきであると
つまり、1(イチ)とは何かということである。市場が心理化している時代にあって、1(イチ)はマニュアルには現れては来ない「何か」で、現場、人しか分からない「何か」ということだ。例えば、飲食店では最初に水やお茶を出しながらオーダーを聞きにくる。その時、厨房が混んでいて10分間待たされたとする。しかし、オーダーの時に「今、このメニューだと10分かかります。こちらだと5分で召し上がれます。いかがなさいますか。」と言われるか否かで、待たされた時間への気持ちは大きく変わる。これも1(イチ)である。チョットした気遣い、一言、アイディア溢れる応対、そして何よりもマニュアル(テクニック)ではない自然な笑みということだ。(続く)
2010年01月24日
仮想と現実、行ったり来たり
ヒット商品応援団日記No438(毎週2回更新) 2010.1.24.
先日、日本百貨店協会から2009年度の売上高6兆5842億円との発表があった。前年と比較し10.8%減少し、過去最大の下落幅であったと。しかし、この売上規模は1980年代末の売上規模であり、所得水準もほぼ同じ時期となっており、まさに消費は所得の関数であることを表している。特に、百貨店についてはこのブログで何回となくその中心とする中流顧客層が崩壊したことを指摘してきたのでこれ以上は触れない。ただ、所得レベルが20年余前のバブルに向かっていた時期であることを想起すべきで、しかしその市場は1億総中流時代のそれとは根底から異なっていることを再認識すればよい。
その百貨店であるが、西武百貨店とYahooショッピングのコラボレーションによる「人気グルメ&スイーツ お取り寄せ市」に多くの顧客が集まっている。Yahoo!ショッピング食品部門の年間ベストストア2008年第1位の「オーガニックサイバーストア」や2009年上半期第1位の「花畑牧場」の人気商品に加え、ネット通販では体験できない商品のお試しやその場で味わえるイートインもあり、人気を呼んでいる。3月には同様の試みが東武百貨店と楽天市場との間で物産展「楽天市場うまいもの大会」が開催される予定である。日頃、自社以外のネット通販に縁の無かったデパート顧客層と、試すことが出来なくて躊躇していたネット顧客層を互いに取り込む意図で行われたものだ。こうした有店舗と無店舗の組み合わせはファンケルのように以前からあり、最近ではファッション商品などについては欲しい商品を店舗で確認し、安いネット通販で購入するといった女性達も増えている。
また、1/20の日経MJにはインターネットで人気の「脱出ゲーム」を取り上げていたが、倉庫などを使って実際に行うイベント「リアル脱出ゲーム」が話題を集めているという。このイベントへの参加チケットは、早々に完売し常に入手困難とのこと。謎解きのわくわく感やスリルを実体験でき、その上脱出のために参加者同士が協力し合う。そんな「人肌」というアナログ感覚を感じるつながりが意外にネット世代に受けているという。いわば、虚構のネットゲームを実際にリアル体験できることへの着目である。
こうした事例が出始めたというのも、インターネットの生活への普及がかなり浸透定着してきたということだ。もっと簡単に言えば、コンビニがそうであったように、生活の一部としてネットを使いこなすために次の段階に進んできたということである。別の言葉で言うと、仮想と現実、虚構と体験、デジタルとアナログ、流通という視点で言えば無店舗と有店舗、こうした異なる世界を自在に行ったり来たりする段階に至ったということである。そして、流通もこうした行ったり来たりという顧客要望に応えなければならないということだ。
前回、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を引用して、断片情報ばかりが行き交う情報の時代には「複製(虚構)は常にオリジナルの存在を必要とする」と私はブログに書いた。立ち帰るオリジナル、つまり現実、体験、アナログ、有店舗といったオリジナル世界が極めて重要になったということである。過去回帰、歴史回帰もこのオリジナルを探しに出かけるということである。美少女キャラをパッケージに使いあきたこまちをネット通販し注目を集めた秋田県羽後町の村起こしに、美少女アニメオタクが羽後町を訪問するのも、いわば虚構の美少女アニメの故郷訪問であり、こうしたオリジナル体験確認のようなものである。勿論、前回書いたように龍馬ゆかりの地の旅も同様である。そして、気をつけなければならないことは往々にして一過性のブームで終わってしまうことにある。つまり、仮想と現実、虚構と体験、これらの「行ったり来たり」全体を視野に入れたビジネスを考えなければならないということである。
さて、こうしたネットストアと既存店舗流通によるクロスメディア化はこれからも進んでいくと思う。私の友人も健食や美容関連のサプリメントの有店舗販売とネットストアを組み合わせているが、それぞれ売れ筋商品は異なるものの相乗効果が生まれ順調に売上を伸ばしている。こうした多大な投資は難しいとする個人商店の場合は、課題は仮想と現実、虚構と体験、これらを組み合わせることにある。小さな成功例であるが、ネットストアを運営しながら、その購入顧客の中からママ友グループのリーダー候補を選び、サンプル品や売価を安くしたりといったインセンティブをつけ、いわゆるママ友リーダーの使用体験を通じた共同購入を促進していく仕組みが採られているストアがある。ネット上でのサンプル投入はコストがかかる、使用体験してもらうにもどんな方法を採れば良いのか、こうした難しいネットストアの問題解決法の一つだ。
インターネットの世界が特別なものではなく日常化した時代では、仮想と現実、行ったり来たりを視野に入れた全体ビジネスを考えなければならない。 (続く)
先日、日本百貨店協会から2009年度の売上高6兆5842億円との発表があった。前年と比較し10.8%減少し、過去最大の下落幅であったと。しかし、この売上規模は1980年代末の売上規模であり、所得水準もほぼ同じ時期となっており、まさに消費は所得の関数であることを表している。特に、百貨店についてはこのブログで何回となくその中心とする中流顧客層が崩壊したことを指摘してきたのでこれ以上は触れない。ただ、所得レベルが20年余前のバブルに向かっていた時期であることを想起すべきで、しかしその市場は1億総中流時代のそれとは根底から異なっていることを再認識すればよい。
その百貨店であるが、西武百貨店とYahooショッピングのコラボレーションによる「人気グルメ&スイーツ お取り寄せ市」に多くの顧客が集まっている。Yahoo!ショッピング食品部門の年間ベストストア2008年第1位の「オーガニックサイバーストア」や2009年上半期第1位の「花畑牧場」の人気商品に加え、ネット通販では体験できない商品のお試しやその場で味わえるイートインもあり、人気を呼んでいる。3月には同様の試みが東武百貨店と楽天市場との間で物産展「楽天市場うまいもの大会」が開催される予定である。日頃、自社以外のネット通販に縁の無かったデパート顧客層と、試すことが出来なくて躊躇していたネット顧客層を互いに取り込む意図で行われたものだ。こうした有店舗と無店舗の組み合わせはファンケルのように以前からあり、最近ではファッション商品などについては欲しい商品を店舗で確認し、安いネット通販で購入するといった女性達も増えている。
また、1/20の日経MJにはインターネットで人気の「脱出ゲーム」を取り上げていたが、倉庫などを使って実際に行うイベント「リアル脱出ゲーム」が話題を集めているという。このイベントへの参加チケットは、早々に完売し常に入手困難とのこと。謎解きのわくわく感やスリルを実体験でき、その上脱出のために参加者同士が協力し合う。そんな「人肌」というアナログ感覚を感じるつながりが意外にネット世代に受けているという。いわば、虚構のネットゲームを実際にリアル体験できることへの着目である。
こうした事例が出始めたというのも、インターネットの生活への普及がかなり浸透定着してきたということだ。もっと簡単に言えば、コンビニがそうであったように、生活の一部としてネットを使いこなすために次の段階に進んできたということである。別の言葉で言うと、仮想と現実、虚構と体験、デジタルとアナログ、流通という視点で言えば無店舗と有店舗、こうした異なる世界を自在に行ったり来たりする段階に至ったということである。そして、流通もこうした行ったり来たりという顧客要望に応えなければならないということだ。
前回、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を引用して、断片情報ばかりが行き交う情報の時代には「複製(虚構)は常にオリジナルの存在を必要とする」と私はブログに書いた。立ち帰るオリジナル、つまり現実、体験、アナログ、有店舗といったオリジナル世界が極めて重要になったということである。過去回帰、歴史回帰もこのオリジナルを探しに出かけるということである。美少女キャラをパッケージに使いあきたこまちをネット通販し注目を集めた秋田県羽後町の村起こしに、美少女アニメオタクが羽後町を訪問するのも、いわば虚構の美少女アニメの故郷訪問であり、こうしたオリジナル体験確認のようなものである。勿論、前回書いたように龍馬ゆかりの地の旅も同様である。そして、気をつけなければならないことは往々にして一過性のブームで終わってしまうことにある。つまり、仮想と現実、虚構と体験、これらの「行ったり来たり」全体を視野に入れたビジネスを考えなければならないということである。
さて、こうしたネットストアと既存店舗流通によるクロスメディア化はこれからも進んでいくと思う。私の友人も健食や美容関連のサプリメントの有店舗販売とネットストアを組み合わせているが、それぞれ売れ筋商品は異なるものの相乗効果が生まれ順調に売上を伸ばしている。こうした多大な投資は難しいとする個人商店の場合は、課題は仮想と現実、虚構と体験、これらを組み合わせることにある。小さな成功例であるが、ネットストアを運営しながら、その購入顧客の中からママ友グループのリーダー候補を選び、サンプル品や売価を安くしたりといったインセンティブをつけ、いわゆるママ友リーダーの使用体験を通じた共同購入を促進していく仕組みが採られているストアがある。ネット上でのサンプル投入はコストがかかる、使用体験してもらうにもどんな方法を採れば良いのか、こうした難しいネットストアの問題解決法の一つだ。
インターネットの世界が特別なものではなく日常化した時代では、仮想と現実、行ったり来たりを視野に入れた全体ビジネスを考えなければならない。 (続く)
2010年01月20日
物語消費再考
ヒット商品応援団日記No437(毎週2回更新) 2010.1.20.
