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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2021年02月17日

未来塾(43) コロナ禍の飲食事業事例「後半)    

ヒット商品応援団日記No779(毎週更新) 2021.2.17.

未来塾(43) コロナ禍の飲食事業事例「後半)    



「5つの飲食事例」に学ぶ


今回取り上げた事例はわずかで、他の飲食事業者に全て当てはまるものではない。ただ今回の事例はコロナ禍にオープンした飲食事業、もしくはオープンして3年に満たない事業であり、ある意味正面からコロナ禍に立ち向かった事業事例である。そして、立ち向かい方もそうであるが、業態ごと、専門分野ならではのアイディアや知恵を見出すことができる。そして、小売業はアイディア業であると言われてきたが、事業の根底には揺るぎない信念のようなものが見えてくる。ウイルスという見えない敵との戦いであればこそ、信念といういささか精神論的ではあるが、事業を支える姿が見えてくる。


「不安」が横溢する心理市場

昨年夏未来塾では「もう一つのウイルス」と言うタイトルで、「自粛警察」をはじめとした社会現象を取り上げたことがあった。周知のようにそれら心の奥底に潜むウイルスは続いており、今や「マスク警察」から更に「不織布マスク警察」へと。こうした過敏な反応は一種のヒステリー現象・社会病理に近いものとなっている。あのIps細胞研究所の山中教授は昨年春HP開設に際し、情報発信については「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」を基本に発信していくと述べ、HPの情報もその都度改訂・修正されている。
実は不安を作り出すのは「情報」であり、しかも「不確かな情報」に因ることが多い。勿論、不確かどころか全くのデマ情報とまでは言わないが、憶測、推測、個人的な思い込み、・・・・・こうしたことから「うわさ」が生まれる。うわさはうわさへと伝播拡散することはSNS社会にあっては周知の通りで、そのうわさを根拠にマスメディア、特にTVメディアは取り上げあたかも事実であるかのように伝わることとなる。
その象徴例が昨年春のパチンコ店の取り上げ方で、まるでクラスター発生源であるかの如きであった。しかし大きなクラスターは一度も起きてはいないのが「事実」である。後にメディアの責任を痛感したと述べたのはジャーナリストの大谷昭宏氏だけで、TV局・番組が訂正したことは聞いたことがない。同じように、東京由来のウイルスと言われた新宿歌舞伎町は確かに感染者が多かったことは事実であるが、都知事は「夜の街」が感染源であるかの如き発言を繰り返し、ここでも「悪者」である根拠を検証することなくそのまま報道する。(詳しくは未来塾にて新宿区長の発言を含め経緯を書いているので参照していただきたい)」
次に悪者となったのが明確な根拠がないまま移動をすれば感染は拡大すると言った一般論からの推測によるGotoトラベル感染拡大説である。次に取り上げられたのは感染者数の割合が多く行動範囲の大きな「若者」感染源説である。(詳しくはブログ「伝わらない時代の伝え方」を参考としてください。若い世代の行動を消費面から分析しています。)
こうした不確かな情報発信はTV局が自前の取材スタッフで全てをまかなうことができないと言う事情があるからである。その情報の見極めは「その確かな根拠は?」と問えば、自ずと答えが出る。よく情報リテラシーの議論が出るが、情報の活用能力の前に「その情報の根拠」を問うことから始めることだ。

