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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2014年06月22日

未来塾(6)「商店街から学ぶ」砂町銀座編(前半)

ヒット商品応援団日記No584(毎週更新) 2014.6.22. 

今回の未来塾は「商店街から学ぶ」砂町銀座編を公開します。砂町銀座商店街は東京江東区にある道幅3~5mという路地裏商店街で、周囲を大型商業施設に囲まれ誰もがシャッター通り化するのではないかと思われていた。ところが人通りが絶えること無く、特に10日毎行われるバカ値市には人、人、人で溢れれ返る、そんな元気な商店街である。何故なのか、そこには商業の原則が貫かれており、そうしたことを中心に学びます。





「商店街から学ぶ」

時代の観察

砂町銀座商店街


1、誰を顧客とするのか

小売店や飲食店などの店舗が30店以上あるものを商店街と呼んでいるが、全国には大小合わせ12,500ほどの商店街がある。10数年前からシャッター通り化する地方商店街の活性化策が叫ばれているが、民間の有識者らでつくる「日本創成会議」の人口減少問題検討分科会では2040年には2010年と比較して若年女性が半分以下に減る自治体「消滅可能性都市」は全国の49・8%に当たる896市区町村に及び、更にこのうち523市町村は40年には人口が1万人を切ると。高齢社会どころか人口減少社会がすぐそこまで来ているということであり、地方自治体もシャッターを下ろさなければならない時代を迎えようとしている。
今回砂町銀座商店顔(東京江東区北砂二丁目)を学習として選んだのも小さな商圏のなかで生き残る、いや成長すら出来るヒントがこの商店街にはあると見立てたからである。その第一の視座こそ「誰を顧客とするのか」であり、結果どんな商店にどのような商品が求められているかという商業の基本原則が自然と創られ守られていることにつきる。
4月に新消費税が導入されどんな消費変化を見せるかも関心を呼ぶところであるが、砂町銀座商店街の多くは、総額表示による店がほとんどで、店頭には「消費税」という文字はほとんど見られない。多くの流通が本体価格を大きく、総額表示を小さく、とした併記を採用しているが、ここ砂町銀座商店街の多くは零細家族経営が多く、増税分は吸収する店もあるが、3%分を上乗せしている店もある。顧客もそうしたあり方を良く理解して利用している。誰を顧客とするのかとは、顧客とどんな関係を結ぶのかということでもある。そうした視座を持って学習してみた。

2、江東区北砂(きたすな)という小さな商圏

江東区というと、シニア世代にとっては海抜0メートルの下町とイメージされるが、若い世代にとっては東京湾岸地域の豊洲や東雲、臨海副都心といったタワーマンションに象徴される開発地域のイメージが強い。2005年以降のこうした大規模開発によって江東区全体としては人口が急増したエリアである。

1975年 355,382人
1980年 362,270人
1985年 388,927人
1990年 385,159人
1995年 365,604人
2000年 376,840人
2005年 420,845人
2010年 460,585人

その増加内容であるが、10年前から若い子育て世代の人口流入が始まり、小学校の教室が足りなくなったと話題となったことがあった。ところが砂町銀座商店街のある北砂は、こうした湾岸地域とは異なり、東西を隅田川と荒川に挟まれ、北は都営新宿線と南は東西線とに囲まれた、つまりアクセスするには都営バスしかないある意味不便な場所に立地した商店街である。北砂の住民の人たちからはおしかりを受けるが、ストレートに言えば「陸の孤島」のような不便な地域である。
その歴史を少し遡ると、明治時代小名木川の周辺では、水運を生かして工業地帯として発展した。写真はそんな風情を残す小名木川である。
北砂には大日本製糖の日本初の近代的精製糖工場が作られ、その後太平洋戦争前後に東芝が土地を買収し、東芝砂町工場となるが、昭和40年代に解体、売却される。東芝工場が代表するようにいわゆる町工場や零細企業も次々と移転していく。このように工場地帯は次第に都心へと通勤に便利なエリアの住宅団地へと次々と開発造成される。

商店街のある北砂は1945年の東京大空襲で焦土と化した。戦後になって店舗が増え始め1963年ごろに長さ670メートル、店舗数約180のほぼ現在の形になり、今もなお昭和の色影を残した下町の商店街として今日に至る。ちなみに北砂の人口は約38,000人ほどである。(2011年現在)
周辺にはURの賃貸住宅や都営アパート、あるいは大規模マンション群が見られるが、砂町銀座商店街から脇道を一歩入ると、そこには木造家屋の古い住宅地となっている。商店街の北側と南側徒歩10分圏はこうした住宅地で、いわゆるご近所商店街となっている。