デフレ時代の消費は低価格を物差しとしたリアルなモノ価値消費である。消費現場での生活者目線で言えば、まず見るのが妥当な価格であるかを購入基準の第一とするということである。この低価格主義的消費は、所得の関数である消費として当分の間は続くと思う。しかし、単なる低価格であることから、少しづつ変化の芽が出始めている。その一つが前々回ブログに書いた「サービス価値再考」のように、サービスを含めその価値を認めてくれる顧客を市場とする。それは、国内、海外といった内と外という境をもたないマーケティングとしてである。つまり、誰を顧客とするのかを従来の考えから一端離れて考えてみようということである。
ところで、前評判の高かったNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が始まった。初回視聴率は関東23.2%、関西21.0%とのことで、TV離れしている現状においては高視聴率に入るかと思う。NHKのHPを見ても分かるが、原作者はおらず、新しい龍馬像を創っていくオリジナル作品とのことで、敢えて原作者というのであれば脚本の福田靖氏と演出の大友啓史氏ということになる。
私も注目していた番組なので3話まで見たが、その感想としては、まるで劇画、コミック動画として創られているなという印象であった。人物配置の構図としては、坂本龍馬と岩崎弥太郎を縦糸に、家族や出会う女性達(土佐の平井加尾/広末涼子、江戸の千葉佐那、京都の楢崎龍、長崎のお元)を横糸にした分かりやすい龍馬の成長ドラマである。更には、土佐の上士と下士といった身分制度の対比のさせかたなどの過剰さ、あるいは剣道の乱取りなどを見ても、まさに劇画そのものである。カメラワークも手持ちカメラが多く、スピード感はあるが、反面断片的でまるでコミックを読んでいるかの如くである。
何故、私が「龍馬伝」を取り上げたかであるが、消費の現場では「わけあり商品」に代表されるように、「低価格物語」が広く浸透している。「龍馬伝」を劇画、コミック動画と私が呼んだのも、今という現実に重ね合わせて表現する、つまり視聴者に想像力を働かさせるには良き一つの手法であると考えているからである。というのも、昨年末から坂本龍馬に関する雑誌の発刊や坂本龍馬ゆかりの地、土佐、長崎、京都を巡る旅、更にはソフトバンクの白戸家も龍馬をテーマにしたCMを流している。「龍馬伝」の便乗MDと言ってしまえば、話は終わってしまうが、「龍馬伝」という仮想現実物語がどの程度消費に結びつくか、情報消費、物語消費のこれからを占う一つの指標になるからである。もっと単純化してしまえば、「龍馬伝」という劇画が、どの程度まで現実消費を動かすかである。それは昨年の「歴女ブーム」の火付け役となった「戦国BASARA」というアクションゲームの事例を見れば理解していただけると思うが、虚構が現実を動かす関係と同じである。
5〜6年前、ポストモダンとオタクというテーマが一部の専門家の間で議論されてきたことがあった。ここではこうした大きなテーマとしては取り上げないが、NHKの大河ドラマまで、いや時代表現として一番進んでいるNHKが一種の劇画ドラマを創作し始めたということに私自身驚いたというのが素直な感想である。というのも、幕末に現れた龍馬は世の中を変える革新者の一人であり、その創作物語はどんな世界観、どんな大きな物語として創作されるのか極めて興味深いテーマとしてある。1980年代に始まった「おたく」はマスプロダクト化され、オタクとなり、その最大特徴である虚構世界への「過剰さ」がかなり薄まって広く浸透してきたと理解している。つまり、情報発信メディアという視点から見れば、アキバ発から更にマスとなってNHK発というところまでポップカルチャー、サブカルチャーが進化してきたということだ。
「龍馬伝」のドラマ構成を縦糸と横糸によって織られた布地のようなものだと表現したが、縦と横との接点がコミックの一コマ=断片であり、受けてである視聴者はそれら断片情報を基に自ら想像し、創造していく訳である。これは人間心理として、不可解さとか確かめてみたいといった心理解決策として、突き止めていきたい、確認したいという本能のようなものである。「わけあり商品」も、その訳を確かめたい、そんな心理を後押しているのが実は低価格である。
「うわさの法則」でも書いたが、そうした断片情報が、生命にかかわるようなものであればあるほど、突き止めたいという欲求が強くなる。確かめたいという心理、それが憶測を超えてうわさとして広がるのである。つまり、過剰情報時代の創作手法として、100人受け手がいれば100の物語が創造されるということである。結果、100の複製龍馬が出現するということである。これが心理市場化している今日の、マスプロダクト化の本質である。そして、こうした複製が可能なのは、現実、リアルな物的世界と比較し、虚構(心理)世界の方がより簡単に可能となる。但し、複製は常にオリジナルの存在を必要とする。アキバのAKB48もアイドルのサバイバルゲームであるが、常設スタジオを持ち”会いに行けるアイドル”としたのも、(オリジナルとしてのアイドルに出会えるという構造)、こうした背景からであろう。
「龍馬伝」で言えば、龍馬のオリジナルは屋敷跡など痕跡の残る土佐、長崎、京都ということとなる。リバイバルとか、復刻版と言った消費は、極論を言えば、過去の複製、コピー販売である。昨年のヒット商品を見ても分かるが、過去を遡る回帰型消費がかなり多くなっている。しかし、複製にはかならずオリジナルがある。そして、そのオリジナルを求める欲求は必ず生まれる。こうした物語消費という欲求の過剰さは「謎解き」の過剰さへと向かっていく。例えば、龍馬ゆかりの地土佐を旅し、龍馬が好んで食べたという軍鶏鍋を食べる、こうした旅は龍馬がどんな生き方をしていたかを謎解きする旅ということである。
この10年間、多くの過剰さを削ぎ落としてきた。消費で言えば、ついで買いを止め、最小の目的買いのみとする。「わけあり」の訳を検討し、更に費用対効果を確かめ、意味あるモノだけを買う。こうした巣ごもり消費から、恐らく底流としてはあったと思うが、物語という虚構世界、その情報消費の芽が出てきた。ビックリマンチョコに代表されるような1980年代の物語消費とは質的に異なるとは思うが、どんな異なる消費かは「龍馬伝」が教えてくれるであろう。(続く)
デフレ時代の消費は低価格を物差しとしたリアルなモノ価値消費である。消費現場での生活者目線で言えば、まず見るのが妥当な価格であるかを購入基準の第一とするということである。この低価格主義的消費は、所得の関数である消費として当分の間は続くと思う。しかし、単なる低価格であることから、少しづつ変化の芽が出始めている。その一つが前々回ブログに書いた「サービス価値再考」のように、サービスを含めその価値を認めてくれる顧客を市場とする。それは、国内、海外といった内と外という境をもたないマーケティングとしてである。つまり、誰を顧客とするのかを従来の考えから一端離れて考えてみようということである。
ところで、前評判の高かったNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が始まった。初回視聴率は関東23.2%、関西21.0%とのことで、TV離れしている現状においては高視聴率に入るかと思う。NHKのHPを見ても分かるが、原作者はおらず、新しい龍馬像を創っていくオリジナル作品とのことで、敢えて原作者というのであれば脚本の福田靖氏と演出の大友啓史氏ということになる。
私も注目していた番組なので3話まで見たが、その感想としては、まるで劇画、コミック動画として創られているなという印象であった。人物配置の構図としては、坂本龍馬と岩崎弥太郎を縦糸に、家族や出会う女性達(土佐の平井加尾/広末涼子、江戸の千葉佐那、京都の楢崎龍、長崎のお元)を横糸にした分かりやすい龍馬の成長ドラマである。更には、土佐の上士と下士といった身分制度の対比のさせかたなどの過剰さ、あるいは剣道の乱取りなどを見ても、まさに劇画そのものである。カメラワークも手持ちカメラが多く、スピード感はあるが、反面断片的でまるでコミックを読んでいるかの如くである。
何故、私が「龍馬伝」を取り上げたかであるが、消費の現場では「わけあり商品」に代表されるように、「低価格物語」が広く浸透している。「龍馬伝」を劇画、コミック動画と私が呼んだのも、今という現実に重ね合わせて表現する、つまり視聴者に想像力を働かさせるには良き一つの手法であると考えているからである。というのも、昨年末から坂本龍馬に関する雑誌の発刊や坂本龍馬ゆかりの地、土佐、長崎、京都を巡る旅、更にはソフトバンクの白戸家も龍馬をテーマにしたCMを流している。「龍馬伝」の便乗MDと言ってしまえば、話は終わってしまうが、「龍馬伝」という仮想現実物語がどの程度消費に結びつくか、情報消費、物語消費のこれからを占う一つの指標になるからである。もっと単純化してしまえば、「龍馬伝」という劇画が、どの程度まで現実消費を動かすかである。それは昨年の「歴女ブーム」の火付け役となった「戦国BASARA」というアクションゲームの事例を見れば理解していただけると思うが、虚構が現実を動かす関係と同じである。
