2009年02月11日
ガンバラないけどいいでしょう
ヒット商品応援団日記No340(毎週2回更新) 2009.2.11.
この1ヶ月ほどTV各局は年越し派遣村の延長線上として雇用問題をテーマに特番を組んでいる。リーマンショック以降の世界不況が身じかな雇用問題として迫ってきていることの証左であろう。解決のメドさえつかない年金問題を始め、行き場のない多くの不安が錯綜し充満している。精神医学では対象のない見えざる恐れを不安とするのだが、不安が常態化する社会へと向かっているような気がしてならない。
2004年の芥川賞を受賞した当時20歳であった金原ひとみの「蛇にピアス」を読んだ時、鬱屈さを通り越して一種のニヒリズムさえ感じてしまった。それは、31歳で亡くなった石田徹也の絵(http://www.cre-8.jp/snap/390/index.html)にも同じようなものを感じた。対象が定かでない恐怖、明日が見えない、孤独、生きること、見る者が息苦しくなるほどの世界である。最近の若い世代の大麻汚染に対し、薬物依存からのリハビリを行っているダルクの代表は、「薬物に向かう理由は、皆好奇心と言うが、実は孤独から逃れたいため」と語っている。
話しは変わるが、振り込め詐欺の被害は相変わらず続き、そのやり方は更に巧妙そのものとなっている。以前は暴力団がらみの詐欺事件と考えられていたが、その多くはごく普通の若い世代が詐欺の当事者であるという。しかも、悪びれた感もなく、詐欺をビジネスとして組織的に実行し、犯罪を犯すという従来の倫理観とは全く異なる世界観であるという。従来のような経済的貧困や恨みといった動機による犯罪とは全く異なる。もし、あるとすれば漠とした社会、あるいは育ってきた環境に対する鬱屈した恨みやつらみとしか言いようのない理由だ。
ところで、あの吉田拓郎が音楽人生最後の全国ツアーを行うとニュースが報じられた。フォークソングはメッセージソングであるが、その最後のツアーに向けた6年ぶりのニューアルバムには「ガンバラないけどいいでしょう」という曲が収録されている。4月中旬リリースされるので未だ聞いてはいないが、詞を読む限り自分自身と共に若い世代へのメッセージでもあると思う。「ガンバラないけどいいでしょう」というメッセージは、逆に頑張らないことの大切さ、自分を責め傷つけることはやめにしようじゃないか、あるがままに生きてもいいんじゃないか、そんなメッセージにように思える。
私はモノも情報も過剰の時代という表現を数多く使ってきたが、実は生き方も過剰であったという思いがする。過剰な生き方を生き急ぐという言葉に置き換えても意味は変わらない。私達は生き方においても、あれもこれもと「足し算」の量発想をし、やらなければと窒息してしまうほどである。そんな過剰さから、「引き算」の発想へと転換しなければならないと思う。むしろ「引かれた」ものの中に自分を見出す時代、これも出来なかった、あれも出来なかった、でもこれだけは出来た自分。そうした「成熟した時代」へと向かっているのだ。優れた創造性は「より引くこと」の中から生まれてくる。引けば核心に近づく、より本質に迫らざるを得なくなる。量にシフトすれば拡大は肥大となり、無駄が増え、一般化し、特徴を失う。モノや情報ばかりか、生き方も同じだ。
ここ数週間、巣ごもり状態からどんなライフスタイルが生まれてくるか、キーワード探しをしてきた。吉田拓郎の新曲ではないが、「ガンバラない暮らし」「身の丈生活」「100人100通りの生活」「シンプルライフスタイル」、そんなキーワードが思い浮かんできた。
