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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2014年11月02日

未来塾(11)「街から学ぶ」東京町田編(前半)

ヒット商品応援団日記No596(毎週更新) 2014.11.2. 

今回の未来塾「街から学ぶ」は東京町田市とした。多摩丘陵地帯という東京のベッドタウンとして成長、いや膨張した都市である。しかし、ここ数年前から人口の増加は止まり、町田駅周辺の商業も右肩下がりとなっている。町田も都市間競争のただ中にあるのだが、この競争に生き残るにはどうすべきか、テーマのある街、テーマ集積という着眼から町田の課題を学んでみた。

未来塾(11)「街から学ぶ」東京町田編(前半)



「街から学ぶ」

時代の観察

東京町田市


有識者でつくる日本創世会議によるレポートが話題となっている。少子化や高齢化という問題以前として人口そのものが減少していくとの試算結果であるが、各都道府県特に市町村においてやっと人口減少問題が議論され始めている。
1998年当時経済企画庁長官であった堺屋太一さんが、生産年齢人口が減少へと向かったと警鐘をならしたことがあったが、マスコミを含め誰も見向きもしなかった。しかし、若い世代の地方から都市への流出は止まらず、地方はどんどん疲弊していった。但し、こうした人の移動は東京の特定エリアにおいても存在する。例えば、高度成長期のベッドタウンとしてあった多摩ニュータウンを始めとした団地群は高齢化が進み、数年前には限界集落となり多くの対策が実施されている。住みたい街No1吉祥寺についてはこの未来塾においても取り上げたが、東京にあっても流入・流出はあり、人口も含めその偏在は社会問題化している。
さて今回のテーマは人口もさることながら「集中」とは何か、暮らしを支える商業集積の集中がどのように推移していくか、町田という街を通してその「集中のあり方」とできうるならばメカニズムについても学んでみたい。

東京町田への人口流入
未来塾(11)「街から学ぶ」東京町田編(前半)



多摩丘陵にあるベッドタウン

東京一極集中、ビジネスを始め金融、商業、情報、結果としての人口の集中。ところで1980年代までは東京一極ではなかった。実は東京への人口集中の代表的な区の一つが品川区で、1990年代の人口減少から一転2000年以降人口は増え続けている。この傾向は今回スタディする町田も同様でその膨張ぶりには目を見張るものがある。町田の場合は横浜へ 28分 (JR横浜線快速)、新宿へは35分 (小田急急行)、八王子へは 22分 (JR横浜線快速)という極めて交通至便なベッドタウンとして人口増加が進んだ。
グラフを見ても分かるように1970年頃の人口と比較し、現在は倍以上の人口に膨れ上がっている。品川区もそうであったが、町田は東京一極集中のシンボリックな存在としてある。2014年8月の推定人口は428,745人となっており、2010年以降はほぼ横ばい状況となっている。
ところで町田市の人口は42〜3万であるが、町田駅を中心に半径10Km圏を設定すると約200万人もの商圏となる。実は札幌を抜いて全国第4位という極めて大きな都市となる。この大きな市場性を狙って多くのデベロッパーの開発や再開発がなされ、また飲食を始めとした路面店の出店・退店もある。しかし、順調な町田にあって、2000年代半ばから中心市街地の小売り販売額が減少傾向に向かい小売り吸引力も低くなっている。町田市による「中心市街地活性化基本方針」(2009年策定)にも明確に出ている。ちなみに古い2007年のデータであるが、東京周辺の小売り吸引力は以下となっている。

武蔵野市1.50  厚木市1.33  立川市1.23  横浜市1.05  相模原市 0.96  川崎市 0.89
町田市 0.88  八王子市 0.75

住んでみたい街No1吉祥寺は武蔵野市であるが商業集積度においても高く財政基盤は豊かで全国トップクラスである。また、横浜市は東急東横線が東京メトロ副都心線につながり、更には東上線との相互乗り入れもあり現在では吸引力は大きくなっていると想定される。また立川市についても近隣にあの人気のIKEAが出店したこともあり、その吸引力を高めていると想定される。後述するが町田の場合は吸引力は今なお低下傾向にあり、小売り販売額も減少が続いていると考えられる。
今回の学習するポイントは低下傾向にある商業、駅を中心とした商業集積の可能性についてである。特に、人を魅きつけるものは何か、いくつかの事例を踏まえながらスタディしてみたい。
大学沿線都市

