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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2016年04月03日

未来塾(21)テーマから学ぶ 変化する観光地 葛飾柴又(後半)

ヒット商品応援団日記No640(毎週更新) 2016.4.3.

未来塾で取り上げてきた街や商店街、あるいはテーマについて学んできたが、街や消費を活性させる競争軸のキーワードとして「観光地化」を指摘してきた。今回の学びのテーマであるが、あのフーテンの寅さんこと渥美清は1996年に亡くなり既に20年になる。周知のように映画「男はつらいよ」の舞台となった葛飾柴又は、駅から帝釈天へと続く小さな門前町である。天空の城「竹田城跡」のように続々と生まれる新しい、面白い、珍しい観光地化競争が激しくなった現在において、葛飾柴又を中心にいくつかの記念館を中心に置いた観光地の変化をスタディした。





「テーマから学ぶ」

変化する観光地 葛飾柴又
観光地化競争の「今」






その後の観光地・記念館の「今」

葛飾柴又にも「寅さん記念館」があるが、全国にも多種多様な記念館がある。そうした記念館の多くは社会的な業績や貢献を後世に語り継ぐ施設であり、フアン、オタクにとっては聖地としての意味合いが強く、人を惹きつけ続ける。しかし、時間の経過と共に記念館やその地を訪れる人は否応なく少なくなる。こうした記念館や観光地が衰退していく中にあって、いくつか新しい試みを行っているところがある。そうした事例を2つ取り上げてみた。

1、兵庫県宝塚市の「手塚治虫記念館」
鉄腕アトムを始めとした戦後漫画の代表的作家の手塚治虫の記念館である。平成6年(1994 年)に開館した宝塚市立手塚治虫記念館は、手塚治虫が作品の中で訴 えてきた「自然への愛と生命の尊さ」というテーマを後世に伝えるとともに、未来を担う 青少年に夢と希望を与える施設として、市の直営により運営されている。
その記念館への入館者数は、開館の1994年度に約53万人を記録する。その後は同じエリアの年間200万人の観光客を集める宝塚ファミリーランドが2003年に閉園し、その影響もあって20~10万人台に漸減。ただ、「アトム」の誕生日(2003年4月7日)を挟む02~03年度は、イベントの成果もあって入館者が大きく上向く。
そして、近年、東アジア地域では漫画人口が増加して手塚アニメに対する興味が非常に高まっ ており、アジア系外国人の入館者が増加しているという。 以下、入館者の推移である。
1994年 約530,000人
1995年 約280,000人
ーーーーーーーーーーー
2000年 155,704人
2001年 150,661人 
2002年 185,250人 
2003年 214,724人 
2004年 140,871人 
2005年 103,668人 
2007年 107,255人
ーーー10万人以下ーーー
こうした減少から新たな成長を目指す活動として、人気アニメ「エヴァンゲリオン」の企画展を開催する。日本初のアニメ作品である「鉄腕アトム」との共通点を探り、人気アニメの源流に手塚作品があることを紹介する試みで、狙いは見事に当たる。結果、新たにエヴァファンが続々と訪れたという。この他、人気アニメ「マクロスシリーズ」や、女性向けゲームブランド「オトメイト」とコラボした企画展なども開く。
 こうした努力が実り、平成24年度は約11万2千人と4年ぶりに来館者が10万人を超え、平成25年度も約10万5千人が訪れる結果となった。
手塚治虫没後27年経っており、手塚作品を知らない若者が増えたことが減少の一要因となっており、「エヴァンゲリオン」など現代の人気アニメとのコラボを企画することによって、こうした回復の成果が得られたということだ。