5〜6年前、ポストモダンとオタクというテーマが一部の専門家の間で議論されてきたことがあった。ここではこうした大きなテーマとしては取り上げないが、NHKの大河ドラマまで、いや時代表現として一番進んでいるNHKが一種の劇画ドラマを創作し始めたということに私自身驚いたというのが素直な感想である。というのも、幕末に現れた龍馬は世の中を変える革新者の一人であり、その創作物語はどんな世界観、どんな大きな物語として創作されるのか極めて興味深いテーマとしてある。1980年代に始まった「おたく」はマスプロダクト化され、オタクとなり、その最大特徴である虚構世界への「過剰さ」がかなり薄まって広く浸透してきたと理解している。つまり、情報発信メディアという視点から見れば、アキバ発から更にマスとなってNHK発というところまでポップカルチャー、サブカルチャーが進化してきたということだ。
「龍馬伝」のドラマ構成を縦糸と横糸によって織られた布地のようなものだと表現したが、縦と横との接点がコミックの一コマ=断片であり、受けてである視聴者はそれら断片情報を基に自ら想像し、創造していく訳である。これは人間心理として、不可解さとか確かめてみたいといった心理解決策として、突き止めていきたい、確認したいという本能のようなものである。「わけあり商品」も、その訳を確かめたい、そんな心理を後押しているのが実は低価格である。
「うわさの法則」でも書いたが、そうした断片情報が、生命にかかわるようなものであればあるほど、突き止めたいという欲求が強くなる。確かめたいという心理、それが憶測を超えてうわさとして広がるのである。つまり、過剰情報時代の創作手法として、100人受け手がいれば100の物語が創造されるということである。結果、100の複製龍馬が出現するということである。これが心理市場化している今日の、マスプロダクト化の本質である。そして、こうした複製が可能なのは、現実、リアルな物的世界と比較し、虚構(心理)世界の方がより簡単に可能となる。但し、複製は常にオリジナルの存在を必要とする。アキバのAKB48もアイドルのサバイバルゲームであるが、常設スタジオを持ち”会いに行けるアイドル”としたのも、(オリジナルとしてのアイドルに出会えるという構造)、こうした背景からであろう。
「龍馬伝」で言えば、龍馬のオリジナルは屋敷跡など痕跡の残る土佐、長崎、京都ということとなる。リバイバルとか、復刻版と言った消費は、極論を言えば、過去の複製、コピー販売である。昨年のヒット商品を見ても分かるが、過去を遡る回帰型消費がかなり多くなっている。しかし、複製にはかならずオリジナルがある。そして、そのオリジナルを求める欲求は必ず生まれる。こうした物語消費という欲求の過剰さは「謎解き」の過剰さへと向かっていく。例えば、龍馬ゆかりの地土佐を旅し、龍馬が好んで食べたという軍鶏鍋を食べる、こうした旅は龍馬がどんな生き方をしていたかを謎解きする旅ということである。
この10年間、多くの過剰さを削ぎ落としてきた。消費で言えば、ついで買いを止め、最小の目的買いのみとする。「わけあり」の訳を検討し、更に費用対効果を確かめ、意味あるモノだけを買う。こうした巣ごもり消費から、恐らく底流としてはあったと思うが、物語という虚構世界、その情報消費の芽が出てきた。ビックリマンチョコに代表されるような1980年代の物語消費とは質的に異なるとは思うが、どんな異なる消費かは「龍馬伝」が教えてくれるであろう。(続く)
2010年01月17日
エコは素敵生活へ
ヒット商品応援団日記No436(毎週2回更新) 2010.1.17.
昨年、2010年を予測するにあたり、「エコはお得」というキーワードで未来生活の芽をブログに書いた。予測は当たらないというのが私の持論ではあるが、以降1ヶ月ほど経つがエコ生活へと向かっていることは間違いない。
エコカーへの減税&補助金、エコポイント制度といった官製販促支援は需要の先食いとの側面をもってはいるが、生活者意識として省エネは省マネーになるという新たなエコ家庭経済へと向かわせている。LED電球から省エネ洗剤アタックネオといったヒット商品もさることながら、「その商品は環境にも財布にも優しいか」という鳥の眼と虫の眼という複眼で、しかも中長期の眼で消費する価値観を持ち始めたということである。
昨年「ユニクロ栄えて、国滅ぶ」と書いた経済学者がいたが、デフレ経済を悪者扱いしているが、単なる安売り競争経済といった側面だけで見てはならない。デフレは消費意識を、価格の裏側に潜む「理由」や「意味合い」へと向かわせた。その中には、グローバル経済に翻弄される生活、例えばガソリン高騰や中国冷凍餃子事件に見られるようなエネルギーや食料を輸入せざるを得ない小資源国としての実態を思い起こさせた。更に、リーマンショックは輸出によって得られたお金でそれらを買って済んでいた時代から、「自給」する経済、「自給」する生活へと意識を向かわせた。中国冷凍餃子事件は確認できる体感できる安心・安全な食へと向かわせた。こうした中から生まれたのが、家庭菜園ブームや農家レストラン人気であり、更には収入が減り続ける時代の知恵として、「わけあり商品」、「下取りセール」や「リサイクル」、「アウトレットブーム」といった消費が生まれてきた。ある意味、デフレは自給という循環型経済へと向かわせる後押しをしたと見ることも出来る。米国ほどはないが、過剰消費、バブル的消費の見直しである。
昨年、2010年予測のブログで、地方はエネルギー生産地、都市はその消費地とし、その需給関係(青森六ヶ所村の風力発電と東京新丸ビルにおける電力消費)について書いたが、ちょうどそれを裏付けるデータがあった。「都道府県別自然エネルギー自給率」(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7390.html)で、最も自給率の高いのが地熱発電、温泉熱利用の高い大分県の25%、第二位はヨーロッパ型の水車の利用といった小水力発電の盛んな富山県、勿論最下位は東京の0.21%である。ちなみに、原子力発電を含めないエネルギー自給率の各国比較では米国73%、英国113%、中国100%、日本はわずか6%である。
もう一つの自給率である食料は、同じようにデータ比較(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7235.html)がなされている。これも地産地消の浸透指標として見ていくのに良いデータと思うが、自給率が最も高いのが北海道の198%、第二位が秋田の177%で、勿論最下位が東京の1%である。同じように各国比較では米国119%、英国74%、仏130%、日本は周知の40%である。(2002年度、カロリーベース比較)
確か2年ほど前、旧政権による環境技術開発などへの3兆円規模の助成支援があったが、太陽光発電や超伝導による電流ロスの解消など広義の省エネ技術が磨かれ成果が出始めているようだ。更に、昨年末新政権による「新成長戦略」が発表されたが、環境エネルギー政策の基本方針も出てきた。地方分権が、どんなスピードで、どこまでの権限と範囲で実行されるかわからないが、エネルギーと食料という生活に不可欠な重要テーマを軸に、都市と地方との格差是正や需給の在り方が政治の場で語られていくと思う。地方はエネルギーや食料の生産地として、魅力ある固有の生産を目指し、都市はその魅力を消費していくことになる。エコという視座に立てば、地方はエコヴィレッジ、都市はエコタウンが目標となる。
HVカーや電気自動車に代表されるエコ商品は官製支援はあるものの、量産化によってキラーコンテンツならぬキラープライスとして生活の多くの商品へと広がっていくであろう。勿論、「エコはお得」という新たな価値観によってだが、次のテーマとなるのが「エコは素敵」という概念であろう。この概念は、「クールジャパン」における「クール」に近い意味で、新しい時代人の格好良さとでも表現できるライフスタイル観である。米国から持ち込まれたLOHASは単なるブームに終わったが、LOHASに替わる新たなライフスタイル観が生まれてくる。そうした価値観は、人物、企業、あるいは市町村という様々なところから生まれてくるであろう。勿論、次なるライフスタイルリーダー、ソーシャルリーダーとしてであるが、私ならば「クールガール」とか、「クールカンパニー」、「クールヴィレッジ」などと呼んでみたいと思っている。それはなによりも、日本初のクールカルチャー、ジャパンスタイルカルチャーを世界に向けて発信していける、いやビジネスとして極めて大きな可能性があると考えているからだ。そのビジネスの中核となるのがやはり観光である。