気分を変えるアイディア

残念ながら不安・ストレスは増幅することはあってもなくなることはない。感染防止のための努力は勿論のことであるが、今必要なことは「ポリシー」「信念」であり、目指すべき飲食の在り方、私の言葉で言えば時代に即した「コンセプト」を明確にすることに尽きる。時代に向き合う姿は顧客に一定の「安心感」を与えることができる。昔からある「お任せ」と言う安心感である。これらは「専門世界」「プロ」ならではの「確かさ」を提供することである。変わらぬ安定感、いつもの味、いつものスタイル、明るさ、こうして生まれる満足の提供ということだ。
つまり、自店の世界に引き込む、創ろうとする雰囲気を最大限表現することが重要となる。それが「ひととき」という短い時間であっても、不安の無い時間を創るということにつながる。今回の事例でいうと、大阪「ミクり」のテーマ「二十四節気」の世界に入り込んでもらうということである。二十四節気と言えば、夏至や冬至、あるいは立春や立夏などを思い浮かべるが、24の季節を表す名前がつけられている暦の世界だ。ある意味旧暦の季節に想いを巡らす暮らしの世界がテーマであり、そのメニューとなった古の文化を食べることとなる。そのようにひととき不安から離れた時間を過ごしてもらうということである。
「挽肉と米」の場合も、店づくり・空間づくりの世界観を感じさせてくれるが、なんといっても目の前で焼いてくれるハンバーグである。焼く匂い、音、立ち上る煙さえ、美味しさのシズル感を掻き立ててくれる。しかも次から次へと食べ終わった頃を見はらかったかのように熱々のハンバーグが届く。食べ方も自由自在自分の世界に没頭させてくれる時間だ。
どちらもその満足感は異なるが、ひととき不安とは無縁の時間を過ごさせてくれる。

「若い世代」の居場所づくり

昨年夏「密を求めて若者は街へと向かう」といういささか刺激的なタイトルでブログを書いた。今になって感染拡大のあたかも犯人のように「若者」を見立てる「大人」(主にTVメディア報道)の言説が盛んに見られるようになった。(詳しくはブログを参照していただきたい。)
1967年「書を捨てよ、町へ出よう」と呼び掛けたのは寺山修司であった。寺山が主催した天井桟敷の舞台は新宿花園神社であったが、現在の舞台は渋谷へと変わった。今までの鬱屈した生活から「自由」に何にでもひととき変われる」街へと向かうという心情にそれほどの違いはない。そこには私の持論であるが、「新しい、面白い、珍しい」何かが常にあり、欲望を刺激するのが「都市」がもつ魅力ということだ。
ところで2015年の国勢調査によれば、地方では過疎化高齢化が深まり、都市においては人口流入に歯止めが効かず単身世帯が増加している。ちなみに東京23区の場合、単身世帯は過半数を占めている。
また、東京における人口流入増加は仕事を求めた若い世代とともに学生によるところが大きく、学生数は約260万人に及んでいる。高齢化ばかりが話題となっているが、東京はやはり「若者」の街である。「密」の中心に若い世代がいるということである。
東京という街の歴史を調べていくとわかるのだが、日本で初めて「都市化」が進められたのが江戸であった。周知のように中央集権国家の礎はここから始まっている。また、この都市化は新たな商業を発展させ、元禄に代表されるような消費都市の萌芽を見せる。消費都市とは「不要不急」によって成立する。そして、この魅力は幕府が開かれた当初江戸は40万人都市であったが、地方から江戸を目指す人は多く、120万〜140万人にまで膨れ上がる。つまり、江戸も今も人を惹き寄せるのは「新しい、面白い、珍しい」を求めた結果である。
話が横道に外れてしまったが、「新しい、面白い、珍しい」が日々起きている街が渋谷であり、事例の渋谷横丁もその一つとなっている。ここ数年渋谷は連続した再開発によって街の様相は高層ビルによって一変した。それら高層ビルにも多くの専門店などが入っているが、「大人の街」コンセプトによってテナント編集されているせいか、若い世代にとっては敷居の高さ、入りにくさを感じてしまうものとなっている。ラフな格好で気軽に使える店は少ない。そうした中の渋谷にあって、安い価格で飲み食べることのできる渋谷横丁は「居心地の良い」居場所になっている。それは閉じられたビル内の飲食店ではなく、通りに面した店づくりは入り易い居場所となっている。