2、宮城県石巻市の「石ノ森萬画館」
周知の仮面ライダーで知られている漫画家石ノ森章太郎の記念館である。この石ノ森萬画館は実は全国でも珍しいほど 大きな収益を上げている記念館である。その収益は街づくり関連事業に回されるだけでなく、施設を作っ た石巻市にも還元されるほどである。
この石ノ森萬画館の運営を任されたのは「株式会社街づくりまんぼう」という 組織である。設立は石ノ森萬画館と同じく 2001 年で、 資本金 6000 万円のうち、石巻市が半分を負担し、残り半分を地元の企業や市民からの寄付な どでまかなった第三セクター施設である。しかしこの組織は石巻市の職員を受け入れておら ず、民間人だけで経営しており、それまでの石ノ森フアンを全国から集客するのではなく、次のような特徴を持った記念館としている。
○地域住民のリピーター獲得のために、子供向けワークショップを常設。 その理由は石ノ森章太郎を知 らない世代である子供をターゲットにした仕掛けが必要である という「先」を見据えた計画を実行。
○館の顔ともいえる受付から、館外の駐車場の警備員に至るまで、 従業員全員が良質なホスピタリティ溢れるサービスを提供。
○更に、全国にいる石ノ森フアンには石巻に来てもらうために、石ノ森萬画館限定の オリジナルグッズを開発。
こうしたある意味明確なマーケティングとしての目標を持った活動を行っていることがわかる。更に、こうした石ノ森萬画館の活動にとどまらず、JR 石巻駅から商店街を経て石ノ 森萬画館に至る通りを「マンガロード」と呼び、様々なところに石ノ森 章太郎にちなんだオブジェを登場させ、石ノ森ワールドが作り出されている。郵便局と協力して、郵便ポスト の上にキャラクターのオブジェを登場させたり、宮城県警と協力して、交通安全ポスターに 仮面ライダーを登場させたり、JA と協力して、石巻産の「ひとめぼれ」に「仮面ライダー」 を、「ささにしき」に「ロボコン」を、それぞれのパッケージに入れる。 つまり、石巻市民から企業までもが、マーケッター&応援団として参加しているということだ。その結果として、あまり評判の良くない第三セクターにあって、堅実な経営、黒字経営を果たしている。

そして、特筆すべきは運営する「街づくりまんぼう」は街づくりの組織であり、石ノ森萬画館などで得た収益を生かして、様々な中心市街地活性化事業を行なっている点にある。 例えば、フアンの中心が中高年ということから、懐かしい駄菓子屋「まんぼう壱番館」を 商店街に造ったり、来館者の市街地における回遊性を図るために、敢えて石ノ森萬画館には駐車場を作らずに、来館者には街中の駐車場の無料駐車券を発行するといった具合である。つまり、地域活性の中心的役割を果たしているということである。(「みずほ地域経済インサイト」 宮城県の地域活性化事例  みずほ総合研究所発行から抜粋要約)

3.11東日本大震災から5年が経つ。石巻市も甚大な被害に遭っており、死者・行方不明者を約3600名出している。勿論、石ノ森萬画館もその震災被害に遭っている。館のある立地は石巻市内を流れる旧北上川下流の中州にあり、大津波は館の1階まで押し寄せたとのこと。収蔵品や従業員への被害はなく、逆に被災者の避難場所として館を解放し、ここでも地域コミュニティの役割を果たしたようだ。
そして、石ノ森萬画館の復興であるが、全国からの義援金は合計義援金額 67,874,403円。
2012年11月17日に約1年8ヶ月振りに再開を果たし、さらに、”2013年3月23日、お陰様をもちまして石ノ森萬画館はリニューアルオープンしました”と。(石ノ森萬画館の(HPより)
一言で言うならば、石ノ森萬画館の誕生はシャッター通り化した石巻市内に賑わいを取り戻すためのものとして生前から構想されたもので、石巻市民は石ノ森章太郎の意志をも引き継いだと言えよう。つまり、今なお、石ノ森章太郎は石巻市民の心の中に生きているということである。



テーマから学ぶ


「観光地化」というキーワードをテーマにいくつかの事例を学んできた。バブル崩壊後、デフレが続き足踏み状態が続く景気にあって、どのように他とは異なる「差」を創り競争すべきかについては、少し前の未来塾『「差分」が生み出す第3の世界』というタイトルで書いてきた。いわばMDにおける競争をテーマとしてきたのだが、今回の「観光地化」は集客のための磁場となっている「観光地」とそれらを含めた商業、観光産業といっても良いが、ある意味その全体運営、経営としての視座についてである。例えば、国内だけでなく、訪日外国人にとっても人気の観光エリアとなっている東京の谷根千は数名の地元主婦が作るコミュニティ雑誌の誕生とともに、エリア全体として観光地化というマーケティングが進められてきた。エリアの中にある観光地としての根津神社も、谷中霊園も、美術館も、谷中ぎんざ商店街も、小さなカフェも、それらが創り出す景観全体を一つのコンセプトとしてまとめ上げることが成功要因の一つとなっている。「谷根千」というコミュニティメディアは外部の観光客だけではなく、実はそこに住む内部の人たち、商店や住民、寺社にとっても極めて重要な意味を担っている。
今回の学びの視点は、個々の特徴資源をどのように「まとめ上げる」かということになる。どんな特徴ある魅力(=MD)を持っていてもそれだけで顧客、観光客を呼べるわけではない。しかも、今回は「記念館」という「過去」の素材をどう料理し、一皿の魅力あるメニューに「仕上げ」いくのかというテーマである。