勿論、グリーンツーリズムやエコツーリズムといった狭い観光ではない。狭いという意味は、単に自然の持つ生命力を五感で感じ、楽しみ遊ぶといったことではなく、それらを生活へと取り入れた日本文化、ヨーロッパを石の文化であるとするならば、木の文化、紙の文化といった生活文化の観光である。特に、地方には都市文化の波に洗われてなお残る固有な生活がある。私はその象徴として京都をそのモデルとして挙げているが、多くの地方には未だ知らない自然生活文化、産土(うぶすな)が埋もれており、少しづつ表舞台へと上がっていくであろう。
外(世界)からの眼でクールジャパンと注目されているが、今度は自ら「素敵生活」「クールカルチャー」を発信していくことだ。前回、「サービス価値再考」で「星のや 京都」と「加賀屋」を取り上げたのもそうした発信事例としてである。
ここ2年ほど「価格」に関するブログが多かったように思う。価格は重要なキーワードであるが、そのことを踏まえ「エコは素敵」というキーワードで消費を見ていこうと思っている。昨年、2010年をエコ元年と表現したが、現状は一部の省エネ製品、省エネ住宅、自然エネルギーの活用、・・・・ゴミゼロ運動、といったエコロジーの断片が生まれたにすぎない。生活は全体であり、全体を構想することが問われている。個人だけでも、企業だけでも解には至らない。産官学合同による産業起こしなどと言われるが、一番重要なことは住民、生活者がエコリーダーになるということだ。富山県のように小水力発電にチャレンジしているところもある。日本には約1800弱の区市町村があるが、1800のエコヴィレッジ、エコタウンという「素敵さ」があってもかまわない。福岡県岡垣町という田舎で「どこでもある田舎をここにしかない田舎にしたい」と町起こしをしている野の葡萄はその先駆者でもある。
そうした「素敵さ」を表舞台へ上げ、活性化させる中心は観光である。新政権の成長戦略に休暇取得の分散化などの「ローカル・ホリデー制度」が検討課題に上がっているが、こうした制度がエコヴィレッジを後押しするであろう。(続く)
昨年、2010年を予測するにあたり、「エコはお得」というキーワードで未来生活の芽をブログに書いた。予測は当たらないというのが私の持論ではあるが、以降1ヶ月ほど経つがエコ生活へと向かっていることは間違いない。
エコカーへの減税&補助金、エコポイント制度といった官製販促支援は需要の先食いとの側面をもってはいるが、生活者意識として省エネは省マネーになるという新たなエコ家庭経済へと向かわせている。LED電球から省エネ洗剤アタックネオといったヒット商品もさることながら、「その商品は環境にも財布にも優しいか」という鳥の眼と虫の眼という複眼で、しかも中長期の眼で消費する価値観を持ち始めたということである。
昨年「ユニクロ栄えて、国滅ぶ」と書いた経済学者がいたが、デフレ経済を悪者扱いしているが、単なる安売り競争経済といった側面だけで見てはならない。デフレは消費意識を、価格の裏側に潜む「理由」や「意味合い」へと向かわせた。その中には、グローバル経済に翻弄される生活、例えばガソリン高騰や中国冷凍餃子事件に見られるようなエネルギーや食料を輸入せざるを得ない小資源国としての実態を思い起こさせた。更に、リーマンショックは輸出によって得られたお金でそれらを買って済んでいた時代から、「自給」する経済、「自給」する生活へと意識を向かわせた。中国冷凍餃子事件は確認できる体感できる安心・安全な食へと向かわせた。こうした中から生まれたのが、家庭菜園ブームや農家レストラン人気であり、更には収入が減り続ける時代の知恵として、「わけあり商品」、「下取りセール」や「リサイクル」、「アウトレットブーム」といった消費が生まれてきた。ある意味、デフレは自給という循環型経済へと向かわせる後押しをしたと見ることも出来る。米国ほどはないが、過剰消費、バブル的消費の見直しである。
昨年、2010年予測のブログで、地方はエネルギー生産地、都市はその消費地とし、その需給関係(青森六ヶ所村の風力発電と東京新丸ビルにおける電力消費)について書いたが、ちょうどそれを裏付けるデータがあった。「都道府県別自然エネルギー自給率」(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7390.html)で、最も自給率の高いのが地熱発電、温泉熱利用の高い大分県の25%、第二位はヨーロッパ型の水車の利用といった小水力発電の盛んな富山県、勿論最下位は東京の0.21%である。ちなみに、原子力発電を含めないエネルギー自給率の各国比較では米国73%、英国113%、中国100%、日本はわずか6%である。
もう一つの自給率である食料は、同じようにデータ比較(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7235.html)がなされている。これも地産地消の浸透指標として見ていくのに良いデータと思うが、自給率が最も高いのが北海道の198%、第二位が秋田の177%で、勿論最下位が東京の1%である。同じように各国比較では米国119%、英国74%、仏130%、日本は周知の40%である。(2002年度、カロリーベース比較)
確か2年ほど前、旧政権による環境技術開発などへの3兆円規模の助成支援があったが、太陽光発電や超伝導による電流ロスの解消など広義の省エネ技術が磨かれ成果が出始めているようだ。更に、昨年末新政権による「新成長戦略」が発表されたが、環境エネルギー政策の基本方針も出てきた。地方分権が、どんなスピードで、どこまでの権限と範囲で実行されるかわからないが、エネルギーと食料という生活に不可欠な重要テーマを軸に、都市と地方との格差是正や需給の在り方が政治の場で語られていくと思う。地方はエネルギーや食料の生産地として、魅力ある固有の生産を目指し、都市はその魅力を消費していくことになる。エコという視座に立てば、地方はエコヴィレッジ、都市はエコタウンが目標となる。
HVカーや電気自動車に代表されるエコ商品は官製支援はあるものの、量産化によってキラーコンテンツならぬキラープライスとして生活の多くの商品へと広がっていくであろう。勿論、「エコはお得」という新たな価値観によってだが、次のテーマとなるのが「エコは素敵」という概念であろう。この概念は、「クールジャパン」における「クール」に近い意味で、新しい時代人の格好良さとでも表現できるライフスタイル観である。米国から持ち込まれたLOHASは単なるブームに終わったが、LOHASに替わる新たなライフスタイル観が生まれてくる。そうした価値観は、人物、企業、あるいは市町村という様々なところから生まれてくるであろう。勿論、次なるライフスタイルリーダー、ソーシャルリーダーとしてであるが、私ならば「クールガール」とか、「クールカンパニー」、「クールヴィレッジ」などと呼んでみたいと思っている。それはなによりも、日本初のクールカルチャー、ジャパンスタイルカルチャーを世界に向けて発信していける、いやビジネスとして極めて大きな可能性があると考えているからだ。そのビジネスの中核となるのがやはり観光である。
勿論、グリーンツーリズムやエコツーリズムといった狭い観光ではない。狭いという意味は、単に自然の持つ生命力を五感で感じ、楽しみ遊ぶといったことではなく、それらを生活へと取り入れた日本文化、ヨーロッパを石の文化であるとするならば、木の文化、紙の文化といった生活文化の観光である。特に、地方には都市文化の波に洗われてなお残る固有な生活がある。私はその象徴として京都をそのモデルとして挙げているが、多くの地方には未だ知らない自然生活文化、産土(うぶすな)が埋もれており、少しづつ表舞台へと上がっていくであろう。
外(世界)からの眼でクールジャパンと注目されているが、今度は自ら「素敵生活」「クールカルチャー」を発信していくことだ。前回、「サービス価値再考」で「星のや 京都」と「加賀屋」を取り上げたのもそうした発信事例としてである。
ここ2年ほど「価格」に関するブログが多かったように思う。価格は重要なキーワードであるが、そのことを踏まえ「エコは素敵」というキーワードで消費を見ていこうと思っている。昨年、2010年をエコ元年と表現したが、現状は一部の省エネ製品、省エネ住宅、自然エネルギーの活用、・・・・ゴミゼロ運動、といったエコロジーの断片が生まれたにすぎない。生活は全体であり、全体を構想することが問われている。個人だけでも、企業だけでも解には至らない。産官学合同による産業起こしなどと言われるが、一番重要なことは住民、生活者がエコリーダーになるということだ。富山県のように小水力発電にチャレンジしているところもある。日本には約1800弱の区市町村があるが、1800のエコヴィレッジ、エコタウンという「素敵さ」があってもかまわない。福岡県岡垣町という田舎で「どこでもある田舎をここにしかない田舎にしたい」と町起こしをしている野の葡萄はその先駆者でもある。
そうした「素敵さ」を表舞台へ上げ、活性化させる中心は観光である。新政権の成長戦略に休暇取得の分散化などの「ローカル・ホリデー制度」が検討課題に上がっているが、こうした制度がエコヴィレッジを後押しするであろう。(続く)
2010年01月13日
サービス価値再考
ヒット商品応援団日記No435(毎週2回更新) 2010.1.13.
