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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2019年06月30日

お笑いの街が揺れている  

ヒット商品応援団日記No741(毎週更新) 2019.6.30.


吉本興業など大手芸能事務所所属の芸人の闇営業、しかも反社会的勢力のパーティなどへの出演し、その謝礼としてギャラを受け取っていたことが社会問題化している。いつの時代もそうだが、転換期にも関わらず、長期停滞化している社会にあって、多くの人にとって「笑い」はひととき心を解放してくれるものとして不可欠なものだ。しかも、そうした時代の変化そのものを映し出しているのも実は「笑い」である。その「笑い」にも一つの転換点を迎えている。

周知のように関西、いや今や日本の「笑い」の中心は大阪の2社、吉本興業と松竹芸能であろう。共に歴史のある会社であるが、大阪の人に聞くと、芸人の引き抜きなど極めて厳しい競争によって成長もし衰退もしてきたと言う。私は芸能史の専門家でもないが、今回問題となった吉本興業には問題を産む背景があることがわかる。
吉本にはいわゆる「契約書」はない。TVメディアに出ている多くのコメンテーターはその契約書がないことが問題であると指摘をする。例えば、反社会的勢力と関わってはならないとした義務、それに違反したことが時らかになった時の処分など、会社と本人とが文書を持って交わす「契約書」が存在しないと指摘する。法令遵守などコンプライアンスの研修はあっても、今回のように反社会的勢力との関わりが明らかになるという、つまり「結果」によってのみ、謹慎とか、契約解除が生まれる。
なぜそんな慣習のような「約束」が生まれ、今日まで続いてきたのか理由がある。それは芸人と言う「人」の活かし方、本人にとっても所属する会社にとっても、生かし生かされる相互の暗黙の了解が作られ「笑い」の文化が作られてきたからである。
また、そのコメンテーターのほとんどが、吉本の芸人が6000人にも及び、その巨大なエンターティメント企業であることに一様に驚く。お笑いは「人」を生かすことによってのみ成立することができるビジネスである。吉本の躍進も「人」の生かし方に秘密がある。

かなり前になるが、「人」をどう生かすべきか考えたとき、1冊の本に出会った。それは「笑いの経済学」(集英社新書)で著者は吉本の大番頭で常務であった木村政雄氏である。読んでいただくとわかるが、前半は吉本の歴史が語られているが、「笑いの経済学」はビジネスマン向けに書かれたビジネス着眼の書である。
吉本の創業は明治45年、芝居小屋買収その借金による素人経営のスタートであったが、次から次へと大胆な手を打つ。当時の寄席の木戸銭が15銭だったのを、下足代こみで7銭にする。落語をメインにせずに「なんでもあり」の安くておもろいものを組んだ。また、芝居小屋の入場料ビジネスだけではなく、物販の可能性を考え、「冷やし飴」という飲み物を販売する。この創業者である吉本せいの活躍については山崎豊子の『花のれん』に書かれており、併せて読まれたらと思う。
ところで吉本の発展は芝居小屋の買収によるところが大きかったが、昭和10年ごろラジオに芸人が出演するようになる。当時の人気者であった春団治がラジオ出演するとそのあとの寄席が満員になることに気づき、最初のメディア戦略へと舵を切る。そして、戦後はと言えば、映画全盛の時代となり花菱アチャコを残して演芸部を解散する。このことも勿論松竹との競争に勝つためであったが、今で言うところのスクラップ&ビルドの歴史であった。昭和34年ごろから園芸部門を復活させ、映画に見切りをつけ、TVメディアへと方針転換をする。そして、寄席文化から離れ、名物番組であった「ヤングOH!OH!」に当時の若手のトップをすべて注入する。桂三枝、笑福亭仁鶴、月亭可朝、横山やすし・西山きよし、桂文珍たちである。番組について補足するならば、1969年から1982まで放送された毎日放送制作の公開バラエティ番組で若者に圧倒的な支持を受ける。結果、吉本の若手芸人の元祖登竜門番組となる。それまでの松竹芸能独走状態であった上方演芸界を吉本中心へと転換することとなる。そして、まだ記憶に新しい昭和55年に漫才ブームが起きる。

このように明確なメディア戦略の結果が今日の吉本を創っていることがわかる。さて本題の一つである「人」の生かし方であるが、実は大正時代に芸人100人を超える大所帯になる。当時の人気者であった桂春団治は別格として、全ての芸人と月給制の契約を結んでいる。Aが50円、Bが30円、Cが12円だった。当時の小学校の教員の初任給が40円、であったことを考えると月給としては安い。Dもあって12円以下であった。しかし、このアイディアには傑出した特徴がある。駆け出しはゼロ円だったが、仕事が入とDにランクアップする。トップスター春団治を頂点に仕事が多く人気が出れば給与もチャンスも拡大するというシステムである。
吉本を含め大手芸能事務所はタレント養成所を擁している。かなり前の情報であるが毎年500名以上の若者が養成所に入ると聞いている。(おそらく今はそれ以上であると推測されるが) この内5%程度が劇場に出演できると言われている。そして、その審査基準は会社が決めるのではなく、劇場にくる顧客がABCといったランクをつけて決めるというシステムである。AKB48における総選挙を彷彿とさせる仕組みである。よく若手芸人が出演料が200円なので劇場まで歩いてきた、吉本はケチな会社ですとギャラを自虐ネタにしているが、それは事実であり、多くのランク外の人間は養成所で活動を終えることが多い。入り口は広くあるが、次第に絞られてくる、しかもそれは「顧客」によってである。その背景には、「笑い」は儲かるとは限らないというシビアな現実があると言うことだ。

