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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2019年09月15日

未来塾(37)「居場所を求める時代」前半   

今回の未来塾では作家五木寛之の「下山の思想」の時代認識を借りて、必要から生まれた規制や慣習から離れて自由でいられる居心地の良いお気に入りの「時間と場」という視点をもって中野の「昭和新道」と門前仲町の「辰巳新道」の2つの街を中心に街を観察してみた。成熟した時代のマーケティングとして「居場所」に着眼したレポートである。

未来塾(37)「居場所を求める時代」前半   



消費税10%時代の迎え方(6)

居場所を求める時代

成熟時代の街もよう、人生もよう、
下山から見える消費風景


「中野」と言えば、JR中野駅北口に聳え立つ「中野サンプラザ」を思い浮かべる人は多い。その中野は今大きく変わろうとしている。中野のランドマークとして知られてきた中野サンプラザの老朽化に伴い補修か、それとも新たな施設の建築か、中野区民を中心に多くの論議を重ねてきたが、跡地には新たな施設を造ることが決まった。「何」をどうつくるか区民の声を聞き、それらを元にプロジェクトが動くこととなるが、いずれにせよ、中野駅中心の街が大きく変わることとなる。

未来塾(37)「居場所を求める時代」前半   中野サンプラザというと、日比谷の野外音楽堂や日本武道館と並び、コンサート会場として人気のある大ホールを有した施設であるが、その歴史を遡ると東京の街の再開発の歴史そのものであったことがわかる。中野サンプラザは1973年旧労働省所管の特殊法人だった 雇用促進事業団によって、雇用保険法に基づく勤労者福祉施設として建設された。正式名称は「全国勤労青少年会館」だった。
駅前という好立地であったこともあって利益が見込まれる施設であることから「株式会社まちづくり中野21」に52億9987万円で売却された。同時に設立された「株式会社中野サンプラザ」が2004年(平成16年)12月より運営を開始する。

未来塾(37)「居場所を求める時代」前半   この中野サンプラザと共に知られてきたのが中野サンモールという商店街である。駅北口からほぼ真北へ延びる全長224メートルのアーケード商店街で、約110店が営業している商店街である。このアーケードの先には中野のサブカル、中野ブロードウェイがある。今や秋葉原と共にサブカルオタクの2大聖地に発展したが、中野ブロードウェイはある意味寂れた商店街であったが、1982年に初めて周知の「まんだらけ」の1号店が出店したことから一大サブカルの集積地となる。まだ、当時の古い商店や倉庫などが残っているが、オタクの聖地らしく、独特な雰囲気が醸し出された空間となっている。

ところで、冒頭の写真はこの中野サンモールの東側に広がる一帯の写真である。「サンモール裏」といった表現で何度か飲食しに行ったことがあったが、実は正式な名称があって「昭和新道商店街」となっている。中野駅を背に、左側には中野サンプラザ、真正面には中野サンモール、そして右側には昭和新道商店街という構図である。
「昭和新道」という名称を誰がつけたか知らないが、物の見事にこの一帯を表している。そして、「新道(しんどう)」とは表通り(中野サンモール)に対し、新たにつくられた道であり、まさに横丁、路地裏、小路のことである。戦後造られた道ということもあって、道は合理的な直線で整理されたものではなく、曲がりくねった道ではないが、それでも画一的な小道ではない。こうした場所は戦後の東京には至る所にあったが、再開発の中で残ったところは少ない。

中野駅周辺はこれから先2030年代にかけて大きく変わると書いたが、南口には2棟の高層ビルが計画されており、またJR中野駅駅舎も変わり、南北通路と共に新たに西口という導線が出来、それまでのランドマークであった中野サンプラザから駅南側まで、中野駅一帯が新たな「街」として誕生する計画だ。街の変化は、住民が、そこを訪れる生活者やビジネスマンが創るものである。「何」を残し、「何」を変えていくのか、この中野エリアはそうした意味でわかりやすくその変化を見せてくれている。
勿論、「何」を残していくかの中心に、この「昭和新道」がある。