前回、ノスタルジー消費という虚構世界の消費傾向について書いた。これは価格競争下の消費におけるリアリズムの変質の一つであるが、デフレの大波によって隠れてしまったサービス価値の今、その変容と在り方について考えてみたい。というのも1990年代後半、物が類似化する時代にあって差別化するにはサービス価値をどう高めるかがマーケティングの大きなテーマであった。しかし、今日サービスに価値を認め、それに値するお金を支払う市場は極めて小さくなったことも事実である。(10年間で100万円所得が減少したことを書いたブログを参照)
こうした中で、日本のサービス業が選択すべき一つの着眼を提示してくれたのが、星野リゾートによる2号店「星のや 京都」のオープンであり、石川県和倉の名旅館加賀屋の台北進出である。
この2つの旅館に共通していることは、日本のサービス・おもてなしを海外の富裕層へ売っていこうという試みである。
1/11の日経MJに、その「星のや 京都」の概要について取り上げている。「星のや 京都」は海外富裕層を主要顧客に想定しており、勿論和のコンセプトであるが、その「おもてなし」の入り口として専用の船による10分間の送迎という演出がなされるという。日常の世界からリゾートという非日常世界へと明確に切り替えるための仕掛けである。部屋は海外客にくつろぎやすくするためにソファースタイルとなっているが、畳座敷の時の目線と同じ位置になるように床の間やインテリアが考えられているという。この10年間で7万軒あった旅館は5万軒ほどに減少するなか、宿泊と食事の分離、24時間ルームサービス、こうした顧客の自由度を提供することによって自社の旅館ばかりか、苦境に立つ老舗旅館の再生に人材を送り込み日本旅館のこれからの道筋の一つを提示してくれている。そんな星野リゾートによる海外富裕層市場へのチャレンジである。
以前、ブログに「クールジャパン」について書いたが、日本食レストランやSUSHIBAR、禅やサムライ、コミックやアニメ、・・・・・こうした日本ブームには日本の精神文化への興味・関心、更にはその魅力に傾倒する市場があることを物語っている。コミックやアニメの聖地は秋葉原であるが、日本食レストランやSUSHIBAR、禅やサムライといった日本精神文化の聖地はやはり京都である。富裕層の長期滞在客市場を創造してきた世界のリゾートと言われるアマンリゾートも京都にリゾートホテルを創る計画であった。しかし、1年半ほど前になるが提携先のアーバンコーポレーションの破綻によって計画は頓挫している。つまり、世界、外からの目は日本人の想像を遥かに超えて、日本の精神文化、日本美に注がれている。
製造業の東・東南アジアやインドへの工場移転、あるいは既に多くの流通が進出しニュースとなっているが、実は飲食業も欧米以外に、上海、バンコク、シンガポール、といった主要都市へと続々と進出している。古くは大戸屋、ラーメンチェーン店、サイゼリアのようなファミレス、こうしたチェーン店以外にも個人経営の日本食レストランも多数活動している。それら飲食業は基本的には日本に於ける調理法に準じた、メニュー、味などとなっている。そして、最大特徴であり、海外の現地客が最も新鮮に受け止めてくれるのがサービススタイル、おもてなしである。飲食業の海外出店ではあるが、日本食文化、日本の精神文化の輸出といっても過言ではない。
ところで、コミックやアニメの聖地である秋葉原に常設劇場を構え、オタク達へのライブショーを演じているのがAKB48である。オタクはアイドル(憧れ)を消費するために劇場に集まる。歌やショーを観劇し、憧れという心を交換し、ステージに立つメンバーも成長する。仕組みという視点に立てば、オタクがアイドルを育てるサバイバルゲームである。このAKB48は周知の秋元康氏がプロデュースするエンターテイメントビジネスであるが、顧客参加ゲームにおけるライブコンテンツ、TVコンテンツ、インターネットコンテンツ、そして周辺のMD商品を一つのビジネスパッケージにして、いわゆる世界へとコンテンツ輸出を行おうといった試みまで始まっている。コミックやアニメの主人公は時を経ても変わらないが、AKB48のアイドル達はオタクによって育てられ成長するキャラクターであり、自分の分身アバターとしてある。そして、その本質はアイドル育成ゲームであり、劇画的である。
さて、サービス価値の今であるが、一つのヒントは星野リゾートの星野桂路社長が答えてくれている。それは一号店である軽井沢の「星のや」は大不況もあって法人需要が落ち込んだという。しかし、売上の多くを占める個人顧客は変わらずリピーターとして利用してくれていると。つまり、個客を大切にするサービスによってということだ。
もう一つは対象とする顧客の想定に沿って、ビジネスの在り方を決める。つまり、サービス価値を認めてくれる顧客を顧客とするということだ。価格競争によって真っ先に削ぎ落とされるのが人件費、人的サービスである。しかし、価値を認める顧客は存在している。その顧客を顧客とする規模で経営すれば良いのだ。ちなみに、「星のや 京都」の客室数は25室、1室あたり7万円、宿泊人数は1室平均2.2人、アラカルトの夕食&朝食の費用を含めると1人当り4万5000円〜5万円になるという。
加賀屋の台北進出については、計画より大分遅れ今だ工事中のようである。その概要の情報が得られたらまたブログにてレポートしたい。いずれにせよ、地球は小さくなり、同時代性、同地域性という世界が進んでいる。つまり、もはや内も外もないということである。であればこそ、水村美苗氏の「日本語が亡びるとき」ではないが、伝承された日本文化、今の日本を表現するサブカルチャーの如何を問わず、その価値を再考すべき時に来ている。(続く)
前回、ノスタルジー消費という虚構世界の消費傾向について書いた。これは価格競争下の消費におけるリアリズムの変質の一つであるが、デフレの大波によって隠れてしまったサービス価値の今、その変容と在り方について考えてみたい。というのも1990年代後半、物が類似化する時代にあって差別化するにはサービス価値をどう高めるかがマーケティングの大きなテーマであった。しかし、今日サービスに価値を認め、それに値するお金を支払う市場は極めて小さくなったことも事実である。(10年間で100万円所得が減少したことを書いたブログを参照)
こうした中で、日本のサービス業が選択すべき一つの着眼を提示してくれたのが、星野リゾートによる2号店「星のや 京都」のオープンであり、石川県和倉の名旅館加賀屋の台北進出である。
この2つの旅館に共通していることは、日本のサービス・おもてなしを海外の富裕層へ売っていこうという試みである。
1/11の日経MJに、その「星のや 京都」の概要について取り上げている。「星のや 京都」は海外富裕層を主要顧客に想定しており、勿論和のコンセプトであるが、その「おもてなし」の入り口として専用の船による10分間の送迎という演出がなされるという。日常の世界からリゾートという非日常世界へと明確に切り替えるための仕掛けである。部屋は海外客にくつろぎやすくするためにソファースタイルとなっているが、畳座敷の時の目線と同じ位置になるように床の間やインテリアが考えられているという。この10年間で7万軒あった旅館は5万軒ほどに減少するなか、宿泊と食事の分離、24時間ルームサービス、こうした顧客の自由度を提供することによって自社の旅館ばかりか、苦境に立つ老舗旅館の再生に人材を送り込み日本旅館のこれからの道筋の一つを提示してくれている。そんな星野リゾートによる海外富裕層市場へのチャレンジである。
以前、ブログに「クールジャパン」について書いたが、日本食レストランやSUSHIBAR、禅やサムライ、コミックやアニメ、・・・・・こうした日本ブームには日本の精神文化への興味・関心、更にはその魅力に傾倒する市場があることを物語っている。コミックやアニメの聖地は秋葉原であるが、日本食レストランやSUSHIBAR、禅やサムライといった日本精神文化の聖地はやはり京都である。富裕層の長期滞在客市場を創造してきた世界のリゾートと言われるアマンリゾートも京都にリゾートホテルを創る計画であった。しかし、1年半ほど前になるが提携先のアーバンコーポレーションの破綻によって計画は頓挫している。つまり、世界、外からの目は日本人の想像を遥かに超えて、日本の精神文化、日本美に注がれている。
製造業の東・東南アジアやインドへの工場移転、あるいは既に多くの流通が進出しニュースとなっているが、実は飲食業も欧米以外に、上海、バンコク、シンガポール、といった主要都市へと続々と進出している。古くは大戸屋、ラーメンチェーン店、サイゼリアのようなファミレス、こうしたチェーン店以外にも個人経営の日本食レストランも多数活動している。それら飲食業は基本的には日本に於ける調理法に準じた、メニュー、味などとなっている。そして、最大特徴であり、海外の現地客が最も新鮮に受け止めてくれるのがサービススタイル、おもてなしである。飲食業の海外出店ではあるが、日本食文化、日本の精神文化の輸出といっても過言ではない。
ところで、コミックやアニメの聖地である秋葉原に常設劇場を構え、オタク達へのライブショーを演じているのがAKB48である。オタクはアイドル(憧れ)を消費するために劇場に集まる。歌やショーを観劇し、憧れという心を交換し、ステージに立つメンバーも成長する。仕組みという視点に立てば、オタクがアイドルを育てるサバイバルゲームである。このAKB48は周知の秋元康氏がプロデュースするエンターテイメントビジネスであるが、顧客参加ゲームにおけるライブコンテンツ、TVコンテンツ、インターネットコンテンツ、そして周辺のMD商品を一つのビジネスパッケージにして、いわゆる世界へとコンテンツ輸出を行おうといった試みまで始まっている。コミックやアニメの主人公は時を経ても変わらないが、AKB48のアイドル達はオタクによって育てられ成長するキャラクターであり、自分の分身アバターとしてある。そして、その本質はアイドル育成ゲームであり、劇画的である。
さて、サービス価値の今であるが、一つのヒントは星野リゾートの星野桂路社長が答えてくれている。それは一号店である軽井沢の「星のや」は大不況もあって法人需要が落ち込んだという。しかし、売上の多くを占める個人顧客は変わらずリピーターとして利用してくれていると。つまり、個客を大切にするサービスによってということだ。
もう一つは対象とする顧客の想定に沿って、ビジネスの在り方を決める。つまり、サービス価値を認めてくれる顧客を顧客とするということだ。価格競争によって真っ先に削ぎ落とされるのが人件費、人的サービスである。しかし、価値を認める顧客は存在している。その顧客を顧客とする規模で経営すれば良いのだ。ちなみに、「星のや 京都」の客室数は25室、1室あたり7万円、宿泊人数は1室平均2.2人、アラカルトの夕食&朝食の費用を含めると1人当り4万5000円〜5万円になるという。
加賀屋の台北進出については、計画より大分遅れ今だ工事中のようである。その概要の情報が得られたらまたブログにてレポートしたい。いずれにせよ、地球は小さくなり、同時代性、同地域性という世界が進んでいる。つまり、もはや内も外もないということである。であればこそ、水村美苗氏の「日本語が亡びるとき」ではないが、伝承された日本文化、今の日本を表現するサブカルチャーの如何を問わず、その価値を再考すべき時に来ている。(続く)
2010年01月10日
時間という視座ー思い出消費の背景
ヒット商品応援団日記No434(毎週2回更新) 2010.1.10.