毎月10日には「ばか値市」と呼ばれる大安売りを行っている。平日で1日のべ15,000人、休日でのべ20,000人が訪れる。日本経済新聞2005年2月5日号の「訪れてみたい商店街」で、巣鴨の地蔵通り、横浜の元町に次いで3位に選ばれた、そんな商店街である。

3、2つの大型商業施設に挟まれた商店街



多くの専門家はシャッター通りと化した商店街を「時代の変化についていけなかった商店街」と言うが、その時代の変化とは何かを明確に指摘できる人は少ない。そして、その専門家は口を揃えて「近隣に大型商業施設が出来たから」とその衰退理由を挙げる。更には急速な高齢化と人口減少や流出による市場の縮小も要因として挙げる。
実は砂町銀座商店街を中心に視野を広げると面白い光景が見えてくる。その光景とは2つの大型商業施設が続けてオープンしていることだ。
一つは南へ徒歩30分ほどのところに2008年10月にオープンしたのが南砂町ショッピングセンター SUNAMO(スナモ)である。店舗面積は約3万9600㎡。デベロッパーは三菱地所リテールマネジメントによるもので180億円ほどの売り上げを挙げている大型モールである。
もう一つは北に歩いて5分ほどのJR貨物跡地の再開発事業であるアリオ北砂が2010年6月にオープン。半径3Km圏内に約48万人商圏を設定。売り場面積専門店街約18,800㎡、イトーヨーカドー約14,500㎡、初年度売り上げ300億円を見込んだイトーヨーカドーがデベロッパーとなった巨大モールである。
このアリオ北砂はイトーヨーカドーが鳴り物入りでグループの総力を挙げて開発した大型モールであり、当時私もその話題には接したことがあったが、今回初めて何回か館内を見たが当初目標を大きく下げた売り上げにとどまっていると聞いている。今回砂町銀座商店街を見るたびに、アリオ北砂の売り上げが上がらないことがよく分かった。

4、時代に取り残された商店街と言われて

アリオ北砂がオープンした当初、専門家と言われた人たちは砂町銀座商店街の存在に見向きもしなかったと思う。いずれ多くの商店街と同じようにシャッター通りと化し消滅していくと。「訪れてみたい商店街」として日経新聞は2005年にそう書いたが、その後SUNAMO(スナモ)とアリオ北砂という大型商業施設がオープンしたが、衰退どころか今なお元気な商店街としてその存在感を魅力あるものとして輝やかせている。

顧客の中心はお年寄り

写真を見て欲しい。明治通に面した商店街入り口にある魚勝という行列のできる魚屋の店頭写真であるが、そこには顧客のほとんどがお年寄りの女性たちで、「いつもの買い物スタイル」であるリュックサック姿のお年寄りが並んでいる。この日は毎月10日ごとに行われる「ばか値市」の日で、徒歩・自転車圏以外にも広く集客している。実はこの光景はどこかで見たことがあるなと思ったのだが、おばあちゃんの原宿といわれる地蔵通り商店街もそうであるが、その光景は本物の銀座周辺にある地方のアンテナショップ巡りをするシニアの人たちの光景と同じであった。

江東区は東京23区の中でも65歳以上の高齢者の占める比率(平成23年19.0%)はそれほど高くはない。(東京都平均は20.5%)シニア世代をお年寄りと表現したが、その方がひったりする、お年寄りを魅きつける「何か」のある商店街である。

商店街に不可欠な「界隈性」

この「ばか値市」の日は日常販売している安い商品を更に特別安い値をつけ一斉に店頭化する。3~5mといった狭い路地裏商店街は人、人、人で一杯となる。こうした「安さ」はお年寄りにとって居心地の良い商店街となる。この居心地感は単なる安さだけではない。自分が体験した一昔前そうであった光景を彷彿とさせてくれるからである。ある意味、他の商業施設にはない「安心感」「心地よさ」があるということだ。
良く言われることだが、大小を問わず商店街にはこうした「賑わい」「界隈性」が不可欠であると。砂町銀座商店街もこうした固有の界隈性があり、独特な雰囲気を醸し出している。

