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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2017年12月03日

またか! 変わらない日本の大相撲

ヒット商品応援団日記No694(毎週更新) 2017.12.3.

最近話題になっている「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著, 羽賀翔一の漫画)が100万部を超えたと報じられている。内容自体もさることながら、難しいテーマを漫画ならではのわかりやすさ、手軽さがヒット作に向かわせていると思いブログに書こうと思っていた。ただ、ちょうど来週には日経MJによる2017年度ヒット商品番付が発表されるのでそこでヒットの理由を読み解くこととする。
ところで今回のブログのテーマであるが、先日横綱日馬富士の引退会見及び相撲協会の危機管理委員会の中間発表を見ていて、”ああなるほどそういうことだったのか”と腑に落ちた。それは暴行の理由として挙げたのは「弟弟子に礼儀礼節を指導し、それがいきすぎた」ということで貴の岩への謝罪は一切なかったことによく表れている。現在力士が所属する部屋は45ある。あるスポーツジャーナリストに言わせればもう一つモンゴル部屋があり、全部で46部屋あると。つまり、日本に不慣れなモンゴル力士の懇親会を指してのことだが、その根底には日本文化とモンゴル文化の違いが横たわっている。日馬富士が他の部屋のモンゴル力士を弟弟子として指導したのは先輩の義務でもあるとし、相撲界ではよくある話であるとしたことがよく表している。

周知のように神事・武道、興行・娯楽、スポーツ・競技という3つの要素を併せ持った日本固有の伝統文化を継承してきた相撲である。その起源を見て行くとわかるが、奈良時代から平安時代にかけて、武家相撲といった武道、五穀豊穣を祈った神事としての宮廷相撲、そして、庶民の間で行われた草相撲といったように、中国の影響を受けながら多様な相撲をその起源としている。現在のライフスタイルの起源の多くは江戸時代にあるのだが、相撲も歌舞伎や寄席、浮世絵といった人気娯楽の一つであった。
今日の興行として行われるようになったのがこの江戸時代である。当時は力士、与力、火消しの頭は江戸の三男と呼ばれ、庶民の人気者であった。相撲は屋外で行われ、雨が降ると中止になり、興行が数ヶ月に及ぶこともあったようだ。興行は”一年を20日で暮す良い男”と言われたように、20日で興行は終了する。ちなみに、十両という名称は年間十両の給料をもらえる力士のことである。
当時の相撲は今で言うところのガチンコ勝負で、力士同士が喧嘩することも多々あったようである。現在は土俵上には柱はないが、当時は柱があってここに刀がくくり付けられており、喧嘩になると親方が刀を引き抜いて仲裁に入る、そんな真剣勝負であった。また、行司も刀をさし、仲裁に入る場合もあったようである。
というのも大関になると部屋から引き抜かれ大名のお抱えになる力士もいる、つまり、侍の身分になるという大変名誉な職業であった。大名もメンツがあって、当然力士は真剣勝負になり、庶民はそうした勝負を楽しんでいた。こうした真剣勝負の世界にあっては、八百長などはあろう筈はなかった。実は、「八百長」という言葉が生まれ使われるようになったのは明治時代以降である。周知のように明治時代になると近代化の名の下に、廃仏毀釈が全国至る所で行われ、神事(神道としての様式)という側面を持つ相撲もその対象となり、存続が危ぶまれたが、伝統文化として今日に至っている。

ところで今から6年ほど前大相撲八百長事件が起き、大阪場所が中止に追い込まれ、大相撲の危機が叫ばれ改革へと動いた。思い起こせば、日本の伝統文化に対する認識がいかに喪失しているかを物語っている良き事例であった。当事者達のメールでの勝敗のやりとりを見ても、そこにあるのは人情相撲といった「情」による八百長ではなく、幕下に落ちないためのグループによる保身感覚、勝敗を売り買いする意識、その「軽さ」である。面白いことに、野球賭博事件の捜査に付帯したものとしてこの八百長が発覚したことである。前者は刑法事案となるが、後者は法にはふれないことであるが、当事者達にとってはそれほどの罪悪感がないように見える。それはメールによるやりとりという一種のゲーム感覚のようにも見える。そうした方法が更に罪悪感喪失を倍加させている。今回の暴行事件の裏にはモンゴル力士同士の星の回しあいがあるのではとの週刊誌報道もある。事実の真偽はわからないが、もしモンゴル力士の互助相撲が行われていたとすれば、誰も相撲観戦などしないであろう。言うまでもなく、そんな疑義が起きないような相撲内容でなければならない。