昨年のヒット商品における大きな傾向、「戦後の工業化・近代化(都市化)によって失われたものを過去に遡って取り戻す、回帰傾向が顕著に出た一年であった」とブログに書いた。1986年に登場したあのドラクエの「ドラクエ9」、現代版ベーゴマの「ベイブレード」、東京台場に等身大立像で登場した「機動戦士ガンダム」、オリンパスの一眼レフ「PEN E-P1」もレトロデザインで一種の復刻版カメラ、売れない音楽業界で売れたのが「ザ・ビートルズ リマスター版CD」、同様に売れない出版業界で売れたのが山崎豊子の「不毛地帯」「沈まぬ太陽」で共に100万部を超えた。更に、2009年の特徴の一つが「歴史回帰」である。国宝阿修羅像展、歴女ブームの火付け役となったのが「戦国BASARA」。
年齢問わずこうした過去へと遡る消費は一つの時代特徴として存在する。それは何故なのか、今回は私の考えを書いてみたい。
仮説はこうである。戦後、特に1980年代以降、都市生活者は圧倒的なスピードによる時間を生きてきた。つまり、圧倒的な変化の連続であったということである。しかも、24時間化という言葉に象徴されるように、昼夜の境目、更には季節感すらをも無くした、時間生活であった。その病変は、1990年代半ば以降、特にIT技術の進化と共に「不眠」、更には精神的な「鬱」という形で現れてきた。「不眠」を単純化して言えば、眠りのリズムをコントロールする体内時計が、社会(ビジネス)時間のスピードについていけなくなったことによる。この反作用としてライフスタイルに現れてきたのが、スローフードであり、スローライフである。
一方、こうした時間感覚、スピード感覚についていけない、いわば置き去りにされていく心理的解決として、「過去(歴史)」という虚構の世界へと向かわせる。思い出は、「何か」によって思い出されることで「思い出」となる。思い出は今の自分の心のありようが投影された、一種の加工された虚構世界である。「あの頃はよかった」「懐かしいあの頃」とは、いわば時間から置き去りにされた癒しの世界ということである。
思い出は人それぞれ固有の世界である。「この味がいいねと君が言ったから7月6日はサラダ記念日」と歌ったのは歌人俵万智であるが、個人体験は固有の世界であり、戦争といった極限体験を持ち出すまでもなくそれらを商品化することはできない。過去の自分を置き換えられる商品化可能な「何か」、それはサブカルチャーや遊び、共通する「時代性」によって思い出される。私がプチ思い出消費と名付けたコンビニのヒット商品「揚げパン」は、学校給食という共通した時代の思い出であり、「ドラクエ9」や「ベイブレード」「機動戦士ガンダム」はまさに時代性を想起させるサブカルチャー、遊びである。最近では、パチスロや広告CMに多用されている少年マガジンの「明日のジョー」も同じである。2年半ほど前の日本アカデミー賞を受賞した「ALWAYS三丁目の夕日」はその典型である。
さて、こうした「時間感覚」という視座で市場を見ていくと、例えばスピードへの「反」として現出したスローフードやスローライフは家庭経済としてはどうであるかである。勿論、雑誌などで特集され一種のトレンドとなった上澄み的市場は既に消滅している。その象徴が「癒しの島沖縄」である。周知のように、そうしたライフスタイルを追求していく経済的基盤を喪失しており、今やスローフードではなくB級グルメであり、癒しの時間は週末だけのひととき農業人といったところに留まっているのが現実である。
つまり、お金をかけずにいかにスローライフ、スローフーズを楽しむか、その答えは地方にある。あり余るほどの資源、財産を持っているのが地方であるが、例えば豊かな自然・景観、今も残る古民家、自給自足できる畑がある、郷土料理もある、・・・・しかし、それら資源をまとめ上げた都市生活者に向けたポリシー&コンセプトがない。過去へと遡る都市生活者の欲求に対し、過去・歴史を今に置き換えるアイディアが無いという意味である。
つまり、「過去へと遡る」とは言葉を変えて言うと、語るべき歴史・過去を持たないということである。静かなブームとなっているのが、自分の家系図を辿るルーツ探し、自分史づくりである。もっと平易に言えば、思い出づくり、語るべき歴史をどう提供していくかである。更に言うと、昨年から注目され始めているのが伝統野菜である。その先駆けは京野菜であるが、全国に埋もれた昔ながらの野菜、安い輸入野菜に押され無くしてしまった野菜が再生産され始めている。いわば伝統野菜の復刻版である。これも語るべき歴史の一つとなる。そして、伝統野菜の先には郷土料理がある。おふくろの味は学校給食とコンビニの中にしか見出せないのが、都市生活者である。語るべき何かとは、故郷であり、家族であり、遊びであり、つまりもう一つの生活ということである。ノスタルジー消費、虚構の生活ではあるが、第二の故郷、第二の家族、第二の遊び、第二の生活をどう提供していくのか、ここに市場着眼しなければならない。今年は平城京遷都1300年であり、奈良や京都に多くの観光客が向かうであろう。そこで見出すのは、日本って何、日本人って何、という日本の歴史であろう。日本史と自分史を重ね合わせた癒しの旅ということだ。(続く)
昨年のヒット商品における大きな傾向、「戦後の工業化・近代化(都市化)によって失われたものを過去に遡って取り戻す、回帰傾向が顕著に出た一年であった」とブログに書いた。1986年に登場したあのドラクエの「ドラクエ9」、現代版ベーゴマの「ベイブレード」、東京台場に等身大立像で登場した「機動戦士ガンダム」、オリンパスの一眼レフ「PEN E-P1」もレトロデザインで一種の復刻版カメラ、売れない音楽業界で売れたのが「ザ・ビートルズ リマスター版CD」、同様に売れない出版業界で売れたのが山崎豊子の「不毛地帯」「沈まぬ太陽」で共に100万部を超えた。更に、2009年の特徴の一つが「歴史回帰」である。国宝阿修羅像展、歴女ブームの火付け役となったのが「戦国BASARA」。
年齢問わずこうした過去へと遡る消費は一つの時代特徴として存在する。それは何故なのか、今回は私の考えを書いてみたい。
仮説はこうである。戦後、特に1980年代以降、都市生活者は圧倒的なスピードによる時間を生きてきた。つまり、圧倒的な変化の連続であったということである。しかも、24時間化という言葉に象徴されるように、昼夜の境目、更には季節感すらをも無くした、時間生活であった。その病変は、1990年代半ば以降、特にIT技術の進化と共に「不眠」、更には精神的な「鬱」という形で現れてきた。「不眠」を単純化して言えば、眠りのリズムをコントロールする体内時計が、社会(ビジネス)時間のスピードについていけなくなったことによる。この反作用としてライフスタイルに現れてきたのが、スローフードであり、スローライフである。
一方、こうした時間感覚、スピード感覚についていけない、いわば置き去りにされていく心理的解決として、「過去(歴史)」という虚構の世界へと向かわせる。思い出は、「何か」によって思い出されることで「思い出」となる。思い出は今の自分の心のありようが投影された、一種の加工された虚構世界である。「あの頃はよかった」「懐かしいあの頃」とは、いわば時間から置き去りにされた癒しの世界ということである。
思い出は人それぞれ固有の世界である。「この味がいいねと君が言ったから7月6日はサラダ記念日」と歌ったのは歌人俵万智であるが、個人体験は固有の世界であり、戦争といった極限体験を持ち出すまでもなくそれらを商品化することはできない。過去の自分を置き換えられる商品化可能な「何か」、それはサブカルチャーや遊び、共通する「時代性」によって思い出される。私がプチ思い出消費と名付けたコンビニのヒット商品「揚げパン」は、学校給食という共通した時代の思い出であり、「ドラクエ9」や「ベイブレード」「機動戦士ガンダム」はまさに時代性を想起させるサブカルチャー、遊びである。最近では、パチスロや広告CMに多用されている少年マガジンの「明日のジョー」も同じである。2年半ほど前の日本アカデミー賞を受賞した「ALWAYS三丁目の夕日」はその典型である。
さて、こうした「時間感覚」という視座で市場を見ていくと、例えばスピードへの「反」として現出したスローフードやスローライフは家庭経済としてはどうであるかである。勿論、雑誌などで特集され一種のトレンドとなった上澄み的市場は既に消滅している。その象徴が「癒しの島沖縄」である。周知のように、そうしたライフスタイルを追求していく経済的基盤を喪失しており、今やスローフードではなくB級グルメであり、癒しの時間は週末だけのひととき農業人といったところに留まっているのが現実である。
つまり、お金をかけずにいかにスローライフ、スローフーズを楽しむか、その答えは地方にある。あり余るほどの資源、財産を持っているのが地方であるが、例えば豊かな自然・景観、今も残る古民家、自給自足できる畑がある、郷土料理もある、・・・・しかし、それら資源をまとめ上げた都市生活者に向けたポリシー&コンセプトがない。過去へと遡る都市生活者の欲求に対し、過去・歴史を今に置き換えるアイディアが無いという意味である。
つまり、「過去へと遡る」とは言葉を変えて言うと、語るべき歴史・過去を持たないということである。静かなブームとなっているのが、自分の家系図を辿るルーツ探し、自分史づくりである。もっと平易に言えば、思い出づくり、語るべき歴史をどう提供していくかである。更に言うと、昨年から注目され始めているのが伝統野菜である。その先駆けは京野菜であるが、全国に埋もれた昔ながらの野菜、安い輸入野菜に押され無くしてしまった野菜が再生産され始めている。いわば伝統野菜の復刻版である。これも語るべき歴史の一つとなる。そして、伝統野菜の先には郷土料理がある。おふくろの味は学校給食とコンビニの中にしか見出せないのが、都市生活者である。語るべき何かとは、故郷であり、家族であり、遊びであり、つまりもう一つの生活ということである。ノスタルジー消費、虚構の生活ではあるが、第二の故郷、第二の家族、第二の遊び、第二の生活をどう提供していくのか、ここに市場着眼しなければならない。今年は平城京遷都1300年であり、奈良や京都に多くの観光客が向かうであろう。そこで見出すのは、日本って何、日本人って何、という日本の歴史であろう。日本史と自分史を重ね合わせた癒しの旅ということだ。(続く)
2010年01月06日
価格競争を超えるもの
ヒット商品応援団日記No433(毎週2回更新) 2010.1.6.
