プロフィール
ヒット商品応援団
「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
インフォメーション
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 16人

2016年05月08日

「世間」幻想 

ヒット商品応援団日記No644(毎週更新) 2016.5.8、

過剰な情報の時代、しかも個人化が進行し自らメディアを持ち発信する個人放送局の時代でもある。1990年代後半、あらゆるものが、広告メディアは言うに及ばず、商品も、ショップも、街も、イベントも、もちろん人も情報発信メディアとなった。過剰に行き交う情報の中で、いかに伝えるかがコミュニケーションの課題となり、「サプライズ」というキーワードが象徴するように伝達刺激を強くしていく手法がとられてきた。そうした手法は当然個人放送局においても同じサプライズ手法が使われていくこととなる。オレオレ詐欺ではないが、オレオレ放送局である。その代表的インターネットメディアが、YouTubeであり、インスタグラムであり、Facebookやツイッターであろう。こうした個人放送局とマスメディアの言うところの「世間」がハレーションを起こしその内容を見えにくくさせている。ている。

少し前に「ベッキー&ゲスの不倫騒動」がマスコミの話題となり、マスコミ、特にTVメディアはシニア世代の主婦を始め「世間」の常識として不倫は許されることではないと一斉に報じた。そして、渦中の「ゲスの極み乙女」のボーカル・川谷絵音は不倫に対し「誰に謝れば良いのか」と発言し、その言葉の揚げ足取りのようにさらにスキャンダルを増幅させたことがあった。これは想像であるが、川谷絵音は妻やメンバー、あるいは事務所スタッフそして、ライブ会場に集まったフアンである「内輪」に対しては謝罪していたと思う。マスメディア報道のいう「世間」とは川谷絵音にとってはフアンであって、その意味する対象、世界は全く異なる。
一方、不倫相手とされるベッキーは記者会見を開き謝罪したのだが、その謝罪先はTVメデイアの視聴者であり、それは川谷絵音のいうところの「内輪」ではない。「純」なイメージを持ってTVメディアに登場してきたベッキーにとっては、そのイメージを裏切ったこととなり、視聴者という世間に対し謝罪したのである。このように2人にとっての「世間」の持つ意味、構図は異なる。

ところで2007年の流行語大賞の一つに選ばれた「KY(空気が読めない)」について、ローマ字式略語約400語を収めたミニ辞典「KY式日本語」が発売されたことがあった。覚えているだろうか、1位はKY、上位にはJK(女子高生)やHK(話変わるけど)といった言葉遊びが中心となっている。面白い言葉では、ATM、銀行の自動支払機ではなく(アホな父ちゃんもういらへん)の略語やCB、コールバックや転換社債ではなく(超微妙)の略語で若者が多用する言葉らしさに溢れている。
KY語の発生はコミュニケーションスピードを上げるために圧縮・簡略化してきたと考えられている。既に死語となったドッグイヤーを更に上回るスピードであらゆるものが動く時代に即したコミュニケーションスタイルである。特に、スマホのメールなどで使われており、絵文字などもこうした使われ方と同様であろう。こうしたコミュニケーションは理解を促し、理解を得ることにあるのではない。SNSのLINEの多くがそうであるように、「返信」を相互に繰り返すだけのもので、いわば「仲間」確認のためのものである。

こうした仲間語が生まれるもう一つの背景が家庭崩壊、学校崩壊、コミュニティ崩壊といった社会の単位の崩壊が始まっていることにある。つまり、バラバラになって関係性を失った「個」同士が「聞き手」を欲求する。つながっているという「感覚」、「仲間幻想」を保持したいということからであろう。裏返せば、仲間幻想を成立させるためにも「外側(=世間)」に異なる世界の人間を必要とし、例えばその延長線上に「いじめ」がある。これは中高生ばかりか、大人のビジネス社会でも同様に起こっている。誰がをいじめることによって、「仲間幻想」を維持するということである。
社会の単位という言葉を使ったが、ネット上のSNSだけでなく、地域単位から始まり、職場や学校、趣味やスポーツといったクラブ単位まで多種多様な社会の単位・共同体があり、誰もが複数の単位に所属している。マーケティングの第一歩はどこに所属しているかを特定することから始まるのだが、各単位は同じ目的や価値観でくくられていてそれを「市場」と呼んでいる。そうした単位は初期の成長段階にある時はそうでもないが、多くの場合その共同体は次第に閉鎖的となり、「いじめ」や「排除」あるいは今は死語となっている「村八分」が行われる。これが現代における「世間」の実相である。