時代が求める「居場所」探し

ところで「居場所」とは何かであるが、それは2つの意味を担っている。1つは物理的な生活の場としての居場所であり、もう一つは心理的な「私」の場所としての空間。こうした2つの視点から時代を見ていくと、ある意味「豊かさとは何か」、「変化する豊かさ」が見えてくる。その象徴の一つが社会の基本単位、帰属する居場所である「家族」の変化である。1970年代以降家族で一緒にTV視聴していたお化け番組『8時だョ!全員集合』は1985年10月に終了する。それまで大部屋で生活していた家族は収入も増え豊かさと共に子供には個室があてがわれ、1990年代以降核家族と呼ばれるようになる。私の言葉で言えば、個人化社会が本格的に始まり、同時に多くの社会問題も現れてくる。
こうした従来の「家族」が心理的にも崩壊したのは1990年代初頭のバブル崩壊によってであるが、社会現象として現れてきたのは1990年代半ば以降居場所を求めて街を漂流する少女達であった。夜回り先生こと水谷修氏が少女達を助けるために夜中の街を歩き声をかけた時代である。家庭にも、学校にも居場所がなかった少女にとって、同じような「思い」をする仲間が集まる街、特に渋谷は自由になれる心地よい居場所であった。勿論、それは大きな危険をはらんだものであった。薬物中毒、援助交際、・・・・・・・・少女達にとっての「自由」と引き換えに得たものは大きな代償痛みのあるものであった。当時流行っていたキーワードは「プチ家出」で、こうしたことは今なお続いている。

こうした社会的な問題の時代を経て、2000年代に入ると「隠れ家ブーム」が起きる。ブームの発端は、マスメディア関連の業界関係者が自分だけのお気に入り店として都心の六本木から少し外れた霞町近辺の小さな飲食店に集まったことから始まる。この隠れ家ブームの先には、キャリア女性を中心に「ひとリッチ」と呼ばれるおひとりさま歓迎のメニューが単なる飲食店だけでなく、海外旅行を含め多くのサービス領域まで広がることとなる。このように時代の変化と共に「居場所」探しは消費の中心テーマとなってきた。

今、働き盛りの世代、それも既婚男性が仕事を終え自宅にストレートに戻らずに一種の「自由時間」を楽しんでいる人物「フラリーマン」が増えている。これはNHKが昨年9月にこのフラリーマンの姿を「おはよう日本」で放送したことから流行った言葉である。
都市においては夫婦共稼ぎは当たり前となり、夕食までの時間を好きな時間として使うフラリーマンであるが、書店や、家電量販店、ゲームセンター、あるいはバッティングセンター…。「自分の時間が欲しい」「仕事のストレスを解消したい」それぞれの思いを抱えながら、夜の街をふらふらと漂う男性たちのことを指してのことである。
実はこうした傾向はすでに数年前から起こっていて、深夜高速道路のSAに停めた車内で一人ギターを弾いたり、一人BARでジャズを聴いたり、勿論前述のサラリーマンの聖地で仲間と飲酒することもあるのだが、単なる時間つぶしでは全くない。逆に、「個人」に一度戻ってみたいとした「時間」である。私はこうした心理を「一人になりたい症候群」と呼んでいる。いわばひととき「自由人」である。
1990年代後半、街を漂流した若い少女にとっても、フラリーマンにとっても、社会に生きる上での約束事・規則、あるいは常識も含めた「べき論」から離れたい心理は共に同じである。極端かもしれないが、プチ家出も、街をふらつくことも同じ心理ということだ。理屈っぽくいうならば、自分を見つめ直す時間が必要ということである。つまり、頑張りすぎないことが必要な時代であるということでもある。
最短距離を歩くのではなく、目的のない散歩といういわば「道草」が必要な時代であるということだ。

道草には横丁路地裏が似合ってる

「道草」とはたまには高速道路を降りて一般道を走ることに似ている。それまで目にすることがなかった景色が現れてくる。道草はそんな未知を楽しむことである。冒頭の中野の昭和新道もそんな道草のできる路地裏である。中野サンプラザが輝いていた時代も、中野ブロードウェイの衰退とサブカルの復興による賑わいも、また面白いことに中野ブロードウェイの先、北側には西武線新井薬師前駅につながる商店街もある。
前回の未来塾で取り上げた高円寺とは一駅新宿寄りの街であるが、同じ中央線沿線にも関わらず、街の生業は大きく異なる。高円寺が阿波踊りをはじめとした庶民文化が根付いた街であり、10もの昔ながらの商店街が今なお元気であるのに対し、中野は住宅地というより中野サンプラザや中野ブロードウェイといったテーマを持った商業施設の街という特徴以外には注目されることのない街である。南口にはアパートなどの住宅地もあるが、他には明治大学の中野キャンパスとオフィスビル・・・・・ある意味特徴のない街として話題になることもなく見過ごされてきた街である。