ところで界隈性というキーワードがある。賑わい、活気ある雰囲気、なぜか心地よい・・・・・・・そこには効率とか生産性とか、ある意味「〇〇すべき」といったベキ論に押し潰されそうになる日常からひととき解放してくれる、そんな雰囲気が満ち溢れる街のことを指すキーワードである。組織ではなく個人として出会い交流できる街、異なる価値観を持つ多様な人と出会える、そんな街が渋谷である。勿論、過去には薬物に手を出したり、援助交際といった「大人」の罠に囚われたことがあったが、現在そうしたことはほとんど聞いたことがない。
もう一つの事例として取り上げた日比谷オクロジの場合であるが、JR東日本の高架下ということからも「隠れ家」というコンセプトは理に叶ったものである。その隠れ家であるが、「ワインと天ぷら」と言った新しい組み合わせメニューをメインとした専門店など従来の銀座にはない「新しさ」を感じることができる。出店する業種もさることながら、まず超えなければならないのが前述の「銀座価格」である。銀座にある老舗飲食店も顧客によって育てられ今日があり、そこに文化もある。新しい銀座の「居場所」として、「育てがいのある専門店は何か」を今一度考えてみることも必要であろう。

価格の壁を超える「満足感」

誰を主要な顧客とするか、そのための業態やメニューによって全て異なるが、価格を決める一つの指標となるのが今までにない「満足感」である。5つの事例を通して学ぶべきは、1年近い巣ごもり生活で求められているのが「新しい、面白い、珍しい」メニューであり、サービススタイルであり、手頃な価格であることがわかる。巣ごもりという「鬱屈感」をひととき解放してくれるという満足感である。とにかく「気分」を変えてくれる店ということになる。今回取り上げた店や商業施設は、デリバリー・宅配といったスタイルの店ではない。例えば、「挽肉と米」の店を考えてもわかるっように単なる「焼きたて」ではなく、焼き上げるまでの音や朦々として煙すらも満足感に繋がっている。シズル感と言って仕舞えばそれで終わってしまうが、こうした「感」を取り戻したいということだ。デリバリーの出前館のCMに熱々のままのラーメンデリバリーが描かれているが、湯切りした麺を丼に入れる・・・・・・・こうした「ライブ感」を味わうことはできない。ただ熱いだけのラーメンの味気なさの違いである。
実はコロナ禍が起きるまでは、こだわり、わけあり、と言ったキーワードによってメニューが編集されてきた。その結果としての「価格」であった。ミシュランの星を獲得した店も、少し前までは成長を見せていたチェーン店も、等しく苦境に立たされている。「移動」が抑制されていることから、観光産業もさることながら駅弁の代表的な企業である焼売弁当の崎陽軒は売り上げは前年比4割であると報道されている。また、昨年4月歌舞伎座前の弁当屋「木挽町辨松」が152年の歴史を閉じて廃業へと向かった時感じたことだが、伝統を引き継ぐ食文化すらもコロナ禍の前では無力であった。しかし、そうした中で小さくても光る飲食店はあり、顧客は強く支持していることも事実である。

新しい満足感による再編

「食」はライフスタイルの中心である。この1年コロナ禍によって食の原点を今一度思い起こさせてくれた感がしてならない。パラダイムチェンジという言葉がある。過去の価値観を大きく変え、全く異なる世界・価値観世界を指す言葉であるが、今回のコロナ禍がもたらしたことは、パラダイムチェンジではなく、「食」とは何か、飲食業とは何か、を問い直させたということであろう。
巣ごもり生活の中にあっても、不安やストレスが充満したこころがひととき和み、思わず美味しかったと呟きたくなる、そんな「飲食」が求められているということだ。ある意味当たり前のことであり、原点に帰ることである。顧客支持はどこにあるのか、どこにあったのかを今一度見直してみるということである。時間が経ち、スタッフが多くなればなるほど、この「原点」から離れてしまいがちである。あのユニクロは創業感謝祭や新規店オープンには牛乳とアンパンを今なお来店顧客に配っている。それは創業時、オープンした時に配った「想い」を忘れないためである。創業の精神に常に立ち返るということだ。