1、誰を料理人とするのか

映画「男はつらいよ」がシリーズとして続いている時は、松竹、いや山田洋次監督以下のプロジェクトが「料理人」を務めてきた。コンセプトは「日本人の心の故郷」ということになる。メインディッシュは勿論「フーテンの寅さん」で、サイドディッシュは時々のマドンナということになる。
さて、その渥美清が亡くなり、記念館という「過去」が残ってはいる。多くの記念館は個人の場合や団体・企業もあるが、その社会貢献を伝える意味合いからその地域の自治体が料理人になる場合が多い。石巻市の「石ノ森萬画館」のような第三セクターの「街づくりまんぼう」という 組織は珍しい。しかし、問題なのはマーケティングできるリーダーとその街ぐるみの応援団ネットワークにある。柴又帝釈天においては葛飾区が料理人となっているが、具体化していくには現場、地元の商店や市民の参加が不可欠となる。「石ノ森萬画館」を始め、東京の谷根千もそうであるが、昔から言われているように、ワカ者、ヨソ者、そして一番重要なバカ者の三者による市民チームが必要となる。そのバカ者とは生まれ育ったその地が好きで好きでとことんやる、一種の街おこし、事業起こしの経営感覚・マーケティング理解を有したオタク達である。

そんな人物はいないよと言われそうだが、そうであったら公募すれば良い。少し前のブログにも書いたことがあるが、経営再建中の千葉のいすみ鉄道の社長は公募によるものである。2009年に社長に就任した鳥塚 亮氏は根っからの鉄道オタクで外資系航空会社からの転職である。周知の「訓練費用自己負担運転士」の募集やムーミン列車の運行などの経営活性化策を実行し、その結果、2010年8月に同鉄道の存続が決定した。最近では昨年の冬からイルミネーションによるデコラティブな列車を走らせるだけでなく、駅舎まで飾りつけ、首都圏からの観光の集客努力をしている。
あるいはサッカーのU23日本代表監督の手倉森 誠氏もサッカーバカ、サッカーオタクの一人であろう。3.11東日本大震災当時はベガルタ仙台の監督をしており、Jリーグ再開後の鹿島との戦いで勝利し、東北のために戦ってくれたと涙して選手を褒めたあの監督である。その手倉森 誠氏のサッカー人生は決して平たんなものではなく、住友金属・鹿島アントラーズ時代の選手としては失敗・挫折の連続でギャンブルに走り、無一文にもなる。しかし、その後指導者の道を歩むが、その挫折の教訓から生まれた選手指導は旧来の指導者とは全く異なる選手を惹きつける力強さがあると言われている。その強さの根底には挫折があり、それが選手のプレーへの取り組み方へのサジェッション、生き方指導となっているということだ。

ところで葛飾柴又にも地域活性のための市民応援団ができ始めているようだ。葛飾区在住のシニア約50人で結成されている『かつしか語り隊』で、エリアの観光案内ボランティアの活動を2004年から始めている。そうした市民と共に現場で動く若いバカ者の出現が待たれている、ということだ。

2、誰を顧客、観光客とするのか

つまり、どのようにマーケティングしていくかである。そして、マーケティングを進めていくためには、まず問題点は何か、ということを明確にしなければならない。言葉を添えるとすれば、どのように顧客は変わってきているのか、そこにチャンスはあるのか、何が障壁となっているのか、を明確にしていくことから始めるということである。”問題点こそチャンスとなる”とは、マーケティングの基本である。