町田という都市の性格は昼夜間人口の変化にもよく表れている。古いデータで申し訳ないが2005年のデータでは、夜間人口(居住者)は404,449人であるが、市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は364,091人で昼は夜の0.9倍の人口になる。夜間に比べて昼の人口は約4万人ほど減ることになる。
ところで通勤者・通学者で見ると市内から市外へ出る通勤者110,479人、市外から市内へ入る通勤者は56,854人と通勤者では市外へ出る通勤者のほうが多く倍ほどとなっている。しかし学生では市外から市内へ入る通学生は28,920人で市内から市外に出る通学生15,653人と学生だけで見ると昼のほうが市内にいる学生は夜より多い。

こうした町田という都市の性格が商業集積のあり方を決めていくこととなる。つまり、沿線の大学に通う学生が町田という街に移動してきているという点である。
ちなみにベッドタウンという特徴のもう一つが小田急線沿線を中心とした大学キャンパスで、以下のようにかなり多い大学数である。(多摩川を超えた以西の沿線大学)JR中央線沿線も大学数は多いが、町田周辺の大学数とは比べものにはならない。

◎向ケ丘遊園:専修大学・生田キャンパス

◎生田:明治大学・生田キャンパス 聖マリアンナ医科大学

◎読売ランド前:日本女子大学・西生田キャンパス

◎新百合ケ丘:昭和音楽大学

◎柿生:桐蔭横浜大学

◎鶴川:和光大学 国士舘大学・町田キャンパス 鶴川女子短期大学

◎玉川学園前:玉川大学 昭和薬科大学

◎相模大野:北里大学・相模原キャンパス 相模女子大学 女子美術大学・相模原キャンパス

◎本厚木:松陰大学・厚木ステーションキャンパス 東京農業大学・厚木キャンパス 湘北短期大学

◎伊勢原:東海大学・伊勢原キャンパス 産業能率大学・湘南キャンパス
(参考)専修大学・伊勢原キャンパス・・・体育会系の運動施設、馬術部厩舎、学生寮があるのみ

◎東海大学前:東海大学・湘南キャンパス

◎秦野:神奈川大学・湘南ひらつかキャンパス

◎小田原:関東学院大学・小田原キャンパス 小田原女子短期大学
◎淵野辺】青山学院大学 桜美林大学 
◎矢部;麻布大学
◎橋本;多摩美術大学
◎相原;東京家政学院大学 東京造形大学
◎八王子みなみ野;東京工科大学 山野美容芸術短期大学
◎片倉;日本文化大学
◎八王子;杏林大学 工学院大学 創価大学 多摩美術大学  東京純心女子大学 


都市の魅力と商業

人を引きつける集中化とは何か、その良き事例は既に江戸時代にあった。総人口3000万人、ほとんど増減がなかった日本において、最初40万都市であった江戸が120〜130万都市にまでふくれあがった。飢饉による疲弊した農村復興と都市住民の圧縮を目的とした「人返し令」が幕府から出るほどの江戸の魅力とはなんであったのだろうか?ちょうど「地方創世」が現政府の大きな主要政策になっているが、江戸時代の「人返し令」のような無策に終わって欲しくない。
当時の江戸には武士が50%、町人や農民等が50%、今風に言えば生産人口は半分しかいない「消費都市」であった。人、モノ、金、情報、が江戸に集中し、地方の人間にとってはその集中によって生まれた「経済」と「生活文化」は極めて魅力的であった。よく江戸っ子は”宵越しの銭は持たない”とその粋が言われるが、実態はその日暮らしであった。しかし、食べていくには困らない程度の仕事・収入は江戸にはあった。

