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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2020年01月14日

未来塾(38)「不確かな時代の不安と感動」 前半    

ヒット商品応援団日記No755(毎週更新) 2020.1.14.

未来塾(38)「不確かな時代の不安と感動」 前半    



消費税10%時代の迎え方(7)

不確かな時代の不安と感動

不安は常に不確かな未来から生まれる。
しかし「好き」が嵩じれば夢中へと向かい、
不安もまた変わる。


一昨年6月大阪北部地震、7月には西日本豪雨被害、9月には台風21号の関西直撃・関空麻痺、更には2日後北海道では大きな地震が起き全道がブラックアウトになった。その時、「災害列島の夏」というタイトルで日本が持つ宿命でもある自然災害についてブログに書いたことがあった。そして、昨年台風15号が今度は首都圏を直撃し倒木などによる停電が千葉県を中心に70数万軒もの停電が起き大きな被害を生んだ。そして、その1ヶ月後には最大級の台風19号が東海・首都圏を直撃し関東甲信越・東北という広域にわたる未曾有の豪雨によって想定外の堤防決壊などによる水害に襲われた。

未来塾(38)「不確かな時代の不安と感動」 前半    一昨年の西日本豪雨における倉敷真備町に多大な被害を出した高梁川の決壊も、昨年の台風19号による長野千曲川の決壊も昔から何度となく洪水を繰り返してきた河川である。勿論、治水をはじめ防災・減災も行なってきたのだが、その時々の洪水に対する「想定基準」は変化してきている。曰く、50年に一度の、更には100年に一度の、そして、昨年の豪雨災害に対しては千年に一度の災害を想定しなければ、といった議論である。そうした想定は不安と表裏にあり、安心を得るためにインフラの基準もより強靭なものへと変化し、生活者の不安の受け止め方もまた変化してきた。

今回の未来塾は国土のインフラ整備における技術の進化ではなく、生活者は自然災害など時々の「社会不安」をどう乗り越えてきたかをテーマとした。不安は多様で時代によって変わり、しかも個人によって異なるものである。多様な不安から逃れるために、具体的には幸福感を得るため薬物を使うといったことや、もっと日常的であれば今日の「激辛ブーム」といった刺激もあるが、今回は多くの人が生きるにあたって共通した社会不安をテーマとした。不安の中でどう暮らしていたか、そこには不安の認識と共に、不安を抱えながらどう暮らしていたか、そこから生まれた知恵やアイディアを見出してみた。そこで現在のライフスタイルの原型が江戸時代にあることから、江戸時代と「今」とを比較しながら、嫌な言葉だが不安を呼び起こす常態化する災害列島日本の実像を中心に、その不安をひと時解消した楽しみ・娯楽ある日々の暮らし、感動をもたらしてくれる日常・出来事をテーマとした。面白いことに、ハザードマップなどないと思われる江戸時代にもそれに代わる庶民の知恵が伝承されている。しかも、災害が起こることを想定した町づくりや生活の工夫があったことに驚かされる。

不確かな未来から生まれる不安

さて”時代々によって生まれる不安”と書いたが、江戸時代の不安は平安後期からの数百年にわたる戦乱の世が終わり、江戸はいわゆる平和の時代であった。それまでの戦乱の世の「未来」は苦しみしかない世で、平安末期には法然や親鸞のように庶民の苦しみを救う希有な僧侶が出現する世であった。つまり、それまでの宗教は貴族のための仏教であったが、戦乱に苦しむ庶民を救う仏教として生まれたのが浄土宗・浄土真宗という仏教、「宗教」であった。周知のように庶民にとって未来は「苦しみ」であったが、法然は南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀仏に「どうか、私を救って下さいと」願う事で極楽浄土へ導かれる」と説いた。
不安が極まるその先にも苦しみがあるのだが、不安が蔓延する世にあって救いの宗教は人から人へと拡散していく。
ところでまずどんな「不安」があるのか整理すると以下のようになる。
1、健康に対する不安
2、経済に対する不安
3、社会に対する不安
4、災害に対する不安
最大の不安は平安後期からの歴史が教えてくれているように、未来無き「戦乱」「戦争」に対する不安であり、政治の主要課題であるがここでは除外することとした。