実は中野には街の激変の歴史が残る商業施設がある。あの中野マルイである。周知のように小売業としては1972年創業の丸井はこの中野駅南口が創業の地である。周知のようにDCブランド、ファッションのマルイとして一時代を画したが2007年に中野本店を閉店する。再び2011年1月にオープンするのだが百貨店型の商業施設から、いわゆるテナントの編集によるショッピングセンター方式への転換が図られた店舗運営とその商業構成となっている。ちょうど同じ中央線にある吉祥寺の百貨店の撤退と他の業態への転換と同じ構図となっている。ここでは百貨店業態の衰退について触れることはしないが、一言で言えばマルイもテナントによる賃料収入によって経営を行ういわゆるデベロッパー型小売業へと転換したということである。消費の変化を映し出すのが商業の本質であることを証明している。

未来塾(37)「居場所を求める時代」前半   また、中野が吉祥寺と同じ「構図」であると指摘をしたのも、吉祥寺駅北口に残るハーモニカ横丁、昭和の匂いのするレトロな飲食街が数年前から若い世代の「観光地」になっており、中野駅北口一帯の「昭和新道」と同じである。それまでの商業施設が「消費」によって大きく変わり、撤退や閉鎖、あるいは新たな業態や店舗が誕生し、街も変化していく。そうした変化を促す「消費」にあって、吉祥寺北口のハーモニカ横丁も、中野北口の昭和新道も、まさに「昭和」が色濃く残る一帯である。

ところで昨年秋から人気が急上昇のTV番組の一つに『ポツンと一軒家』(ABCテレビ制作)がある。日本各地の離れた場所に存在する一軒家に暮らしている人物がどのような理由で暮らしているのかを衛星画像のみを手がかりにした上でその場所に行き、地元の情報に基づいて一軒家を調査する内容である。NTV系のライバル番組『イッテQ!』を上回る17〜18%の高視聴率を得ているという。無人駅の利用者を調査するTV番組もあり、表舞台には決して出てこない暮らし、いや人生そのもへの興味関心が高まっている。そうした意味で、今なお「昭和」を感じ取れる街は実は貴重なものになっているということだ。単なる懐かしさを感じ取る観光地としての「それ」だけではなく、「人生」探しが始まっているということである。つまり、人生には道草もまた必要である、ということだ。

「昭和」という飲み屋街

未来塾(37)「居場所を求める時代」前半   街は常に変化するものであると実感してきたが、これほどまでに変化の跡を残さない街も珍しい。まるで昭和時代にタイムスリップした街、昭和40年代の飲み屋街を再現したらこんな飲み屋街になるであろう、そんな映画のロケセットを歩くかのような街並みである。ロケセットという表現をしたが、実は戦後の東京の街にはどこにでもあるありふれた風景である。今や訪日外国人の観光スポットになってしまった。例えば、新宿ゴールデン街や思い出横丁、あるいは有楽町のガード下の居酒屋などは今や訪日外国人の観光スポットになってしまったが、ここ「昭和新道」を訪れる顧客がまだ昭和の人間であるところは珍しい。吉祥寺のハーモニカ横丁を比較事例に出したが、夜のハーモニカ横丁には若い20〜30代が多く、顧客はといえば世代的には平成世代の他の地域からのいわば観光客である。昭和というレトロスタイルに新鮮さを感じ取りたい世代の街となっている。

