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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2017年06月04日

敗れざる者 

ヒット商品応援団日記No679(毎週更新) 2017.6.4.

フィギュアスケーターの浅田真央さんに続き、プロゴルファーの宮里藍さんも今季限りで引退すると記者会見がなされた。二人とも一時代のフィギュアスケート、女子プロゴルフを創り、年齢や性別を超えた、ある意味国民的スターとして心熱くさせてくれた。そして、その引退理由も自身が思い描く演技やプレイが出来ず引退を決意したというものであった。さらに、二人とも最後にはそれまでの多くの方々への「感謝の言葉」に詰まり、涙を見せた記者会見であった。
言葉に尽くせない「思い」が涙となったのだと思うが、その中には浅田真央さんには金メダルを取れなかった思い、宮里藍さんにとってはメジャータイトルを取れなかった思い、その無念さがあったと思う。記者会見ではその無念さに言及するような露骨な質問はなく、優しく次のステージへと送り出した形で会見を終えたが、「舞台」に上がった二人の演者が最後に見せたスポーツマンの「生き様」としての涙であったと思う。

ところで情報の時代らしく政治の世界では「劇場化」ばかりである。小泉劇場から始まった劇場化であるが、そのコミュニケーション手法は、「敵」を作ることによって物語をより鮮烈に印象深くする、そうした演劇的手法のことである。最近ではトランプ大統領の出現によって、演劇手法はネットメディアとそれまでの既成マスメディアとの違い、敵作りがより鮮明になり、「フェイクニュース」という言葉を持ってその戦いを行うという、2つの異なる舞台が生まれた。そして、舞台で繰り広げられるコミュニケーションは深まるどころか混乱をもたらすばかりとなった、それが今の米国である。そして、今回のパリ協定の離脱によって半数の米国民のみならず、世界を相手に敵作りをしてしまった。
日本はどうかというと、「フェイク(嘘)」という言葉ではなく、政府も野党も互いに「印象操作」という言葉を使ってのやりとりでその戦いが米国のそれほどでではない。

今から10年ほど前、インターネット時代の未来をわかりやすく語ってくれたのは梅田望夫氏であった。その著書「ウェブ進化論」を再び読み返してみたのだが、ネットの未来としてGoogleをその代表的なものとした「知の再構成社会」や「総表現社会」、あるいは「オープンソース」による多様なコラボレーション、・・・・・・確かに10数年経ち、その未来のいくつかは現実となった。その評価であるが、「知の再構成社会」の代表的なものとしてウィキペディアがあるが、その進化の先は見えてきてはいない。オープンソースも初音ミクのようなサブカルチャーにおいては具体的なコラボレーションは見られたが・・・・・・総表現社会におけるYouTubeやFacebook・インスタグラムといったSNSは自己表現メディアとして意味ある世界を作ってはきたが、ネット世界の「人気者」が注目され、誰もかれもが投稿しまさに玉石混交というネット世界を表している。梅田望夫氏の言を借りればネット社会の「こちら側」と「あちら側」は「知の再構成」どころか、亀裂というより断絶となってきている。

10数年前、私は良い意味での「こちら側」と「あちら側」を行ったり来たり、という図を描いていた。言葉を変え意味を広げればヴァーチャルとリアリティ、仮想と現実となるが、「行ったり来たり」の途(みち)が見つからない場面が多く見受けられる感がしてならない。日本においては米国政治のような「こちら側」と「あちら側」との対立はないが、例えば相次ぐいじめによる自殺の背景には「こちら側」と「あちら側」の断絶が存在している。生徒と教職員、子供と大人といっても構わない。ほぼ同じ構造で、ネット社会の中においても多様な「仲間」が作られていて、「こちら側」と「あちら側」に分かれている。その仲間作りは、「仲間外れ」という「敵」を作ることによって仲間社会を成立・維持させている。現実社会においても「仲間」は存在するが、ネット社会・SNSの仲間社会はオープンを原則しているにもかかわらず閉ざされた社会となっている。そして、外側からはほとんど見えない世界でいじめは進行する。
よく教育委員会主導による第三者委員会によるいじめ調査が行われるが、そうした「仲間社会」の実態は解明などできるわけがない。更に不幸なことはいじめを行なった者もまた「仲間外れ」にされることもある。いじめは連鎖するのである。しかも、いじめた側の犯人探しはすぐさまネットで拡散し、本人以外、家族などはすぐに突きとめられ実名を持ってネット上に公開される。

総表現社会もまた暗い陰湿な世界がいたるところで広がっているということだ。私は「個人放送響」というキーワードを使って、ネット社会に個性溢れる主人公の到来を期待してきた。しかし、「こちら側」でも「あちら側」においても、対立、敵と味方、憎しみの連鎖、が蔓延している。こうしたことによって何が起こるのか。今までは「こちら側」も「あちら側」も、互いを映し出す鏡であったが、その関係を失ってしまっている。つまり、自分表現社会とは「自分見失い社会」になってしまったということである。残念ながら、「違い」を認める優しさ、寛容さ、許し合い、感謝、といった気持ちは「こちら側」と「あちら側」とをつなぐバイパスにはなり得ない状況が生まれている。梅田氏が描いたネットの未来の一つに「オープンソース」があるが、「こちら側」と「あちら側」をつなぐことこそ、今話題となっている「既成の岩盤に穴を開ける」こととなる。つまり、多くの人間が「行ったり来たり」できる大きな穴こそが問われているのだ。この「行ったり来たり」を可能とさせる前提には情報公開があるのだが、その上でその穴を開けることこそ教育委員会の果たすべき役割であったはずである。その一つがスクールカウンセラーであった。ネット世界の出現及び個人化社会の負の側面(分断)としてある「仲間社会」にどう向き合うか、教育委員会もまた、変わらなければならないということである。

本来の主題に戻るが、浅田真央、宮里藍という二人には勝負師というより、どこか修験者のようなストイックさを感じてしまう。スケートリンクもゴルフ場も、とりわけ冬季オリンピックもメジャータイトルのかかった大会も、その舞台は彼女たちにとって「聖地」であり、いわばスケートに、ゴルフに取り憑かれた巡礼者のように見えた。そこには近寄りがたい「厳しさ」「正しさ」「美しさ」、そしてなんとも言えない「清らかさ」を感じてしまう。
最後に見せた二人の涙は届かなかった「夢」であったのだろう。しかし、無類の高校野球フアンであった作詞家阿久悠さんは、夢叶わず球場を後にした球児には「敗れざる者」という称号を与え讃えていた。
「敵作り」や「対立」を恣意的に、テクニックとして使うあざとい劇場ばかりの時代にあって、二人の引退劇はなんとも爽やかな舞台であった。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:11Comments(0)新市場創造