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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2016年06月17日

舛添狂騒劇

ヒット商品応援団日記No649(毎週更新) 2016.6.17.

3週間ほど前のブログ「劇場型政治の変容 」で舛添都知事の政治資金私的流用疑惑問題等について取り上げた。その後記者との定例会見や都議会での追求が続けられ、自ら辞職するという形で第二幕が終わった。今回の政治劇場の変容は前回のブログで指摘通り、第二幕においても従来の劇場の配役とは逆で、主役は舛添都知事ではなく、物言うマジョリティ・都民であった。脇役は舛添都知事他都議会議員や政治アナリストや記者たちという構図である。政治の裏側についてはまるでわからない私であるが、辞職を促したのは物言うマジョリティであり、その存在を一番知っており、参院選への多大な影響を考えて最後の引導を渡したのは「官邸」(自民党本部)であったと思う。新聞紙上において、今回の舛添疑惑によって現政権の票数をどれだけ落としかねないか試算事例が載っていたが、選挙のプロではない私が考えても現政権与党の票、特に比例区の票がかなり減るであろうことは容易に推測できる。

メディアサーカスという言葉がある。過熱報道、集中報道といった意味合いの言葉である。舛添都知事に関する疑惑は東京ローカルの問題にもかかわらず、週末の舛添都知事との記者会見は民放各局はその模様を全国ネットでライブ中継するという異常なまでの報道であった。コミュニケーションの専門家であれば熟知していることだが、こうしたニュースが全国にわたって微に入り細に入り繰り返し伝えられ、一大狂騒劇と化した。
その舛添要一という人物についてであるが、「朝まで生テレビ」に颯爽と登場し、舌鋒鋭く多くの論客を圧倒した。以後政治家になり、母親を介護し、厚労大臣にまで上りつめる。そして、次の総理候補としてもてはやされた。それら人物像はTVによって創られたイメージの高さによってであり、「政治とカネ」の問題で辞職した猪瀬前都知事に代わって、大きな「期待」を持って誕生した都知事であった。しかし、TVによって創られたいわば「人気者」は、繰り返し、繰り返し、謝罪の言葉は言うものの、違法ではないもののその公私混同の「セコさ」や「屁理屈」が伝えられるとどうなるか。謝罪は本気でも本音でもなく、「嘘」と感じさせてしまう。当然「期待」は失望どころか、一気に「怒り」へと変容する。
物言うマジョリティの怒りは、抗議や批判の声として都庁へと4万件以上寄せられ、さらには舛添都知事が疑惑の精査を依頼した「第三者」の弁護士事務所には会見後非難の電話が殺到し、電話回線がパンクし、つまり炎上する事態にまで至った。どこまでかはわからないが、舛添都知事誕生を支援した与党自民党議員事務所には支持者からの「なんとかしろ」といった叱責が多数寄せられたと言われている。記者会見や議会での答弁を重ねれば重ねるほど、怒りは増幅し、狂騒劇となった。

TVによって創られた「人気者」は、TVを通じたマジョリティの「物言う力」によって辞職へと追い込まれることとなった。情報の時代にあっては、TVによっていとも簡単に「人気者」を創ってしまう。多くのタレントが間違ってしまうのは、自分の才能(タレント)によって人気者になったと錯覚してしまう。人気者はTVという増幅する「映写機」によって映し出された虚像であって、実像ではない。今回もそうした自覚を無くした結果としてある。不倫疑惑騒動のベッキーも、舛添都知事もそうした意味では同じ構図である。本来目指すべきは実像としての人気者である。TVが映し出す世界には、虚像としての世界も含まれるという自覚の無さが起因しており、さらにはTVというメディアを意図的に自由に使えるという「思い上がり」があったと思う。そのTVはつぶさにセコさや小狡さ、あるいは違法でなければ何をやっても、そんな実像を映し出した。逆にメディアに復讐されたと言っても過言ではない。
また物言うマジョリティの行動についてビジネスに置き換えると、「ブーム」という一過性の現象とよく似ている社会心理が見られる。一つの情報による潮流、話題となったことに自らも乗ること、若い世代の言葉で言うと、「KY・空気読めない」そんな一人にはなりたくない、一種の仲間内の自己保身本能に似ている、そんな現象も怒りの中には見られた。例えば、それら心理は批判としての怒りなどではなく、いわゆるネット社会における「パッシング」と同じで、感情的でさらには面白がるといった単なる野次馬的現象である。特にTVのバラエティ番組においては舛添都知事を「笑いもの」にして楽しむといった光景が数多く見られた。実はそうした「危うさ」をはらんだ第二幕であった。

さてこの劇場の第三幕はどうなるか。残念ながら、「集中審議」も「百条委員会」も開催されることなく舞台に上がった「疑惑」は解明されることなく次の幕へと移りそうだ。つまり、時間経過と共にうやむやのうちに終えていくであろう。しかし、辞職と引き換えに終わらせることには納得できないとする物言うマジョリティは多い。疑惑の解明、その説明まではできないにせよ、舛添都知事は記者会見を通じ、これまでの「いたらなさ」を都民に向かって詫びることが必要であろう。最後の最後、そんな本音が少しでも伝わる記者会見であったら、政治家舛添要一の「次」はあり得るかと思う。しかし、その「次」を自ら閉ざしてしまった感がしてならない。そして、残念ながら主役となったマジョリティ・都民は再び沈黙のマジョリティに戻り、「人気者」ではない人物を新しい都知事にする方向へと向かうであろう。
東京という選挙区は江戸時代からそうであるように、全国から集まったいわば寄せ集め雑居都市である。そうであるが故に、「知名度」のある候補者が選ばれてきた。しかし、こうしたTVによって創られた知名度の欠陥がまたしても露呈した訳だ。今回の学習を踏まえ、従来から指摘されてきた成熟した市民へと成長しなければならないということである。

そして、「物言う」とは、当然「言いぱなし」ではなく、責任を伴わなければならない。ましてや舛添都知事を選んだのは都民自身であり、その責任でもある。インターネットが普及した当初、そのネット上の匿名性が問題となり、今またその不特定多数としての都民・マジョリティの物言う責任の荷い方が問われている。今回について言うならば、「次」の都知事の選択、どんな「物言う」こととするのかが問われているということである。具体的には第三幕は「次」の新都知事だけでなく、「政治とカネ」その根幹となっているザル法の政治資金規正法をどうすべきか、そうした課題に一人一人が向き合って「物言う」市民になるということである。具体的には参院選の候補者の選択基準の一つにこの政治資金規正法の改正をも含めるということである。また、新都知事によって残された疑惑の解明を引き続き取り組むことも必要であろう。さらにはチェック機能を果たすべき都議会が機能してこなかったことを含め、来年行われる都議会選挙においても選挙を通じ「物言う」ことが必要となる。そして、今回の狂騒劇は、政治家に対し、物言うマジョリティの力をまざまざと見せつけたことになった。舛添都知事と同じようなことをしたら、同じように結末が待っているということである。
そして、狂騒劇となった第二幕を終え、第三幕は物言う怒りのマジョリティから「物言う市民」へと成長する、そんなフェーズへと少しづつ向かikuであろう。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:14Comments(0)新市場創造