亡くなられてかなり経つが、江戸の庶民文化を研究していた杉浦日向子さんは江戸っ子のこころをつかむキーワードを3つ挙げている。それは「珍」「奇」「怪」で、私流のキーワードとして言うならば、新しい、珍しい、面白いとなる。例えば、寿司といえば上方の押し寿司やなれ鮨であった時代に江戸っ子はにぎり寿司を考案したのである。
ところで江戸のライフスタイル変化の最大のものはなんと言っても、一日の食事回数が2回から3回になったことだと思う。当時は火事が多く、1日3回の食事をしないと力がでなかったためと言われているが、定かな研究をまだ目にしてはいない。恐らく、商工業も発達し経済的豊かさも反映していたと思う。
その食事回数の増加を促したのが庶民にとっては屋台や行商であった。新たな業態によって新たな市場が生まれた良き事例である。この屋台から今日の寿司や蕎麦などが進化していく。いわゆる江戸のファーストフーズである。江戸時代こうした外食が流行ったのも今日とよく似ている点がある。大雑把に言うと、江戸の人口の半分は武士で単身赴任が多く、庶民も核家族化が進み、独居老人も多かったという背景があった。今日で言うところの個人化社会である。「夜鳴きそば」という言葉がまだ残っているように屋台や小料理屋は24時間化し、更には食のエンターテイメント化が進み、大食いコンテストなんかも行われていたようだ。

つまり、必要に迫られた食から、楽しむ食への転換である。その良き事例が「初鰹」で”初物を食べると75日寿命がのびる”という言い伝えから、「旬」が身体に良いとの生活風習は江戸時代から始まったようである。上物の初鰹には現在の価値でいうと20~30万もの大金を投じたと言われている。こうした初物人気を懸念して幕府は「初物禁止令」を出すほどであった。料理本も200種類ほど出されており、今なお知られているのが「豆腐百珍」で、その後も「大根百珍」「卵百珍」という具合に料理も楽しみとする遊び感覚の食となっていく。寿司に必要なさかなを江戸前と言って東京湾の小魚をネタにしていたが、常時食べられるようにいけすで魚を養殖していたという資料も残されている。今日でいうところの活魚である。江戸の後期には「冬場の焼き大福」「夏の冷水」「既に切ってあるごぼうや冬瓜」といった物にサービスを付加したものが売られ、幕府はこうした自由で便利になりすぎたとして規制するまでになったと言われている。

町田の商業集積の魅力とつまらなさ

町田は東京、それとも神奈川といった話がある。勿論、東京であるが、市制施行以後隣接する自治体との境界変更を数度実施し、地形的にも神奈川に組み込まれているからでもある。また、それ以前町田町は合併を繰り返し、社会インフラである鉄道の路線拡充と新駅のオープン、特に1980年の国鉄原町田駅が小田急線町田駅側に移転し町田駅に改称する。そして、2つの駅がペデストリアンデッキでつながることとなる。つまり、ほぼ今日の町田駅周辺の商業集積の原型が出来上がる。
未来塾(11)「街から学ぶ」東京町田編(前半)
しかし、冒頭の人口推移グラフを見ても分かるように、成長というより膨張に近い。東京のベッドタウンと呼んだが、その多くが多摩丘陵の団地群で、緑と共に周りには畑も見られる。町田駅への移動にはバスか車となる。当然のことであるが、駅周辺の道路は大渋滞となる。写真は町田ターミナルビルであるが、上は自家用車などの駐車場、1階はバスターミナルである。
少し前に「小売りから学ぶ」として横浜の港北ニュータウンについてレポートしてもらった。その港北ニュータウンは中長期構想として住宅や商業施設が開発されたが、町田の場合は計画に沿った街づくりというよりその都度対応といった傾向が見られる。悪く言えば成り行き任せ、良い意味では新しい町田住民及び沿線大学に通う学生のライフスタイルに沿った街が結果として形成されることになる。その象徴と思うが、港北ニュータウンには商店街はないが、吉祥寺や町田には古くからの商店街が今なお元気である。ところで町田の現在の主要商業施設は以下となっている。
大型小売店数72店
百貨店数7店
小売店数2,726店
飲食店数1,549店
商業集積度から言うと、ミニ新宿、ミニ渋谷、となっている。