手塚治虫記念館の来館者の数字の推移は極めてわかりやすいものとなっている。オープン初年度は約53万人、次年度は28万人となっているが、私たちマーケッターの数字理解ではオープン初年度はコンセプト力によるもので、つまり簡単に言ってしまえば「手塚治虫の偉大さ」によるもので、翌年からは手塚治虫フアンとなり、次第にフアンも減少し、一部のオタクだけとなる。宝塚市も問題点として挙げているが、近くにある宝塚ファミリーランドの閉園によってエリア内の回遊という楽しみが無くなったことも大きい。
しかし、その後の活動として「エヴァンゲリオン」の企画展を行いエヴァフアン、エヴァオタクを顧客とし広げたことは正解である。つまり、手塚治虫を「今」という時代の漫画、アニメ作家に変えたことによる。「今」という視座を持って、過去の手塚治虫を見ていく、ある意味コンセプトチェンジに踏みきったということである。そして、手塚治虫を知らない世代、エヴァフアンを始め広くアニメフアン、漫画フアンを顧客に設定したということである。時代の変化に応えるとはこうしたコンセプトを変えることによってチャンスとすることに他ならない。
また、石ノ森萬画館はどうかといえば、コンセプトも想定顧客もまずは変えることを必要とはしない。生前からの石巻市の活性のためのミュージアムとして構想された石ノ森萬画館である。東日本大震災という苦難を経て、「石巻という街の次をどう構想するか」、そのために石ノ森萬画館はどんな役割を更に果たしていくのか、逆に期待する。

さて、葛飾柴又であるが、事例にあげた記念館と同様渥美清が亡くなって20年になる。映画「男はつらいよ」も、渥美清も知らない世代が時間の経過と共にこれからも増えていく。広く「伝えていく」ことも必要ではある。しかし、伝える内容、伝え方も「今」という時代に応えたものでなくてはならない。写真のような狭い路地裏にある吉祥寺ハモニカ横丁も若い世代に人気スポットとなっている。前述の谷根千も「夕焼けだんだん」という坂の上からの景観が象徴するような下町レトロが魅力となって観光客を集めている。その中心にある谷中ぎんざ商店街は下町物語「東京下町レトロ」の主要コンテンツのキーワードが端的に表現されている。「笑顔」「人情」「職人」「粋」「食」「新風」「風情」「歴史」「猫」「未来」とある。一見特徴が分散化され、強さが失われるのではないかと思われがちだが、エリア内の各店が自店の特徴を出しやすいように、参加しやすいように考えられている。こうしたコンテンツの「まとめ」として下町物語が創られているということである。
それを私は「Old New 古が新しい」とキーワード化した。吉祥寺ハモニカ横丁は戦後の闇市を彷彿とさせるような狭い路地にハモニカのような小さな飲食店や商店が集まった商店街である。そこに「新しさ」を感じて集まる若者がいることの理解をまずしなければならない。つまり、旧来の概念や常識に生きている人間は根本から変えなければならないということだ。このことは若い世代におもねるということではない。「古が新しい」ということが分かっている古い世代は、若い世代にその古の歴史や文化を伝えれば良い。そこから次に向かう「新しさ」が始まる。

「故郷」もまた変わっていく

ところで葛飾柴又には山田洋次監督をして「日本人の心の故郷」と言わしめた風景が残されている。しかし、多くの若い世代にとって映画「男はつらいよ」も、渥美清も知らない。そうした若い世代にとっての「故郷」はシニア世代が想い浮かべる「故郷」とは異なる。
夫婦共稼ぎが当たり前の「今」にあっては、おふくろの味は学校給食やコンビニに取って代わられた。遊び場である校庭はコンクリートになり、泥まみれになることもない。遊びの中心はスマホのゲームとなり、SNSを通じての友人は数多くいても、生身の友人は少ない。そんな家族の「今」について10年近く前のブログに「家族のゆくえ」というタイトルでバラバラとなった個人化社会の今を次のように書いたことがあった。

『あらゆる情報を入手できるネット世界はケータイによって、個人から個人へといつでもどこでも瞬時につながり、情報を取り入れることがいとも簡単になった。しかし、同時に情報によって翻弄される「個」でもあった。その象徴例と思うが、たった一人、若い個達は友を求め街へと「漂流する」か、「ひきこもる」ことになる。「夜回り先生」こと水谷修さんが街へと夜回りしながら掲示板を開設するのもこの時期からである。既に、家族は崩壊していた。まだまだ残すべき家族という「過去」があると声をあげて言う人は少なかった。』