不安が拡散する構図

「拡散」という言葉を使ったが、現在においてはSNSと同義であるかのように思われるが、江戸時代においても庶民においては瓦版といったメディアもあって、ゴシップから火事や地震といった災害の速報までを内容としたものであった。後述するが瓦版も高度化しカラー刷りの瓦版まで作られていた。このようにメディアの違いはあっても、人から人へと伝わっていくのだが、その本質は「噂(うわさ)」である。良い噂は「評判」であり、悪い噂は「風評」となる。現在もそうであるが、「うわさ」が生まれる原因は、「不可解さ=曖昧な情報(不確かさ)」への過剰反応の連鎖によるものである。
こうした過剰反応の連鎖については、「うわさとパニック」など既に多くのケーススタディ、社会心理における研究がなされている。その原点ともいうべき「うわさの法則」(オルポート&ポストマン)を簡単に説明すると以下の内容となる。

R=うわさの流布(rumor),
I=情報の重要さ(importance),
A=情報の曖昧さ(ambiguity)

 うわさの法則:R∝(比例) I×A  

つまり、話の「重要さ」と「曖昧さ」が大きければ大きいほど「うわさ」になりやすく、比例するという法則である。但し、重要さと曖昧さのどちらか1つが0(ゼロ)であれば、うわさはかけ算となり0(ゼロ)となる。

この法則に準じれば、「不安」は生きるにあたって重要で、しかもそれがこれからも「不確か」であった時、「うわさ」は社会へと広がっていくということである。こうした視座で、江戸はどうであったか、今日の日本の今はどうであるか、比較しながら学んでいくことにする。

江戸時代の災害対応

未来塾(38)「不確かな時代の不安と感動」 前半    自然災害というと、江戸時代にも大型台風による災害はあって、1742年(寛保2年)夏には江戸を直撃し、「江戸水没」といった災害に見舞われている。これが1000名近くの死者を出した寛保洪水である。あるいは周知の富士山の噴火や1万人近くの死者を出した安政江戸地震も起きている。
こうした自然災害もあったが、実は日常的にあったのが「火事」という災害であった。この火事に向かい消火の最前線で活躍したのが町火消しで火事と喧嘩は江戸の華と言われ火消しは江戸のヒーローであった。当時の江戸の町のほとんどは木造家屋であり、消火方法は建物を取り壊して延焼を防ぐ「破壊消火」であった。当然防火・防災は庶民の生活の中に定着し、例えば火の用心といって夜回りをしたり、軒先には消火のためのポンプも用意されていた。
また、建物のほとんどが木造家屋であったことから材木需要は旺盛で、紀伊国屋文左衛門といった大問屋が活躍したが、庶民が住む長屋のような場合のほとんどは古材を使ってわずか数日で建ててしまう。ある意味、火事慣れした江戸の知恵でもあった。また、大きな武家屋敷などが消失した時には「囲山(かこいやま)」といった植林の木材を伐採して使った。勿論、非常時の時だけ使うという厳格なルールのもとで行われていた。江戸の中心地から少し外れたところには材木の生産地があり、杉並区は最も近い産地であり区の名称にもなっている。このように既にこの時代から森林資源をうまく活用する言わばエコシステムが生まれていたということである。

