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ヒット商品応援団
「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2007年11月14日

オタクのラストシーン  

ヒット商品応援団日記No218(毎週2回更新)  2007.11.14.

10月29日の日経MJにアキバの「メイド最新事情」が特集されていたが、目にした方もいたことと思う。観光地化した秋葉原にカジノゲームやカラオケ、土産物屋などの新タイプのメイド喫茶が増殖しているという内容だ。私はこの情報を目にして、ああアキバのオタク文化の最後の名残であるメイド喫茶もラストシーンを迎えたなと思った。アキバはブーム消費を終え、秋葉原へと戻っていくことになる。真性オタクは既に秋葉原にはいない。いるのはメイド喫茶観光の顧客だけである。当然のこととして、ビジネス継続は難しくなる。微妙に違う美少女アニメの色合いにまで注視する、一種の過剰さを追い求めたオタクは最早いないということだ。

1980年代コミックやアニメに傾倒していたフアンに対する一種の蔑称「お宅」を「おたく」としたのは中森明夫氏であった。その後アニメやSFマニアの間で使われ、1988年に起きた宮崎勤事件を契機にマスメディアは事件の異常さを過剰さに重ね「おたく」と呼び一般化した言葉である。その後、コミックやアニメを既成に対するカウンターカルチャーであるとして、新人類世代の大塚英志氏や宮台真治氏といった論客がオタク文化の本質を語ってくれた。
しかし、オタクという言葉も健康オタクから始まり様々のところでオタクがネーミング化され市民権を得ることによって、その「過剰さ」が持つ固有な鮮度を失っていく。市場認識としては、いわゆる「過剰さ」からのスイングバックの真ん中にいる。真性オタクにとっては停滞&解体となる。つまり、「過剰さ」から「バランス」への転換であり、物語消費という視点から言えば、1980年代から始まった仮想現実物語の終焉である。別の言葉で言うと、虚構という劇場型物語から日常リアルな物語への転換となる。

アキバ系といわれるオタク文化が本格的に外側・表へと出てきたのは一昨年であった。周知の萌え系、メイド喫茶などがそうであったが、2チャンネルのスレッドでスタートした「電車男」も書籍化・映画化という形で表へ外へと出てきた。つまり「オタク」のマスプロダクツ化である。その象徴が観光地アキバであり、メイド喫茶であった。マスプロダクツ化が進み、あるフェーズに至ると臨界点を超え、急激に終末を迎える。
今、注目されている一冊の本がある。一時期、オタク推進派の旗手をつとめ、その太めの身体で人気でもあったあの岡田斗司夫氏が書いた本で、その巨体をダイエットした「いつまでもデブと思うなよ」は、オタクの終焉を見事に映し出しているように思える。

今、小説と呼べるのか分からないが、いわゆる携帯小説がブームとなっている。あるいはブログもそうであるが、書籍化されたり、映画化され、以前のコミックやアニメとは異なるサブカルチャーが始まっている。携帯小説の多くは「私小説的」ではあるが、始めからマスプロダクツの可能性を持つものとしてある。個がそのまま不特定多数とつながる、まさにインターネットの申し子そのものである。勿論、真性オタクがいなくなったわけではない。例えば「涼宮ハルヒ」オタクは今なおそのオタク世界に生きている。ちょうど、オタク文化が衰退、消えていく結節点が「電車男」であり、新しい個人文化のスタートが携帯小説であると考えている。つまり、インターネットが生活の中に浸透し、使われ、自己表現としてネット舞台に上がって来たということだ。これは推測の域をでないが、動画ブログやYouTube辺りにも次なる個人文化の芽が出始めていると思っている。こうした文化は勿論世代が異なっており、全くオタクとは異なるものである。早晩新しい呼称も第二の中森明夫氏によって一般化されていくであろう。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:51Comments(0)新市場創造