私はこうした家族から離れ、都市に漂流する個人を「個族」と呼んだ。そのことに気づいた人もいて、家族の住まい方として家族同士が会話できるような造り方など工夫がされてきた。しかし、個族は変わらず生まれ続けている。何故家族に言及したのかは、勿論生まれ育った場所と家族が「故郷」を創っていくからである。東京の場合、「場所」の多くは再開発が進みオフィスビルやマンション群に変わり、家族は個族となった。「下町」と呼ばれる小さなコミュニティにのみ故郷は残るが、それでもシニア世代が想い描く故郷とは異なる。石ノ森萬画館のようにコミュニティの活性を目的につくられ、そのメンバーが中心になって運営されている記念館の場合は故郷はこれからもつくられていくと思う。しかし、津波の被害にあった多くの沿岸部にはコンクリートの防潮堤が造られ、津波によって失った町の多くは新たに造成され、以前の景観は全くなくなり、故郷を想起させるものは多くを奪った海だけになった。
つまり、故郷は常に変化していくものであり、残念ながら故郷を持たない若者も増えてきたという事実である。「今」という時代にあっては、故郷は一人ひとりの心の中にしかない、ということだ。

「時代」に馴染んだコンセプトへ

時代に馴染むとは、新しい故郷を求めている都市「家族」に対し、新しい故郷を提案していくことに他ならない。個族化しつつある家族に対し、柴又エリアではのファミリーパークを提案することも一つの方向であろう。新しい故郷づくり、新しい家族づくりという石ノ森萬画館のような柴又ならではのコミュニティモデルを葛飾区は目指すということである。このようなコンセプト、上位概念を設定することによって、区内にある個々の施設や商店街や公園などを「家族」をコンセプトにして再編集するということである。
葛飾区にはOld Newを感じさせる立石商店街もあれば、金町の北側には膨大な緑と水に囲まれた水元公園もある。特徴ある資源を持つエリアであるが、新しい故郷物語、新しい家族物語としての「まとめ上げ」が問われているということである。東京谷根千を歩いて感じたことだが、戦災に逢わずに残る古い木造家屋の町並をどうリノベーションするのか、住民も、商店街も、古くからの寺社も変化への課題を共有している。同じことが葛飾柴又においても可能であるか、そこまで踏み込めるのか、そんな思いにとらわれた。

3、「過去」との向き合い方

今回は柴又帝釈天と参道、それらを舞台にした「男はつらいよ」が、「日本人の心の故郷」というコンセプトによって見事に融合し、葛飾柴又の小さな門前町に大きな活力を与えてくれた良き事例であった。そして、冒頭のテーマ課題である20年という時間経過によってコンセプトをどのように「今」という時代に馴染ませていくかというのが今回のテーマである。一言で言うならば、「過去」「歴史」との向き合い方、より具体的に言うならば「何を変え」「何を残していくのか」ということになる。手塚治虫記念館のようにアニメの源流に実は手塚治虫がいて、そして今「エヴァンゲリオン」があるとしたように。
葛飾柴又も「心の故郷」=下町人情としているが、前述の谷根千における下町レトロは以下のようなキーワードとなっている。
「笑顔」「人情」「職人」「粋」「食」「新風」「風情」「歴史」「猫」「未来」
「下町人情」は東京の東側半分はどこも「下町人情」を標榜し、テーマとしている。例えば、門前仲町(深川仲町商店街」のある参道は、”人情深川ご利益通り”がキャッチフレーズである。コンセプトに「今」という多面多様さが求められる時代にあっては、まずはその「多面多様」の世界に自ら持つ資源・特徴を重ね合わせて記念館や参道にある商店の特徴を出していくことになる。これが戦略である。