商業集積が本格的に始まるのは2000年代からであるが、主要な商業施設は以下となっている。
未来塾(11)「街から学ぶ」東京町田編(前半)
・町田ターミナルプラザ;駅周辺の再開発の先駆けで、国鉄原町田駅の移転に伴って1983年に誕生する。そして、以前入っていた東急ハンズが東急ツインズに移転し、ミーナ町田(ファーストリテイリング)として2007年10月にリニューアルオープンする。
・丸井町田;2014年5月 8年ぶりにリニューアルオープン
・ルミネ町田;1999年9月22日開業
・東急109;2002年(平成14年)7月20日開業
・東急ツインズ;2007年(平成19年)10月5日 東急百貨店まちだ店からのリニューアル

こうした大型商業施設と共にドンキ・ホーテ、ABCマート、ユザワヤ、ユニクロ、家電量販のヨドバシやヤマダ、ブランド・チケットの買い取りなどの大黒屋までもが出店している。ラグジュアリーブランド以外の商品であれば都心あるいは横浜に行かなくても十分町田でこと足りる商業集積となっている。半径10Km200万人商圏の大型商業施設による開発競争である。しかし、それは同時にどこにでもある金太郎アメの如き商業施設が密集することとなる。
また、2つの駅だけでなくペデストリアンデッキによって大型商業施設に直接つながるという「便利さ」の反面、町田駅前通りによって南北エリアが分断され、街の魅力が薄れていくというマイナスも同時に生まれる。

新と古、和とアジアが混在する街

未来塾(11)「街から学ぶ」東京町田編(前半)2つの駅前表通りには大型商業施設が立ち並ぶが、その横丁路地裏には多くの専門店や飲食店がひしめき合うように軒を連ねている。
その中でひときわ目立つ「古」の象徴が町田仲見世商店街である。長さ約200m。小さな商店街、というより路地裏商店街と言った方がひったりくるそんなレトロな商店街である。
商店街の誕生を調べたところ、関東大震災後の混乱期にいくつかの古物商などの商店が集まったのがきっかけであったという。そうしたことを考えると歴史のある商店街であるが、その商店構成を見ていくと面白いことに新と古、和とアジアが混在する商店街となっている。ある意味でこの構図は小さいながらも上野のアメ横に似ている。
町田名物として町田住民以外にも知られている店が数店ある。その1店は南側の商店街入り口にある焼き小籠包の店「小陽生煎饅頭屋」で、写真のように夜になっても店前には必ず小さな行列が見られる。
未来塾(11)「街から学ぶ」東京町田編(前半)
もう1店がカツカレーで有名な「アサノ」である。商店街と併行した狭い路地にある老舗であるが、以前は頑固オヤジが店に立っていたカレー専門店である。今は2代目のようであるが、カツカレー以外にもメニューはあって頼もうとするが必ずカツカレーを勧められる。カツカレーではないが、西荻窪に中華食堂「坂本屋」というカツ丼の名店がある。あの料理評論家の山本益博氏がカツ丼は揚げたてのカツに限ると、冷たいカツを使った店主に揚げたてカツを勧めたところ、見事なくらい美味しくなり、日本一のカツ丼であると褒め、そのブログ記事もあって昼時は常に行列となった名物店である。「アサノ」がそうだとは言わないが揚げたてのカツカレーはそれだけで十分美味しいのだ。「アサノ」も広く顧客を集めており、町田の名物店の一角をなしている。
未来塾(11)「街から学ぶ」東京町田編(前半)
もう一つの象徴が小さな商店街ながらもその商店構成に特徴が表れている。まぐろ専門の魚屋、干物等切り身魚の魚屋、大判焼きのマルヤ製菓、沖縄料理店やタイ料理店、更にはラーメン専門店、Mrs.向けの洋品店、靴や鞄店、焼き鳥と総菜の「ハマケイ」、北口入り口には何故かペットショップや荒物店まである。そして、「アサノ」がある路地裏の更に奥にはスナックなどの飲み屋が並ぶ路地もある。
こうした懐かしさとエスニックといったグローバル感がないまぜとなった一種猥雑な雰囲気が町田という街の大きな特徴となっている。買い物しやすいように導線が組まれ、その中にも戦略性を持ち込んだSCにはない歴史が堆積した生活文化ならではのインパクトを持つ街である。(後半へ続く)



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