年が明け、一斉に福袋というバーゲンセールが始まった。例年百貨店ではプランタン銀座を筆頭に松屋など銀座に集まる百貨店には4000〜5000名の徹夜組を先頭にした行列が出来る。若い世代では渋谷109恒例の5DAYS バーゲンには初日65,000人が集まり、ラフォーレ原宿においても同様の行列となり、今やデフレ時代の正月風物詩となっている。
未だ正確な売上実績情報ではないが、マスコミ取材を受けた現場担当者のコメントを聞く限り、客数は増えたが客単価は減り、昨年並みの売上であるという。こうした初売りがバーゲンとなり、本来行っている冬物バーゲン時期とつながって、私が指摘してきたエブリデーバーゲンの時代となった。昨年も同じようなことを書いた記憶があるが、確か銀座松屋では缶詰のつめ放題をセールの目玉にしていた。年末に売れ残ったお歳暮商品をお中元の時と同様にバラ売りを予定している百貨店もあり、バーゲンの名を借りた叩き売り、最後の生き残りをかけた流通サバイバルの時代になったということだ。
一方、生活者の年末年始の移動であるが、高速道の割引制度の適用期間が1日〜5日となったため帰省は新幹線へと流れ、3日の渋滞予想もそれほどではなく結構スムーズに流れたとのこと。海外への旅行者数も例年並みで、しかも近場が多いこともあり、やはり予想通りの巣ごもり正月となった。昨年末、イルミネーションが復活した表参道は人波で溢れていた。正月を迎え各地の初詣も新型インフルエンザにも関わらず例年通りであったが、周辺の飲食店やお土産店の売上が良かったとの話は一切聞いていない。
次々と寒波が押し寄せ豪雪が日本を覆っているが、消費も氷河期に既に入った感がしてならない。しかし、氷河期には氷河期の消費がある。
さて、低価格以外でどう消費氷河期を超えるかである。まず、昨年のヒット商品の理由の一つとして書いた「費用対効果」という価値観である。もう少し意味合いを広げると「費用対満足」と置き換えてもかまわない。
今年のバーゲンの中心である衣料品を見ていくと、寒波が到来しているにも関わらずコートなどの重衣料があまり売れていない。年々重衣料は軽衣料化の傾向にあるが、更にユニクロによるヒートテックやワコールの「スゴ衣」といったウォームビズ対応商品の影響が出ている。つまり、ファッションとしてではなく、寒さ対策であればこうしたウォームビズ対応商品で十分であるということだ。ある意味、重衣料の代替消費(=消費移動)となっており、オシャレにお金をかけられない我慢消費、巣ごもり消費の典型となっている。勿論、若いティーン女性にとってオシャレは不可欠なことで、渋谷109などのバーゲンには全国から集まってくる。しかし、バーゲンの中身が見れないことから、数年前から渋谷109の前や地下通路では気に入らない商品の交換市のようなものが自然発生的に生まれている。これも単なる安さだけでなく、シビアにお気に入り商品を厳選したいとする結果であろう。
年末、年始と都心のいくつかの家電量販店を見て回ったが、やはり売れているのは巣ごもり商品であった。その代表的商品であるが、エコポイントという官製販促もあってか薄型TVは売れている。そして、売れているのは26型や32型といった個人視聴用で、つまり2台目需要である。更には、個人サイズのホットカーペットやヒーターなど、個人使用のものが売れているようだ。つまり、部屋全体をエアコンで暖めるより、省エネ=省マネーになるという、これも一つの合理的生活ということだ。
これからも安売り、低価格競争は続くと思う。しかし、その低価格商品は自分の生活にとって「合理」となるのか、その理にかなうとした物差しが次第に明確になってきている。生活は「今」であり、その鮮度こそ重要であるとしたキリギリス的生活は無くなり、ある意味中長期的生活にかなったものであるかどうか、そうしたアリ的生活へとシフトしたということである。ヒット商品となったLED電球がその象徴であるが、その耐久性や省エネを考えたら、結果お得という「合理的価値」である。大量消費・使い捨て消費から、最初は少し高いが長期間使ったらお得になる、という価値観である。食品で言えば、食べ切りサイズ、小単位サイズ、小価格であり、冷蔵庫と組み合わせれば賞味期限の延長となる。ファッションで言えば、ロングライフデザイン、トレンドに左右されない、長期間着ても着飽きない、そんな商品となる。
2年ほど前に、「和の合理性に着目」というタイトルで土鍋を取り上げたことがあった。周知の通り、土鍋は静かなブームとなり、今や生活に定着した調理道具となった。当時、和におけるヒット商品として、私は次のようにブログに書いていた。
『次は「和道具」の世界へと消費は進んで行くと思っている。その代表商品にはご飯を炊く「土鍋」に注目が集まる。土鍋はどの家庭にもあるものだが、私が言っている土鍋はご飯を炊く土鍋のことだけではない。圧力釜や石焼板の代わりにもなる万能に近い土鍋で、伊賀あたりの土を使ったものである。実は、土鍋は炊く、煮る、焼く、蒸す、毎日多様な使い方ができる合理的な道具である。時には季節の食材を入れた炊き込みご飯といった季節を楽しむ、和道具の知恵を使うライフスタイルである。』
これは土鍋という過去に着眼した一つの合理性である。所得が10年間で100万円減少した時代、ちょうど1989年のバブル時期と同じ所得水準と言われているが、物の本質、その合理的価値にやっとたどり着いたと言えよう。バブル崩壊後、豊かさとは何か、と盛んに言われてきたが、成熟した消費とはこうした合理的生活を目指すということである。価格競争を超えるとは、こうした合理に基づく価値を提供していくことにある。良く言われるテーマであるが、ベストセラーを狙うのではなく、ロングセラーとして育てていくということだ。(続く)
年が明け、一斉に福袋というバーゲンセールが始まった。例年百貨店ではプランタン銀座を筆頭に松屋など銀座に集まる百貨店には4000〜5000名の徹夜組を先頭にした行列が出来る。若い世代では渋谷109恒例の5DAYS バーゲンには初日65,000人が集まり、ラフォーレ原宿においても同様の行列となり、今やデフレ時代の正月風物詩となっている。
未だ正確な売上実績情報ではないが、マスコミ取材を受けた現場担当者のコメントを聞く限り、客数は増えたが客単価は減り、昨年並みの売上であるという。こうした初売りがバーゲンとなり、本来行っている冬物バーゲン時期とつながって、私が指摘してきたエブリデーバーゲンの時代となった。昨年も同じようなことを書いた記憶があるが、確か銀座松屋では缶詰のつめ放題をセールの目玉にしていた。年末に売れ残ったお歳暮商品をお中元の時と同様にバラ売りを予定している百貨店もあり、バーゲンの名を借りた叩き売り、最後の生き残りをかけた流通サバイバルの時代になったということだ。
一方、生活者の年末年始の移動であるが、高速道の割引制度の適用期間が1日〜5日となったため帰省は新幹線へと流れ、3日の渋滞予想もそれほどではなく結構スムーズに流れたとのこと。海外への旅行者数も例年並みで、しかも近場が多いこともあり、やはり予想通りの巣ごもり正月となった。昨年末、イルミネーションが復活した表参道は人波で溢れていた。正月を迎え各地の初詣も新型インフルエンザにも関わらず例年通りであったが、周辺の飲食店やお土産店の売上が良かったとの話は一切聞いていない。
次々と寒波が押し寄せ豪雪が日本を覆っているが、消費も氷河期に既に入った感がしてならない。しかし、氷河期には氷河期の消費がある。
さて、低価格以外でどう消費氷河期を超えるかである。まず、昨年のヒット商品の理由の一つとして書いた「費用対効果」という価値観である。もう少し意味合いを広げると「費用対満足」と置き換えてもかまわない。
今年のバーゲンの中心である衣料品を見ていくと、寒波が到来しているにも関わらずコートなどの重衣料があまり売れていない。年々重衣料は軽衣料化の傾向にあるが、更にユニクロによるヒートテックやワコールの「スゴ衣」といったウォームビズ対応商品の影響が出ている。つまり、ファッションとしてではなく、寒さ対策であればこうしたウォームビズ対応商品で十分であるということだ。ある意味、重衣料の代替消費(=消費移動)となっており、オシャレにお金をかけられない我慢消費、巣ごもり消費の典型となっている。勿論、若いティーン女性にとってオシャレは不可欠なことで、渋谷109などのバーゲンには全国から集まってくる。しかし、バーゲンの中身が見れないことから、数年前から渋谷109の前や地下通路では気に入らない商品の交換市のようなものが自然発生的に生まれている。これも単なる安さだけでなく、シビアにお気に入り商品を厳選したいとする結果であろう。
年末、年始と都心のいくつかの家電量販店を見て回ったが、やはり売れているのは巣ごもり商品であった。その代表的商品であるが、エコポイントという官製販促もあってか薄型TVは売れている。そして、売れているのは26型や32型といった個人視聴用で、つまり2台目需要である。更には、個人サイズのホットカーペットやヒーターなど、個人使用のものが売れているようだ。つまり、部屋全体をエアコンで暖めるより、省エネ=省マネーになるという、これも一つの合理的生活ということだ。
これからも安売り、低価格競争は続くと思う。しかし、その低価格商品は自分の生活にとって「合理」となるのか、その理にかなうとした物差しが次第に明確になってきている。生活は「今」であり、その鮮度こそ重要であるとしたキリギリス的生活は無くなり、ある意味中長期的生活にかなったものであるかどうか、そうしたアリ的生活へとシフトしたということである。ヒット商品となったLED電球がその象徴であるが、その耐久性や省エネを考えたら、結果お得という「合理的価値」である。大量消費・使い捨て消費から、最初は少し高いが長期間使ったらお得になる、という価値観である。食品で言えば、食べ切りサイズ、小単位サイズ、小価格であり、冷蔵庫と組み合わせれば賞味期限の延長となる。ファッションで言えば、ロングライフデザイン、トレンドに左右されない、長期間着ても着飽きない、そんな商品となる。
2年ほど前に、「和の合理性に着目」というタイトルで土鍋を取り上げたことがあった。周知の通り、土鍋は静かなブームとなり、今や生活に定着した調理道具となった。当時、和におけるヒット商品として、私は次のようにブログに書いていた。
『次は「和道具」の世界へと消費は進んで行くと思っている。その代表商品にはご飯を炊く「土鍋」に注目が集まる。土鍋はどの家庭にもあるものだが、私が言っている土鍋はご飯を炊く土鍋のことだけではない。圧力釜や石焼板の代わりにもなる万能に近い土鍋で、伊賀あたりの土を使ったものである。実は、土鍋は炊く、煮る、焼く、蒸す、毎日多様な使い方ができる合理的な道具である。時には季節の食材を入れた炊き込みご飯といった季節を楽しむ、和道具の知恵を使うライフスタイルである。』
これは土鍋という過去に着眼した一つの合理性である。所得が10年間で100万円減少した時代、ちょうど1989年のバブル時期と同じ所得水準と言われているが、物の本質、その合理的価値にやっとたどり着いたと言えよう。バブル崩壊後、豊かさとは何か、と盛んに言われてきたが、成熟した消費とはこうした合理的生活を目指すということである。価格競争を超えるとは、こうした合理に基づく価値を提供していくことにある。良く言われるテーマであるが、ベストセラーを狙うのではなく、ロングセラーとして育てていくということだ。(続く)
2010年01月01日
2010年の応援歌
ヒット商品応援団日記No432(毎週2回更新) 2010.1.1.