柴又帝釈天という「過去」、あるいは古くからの庚申信仰、そうしたことに向かい合うには参道の商店、地域住民、勿論それまでの映画「男はつらいよ」の記念館をはじめとしたフアン、周りにある多くの「時代」と馴染むことが次なるコンセプトとなる。大仰にいうならば、柴又コミュニティをこれからつくっていこうということである。「馴染む」とは互いに想いを交換することであり、その交換先はといえば、未来の観光客・若い世代であり、柴又の町を創る地元の若い世代、子どもたちである。
いずれにせよ顧客の減少を止めるにも新たな顧客をつくっていくことが必要となり、コンセプトチェンジが待たれている。帝釈天の参道商店について、まるで「お団子のテーマパーク」のようだと書いたが、そうした財産の活用、「次」を考えていくこともコンセプトチェンジとなる。おそらく参考となるのは京都であろう。例えば、京都には室町時代からの老舗和菓子店が数多くある。一方、和の素材を使った今風のスイーツカフェも京町家をリノベーションして続々と誕生している。
京都ばかりでなく、東京の谷根千においても古い住宅をリノベーションし、更にシェアーするあり方が数多く見られる。その象徴が最小文化複合施設『HAGISO』であろう。解体予定だった築50年以上の木造アパート『萩荘』をリノベーションし、若いアーティストのためのギャラリーやアトリエ、美容室、設計事務所などが入居する。ここにもHAGI CAFEという素敵なカフェがある。
ヤネセンらしい古(いにしえ)に新しい命を吹き込み、新しいものへと生まれ変わらせるリノベーションがある。こうしてレトロコンセプトもより広がりをもって、より深みをもって語ってくれている。これは「今」を生きる私たちが、「過去」を訪れやすくするための方法の一つである。これから先を行くとは、奥深く眠っている歴史・伝統を探検する「オタク」になるということである。
そして、「未来の消滅都市論」にも次のように書いた。

『ヤネセンを歩くと感じることであるが、「どこか懐かしい」と。根津から谷中にかけての路地はその多くは曲がりくねった通りで、狭い路地裏に木造住宅が密集している。そうした横丁・路地裏を歩くということは、いわば「記憶の生産」をしているようなもので、その生産に際しては、実は自分のお気に入りの風景や出来事を重ねている。つまり、現実の横丁・路地裏を歩いている訳ではない。
若い世代が揚げパンを食べるのも、学校時代の「何か」、仲間との遊びや授業を一緒に食べているということである。
つまり、それらは全て過去の忠実な再現ではない。そこに新しい「何か」を付与して思い出すのである。
Old New、古(いにしえ)が新しい、という意味はまさにそうした「何か」を意味したキーワードとしてある。レトロ、下町、というコンセプトは単に「古さ」を懐古することではなく、ある意味未来への入り口、過去のなかに未来を見るという創造的な試みということである。』

私が柴又を歩いて下町レトロを感じたのは老舗の鰻屋でもなければ名物草団子の店でもない。参道入り口手前にあるコテコテてんこ盛りの「かのん亭」という店である。店頭の写真にもあるように、焼き鳥、そばうどん、ラーメン、カレーライス、うなぎ、もつ煮込み、樽酒、勿論草団子からあんみつ、ところてんといった甘味までてんこ盛りのメニューである。決してきれいとは言い難い狭い猥雑な店であるが、どこか落ち着ける懐かしさの感じられる店である。もつ煮込みに惹かれて入ったのだが、観光客も多く、賑わっていた。
実は浅草伝法院通りにも「煮込み通り」と呼ばれるような多様な居酒屋が並んでいる通りがある。以前はご近所顧客中心であった通りであったが、今や煮込み目当ての観光客が集まる人気のスポットとなっている。浅草の表通りが仲見世だとすれば、伝法院通りは路地裏である。浅草が観光地として存在し得るのもこうした表と裏を持っているからである。勿論、表があればこその裏であるが、これらを丸ごと楽しみたい。人間は「好奇心の動物」である。
さて新しい故郷物語、新しい家族物語をスタートさせるために、まずは、出てこい柴又オタク、ということになる。

そして、観光地葛飾柴又を通じ、観光地化という集客のあり方とその衰退への歯止めについて学んできたが、これは単なる観光地だけに当てはまることではなく、顧客を集め、賑わいを持続させていくための着眼にも通じるものである。
商店街であれ、ショッピングセンターであれ、表と裏という例えで表現したように、2つの要素を踏まえた「全体としての仕上げ」が重要となる。ショッピングセンターであれはテナント編集であり、商店街であれば路地裏作りとなる。そして、何よりもこの「仕上げ」には地域の住民、地域の企業、そして利用者の参加が必要になるということである。この参加とは「声を聞く」ことから始まり、「我が町自慢」としての企画参加、あるいは催事参加といったコミュニティ発想がまずまず重要になるということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:40Comments(0)新市場創造