私も「世間」という言葉を使うことが多い。一番多く使っているのが、近江商人の心得「三方よし」、売り手よし、買い手よし、世間よし、の世間である。この世間については「社会」の意味で、しかも社会的責任、CSRの意味合いとして多様な利害関係者(ステークホルダー)を指している。それは貨幣経済が全国的に庶民にまで広く行き渡ったのが江戸時代で、その中でも新しい商売の開拓を先駆的に行ったのが近江商人であった。周知のように、江戸時代は士農工商という身分制度のもとで、物を右から左へと移動させる流通だけの商人を卑しいものとして見ていた。そうした商人はかくあるべしと、その精神を説いたのが石田梅岩であった。当時は身分制度のもと、村落共同体という世間は前述のように地縁を軸とした「仲間」「内輪」そのもので、新参者の商人を受け入れることをしなかった。当然「いじめ」もあればパッシングもあった。そうした背景から地域の人たちの信頼を得るために「三方よし」が生まれた。陰徳善事(いんとくぜんじ)という言葉がある。人に知られないように善行を行うことであるが、陰徳はやがては世間に知られ、陽徳に転じるという意味である。近江商人は社会貢献の一環として、治山治水、道路改修、貧民救済、寺社や学校教育への寄付を盛んに行なった。中でも文化12(1818)年、中井正治右衛門は琵琶湖瀬田の唐橋の一手架け替えを完成した。その1000両を要した工事の指揮監督に自らあたり、後の架け替え費用を利殖するために2000両を幕府に寄付したと言われている。得た利益は世間という社会に返していく。こうして「内輪」「仲間」としてあった世間の壁を超えてきたのが近江商人で、その商売の心得・戒めが「三方よし」であった。

現代においては士農工商といった身分制度はないが、しかし江戸時代とは比べられないほどの多種多様な無数の「内輪」「仲間」が存在している。「KY(空気が読めない)」という言葉が意味しているように、実は極めて小さな単位の「空気が読める仲間内」である。そして、その本質は互いに交換する記号であって、理解納得のコミュニケーションではない。LINEのやり取りのように、「未読」はコミュニケーション拒否、仲間拒否・拒絶として受け止められる。だから「世間」という居場所を確保するには「返信」し続けなければならないということである。極端な例であるが、ネット上にも居場所を無くして凶行に走ったのが、あの2008年6月に起きた秋葉原通り魔事件であった。

内輪、あるいは仲間言葉について書いてきたが、よりわかりやすい現象が出てきている。あの「保育園落ちた、日本死ね」というブログに対する「世間」の反応である。政府は当初ブログの匿名性に触れ、答える術にないと答えていたが、その間違いは「投稿者」は小さな単位の「仲間」「世間」ではあったが、裏側には多くの待機児童を抱える母親が現として存在し、ツイッターによって拡散していたのである。つまり「社会」としての問題を象徴しているとの認識が政府になかったことの間違いであった。
ところが一方では確か千葉の市川市の住宅地に保育園を建設する予定が、近隣住民の反対で頓挫したと報じられている。大規模な保育園であり、その予定地前の通りが狭いとのことで、騒音・交通渋滞に対する反対であったとのこと。「静かな環境を守りたい」「保育園ができたら迷惑」といった住民、特にシニア世代の反対に対し、ネット上には「保育園に反対する老人死ね!」といった書き込みが多数見られた。客観的に見ればそれぞれが「世間」を標榜し、表面的には利害が対立しているように見える。こうした利害調整は本来行政の役割であるのだが、バラバラとなった「世間」の壁を越えるには、近江商人の場合は商売の心得「三方よし」であったが、現代においては市民の心得「三方よし」が問われているということである。

既に全国における空き家率は14%近くにも至っており、東京の都心部においても30%といった地域もある。商店街にはシャッター通り化している地域も多数ある。子供達の声は騒音ではなく、活気につながると商店主にとって迷惑にはならないという商店街もある。既にあるものをどう生かし切るのか、利害対立しているように見える2つの「世間」が相互に知恵を出し合い寛容の精神を持って新しいコミュニティづくりに向かうことが問われているということであろう。新しい「世間」づくり、街の再編集に向かうことが必要になっているということだ。そして、少子高齢日本であり、高齢者の各種ケア施設も再編集に含まれることは言うまでもない。マスメディア、特にTVメディアが取り上げる「街の声」と言ったインタビューは、いかにも世間の代表であるかのように扱っている。マスメディアをレガシーメディアと呼ぼうが、マス(塊)としての「世間」など存在しない。そんな世間など幻想にすぎないということだ。(続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:36Comments(0)新市場創造