江戸時代はこのように庶民にあって防災・減災はシステムとしてあり、それは自然災害への「不安」対応への一種の知恵の賜物であった。実は江戸時代における最大の不安は疾病や病気であった。周知のように最初に隅田川の川開きに打ち上げられた花火は京保18年が最初であった。この年の前年には100万人もの餓死者が出るほどの大凶作で、しかも江戸市内でころり(コレラ)が流行し多くの死者が出た年であった。八代将軍吉宗は多くの死者の魂を供養するために水神祭が開かれ、その時に打ち上げられた花火が今日まで続いている。弔いの花火であったが、ひと時華やかな打ち上げ花火を観て不安を打ち消すというこれも江戸の知恵であった。

不安の時代に生まれた「浮世」という人生観

このように江戸時代は命に関わるような不安と隣り合わせた暮らしであったが、こうっした江戸庶民の人生観をキーワードとしていうならば、「浮世」であった。浮世というと、浮世絵や浮世床を思い浮かべ、何かふわふわした浮ついた時代の表層をなぞったような感がするかもしれないが、実はもっと奥深い人生観につながるものであった。江戸の町は日常的に火事が起きていたと書いたが、どれだけ物に執着しても一瞬のうちに火事で灰にしてしまう、そんなはかない世はつまらないというのが江戸の人たちの気持ちであった。しかし、庶民の人たちが自然の恵みをもたらしてくれる海も板戸一枚下には死が待っていることを知っているように、浮世にはそんな辛い現実が裏側に潜んでいる。これが日本人の「自然」との向き合い方、共生の背景にある。ヨーロッパのように自然に対峙し、戦って変えてしまう向き合い方とは異なるもので、日本人がよく口にする「自然に寄り添う」とはこうした自然観を表している。江戸時代の火事に対して知恵を持った向き合い方、暮らし方をエコライフの始まりと言われるのもこうした自然観に依るものであった。

また、時々に見舞われる大きな自然災害に対しても手をこまねいていたわけではない。海を埋め立てることによって造られた江戸の町は水害に弱い都市であった。寛保洪水の時には今でも海抜ゼロメートルと言われる江東区などの下町には船をかき集め、川と街路の区別が付かなくなった下町に派遣し、溺れている人や屋根や樹木の上で震える人を救出、そんな救出人数が町別に残されている。同時に被災者に粥や飯を支給している。こうした救出や救援などボランティアといった言葉がない時代に幕府や奉行所を中心に有力町人を加えシステマティックに動いていた。また、備前・長州・肥後などの被害の少なかった西国諸藩10藩に命じて利根川・荒川などの堤防や用水路の復旧(御手伝普請)に当たらせて復旧を行なっている。今日の自然災害への地域を超えたネットワークによる対応と根底のところでは同じである。公助、共助の仕組みが既に江戸時代にあったということである。

宵越しの金は持たない、という江戸暮らし

このような言葉に江戸っ子のきっぷの良さを表現したとすることが一般化しているが、実はいわゆるその日暮らしは「宵越しの金を持てない」という経済的には貧しい生活であった。江戸時代の地方では飢饉によって餓死することはあったが、江戸ではそうしたことはほとんどなかったと言われている。その背景には、政治都市から商業都市へと変化し120万人もの町に成長する。結果、新しい「商売」が次から次へと生まれ、いわゆる労働需要は旺盛であった。政治都市から見ていくならば、地方からの単身赴任の「武士市場」として今日のレンタルショップである損料屋や多くの外食産業などが生まれている。平和な時代ということから暇を持てあます旗本御家人などは武士によるアルバイトが盛んになる。提灯づくり、傘張りといった定番の職業から、虫売りや金魚売り、あるいは朝顔栽培まで一般庶民の分野にまで広く参入するように多様な仕事があった。江戸も中期以降、実は幕府も地方の藩も財政が逼迫したこともアルバイトに向かわせた理由の一つであった。