ところでその満足感であるが、「巣ごもり」という閉じられた世界から解放してくれるものはなにかと言えば、「ライブ感」「シズル感」「季節感」「鮮度」・・・・・・つまり実感ということである。「密」であることを禁じられた中、「散」となった個々人が実感できる「何か」を取り戻したいということであろう。
コロナ禍の1年間、生活者はウイルスを避けながら、日常を楽しむ工夫をしてきた。例えば、キャンピング需要は更に大きくなり、ジョギングを始めハイキングなどオープンエアな環境に身を置く傾向が強く出てきた。自然を感じ取る、季節・花々・気温・匂い・風・・・・・・・今まであった「らしさ」を取り戻したいということであろう。
思い出して欲しい、1980年代消費を活性させたのは「鮮度」であった。旬を素材に、採れたて、焼きたて、煮立て、調理したて、、出来立ての美味しさを求めたことを。現在はそんな鮮度を「実感」してもらうことを主眼としたサービス業態が求められている。それは名店の鍋セットから始まり、焼き台を含めた「焼き鳥セット」や「焼肉セット」までが人気となっているのが「巣ごもり」消費である。つまり、いつの時代も「ライブ感」を提供するということだ。

「不要不急」を楽しむ時代

今回は飲食事業に的を絞ってコロナとの向き合い方を学んできたが、その裏側には顧客自身の変化が見え隠れしている。昨年春巣ごもり消費の代表的なものとして「ゲーム」需要に触れたことがあった。そのゲーム需要の中心に任天堂やSONYがあるのだが、SONYのプレイステーション5は製造が追い付かないほどで決算にも大きく貢献し経常利益は1兆円を超えると発表されている。最近では新しいSNS「クラブハウス」も夜8時以降出歩くことができないことから、音声のみの会話だけだがそのライブ感から世界中で人気となっている。これは人に会えない時代の不要不急の楽しみ方の一つであろう。クラブハウスの会話の本誌yしは一種の無駄話である。コロナ禍以前がそうであった日常の無駄話、友人関係だけでなく著名人との話もできることから、コロナ禍から生まれた「不要不急」なSNSである。昨年4月に実施されたテレワークが次第に元の出社状態に戻ってしまったのも、人間関係の中にこの「無駄」が必要であったということだ。
命をながらえるための必需消費だけでは生きてはいけなくなっている。無駄を含めた選択消費の時代であることを強く気づかせてくれた事例は多い。つまり、コロナ禍にあっても戦後間もない頃の生きるための必需消費の時代には後戻りできないと言うことである。団塊の世代以上の高齢者は必需消費の時代を経験していて我慢することはできるが、若い世代にとってはまさにコロナ禍は未経験、実感を得ることができない時代ということだ。不要不急という言葉は、「大人」の言葉であり、若い世代にとっては意味を持ち得ない言葉になっているということである。

ライフスタイル変化の兆し

コロナ禍の1年、見えてきたのは「無駄」をどう遊ぶか楽しむか、そんなライフスタイルである。よくコロナに慣れてしまった緩みと言った表現をTVメディアは使うが、それは生活者自身が自制、セルフダウンの仕方を学んできた結果であることを忘れている。
「不要不急」を悪の根源であるかのような言説を採る専門家や政治家は多くいるが、何をしても自由だということではない。生活者はどうしたら感染を防止しながら「楽しめる」かをウイルスの知識を踏まえて判断し、行動している。生活者はこうした学習情報を持ち、既にTVメディアのいい加減さに気づき始めている。少なくとも今回取り上げた専門店や商業施設は、こうした賢明な生活者によって支えられていることだけは事実である。
先日厚労省は2回目の抗体検査の結果を発表した。その抗体保有率は東京0.91%(前回0.10%)、大阪0.58%(同0.17%)、宮城0.14%(同0.03%)だった。新たに対象に加えた愛知は0.54%、福岡は0.19%。その評価であるが、どの地域も1%以下の低さである。英国などの抗体保有率は20%を超えているが、何故日本は低いのかと言う疑問が起きる。昨年春ips細胞研究所の山中教授が日本人の感染率の低さの理由を指摘をした「ファクターX」が1年経っても解明されていない。いずれにせよ1日も早いワクチン接種が待たれるが、少なくとも生活者は感染防止をしながら少しでも「不要不急」を楽しんでいるかがわかる。
昨年5月コロナ禍の出口論、ウイズコロナの論議が盛んであったが、消費の面からは答えの一つとして不要不急の楽しみ方が浮かび上がって来た。