新年あけましておめでとうございます。旧年中は拙いブログをお読みいただきありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
ところで、年代、性別あるいは地域や国の垣根を超えて、歌は常に人々への応援歌であった。昨年春、アンジェラ・アキの「手紙」、未来の自分に宛てた手紙なら素直になれるだろう、だから「未来の自分に手紙を書いてみよう」と呼びかける歌についてブログに書いた。更に、吉田拓郎の最後のライブコンサートであった「ガンバラないけどいいでしょう」についても書いた。共に、あるがままの自分でいいじゃないか、時に疲れたら少し休もうじゃないか、とメッセージを送った歌で、世代を超えてつながっている歌であった。情報の時代という凄まじいスピードに、生き方までもがからめとられてしまう時代にいる。過剰さは情報やモノばかりではない。生き方までもが知らず知らずの内に過剰になってしまう。足し算ばかりの過剰な生き方から引き算の生き方へと変化し始めている。引いてもなお残る自分、そんな自分を見出す時代だ。だから、生き急いではならない。年末、久しぶりにNHKの「紅白歌合戦」を見たが、ちょうど「いきものがかり」による「YELL」であった。「手紙」と同じNHKの全国学校音楽コンクールの中学の部の課題曲であるが、2009年という年に生きてきた人達へのまさに生きることへの応援歌であった。
さて、元旦の新聞各紙、朝日、日経、東京の3誌を読んだが、東京新聞を除き、ジャーナリズムとしての時代に向き合う思想も鮮度も喪失している。確か、2年前の日経新聞の元旦号一面は「沈む国と通貨の物語/漱石の嘆きいま再び」と題し、円の力の低下を国費留学生としてロンドンに留学していた夏目漱石のコメントを重ね合わせた良い記事であった。今年は「成長へ眠る力を引き出す」とし、シニアと女性に注目した「ニッポン復活の10年」という視座で編集されている。日経らしいと言えば、それなりの構成とはなっているが、視座としての鋭さも鮮度も欠けている。もっとひどいのが朝日新聞である。閉塞感が充満する日本が前へと進むために「動く世界と共に」を掲げている。抽象的で茫洋とした一般論的視座で、その内容も読むに耐えない。一方、東京ローカル紙という特性もあるが、生活者の視座と同じ目線で紙面構成されているのが、東京新聞である。一面は、ホームレス診療を16年続けている和田龍蔵医師に焦点を当て、「難しい病気を先端医療で治す」のではなく、セーフティネットの隙き間にこぼれ落ちたホームレスの「救える命を救う」こと、そうした常識の転換を促す良い紙面となっている。
今年から日経新聞朝刊は140円から160円へと20円値上がりした。恐らく赤字続きの大手新聞各紙は春には右にならうことであろう。仕事上新聞は読まざるを得ないが、かれらこそ常識の殻を破り、読むに耐える新聞として復活すべきであろう。
東京新聞の元旦号ではないが、格差というまだら模様は、貧困という鮮明な模様へと変化してきた。それは希望格差として、希望の喪失として表れてきている。デフレは経済の在り方ではあるが、心理化した市場においてはデフレの内実はこうした希望喪失に依るところが大きい。希望は不安を取り除くことから始めると言われるが、それらは単なる一般論としての理屈である。理屈からは希望は生まれない。もし生まれるとするならば、全て現場、具体性の中からである。
私もそうした具体性へ、フィールドワークに応援団として出かけて行こうと思っている。2月21日には京都府南丹市の依頼で地域フォーラムの基調講演にでかける。2月か3月には、沖縄でトークイベントのようなことをやりたいと考えている。どんどん地域、現場へと出かけるつもりである。そうしたことから、このブログも不定期になるかもしれない。しかし、1日150〜200名の方が読んでいただいているので、出来る限り都市に於ける消費変化という課題に向き合いたいと思っている。今年も一年どうぞよろしくお願いいたします。(続く)
新年あけましておめでとうございます。旧年中は拙いブログをお読みいただきありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
ところで、年代、性別あるいは地域や国の垣根を超えて、歌は常に人々への応援歌であった。昨年春、アンジェラ・アキの「手紙」、未来の自分に宛てた手紙なら素直になれるだろう、だから「未来の自分に手紙を書いてみよう」と呼びかける歌についてブログに書いた。更に、吉田拓郎の最後のライブコンサートであった「ガンバラないけどいいでしょう」についても書いた。共に、あるがままの自分でいいじゃないか、時に疲れたら少し休もうじゃないか、とメッセージを送った歌で、世代を超えてつながっている歌であった。情報の時代という凄まじいスピードに、生き方までもがからめとられてしまう時代にいる。過剰さは情報やモノばかりではない。生き方までもが知らず知らずの内に過剰になってしまう。足し算ばかりの過剰な生き方から引き算の生き方へと変化し始めている。引いてもなお残る自分、そんな自分を見出す時代だ。だから、生き急いではならない。年末、久しぶりにNHKの「紅白歌合戦」を見たが、ちょうど「いきものがかり」による「YELL」であった。「手紙」と同じNHKの全国学校音楽コンクールの中学の部の課題曲であるが、2009年という年に生きてきた人達へのまさに生きることへの応援歌であった。
さて、元旦の新聞各紙、朝日、日経、東京の3誌を読んだが、東京新聞を除き、ジャーナリズムとしての時代に向き合う思想も鮮度も喪失している。確か、2年前の日経新聞の元旦号一面は「沈む国と通貨の物語/漱石の嘆きいま再び」と題し、円の力の低下を国費留学生としてロンドンに留学していた夏目漱石のコメントを重ね合わせた良い記事であった。今年は「成長へ眠る力を引き出す」とし、シニアと女性に注目した「ニッポン復活の10年」という視座で編集されている。日経らしいと言えば、それなりの構成とはなっているが、視座としての鋭さも鮮度も欠けている。もっとひどいのが朝日新聞である。閉塞感が充満する日本が前へと進むために「動く世界と共に」を掲げている。抽象的で茫洋とした一般論的視座で、その内容も読むに耐えない。一方、東京ローカル紙という特性もあるが、生活者の視座と同じ目線で紙面構成されているのが、東京新聞である。一面は、ホームレス診療を16年続けている和田龍蔵医師に焦点を当て、「難しい病気を先端医療で治す」のではなく、セーフティネットの隙き間にこぼれ落ちたホームレスの「救える命を救う」こと、そうした常識の転換を促す良い紙面となっている。
今年から日経新聞朝刊は140円から160円へと20円値上がりした。恐らく赤字続きの大手新聞各紙は春には右にならうことであろう。仕事上新聞は読まざるを得ないが、かれらこそ常識の殻を破り、読むに耐える新聞として復活すべきであろう。
東京新聞の元旦号ではないが、格差というまだら模様は、貧困という鮮明な模様へと変化してきた。それは希望格差として、希望の喪失として表れてきている。デフレは経済の在り方ではあるが、心理化した市場においてはデフレの内実はこうした希望喪失に依るところが大きい。希望は不安を取り除くことから始めると言われるが、それらは単なる一般論としての理屈である。理屈からは希望は生まれない。もし生まれるとするならば、全て現場、具体性の中からである。
私もそうした具体性へ、フィールドワークに応援団として出かけて行こうと思っている。2月21日には京都府南丹市の依頼で地域フォーラムの基調講演にでかける。2月か3月には、沖縄でトークイベントのようなことをやりたいと考えている。どんどん地域、現場へと出かけるつもりである。そうしたことから、このブログも不定期になるかもしれない。しかし、1日150〜200名の方が読んでいただいているので、出来る限り都市に於ける消費変化という課題に向き合いたいと思っている。今年も一年どうぞよろしくお願いいたします。(続く)