士農工商という封建制は明治政府によって誇張されたもので、その垣根はあまり大きくはなかった。40万都市であった江戸は次第に人口だけでなく、物やサービスの集積度合いが高まり、今日ある小売業の原型が形作られる。つまり、商業都市へと変貌していくのだが、その労働市場はどうかというと、「奉公人」、今で言うビジネスマンが主役であった。まずは10歳前後で「小僧」(関西では丁稚どん)から始まり、「手代」「番頭」へと出世していくが、5〜9年で手代になれるのだが、なれるのは三分の一程度。本店で試験や面接があり、年功序列や終身雇用都いっ経営ではなく、徹底した実力主義の世界であった。手代になると給金は年に4両、芝居見物やお伊勢参りなどの旅行もできるようになる。しかし、長期休暇をもらえるようにもなるのだが、休暇が開けて「ご苦労様」という書状が届けばわずかな退職金をもらい自然解雇になるという厳しい出世競争であった。どこか今日の官僚の出世競争に似ている。そして、番頭になると結婚が許され、番頭をやり遂げると退職金として50両〜200両が支給されるというものであった。こうしたことから一大道楽市場が生まれることになるのだが、従来言われてきた日本型経営・雇用の出発点はこうした実力主義の世界であったことを今一度考えるべきであろう。

ところで、江戸は行商など多様な流通業やサービス業が盛んで、チップ制という経済によって収入を得る個人仕事も多く、いわゆる日雇い仕事が多い都市であった。こうしたことから幕府の人返し令にもかかわらず、江戸を目指す人が絶えることはなかった。この時代から都市と地方との格差が生まれていたということだ。こうした格差はあるものの、今風に言えば労働力市場の活性、つまり雇用の流動化は大きく、活力ある時代であったということである。

未来塾(38)「不確かな時代の不安と感動」 前半    それどころか、お金はなくても子への教育は充実していた。義務教育と言った制度のない時代に就学率は70〜80%で多くの子供達が学んだと言われている。庶民の子供は7〜8歳の頃から3〜5年間通ったのが寺子屋で、江戸では指南所と呼ばれ、江戸後期には江戸市内で1500もの指南所があった。学んだのはひらがなに始まり、数学、地名、手紙の書き方、更にそろばん、礼儀作法。またより高度な学びとして茶道、華道、漢学、国学といった専門の学問を教える指南所もあった。同じ時期の欧米の就学率と比較しても極めて高く、例えば就業率の高いイギリスでも20〜30%であった。
子供達は朝8時から午後2時ぐらいまで勉強します。その後、いろいろな事情から学ぶことができなかった大人も学ぶことができる仕組みもあって、現在の定時制高校のようなものが用意されていた。先生役は浪人、僧侶、神主、未亡人などで時間に余裕のある人が勤めます。
ところで授業料はあってないようなもので、「出世払い」が普通であった。寺子屋では商売物を授業料とし、八百屋であれば野菜を持って行ったり、大工であれば先生の住まいの雨漏りを直すといった方法がとられていた。先生は子供たちの学びに情熱を持って教え、現在では死語となった聖職のような存在であった。勿論、先生は尊敬される存在で、モンスターペアレントなど皆無で、子供同士のいじめは勿論であった。今日のような教師間のいじめすらあるブラック職場とすら指摘される教育環境とは真逆の世界であった。結果、子供達も真剣に勉強し識字率70%を超えると言われるほどの教育都市、そんな江戸であった。
現在の教育が「家庭」をベースに行われているが、江戸時代の教育はいわば「社会コスト」としてコミュニティの義務として考えられており、教育格差などなかった。当時のロンドンやパリと比較し教育水準が高かったのもこうした「社会」を背景としていたからである。