さて時代変化に即応する歴史と仕組みについて吉本を事例に考えてきたが、冒頭の「笑いの経済学」の著者である木村氏は「笑い」の経営、吉本流経営を「牧場型」と呼んでいる。著書の出版当時、多くのTV番組にも出演しインタビューに答えていたので思い出す人もいることと思う。会社と芸人の関係について、吉本は柵の低い出入り自由な牧場で、所属する芸人は遊びに行ってもいいし、色恋沙汰をしてもいい。会社は何をするかというと、おいしいビジネスチャンスという牧草と快適な寝倉を用意する。会社はその牧草と寝倉を徹底して良質にする。良質な牧場を作れば、出て行った牛も必ず戻ってくると冗談交じりでインタビューに答えていたことを思い出す。
つまり、個人自営業者が集まった集団企業で、世間で言うところの雇用契約ではない。木村が言う競争社会は米国型の自己責任のみの関係ではない。「笑い」を取れなくなったら、会社ではなく本人のせいであり、例えば一時代を創った藤山寛美の松竹芸能の凋落を横目で見続けていたからであろう。時代が求める笑いが取れなくなった時、舞台から去らなければならないと言うことである。それは居心地の良い牧場に安穏としていることは許さないと言うことでもある。

こうした吉本が今日の躍進のきっかけとなったのが若手漫才師の登竜門「M-1グランプリ」である。発案は島田紳助であるが、木村氏が動いた結果であったと言われている。2001年にスタートしたが、10回目で休止する。しかし、その休止は若手芸人にとって目標を失う結果となる。入口を広く、その裾野づくりが吉本の生命線となるのだが、勿論再度復活する。そして、今日の若手芸人6000人にまで膨張することとなる。
今回売れっ子芸人になった複数の芸人が反社会的勢力との闇営業によって、処分されることとなった。吉本興業はコンプライアンスと反社会的勢力排除への「決意表明」をHP上で行なっているが、言葉上は「コンプライアンス体制を再構築する」としている。しかし、木村氏が言うように「牧場型」の経営を見直すこと、牧場の柵を出入りできないようなものにすることまで踏み込んではいない。多くの経営者は普通優秀な人材を囲い込もうとする。極論ではあるが、もともと芸人は成績優秀で世間の常識に素直に従うような人物ではない。M-1グランプリの発案者であり、反社会的勢力との付き合いで解雇された島田紳助は元暴走族である。木村氏が書いているように、吉本は世間から外れた人間の厚生施設のようなものである。一人ひとりに潜む才能をどのように組み合わせ、どのように変換・編集するかということなのだ。こうした埋もれた才能を表舞台へと変換していくかが「経営」のポリシーとなる。そうした意志は創業時代から変わってはいない。

但し、実は「笑い」市場の大きさに比べ、吉本牧場は芸人が増えすぎて臨界点を超えてしまっている。つまり、良質な牧草を提供できなくなっており、闇営業も生まれることとなる。問題の本質は契約書を交わすことでもコンプライアンス研修をすることでもない。膨張した企業を成長へと転換させる経営が今問われていると言うことである。
吉本の不祥事を褒めることではないが、停滞する日本経済にあって発想・着眼のユニークさとリスクを背負ってもやるという思い切りの良さには多くを学ぶべきである。これまで未来塾でレポートしてきたが、戦後エンターティメントの街づくりに失敗した新世界はジャンジャン横丁のだるまをはじめとした飲食店によって再生した。また、西部劇のアトラクションの失敗から、ハリーポッターの成功をきっかけに夏場の水かけ遊びなど手作りの独自な遊びを通じ成長に向かったUSJしのように、ある意味常識を覆した行動、吉本の「おもしろいことならなんでも提供しよう」とするポリシーと同じである。大阪は商人の町と言われるが、庶民の心に潜む可能性を見出し「芸」へと変換させることが商いとなる、そんな町のことである。。ジャンジャン横丁のだるまの串カツも、USJの水遊びも、「芸」へと転換した良き成功事例である。吉本の場合、大阪人の体質にある「笑い」を「芸」へと転換した企業である。今回の「事件」を通し、どのように次なる「牧場経営」を行なっていくか、牧場の広さを変えていくのか、新たな牧場を創っていくのか、あるいは柵を少し高くしていくのか、何を変えていくのか見ていこうと思っている。(続く)
  
タグ :吉本興業


Posted by ヒット商品応援団 at 13:13Comments(0)新市場創造