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ヒット商品応援団
「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2008年03月30日

崩壊の構図

ヒット商品応援団日記No252(毎週2回更新)  2008.3.30.

あまり取り上げたくはないのだが、「今」という時代を透かし絵のように見える典型的な事件が荒川沖駅殺傷事件だ。TVや新聞による報道に依れば、金川容疑者は「誰でも良い、人を殺したかった。最初、態度の悪い妹を殺したかったが、不在で出来なかった。母校である小学校へ行ったが、卒業式で人が多くて果たせなかった。」と語ったと言う。
金川容疑者は24歳、父親は59歳という団塊ジュニア世代である。古くはあの1997年神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗(当時14歳)や2000年に起こった西鉄バスジャック事件の「ネオむぎ茶」(当時17歳)と同じ世代による凶悪犯罪で、豊かな時代に生まれ小さな頃から個室をあてがわれた世代として、その共通する「何か」を指摘する専門家もいる。

私は犯罪心理学の専門家でもなく、消費社会を分析し、新しいビジネス機会を見出すことを専門としている。今回の事件は、まさに消費が向き合っている「現実」の構図を残念ではあるが負として映し出している事件だと思っている。
単純な図式化というそしりは免れないかもしれないが、金川容疑者の供述である「最初は態度の悪い妹を殺したかった」とは、妹=家族を捨てることであり、「小学校へ行って・・・」とは、自らの歴史=過去を捨てることであり、更には「殺すのは誰でも良かった」とは、一般の人との関わり=社会を捨て去るといった構図のように思える。

少し前に「時代おくれ」というタイトルで亡くなった阿久悠さんに触れ、昭和という時代は「私」を超える大きな「何か」があった時代。平成という時代は「私」そのものの時代だ、と書いた。消費論的にいうと、今という時代は、「私」をいかに「何か」に同一化させるか、そう強く願う時代である。消費の価値を見失う、つまりアイデンティティを喪失した時代で、それに替わる世界をゲームやネット上といった「仮想現実」に求めたり、KY語社会のように「仲間内」の関係づくりを求めたり、おふくろの味は学校給食に替わり、それらの「思い出消費」として揚げパンや冷凍みかんが注目される。「私」という喪失感を埋めるために、そうした消費が出てきていた。

金川容疑者は、家族を捨て、過去を捨て、社会を捨て、人を殺すことで刑務所という一種の「仮想現実」の世界に入ってしまったように私には思える。このような事件は極端な例ではあるが、程度の差はあれ、「私」の崩壊は広く社会に底流するものだ。
「私」を取り戻すために、今一度食を始めとした「家族単位」による生活が見直されたり、現実に向き合い自ら創っていくために「社会体験」というキーワードが重要になり、キッザニアから山村留学まで注目される時代となっている。このブログでも取り上げてきた東京和田中学における地域本部による改革、そのなかでも父兄参加の「よのなか科」は子供と共に社会を学習し直す良いプログラムになっている。私の持論でもあるが、近代化によって崩壊した「私」を取り戻すことのなかに、新たな消費価値を見出し始めている。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:09Comments(0)新市場創造