浮世を支える江戸の社会・長屋コミュニティ

江戸幕府が造られた当時の人口はわずか40万人ほどであったが、次第に地方からの出稼ぎなど多くの人が江戸を目指す。こうした流入を防ぐために人返し令を発令するが、江戸は120万人という世界一の巨大都市となる。この100万人から120万人という膨れ上がった都市を実質的に支えたのが実は「大家」という存在であった。この大家は2万人ほどいたと言われているが、単なる長屋の管理人としての存在ではなかった。
時代劇に出てくる「同心」は江戸の治安を守る警察のようなものであるが、南北奉行所合わせて12名の同心の他に年配の経験者である臨時の同心が12名、他に隠密周りが4名、計28名で江戸をパトロールするのだが、カバーすることはできない。これまた時代劇には「自身番」という言葉も出てくるが、これは江戸初期には地主が自らを守るために詰めた場所を指していたもで、次第に地主の代理人である大家が「店番」といってこの自身番に詰めるようになったと言われている。
この地主や大家は不審者や火事から町を守るだけでなく、店子からの家賃の中から一定の金額をお上へと納税する。また同時に「町人用」という積立金を行い、長屋が火事になった時の再建や道路の補修などといった出費に当てる経営者でもあった。勿論、「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」と言われるように、冠婚葬祭をはじめ住人の生活を丁寧に見てくれる相談相手であった。こうした町という小さな単位、コミュニティ運営の中心となっていたのが大家で、日常的な心配事や不安の良き相談者であったことから、江戸の「浮世」という人生観も育っていったということである。

未来塾(38)「不確かな時代の不安と感動」 前半    ところで江戸時代はいわゆる「捨て子」がかなり多かった。世界に例をみない自然との共生社会であった江戸時代にあって、捨て子に対する人間としての引き受け方は一つの示唆があると思っている。その共生思想の極端なものが、江戸中期の「生類憐れみの令」である。歴史の教科書には必ず「生類憐れみの令」について書かれているが、多くの人は犬を人間以上に大切に扱えというおかしな法律だと思っている人が多い。生類とは犬、馬、そして人間の「赤子」を指していることはあまり知られてはいない。その「生類憐れみの令」の第一条に、捨て子があっても届けるには及ばない、拾った者が育てるか、誰かに養育を任せるか、拾った人間の責任としている。そもそも、赤子を犬や馬と一括りにするなんておかしいと、ほどんどの人が思う。江戸時代の「子供観」「生命観」、つまり母性については現在の価値観とは大きく異なるものである。生を受けた赤子は、母性を超えてコミュニティ社会が引き受けて育てることが当たり前の世界であった。自分の子供でも、隣の家の子供でもいたずらをすれば同じように怒るし、同じように面倒を見るのが当たり前の社会が江戸時代であった。

私たち現代人にとって、赤子を犬や馬と一緒にする感覚、母性とはどういうことであろうかと疑問に思うことだろう。勿論、捨て子は「憐れむ」存在ではあるが、捨てることへの罪悪感は少ない。法律は捨て子の禁止よりかは赤子を庇護することに重点が置かれていた。赤子は拾われて育てられることが前提となっていて、捨て子に養育費をつけた「捨て子養子制度」も生まれている。つまり、一種の養子制度であり、そのための仲介業者も存在していた。現代の「赤ちゃんポスト」もこうした発想と基本的には同じである。
私たちは時代劇を見て、「大家と言えば親も当然、店子と言えば子も当然」といった言葉をよく耳にするが、まさにその通りの社会であった。あの民俗学者の柳田国男は年少者の丁稚奉公も一種の養子制度であるとし、子供を預けるという社会慣習が様々なところに及んでいると指摘をしている。江戸時代にも育児放棄、今で言うネグレクトは存在し、「育ての親」という社会の仕組みが存在していた。この社会慣習とでもいうべき考え、捨て子の考えが衰退していくことと反比例するように「母子心中」が増加していると指摘する研究者もいる。(「都市民俗学へのいざない1」岩本通弥篇)

民話というハザードマップ、災害の伝承

今回の台風19号による豪雨災害、特に河川の洪水についてはハザードマップ制度に注目が集まったが、総務省は10年ほど前から全国災害伝承情報を集め公開している。例えば、

1. 現在までに語り継がれる「災害」



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Posted by ヒット商品応援団 at 13:20│Comments(0)新市場創造
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