しかし、世代間における消費の意味合い、巣ごもり観は全く異なる。モノ不足を少年期に生きてきた団塊世代と今日の個人化の先駆けとして個室をあてがわれて育ってきた若い世代。極論ではあるが、単純比較すると物を求めて頑張ってきた団塊世代と「自分って何」と精神的飢餓と闘い頑張ってきた若い世代。草食系と呼ばれ、人間関係の摩擦を避け、快適で、合理的な生活、しかし窒息するような得体の知れない何かに脅迫されているかのような若い世代。そんな世代にとって、消費という欲望は既に喪失しているかのように見える。消費できるだけの経済的裏付けがあっても、必要なモノ、必要な時、それまでは見向きもしない消費である。一方、40歳代以上の世代にとっては消費したいとする欲望はあっても、我慢し、節約するのとは対照的である。同じ巣ごもりでも、買えるけど買わないのと、買いたいけど買えないという大きな違いだ。
不安が常態化する社会とは、物が欠乏することへの畏れ、孤独であることへの畏れ、共に過剰なまでの頑張りによって増幅された結果だ。新自由主義的発想によるガンバリ、頑張れば頑張るほど、逆に物の欠乏感が増し、孤独感が深まる。世代間に表れる価値観の違い、不安に思う対象の違いはあっても、共通する点は過剰なまでの頑張りであろう。吉田拓郎のメッセージは、こんな不安社会への価値転換を促しているように感じる。
追いかけすぎることはいけないんだね
この頃ちょっとだけ悲しくなり始め
君に会えるだけでいいんだ幸せなはず
自分のことを嫌いになっちゃいけないよね
もっともっと素敵にいられるはずさ
眩しいほどじゃなくてもいいじゃない
気持ちを無くしてしまった訳じゃない
掴めそうで掴めない戸惑ってしまう
でも頑張らないけどいいでしょう
私なりってことでいいでしょう
頑張らなくてもいいでしょう
私なりのペースでもいいでしょう 「ガンバラないけどいいでしょう」吉田拓郎 作詞作曲
(続く)
この1ヶ月ほどTV各局は年越し派遣村の延長線上として雇用問題をテーマに特番を組んでいる。リーマンショック以降の世界不況が身じかな雇用問題として迫ってきていることの証左であろう。解決のメドさえつかない年金問題を始め、行き場のない多くの不安が錯綜し充満している。精神医学では対象のない見えざる恐れを不安とするのだが、不安が常態化する社会へと向かっているような気がしてならない。
2004年の芥川賞を受賞した当時20歳であった金原ひとみの「蛇にピアス」を読んだ時、鬱屈さを通り越して一種のニヒリズムさえ感じてしまった。それは、31歳で亡くなった石田徹也の絵(http://www.cre-8.jp/snap/390/index.html)にも同じようなものを感じた。対象が定かでない恐怖、明日が見えない、孤独、生きること、見る者が息苦しくなるほどの世界である。最近の若い世代の大麻汚染に対し、薬物依存からのリハビリを行っているダルクの代表は、「薬物に向かう理由は、皆好奇心と言うが、実は孤独から逃れたいため」と語っている。
話しは変わるが、振り込め詐欺の被害は相変わらず続き、そのやり方は更に巧妙そのものとなっている。以前は暴力団がらみの詐欺事件と考えられていたが、その多くはごく普通の若い世代が詐欺の当事者であるという。しかも、悪びれた感もなく、詐欺をビジネスとして組織的に実行し、犯罪を犯すという従来の倫理観とは全く異なる世界観であるという。従来のような経済的貧困や恨みといった動機による犯罪とは全く異なる。もし、あるとすれば漠とした社会、あるいは育ってきた環境に対する鬱屈した恨みやつらみとしか言いようのない理由だ。
ところで、あの吉田拓郎が音楽人生最後の全国ツアーを行うとニュースが報じられた。フォークソングはメッセージソングであるが、その最後のツアーに向けた6年ぶりのニューアルバムには「ガンバラないけどいいでしょう」という曲が収録されている。4月中旬リリースされるので未だ聞いてはいないが、詞を読む限り自分自身と共に若い世代へのメッセージでもあると思う。「ガンバラないけどいいでしょう」というメッセージは、逆に頑張らないことの大切さ、自分を責め傷つけることはやめにしようじゃないか、あるがままに生きてもいいんじゃないか、そんなメッセージにように思える。