名物商品と名物人物

人を魅きつける商店街には必ず名物商品がある。その良き事例の一つが例えば焼き鳥の「竹沢商店」やシュウマイの「さかい」、いや約180店舗ある店そのほとんどが特徴ある商品を作っている。お総菜商店街と言われるようにいわゆる専門店街となっている。あれもあります、これもありますでは顧客を魅きつけないということである。あれもある、これもある、そしてしかも新しいものも珍しいものもある、例えばアリオ北砂に行けばこと足りる訳である。
砂町銀座商店街のほとんどが家族経営の零細商店である。勿論、家族による手作りお惣菜で、今で言う「おふくろの味」である。この「おふくろの味」は広告コピーのそれではなく、顧客の目の前で作る文字通りのおふくろのお惣菜である。「顔の見える」商品、安心が目の前にある商品として、ここ砂町銀座商店街にはあるということである。
その象徴であるかのように感じたのが「あさり屋」という漁師家族で経営しているお店である。店頭には名物おばあちゃんがサービスしてくれる「アサリ」専門店」。漁師であるおじいさんと息子が東京湾で採ってきた新鮮なアサリをアサリご飯や時雨煮にしたりして販売している店である。このおばあちゃんはサービス精神旺盛で、その朝採れた新鮮なアサリをむき身にしてそのふっくらとしたプルプル感を目の前で見せてくれる、そんなパフォーマンスのできるおばあちゃんである。

看板娘

江戸時代にもこうした「看板娘」はいたのだが、いつの世も顧客を魅きつける店には必ず看板娘はいる。そうした看板娘がいる店には、一目見たくて足しげく通う顧客が絶えなかった。「鍵屋」という茶店の笠森お仙は美人画の絵師鈴木春信に一目惚れされ、錦絵に描かれ一挙にブレーク。以降、売上が上がることから看板娘を置く茶屋が増え、江戸市民のこころを惑わすとして幕府は禁令を出すまでになったと言われている。「茶屋に出す娘は13歳以下の子供か、40歳以上の年増に限る」と。いつの時代にも看板となる人気者はいた。人気とは読んで字の如く、人の気を引くということで、時代の雰囲気や潜在的に求められている「何か」を良く表している。「あさり屋」のおばあちゃんは勿論13歳どころではなく、40歳を大きく超え恐らく80歳を超えた年齢である。おばあちゃんはいくつになったと聞いたが、もお息子にまかせてぼちぼち引退ですよと軽くかわされてしまった。砂町銀座商店街の人気者の一人である。

看板オヤジ

もう一人人気者を選ぶとすれば銀座ホールという食堂のオヤジさんであろう。戦前からの店で当時はミルクホールであったという。いかにも下町の親父といった外見であるが、一見恐そうに見えるが結構優しい親父さんである。
そんなオヤジがつくるメニューはというと、懐かしいものばかりである。懐かしい東京の醤油ラーメンを始め、なんといってもうれしくなるのがハムカツである。まだまだ貧しかった頃、豚肉の代用としてハムを揚げたもので、店の雰囲気もそうであるが、まさに「Always三丁目の夕日」の舞台に出てくるような、そんな食堂である。

人マネをしないという原則

名物というと、東北仙台郊外の小さな市場にも関わらず、全国から多くの流通業者が注目し学習しに通う主婦の店「さいち」のおはぎが想起される。人口4700人の小さな温泉町に、1日平均5000個、土日休日は1万個以上、お彼岸になると2万個もの「おはぎ」を売る店がある。その店の名は「主婦の店 さいち」。思い出していただけたと思うが、和菓子屋ではなく、仙台秋保温泉の小さなスーパーである。
業界関係者の多くに知られている小さなスーパーであるが、年商6億円、その内50%が惣菜部門。どうしてそんなに惣菜が売れるのか学びに行くのである。実は学びのツアーを組んだお一人がイトーヨーカドーの創始者、勝手に関連づけするならばアリオ北砂につながる創始者でもある伊藤雅俊氏である。
その「さいち」は家庭で食べるお惣菜をスーパーで初めて販売したスーパーであるが、できるだけ人手を減らし、合理化して商品を安く提供するのがスーパーだと考える時代にあって、非常識経営を進めるのだが、そんな理由を次のように答えている。
(2010年9月21日ダイヤモンドオンラインより抜粋引用)