中野ブロードウェイの東側の道筋であるふれあいロード一帯を昭和新道商店街と呼んでいるが、いわゆる商店街活動はほとんどなされてはいないようだ。ただ、この一帯の主とした飲食店のガイドがHPに乗っているので覗いてみると、スナック、Bar、立ち飲み、ギターで歌える店、小料理、パブ、・・・・・・業種的にはこうした店であるが、そのほとんどが小さなスナックで全体の半分以上を占めている。しかも歌えるスナックが多く、そういえば昭和40〜50年代のスナックが皆そうであったことを思いださせてくれる。
昭和の人間にとって懐かしいBARの一つが「サントリーパブ ブリック」である。確か若い頃渋谷センター街のブリックで時々飲んだ記憶があるが、まだ中野には残っていることに少々驚かされた。サントリー系のカウンター中心のBARで木を多く使った落ち着いたオールドスタイルのBARである。今なお価格も安く多くの常連顧客に愛されているようだ。
飲み屋街ではあるが、最近話題となった「孤独のグルメ」Season7で紹介された焼き鳥の「泪橋 (なみだばし)」がある。店名の由来は店主が週刊少年マガジンに連載された漫画「あしたのジョー」のフアンであったことからつけたようだ。主人公矢吹ジョーが通うボクシングジムがあった山谷ドヤ街泪橋である。
そして、安くて美味しい立ち寿司横丁や中野にぎにぎ一本館といった立ち食い寿司の店が数多くある。勿論、スナックの多くを飲み歩いたわけではないが、この「昭和」はその名の通り「安い」が基本となっている。ただし、吉祥寺のハーモニカ横丁と比較し、情報的にはほとんどガイドされていないため、若い世代にとっては「閉じられた昭和」であり、観光地化には程遠い。ただ数年先には中野の街も大きく変わることとなり、その機に若い世代も閉じられたドアを開けるようになるかもしれない。

東京のザ・下町「深川」

未来塾(37)「居場所を求める時代」前半   未来塾(37)「居場所を求める時代」前半   

江戸(東京)は周知のように東京湾を埋め立てて造られた都市で、江戸慶長年間に深川八郎右衛門が現在の森下町に本拠をおいて、深川村の埋め立て開発を始めたことに由来したとされている。
東京に長く住む人にとって「深川」は江戸時代からの歴史のある下町という認識である。地方の人の理解としては、江東区の隅田川までのデルタ地帯西半分を占めるエリアの総称として深川という名称を使う場合が多い。そして、現在では深川の中心の街としては門前仲町(地下鉄東西線、都営大江戸線)が挙げられる。その門前仲町の知名度は江戸三大祭りである浅草寺、神田明神、そして門前仲町には富岡八幡宮がある。更には成田山新勝寺別院があり多くの参詣客が訪れることから知られた地名となっている。
その成田山新勝寺は天慶三(940)年と古く、平将門の乱を平定する祈禱所としてつくられたが、武士の間では知られていたものの江戸っ子にはあまり知られたお寺ではなかった。しかし、元禄十六(1740)年に成田山が深川八幡で「出開帳」という出張をする。ここから成田山ブームが起き、江戸で当代一の人気者、初代市川団十郎も成田山を信奉し、団十郎人気と相まって大人気となった寺である。(ちなみに市川団十郎の成田屋という屋号もここから由来している)
この成田山新勝寺別院に向かう参道があり、その両側には浅草寺の仲見世のような飲食店やお土産を販売する店が並んでいる。浅草寺と成田山新勝寺別院を単純に比較することは難しいが、浅草寺が平安時代に創建され鎌倉時代の「吾妻鏡」に出てくる歴史と比べ、成田山新勝寺も同じ平安時代の中期の平将門の乱から生まれたお寺である。深川にある「別院」の位置づけが、いわば出張の場であるという違いが大きく出ており、参道の長さや商店の密度、あるいは浅草寺には雷門というランドマーク・顔あり、深川のゲートには「人情深川ご利益通り」と書かれた看板があるだけとなっている。

もう一つの「昭和新道」

雷門から浅草寺に至る仲見世に較べれば小さなものだが、土産物店や露店が並ぶ。この仲見世の西側の外れの路地裏に「辰巳新道」がある。この辰巳とは江戸の東南(辰巳)の方角にあったことからで、当時は岡場所があって、遊女と並んで人気のある芸者がいたことから辰巳芸者という名前が残っている。そんな花街の風情を感じさせる一角である。
ところでこの深川門前仲町一帯も戦災に遭い、上野や新橋と同様闇市から街もスタートする。その闇市から生まれたのが辰巳新道である。この辰巳新道はわずか50メートルほどのまさに路地裏・小路で、小料理屋など飲み屋が30軒以上ひしめき合っているそんなザ・下町の「昭和新道」である。