私はモノも情報も過剰の時代という表現を数多く使ってきたが、実は生き方も過剰であったという思いがする。過剰な生き方を生き急ぐという言葉に置き換えても意味は変わらない。私達は生き方においても、あれもこれもと「足し算」の量発想をし、やらなければと窒息してしまうほどである。そんな過剰さから、「引き算」の発想へと転換しなければならないと思う。むしろ「引かれた」ものの中に自分を見出す時代、これも出来なかった、あれも出来なかった、でもこれだけは出来た自分。そうした「成熟した時代」へと向かっているのだ。優れた創造性は「より引くこと」の中から生まれてくる。引けば核心に近づく、より本質に迫らざるを得なくなる。量にシフトすれば拡大は肥大となり、無駄が増え、一般化し、特徴を失う。モノや情報ばかりか、生き方も同じだ。
ここ数週間、巣ごもり状態からどんなライフスタイルが生まれてくるか、キーワード探しをしてきた。吉田拓郎の新曲ではないが、「ガンバラない暮らし」「身の丈生活」「100人100通りの生活」「シンプルライフスタイル」、そんなキーワードが思い浮かんできた。
しかし、世代間における消費の意味合い、巣ごもり観は全く異なる。モノ不足を少年期に生きてきた団塊世代と今日の個人化の先駆けとして個室をあてがわれて育ってきた若い世代。極論ではあるが、単純比較すると物を求めて頑張ってきた団塊世代と「自分って何」と精神的飢餓と闘い頑張ってきた若い世代。草食系と呼ばれ、人間関係の摩擦を避け、快適で、合理的な生活、しかし窒息するような得体の知れない何かに脅迫されているかのような若い世代。そんな世代にとって、消費という欲望は既に喪失しているかのように見える。消費できるだけの経済的裏付けがあっても、必要なモノ、必要な時、それまでは見向きもしない消費である。一方、40歳代以上の世代にとっては消費したいとする欲望はあっても、我慢し、節約するのとは対照的である。同じ巣ごもりでも、買えるけど買わないのと、買いたいけど買えないという大きな違いだ。
不安が常態化する社会とは、物が欠乏することへの畏れ、孤独であることへの畏れ、共に過剰なまでの頑張りによって増幅された結果だ。新自由主義的発想によるガンバリ、頑張れば頑張るほど、逆に物の欠乏感が増し、孤独感が深まる。世代間に表れる価値観の違い、不安に思う対象の違いはあっても、共通する点は過剰なまでの頑張りであろう。吉田拓郎のメッセージは、こんな不安社会への価値転換を促しているように感じる。
追いかけすぎることはいけないんだね
この頃ちょっとだけ悲しくなり始め
君に会えるだけでいいんだ幸せなはず
自分のことを嫌いになっちゃいけないよね
もっともっと素敵にいられるはずさ
眩しいほどじゃなくてもいいじゃない
気持ちを無くしてしまった訳じゃない
掴めそうで掴めない戸惑ってしまう
でも頑張らないけどいいでしょう
私なりってことでいいでしょう
頑張らなくてもいいでしょう
私なりのペースでもいいでしょう 「ガンバラないけどいいでしょう」吉田拓郎 作詞作曲
(続く)
失われた30年nの意味
マーケティングノート(2)後半
マーケティングノート(2)前半
2023年ヒット商品版付を読み解く
マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」後半
マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」前半
マーケティングノート(2)後半
マーケティングノート(2)前半
2023年ヒット商品版付を読み解く
マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」後半
マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」前半
Posted by ヒット商品応援団 at 13:51│Comments(0)
│新市場創造
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。