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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2009年11月25日

江戸時代の不況対策

ヒット商品応援団日記No422(毎週2回更新)  2009.11.25.

今日のライフスタイルの原型は江戸にあり、今日の消費を読み解く視点や新たな市場着眼の一つになるというのが私の持論であるが、江戸時代にも好不況の波は存在していた。昨年のリーマンショック以降の大不況について1929年に始まった世界恐慌の事例を持ち出す専門家はいたが、江戸時代の不況事例を持ち出す専門家、歴史研究者は皆無であった。勿論、日本一国の不況と市場が世界に広がる時代の不況とでは参考にならないということだが、当時の幕府(政府)がどんな改革という不況対策を採っていたか、奇妙に符号する点もあったので少し調べてみた。

江戸時代には好況期(元禄、明和・安永、文化・文政)は3回、不況期(享保、寛政、天保)も3回あった。NHKの「天地人」ではないが、周知のように戦国の世は終わり、江戸時代は天下泰平の世となった。この江戸初期は信長・秀吉による規制緩和の延長線上に経済を置いた政策、特に新田開発が盛んに行われ、昭和30年代の「もはや戦後は終わった」ではないが、戦後の高度成長期と良く似ていた時代である。この経済成長の先にあの元禄時代(1688年〜)がある。浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、といった江戸文化・庶民文化を代表するアーチストを輩出した時代だ。貨幣経済は地方へと広がり、以前ブログにも書いたが紅花や木綿などが各地で栽培され、瀬戸内の塩や京都の日本酒が全国各地へと流通する。鉱山(金銀銅)開発が積極的に行われ、それらを基に海外からどんどん舶来品を輸入していった。桜が盛んに植えられお花見が庶民の季節イベントになり始めたのもこの頃である。まさに「消費都市」として爛熟した文化を咲かせた時代であった。

しかし、元禄期の後半にはそうした鉱山資源は枯渇し、不況期に突入する。幕府の財政は逼迫し、元禄という過剰消費時代の改革に当たったのが、8代将軍の徳川吉宗であった。享保の改革と言われているが、倹約令によって消費を抑え、海外との貿易を制限する。当時の米価は旗本・御家人の収入の単位であったが、貨幣経済が全国に流通し、競争もあって米価は下落し続ける。下落する米価は旗本・御家人の収入を減らし困窮する者まで出てくる。長屋で浪人が傘張りの内職をしているシーンが映画にも出てくるが、職に就くことができない武士も続出する。吉宗はこの元凶である米価を安定させ、財政支出を抑え健全化をはかる改革を行う。この改革途中にも多くの困難があった。享保17年には大凶作となり、餓死者が約百万人に及び、また江戸市内ではコロリ(コレラ)が大流行する。ちなみに、吉宗が死者を供養するために翌年行われたのが両国の花火であった。その花火が名物となり、川開きの日に今もなお行われているのである。

今日の日本経済と単純に重ねてしまうことは危険とは思うが、生活者は10年前から収入が減り始め、ここ数年の消費はまさに倹約令を自ら行ってきたようなものだ。国債・地方債という借金を増やさないために、今「事業仕分け」という倹約をやっと政府が始めたところである。江戸時代の武士はいわば行政マンというサラリーマンで米価を基準にした禄高が唯一の収入源であった。収入保証を幕府は政策として打ち出すのだが、米価安定とはいわばデフレ対策としてあった。。現政権の政策であれば、直接的デフレ対策は出ていないが、こども手当という家計支援などが間接的ではあるが該当するであろう。

8代将軍吉宗は老中水野忠之や江戸町奉行大岡忠相というブレーンと共に、江戸市民の声を聞く「目安箱」を置き、民意を生かした行政を行う。この目安箱に町医者が投じた意見書から生まれたのが小石川養生所である。貧しい町民の医療を含めたセーフティネットであるが、山本周五郎が描いた小説「赤ひげ診療譚」の舞台となった施設である。
こうしたセーフティネットの背景には吉宗の改革ポリシーが明確にあってのことであった。一言でいえば、「元禄バブルによって、心が荒み、本来もっていた優しさを取り戻したい。財政の赤字改善だけでなく、こころの優しさをも」ということになる。この吉宗のポリシーは、後の松平定信に引き継がれる。それは、「七分積立金」という寄付制度で、町会費を節約してもらい、その節約分の七分(70%)を小石川療養所の運営費に充当してもらう制度である。おもしろいことに、この制度は明治政府になっても「東京市立養育院」となって続き、水道や道路整備更に築地の埋め立てなどにも使われた。

こうした吉宗による享保の改革はいわば社会福祉政策と呼ばれているが、そこには町民への明確な「権利と義務」を明らかにした上でのことであった。江戸は木造家屋であったことから火事は日常的にあり、安全・安心のための最大課題であった。当時の消防は、武士(行政)によるものであったが、町民自身も消防に参加すべきとし、「町火消し」制度が創られる。町火消しの番所建設費やその運営費は町民の負担とした。つまり、権利と義務を明確にしたのである。この延長線上に、災害時の食料を確保するための「囲い米」を保管する倉庫を作り、これも「七分積立金」の中から拠出させた。ある意味、不況対策は新しい町づくりとして、町単位での経済・社会運営をまかせ、世界に類を見ない都市国家を創ったと言える。

不況時の改革はこのように「町づくり」という市民参加によるものと併行して行われた。それは何よりも、市民の認識を変え行動することによってのみ変革は可能だということだ。そして、ある意味豊かな都市づくりが可能となったのも、江戸の生活が町単位という小さな単位であったからである。当時、江戸は「八百八町」といわれていたが、実際には1000以上あったようで、互いに「隣の町より良い町にしよう」と競い合っていた。お金を持っている人はお金を出し、力のあるものは労力を出す、経験ある者は知恵を出す、そんなことが当たり前のこととして通用する社会が実現した。
さて、今回の政権交代による「改革」は、新たな国づくり、町づくりへと進んでいくのであろうか。政治ショー化してしまってはいるが、「事業仕分け」という情報公開は必要である。しかし、それらは緊縮財政のためで成長への道にはつながらない。私見ではあるが、改革の本筋は地方分権にある。「生活が第一」としてきた政権であり、生活は現場、つまり地方にある。財源とそれを使う権限を地方に渡し、その土地ならではの産業を起こすことだ。そして、その構想力と実行力こそが首長に問われることとなる。行政能力だけでなく、経営センスと共に強いリーダーシップが要求される。不況対策には特効薬など無いが、「新しい町づくり」という市民運動、「ハードからソフトへ」という考えによってのみ困難さを超えることができる。(続く)


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Posted by ヒット商品応援団 at 13:41│Comments(0)新市場創造
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