未来塾(37)「居場所を求める時代」前半   未来塾(37)「居場所を求める時代」前半   

写真は昼と夜の辰巳新道であるが、言うまでもなく夜の街である。中野の昭和新道の写真と比較するとわかるが中野がスナックの飲み屋街であったのに対し、辰巳新道のそれは小料理屋といった「和」の飲食店街である。
辰巳新道にも孤独のグルメで注目された「やきとりの庄助」もあるが、門仲にはやはり美味しい煮込みを食べさせてくれる大阪屋が一番とする煮込みオタクが多い。私の場合はそれほどのオタクではないが、神田淡路町にある東京で一番古い大衆酒場の「みますや」、新橋の「大露路」、秋葉原の「赤津加」、十条駅前の「斉藤酒場」・・・・・・なぜか吉田類の「酒場放浪記」になってしまうが、辰巳新道には地元の人たちから愛されてきた飲食店が多い。
深川門前仲町という狭い市場にあって、これほど「昭和」が圧縮されている街は珍しい。日本全国、昭和をテーマとした町おこし、文化起こしがあるが、中野の昭和新道のところでも書いたが、丸ごと映画のセットになってしまう、そんな路地裏である。

若い世代の居場所、「令和新道」

2つの昭和の「居場所」を観察してきたが、居場所を求めることはポスト団塊世代以上のシニア世代固有のことではない。前述のフラリーマンの一人になりたい「自由人症候群」という居場所を求める行動もあるが、もう少し若い20歳代もまた「集い合う居場所」もまた求められている。しかも、アルコール離れ世代と言われてきたが、アルコールの有無ではなく、目的は「場」そのものを必要としていることがわかる。その代表的成功事例が未来塾でも何回か取り上げた大阪駅ビル「ルクアイーレ」の地下にある「バルチカ」という飲食街である。中でも今なお行列が絶えないリード役を果たしているのが「紅白」と「ふじこ」の2店である。1年半ほど前の未来塾ではその成功要因を次のように書いた。

未来塾(37)「居場所を求める時代」前半   『デフレが常態化した時代の「食」というキラーコンテンツには鮮明な「価格帯市場」とでも呼ぶに相応しい現象が現れている。まず新バルチカとフードホールについてであるが、バルチカ成功の先導役を果たしてきたのが入り口にある洋風おでんとワインの店「コウハク(紅白)」である。何回かブログにも取り上げているので価格だけを紹介すると、グラスワイン380円、名物の洋風おでん180円と極めて手軽な価格帯となっている。
この新バルチカでもう一店行列の絶えない店がある。前述の鮮魚店が経営する「魚やスタンドふじ子」も同様の安い価格帯となっている。店頭のサイン看板には「海鮮が安いだけの店」とある。
京橋では当たり前となっている「昼飲み」がここ梅田の駅ビル地下で推奨されているのだ。日本酒はコウハクと同じ価格の380円。
肴も380円を中心に200円台から高くても500円台。種類も豊富で店は若い男女で満席である。』

何事も体験してみないとわからないというのが私の方針なのでその「紅白」にも一人でカウンターに座った。勿論、定番のワインと洋風おでんを食べたのだが、周りの若い世代は「飲み食い」ではなく、ワイワイガヤガヤ「喋りまくる楽しさ」にお金を払っているということを感じた。30分ほどで異物であるオヤジは退散したが、いわば部活の後のミーティングといった感じであった。そうした「居場所」のハードルの第一は彼らにとっても財布との相談で「納得価格」ということであった。
もし、このバルチカにキーワードとしてネーミングするとすれば「平成新道」とでも表現したくなる。バルチカの誕生は平成であるが、予測するに「令和新道」として呼称されるであろう。そして、ルクアイーレの地下のバルチカも見事なくらい路地裏横丁である。
また、若い世代の居場所として以前少し触れたことがあったが、梅田お初天神裏参道も同じである。自ら「裏参道」というように、お初天神に向かう商店街の横丁路地裏の飲食街である。前述のバルチカと同じようなスタイル、露店・屋台風の店づくりで、これも若い世代の一つのスタイルとなっている。(後半へ続く)








タグ :居場所

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