また、その前には2007年時津風部屋新弟子を「可愛がり」と称し、リンチまがいの暴行によって命を失くす事件が発生している。この事件も「可愛がり」という暴力に対する罪悪感がない事件で、その後日本相撲協会は徹底的に暴力を無くすように努力するとのことであったが、2010年の朝青龍による一般人への暴行事件を始め声明とは逆に暴力は連綿ととして貴の岩暴行事件に繋がっていたということだ。その背景には、今なお「可愛がり」という土俵上の「稽古」によって強くなったという体験認識を基本に相撲部屋は運営されている。問われているのはこの強くなるための「可愛がり」ではない、新たな稽古法が問われているとの認識が無いという点にある。
格闘技ではないが、2015年のラクビーW杯における桜ジャパンの活躍、特に南アフリカ戦のトライに多くの人は感動した。帰国後の記者会見などで明らかになったことだが、その背景にはエディーコーチによる高度な科学技術を踏まえた過酷なトレーニングがあったことが分かった。そのトレーニングを影で支えたのがITベンチャー企業ユーフォリアの選手強化法で当時の日経ビジネスに詳しく紹介されている。スポーツも常に新しいトレーニング法を取り入れることが必要な時代にいるということだ。暴力を持って行うトレーニングなど論外である。

さてもう一つの根本問題が日馬富士による「礼儀礼節」の指導である。勿論、一般論としての「礼儀礼節」ではなく、相撲道における「礼儀礼節」である。ある意味日本人の精神文化に関わることで、「道の文化」である。柔道、茶道、華道は元より職人が目指す日本の伝承文化の世界でもある。よく言われる例えであるが、欧米のスポーツは「勝負」、つまり勝ち負けを競い合う。日本の場合は「勝負」と「試合」とが重なり合っているスポーツが多い。試合とは「試し合い」で相手の力を借りて自分の腕を見極めることである。だから、相手に対し礼を持って「よろしくお願いします」と頭を下げるのである。これもよく言われることであるが、「勝負には負けたが、試合には勝った」。その逆もあるのだが、このように一見すると相矛盾する2つの意味を担ったスポーツ文化である。
ラクビー桜ジャパンの元コーチのエディさんは「試合」と「勝負」とを選手に明確に理解認識させ、勝つための過酷なトレーニングを個々の選手一人ひとりに課した結果が前述の試合結果になったということである。
相撲の難しさは「勝つこと」だけでなく、「試合」というつまり「礼を尽くす」という精神世界をも生きなければならないことにある。横綱の品格もこの両者を超えた世界にある。このことはモンゴル人力士だけでなく、日本人力士も同様である。これが古来から言われ続けてきた「道を極める」ということに繋がる。日本の伝統文化を継承する多くの名人が「まだまだ道半ばです」というのはこうした背景からである。横綱といえども「道半ば」であるとの自己認識が不可欠で、それが無い「横綱」は横綱では無い。