『絶対に人マネをしないというのがさいちの原則です。マネをしたら、お手本の料理をつくった人の範囲にとどまってしまう。・・・・・先生や親方の所に聞きにいかずに、自分たちで考える。そうすると、自分がつくったものに愛情がわく。自分の子どもに対する愛情と同じです。』

「さいち」のお惣菜は500種類を超え、多品種・少量ということから、手間がかかり、利益が出ないのではという質問に対し、

『全部売ってくれないと困る。そのためには、「真心を持って100%売れる商品をつくるのが、絶対条件ですよ」と、言っています。うちではロス(廃棄)はゼロとして原価率を計算しています。いくら原価率を低く想定しても、売れ残りが出てしまえば、その分、原価率は上がってしまいます。』
砂町銀座「あさり屋」のおばあちゃんもそんなサービス精神旺盛な看板娘である。販売にアサリご飯づくりが追いつけずその都度炊き上げている様子が目の前で繰り広げられ、少々待たされてもなんともうれしく心が動くそんなお店である。

手作り専門店の意味

手作りの店「さかい」というお惣菜屋さんがある。砂町銀座の食品を売る店はナショナルチェーン店を除けば全て手作りの店である。「さかい」もそうした店であるが、「あさり屋」と同様、名物商品1品とプラス2~3品というのが品揃えとなっている。「さかい」の名物はシューウマイ(10個550円)と餃子(5個230円)、更にはまぐろメンチカツといった変わり総菜もある。また、松ばやお惣菜店にはなんと煮卵が名物になっている。更には吉田屋のおでん・だいこん(1個100円)、上海肉まん(肉まん120円)、焼き鳥の竹沢商店(レバ50円、トントロ100円)地鶏の鳥光の焼き鳥、おでん種の増英蒲鉾店(中華揚げ1個95円)勿論あさり屋の「炊き込み御飯300円と500円)、・・・・・他にもてんぷらや焼き鳥、あるいは生鮮三品や漬け物などお惣菜以外を売る店がそれぞれ特徴あるメニューをもって販売している。デフレが続く10数年前から、ワンコイン商店街といったキーワードが商店街活性のテーマの一つの方法として取り上げられてきたが、ここ砂町銀座商店街が何十年も前から家族の夕飯のお惣菜には千円札1枚で十分でおつりがくる、そんな商店街である。
こうした単品専門店が狭い路地裏商店街を構成している。下町の単品専門店街とでも表現できるそんな専門店構成である。戦後復興と共に時を経て出来た商店街であり、いわば顧客が作った商店街である。仙台の「さいち」が「主婦の店」として成長した表現を借りるとするなら、文字通り「主婦の商店街」となっている。

売り切る力こそが「安さ」の源

「エブリデーロープライス」は世界NO1の流通企業ウオルマートのポリシーである。日本ではいち早く取り入れ米国ウオルマートを見に行かなくてもスーパーオーケーを見に行けばそのありようが分かるといわれた企業は日本にも存在している。いやオーケーだけでなく、日本の商人には「三方よし」ではないが、その顧客貢献という真摯さのDNAは多くの商人に受け継がれている。砂町銀座商店街もそうした顧客に対する真摯さというDNAを受け継いでいる商店街の一つである。
この「安さ」を代表しているのが、砂町銀座商店街の入り口にある魚勝であろう。鮮魚を始め生鮮三品は食べればその価格に見合うものかどうか消費のプロである主婦にはすぐに分かる。ましてや、主婦歴何十年のお年寄りが中心顧客となっているからより厳しいと言える。都心にあるデパ地下の商品の多くは、「作る手間いらずの省時間」と「あれこれちょっとずつ選択できるバラエティさ」という便利さを一つのライフスタイルとして購入する。砂町銀座商店街はその多くは単品で時間は関係なく「売り切れごめん」の商売である。仙台「さいち」の場合も「全てをその日で売り切る」、つまりロス率は0(ゼロ)となる。顧客もそうしたことを分かって何十年もつきあってきた。つまり、「安さ」はこうした商売の結果であることを売る側も買う側も良く理解しているということである。「売り切る力」こそが「安さ」の源であるということだ。「安さ」の理由を大量仕入れによるものであると「訳あり商品」をアピールする流通や専門店が多いなか、小さな商圏=仕入れ量も限られる砂町銀座のような中小零細商店にとっては「売り切ること」が経営を維持し持続させていく唯一の方法となっている。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:35Comments(0)新市場創造