「不要不急を楽しむ」などと言うと、また感染の犯人、悪者にされそうだが、全く逆で生活者は極めて注意深く楽しむ術を身につけ始めている。またここ数週間の感染者の減少傾向は若い世代の感染が減少したことによるもので、今なお感染者が多いのは介護施設や病院でのクラスター発生に依るものが多い。
今、一番我慢しているのは若い世代であり、細心の注意を払って、不要不急を楽しんでいる。バイトのシフトの合間に、多くの友人と会い騒ぎたいが、特別仲の良い友人と二人だけで昼間に会う。オランダでは若者による暴動すら起きていると報道されているが、日本の「若者」は消費の表舞台には出てこないとして5〜6年前、「草食男子」などと揶揄された世代である。真面目で大人しい世代であり、身近な仲間や関係先、勤め先やバイト先には感染の迷惑をかけない気配りのある世代である。
そして、あたかも合理主義を旨としたデジタル世代であるかのように見る「大人」が多いが、そうではなくてアナログ世界に関心を持ち遊ぶ世代である。実は吉祥寺を若い世代の街として観光地化した大きな要因の一つが昭和の匂いがするレトロなハモニカ横丁であることを「大人」は知らない。(詳しくは「街から学ぶ 吉祥寺編」を一読ください。)」

若い世代の特徴を草食男子と呼んだが、実は肉食女子と言うキーワードも併せて使われていた。この表現が流行った時、思わず江戸時代と同じだなと思ったことがあった。江戸の人口は当初は武士階級が半分で残りがいわゆる庶民であった。次第に元禄時代のように人口が増え庶民文化が花開くようになるのだが、当時の「女性」のポジションとしては圧倒的に「女性優位」であった。今の若い世代は「三行半(みくだりはん)を叩きつける」と言った表現の意味合いを知らないと思うが、昭和の世代は男性が女性に対し使う言葉で「縁を切る」「結婚を破棄する」「愛想が尽きた」と言った意味で使われると理解しているが、実は全く逆のことであった。「三行半」は女性が男性からもぎ取っていくもので、離婚し再婚する女性が極めて多かった社会と言われている。この背景には女性の人口が少なかったこともあって、女性が男性を選ぶ時代であった。
江戸時代は男女の区別はなく平等で、例えば大工の仕事にも女性が就いたり、逆に髪結の仕事に男性が就いたりし、育児を含めた家事分担はどちらがやっても構わない、そんなパートナーシップのあるライフスタイルであった。ただ武士階級は「家制度」があり、上級武士になればなるほど「格」とか「血筋」「歴史」によって男女格差が決められていた。
何故こうした江戸時代のライフスタイルを持ち出したかと言うと、これからの時代に向き合うには過去の因習に捉われない、区別をしない、多様性や個別性に素直に応えることが問われており、若い世代、特に「肉食女子」と呼ばれた女性に期待をしたい。
若者犯人説、不要不急悪者説、古くは夜の街・歌舞伎町悪者説、そして飲食事業悪者説など、危機の時には必ず「悪者」を創り上げる。こうした手法は政治家が特に使う常套手段であるが、危機の時こそ感情に押し流されることなく、理性的に科学の根拠を持って向かわなければならない。生活者はこうした認識でいるのだが、特にマスコミ、TVメディアは相変わらず「悪者」「犯人」探しが仕事であるかのように考えている。ある意味で、もう一つのウイルス、差別や偏見を撒き散らしているのはTVメディアと言っても過言ではない。


タグ :コロナ禍

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Posted by ヒット商品応援団 at 14:23│Comments(0)新市場創造
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