日馬富士の暴行事件の中間発表の理事会で現横綱白鵬の品格も問題となり親方共々厳重注意処分が行われた。九州場所での「物言い」の振る舞い、あるいは優勝後の日馬富士、貴の岩を土俵に戻したい発言、更には万歳三唱など「品格」の無さへの指摘である。これは個人的な好き嫌いであるが、白鵬が若くして優勝を重ねていた頃、大鵬親方のような差し身のうまい力士だなと感心していたが、ここ数年左の張り手から右のエルボードロップのようなカチ上げというワンパターン相撲ばかりで興味関心は失せてしまった。「勝つ」ことだけが全てに優先され、つまり勝つためなら禁じ手以外なら何をやっても構わない、そんな傲慢とも思える相撲に辟易したからである。これから論議されると思うが、貴乃花親方の考える相撲道と白鵬が今行なっている「相撲」とは全く異なるものである。相撲も娯楽だから白鵬のパフォーマンスも良いではないかとするそんな楽しみ方もあっても構わない。しかし、歴史ある伝承文化としての大相撲ではない。プロ格闘技であるプロレスやボクシングなどと同じようなスポーツ分野の相撲ということになる。勿論、そうなったら公益法人を返上してからであるが。
少しづつ全容がわかるにつれて貴乃花親方VS白鵬(モンゴル力士会)という図式の情報が興味本位で報じられているが、相撲道、横綱の品格、というおお相撲の本質、継承すべき文化の違いがあり、そのことを明確化できていない点にある。

日本古来の文化は、仏教も神道もそうであるが、Yes であり Noでもある、善であり悪でもある、奥行き深く、なかなか答えが得られない。歴史とは積み重ねであり、デジタルではなくアナログの世界である。そこに、相撲道という言葉がある。
いずれにせよ、こうした神事・武道、興行・娯楽、スポーツ・競技のバランスが崩れ変容しているにも関わらず変わることができないということであろう。この20数年、多様な娯楽・スポーツが楽しめるようになり、相撲興行もいわば競争のなかにある。興行というビジネスを担う人材ということに置き換えるならば、高い報酬が得られるサッカーや野球の方に若い人材は集まる。結果、収入面では日本の10分の一のモンゴルから人材が集まるようになる。それは決して間違ったことではないと思うが、こうした日本文化を体得して行くには極めて難しい。モンゴル力士だけでなく、日本人の多くの力士も伝統の意味合いを研修所では教わるが、教わった「角道」を土俵上でも体得する力士は少ない。

時代の変化を受け入れるとは、詰まる所伝統文化の何を残し、何を変えていくかであり、それは協会も力士も継承する者の責務である。あの横綱朝青龍が土俵上でガッツポーズをした時、アスリートとしての強さは認めるが横綱としての品格が欠如していると強く批判したのが元横綱審議委員の内館牧子さんであった。批判の理由として、相撲には武道、武士道としての精神を必要とする、とのコメントを思い起こす。武士道精神からは、たとえ人情相撲といえども許されないであろう。いわんや、八百長などは論外である。そして、「可愛がり」といった暴力世界からいち早く抜け出ることが必要となっているのだ。日馬富士は「礼儀礼節」の指導であったというが、暴力を持って行うなどは真逆のことである。病気療養中の内館牧子さんであったが、やっと回復し相撲観戦しているようだ。阿武咲を始め若い世代の相撲が殊の外面白いとスポーツ紙は報じていた。今回の暴行事件についてはコメントしていないが、「礼儀礼節」の考え違い、それも最高位の横綱による日本文化の考え違いをどうすれば良いのか是非聞いて見たいものだ。
少し前に「変わるなら 今でしょ!」とブログに書いた。何年経っても変わらない、またやらかしてしまった、そんな日本の大相撲も変わらざるを得ない時を迎えている。それは日馬富士の暴行事件の裏にある「相撲道」の変質、本質に関わる問題だからだ。変わり得なかった時、間違いなく相撲フアンは徐々に減少しつ続け、日本の伝承文化は廃れて行くこととなる。それにしても、一番の被害者である貴の岩を救ってあげなければならない。モンゴルでは英雄日馬富士を貶めた「悪人」になっているとのこと。障害事件の被害者に加えて、情報においても被害者になることが予測され、二重の被害者になる恐れがある。肉体的傷害が治ったとしても、心の傷が癒されることはなかなか難しい。貴の岩も引退などといった最悪事態にはならないことを願う。(続く)


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