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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。
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2014年02月21日

未来塾(1)「街から学ぶ」浅草編

ヒット商品応援団日記No571(毎週更新)   2014.2.21.

第一回目の「未来塾」は「街から学ぶ」というテーマを選んだ。街は時代と呼吸すると言われているが、呼吸することによって街は常に変化し続ける。この変化をどう読み解くのかというテーマこそビジネスの未来を見いだす芽となる。そうした意味を踏まえ、明治維新以降いち早く西洋文明を取り入れたのが浅草である。その後、どんな変化の波が浅草に押し寄せ、そして「今」があるかそんなマーケティングの視座をもって、観察した。

「街から学ぶ」時代の観察・浅草




この薄暗い地下道の写真を銀座線浅草駅からの側道であると言い当てる方は極めて少ないと思う。観光客どころか、東京に住む人でさえ知らない街の風景である。今回の学ぶ街に浅草を選んだのは、こうした古くからの路地裏・横丁が今なお残り、歴史という時間の痕跡・生活の営みと「今」という新しさとが奇妙に同居している「浅草」を学んでみたい。

2013年度の海外からの観光客数は1000万人を超えた。ここ数年は欧米の観光客に増して、東アジア、東南アジアの人たちで雷門から浅草寺に伸びる仲見世通りはいつ行っても満員電車並みの混雑である。円安と渡航ビザ発給の緩和によるものだが、浅草の街から見える東京スカイツリー人気の相乗効果と相まって、観光都市東京の中心地となっている。台東区による調査では、上野など区全体では平成24年度4382万人、外国人観光客425万人、平成22年度と比較すると+7.3%増、3.0%増と年々増加している。

千年の歴史・文化をたどる京都や奈良観光はいわば楽習旅行であるのに対し、都市観光は非日常的でそこに繰り広げられる、新しい、珍しい、面白い、そうし刺激があふれる巨大遊園地のジェットコースターに乗るようなエンターテイメン観光といえるであろう。
ところで今日の浅草の誕生・ルーツは周知の通り江戸時代にある。その江戸の人口の内武士は半分ほどの政治都市であった。表現を変えれば何一つ生産しない武士、しかも、その多くは単身赴任、いわば「消費都市」が江戸であった。江戸初期40万人ほどであった人口は最高時130万人にまでふくれあがり、幕府から「人返し令」が発令されるほどの世界No.1の都市であった。今日の都心回帰、東京一極集中とは比較にならないほどの魅力、江戸は人を引きつける「経済」と「生活文化」の豊かさがあった訳である。その生活文化、江戸文化の中心が浅草であった。



そして、浅草寺の参道として発展した浅草の町は明治維新後は西洋文明をいち早く庶民の生活へ消費へと取り入れる街となる。大正から昭和にかけて、日本一の娯楽の中心地として繁栄していく。六区ブロードウェイは日本で初めて常設の映画館がオープンしたところである。映画「Always三丁目の夕日」で描かれた昭和30年代には30もの映画館がある興行街であった。しかし、娯楽のあり方もテレビの普及などによって大きく変わり、次第に閉館していく。今もなお小さな芝居小屋もあるが、娯楽も変化の荒波にもまれ、浅草ランドマークの一つであった国際劇場は浅草ビューホテルへと変わり、ある意味激変する時代の変化のありようを痕跡として、あるいは新たな変化として残す、そんな時代を映し出す街となっている。



その変化の象徴である浅草のランドマークの一つである遊園地「花やしき」は1853(嘉永6)年の開園である。以降新しいアトラクションを取り入れてきたが、遊園地の趨勢は大型化、スピード化といったより強い刺激を求める時代にあって、何度か閉園の危機にあったが、多くの企業や浅草っ子の支援を受けて、逆に懐かしいレトロな遊園地として再生を果たしている。





衰退しつつある娯楽施設に替わって新仲見世商店街には写真のようなディスカウントショップ「わけあり専門店」が誕生している。こうした「今」という時代ならではの専門店を含め全国展開をしているチェーン店が商店街を構成していることは言うまでもない。

街は生き物であり、日々呼吸し変化し続けている。その象徴であろうか、再開発プロジェクトが進行している。その名も「マルハン松竹六区タワー」。地下1階、地上8階建てだが、1~3階が遊技場で、劇場はその上にあるという。狙いは浅草寺観光に訪れたアジア観光客の取り込みであるという。周知のようにマルハンはパチンコ&スロットの最大手企業である。どこまで成功するか未知数であるが、これも一つの変化であることには間違いない。


新しさと古さ




東京スカイツリー
634m世界一の電波塔の眺望という話題に集まった観光客は東京スカイツリータウン全体では初年度約5,080万人にも及んだ。
ところでこの東京スカイツリーがある業平橋(なりひらばし)という駅名を開業と共に東京スカイツリー駅に改名した。高校の教科書に出てくる周知の話しであるが、伊勢物語の「東下り」に、在原業平たち一行が隅田川で渡し船に乗る場面がある。その業平にちなんだ名前である。そうした歴史を引き受けていた駅名を東京スカイツリーに改名したということは、墨田区も周辺住民も勿論デベロッパーである東武鉄道も大賛成し、「新たな街づくり」「新しい下町」を目指したということである。
東京タワーを「Always三丁目の夕日」が描いたように、あらゆるものが荒廃した戦後日本の復興のシンボル、夢や希望を託したタワーであったのに対し、東京スカイツリーにはそうした物語はない。あるのは世界一高い634mのタワー、その眺望である。しかし、それでも人が押し寄せるのは隣り合わせにある古い下町浅草との複合的テーマパ−ク、新しさと古さが同居する観光の街として存在しているからである。


神谷バー
創業明治13年、浅草1丁目1番1号にある日本で一番古いバーである。神谷バーと言えば、その代表的メニューの一つである「デンキブラン」であろう。「庶民の社交場」として明治以降今日に至るまで変わらぬポリシーで運営されているが、「デンキブラン」というカクテルはデンキ(電気)とブランデーの合成されたネーミングである。電気がめずらしい明治の頃、目新しいものというと"電気○○○"などと呼ばれ、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていました。さらにデンキブランはたいそう強いお酒で、当時はアルコール45度。それがまた電気とイメージがダブって、この名がぴったりだったのです、とHPに紹介されている。
大正時代は、浅草六区(ロック)で活動写真を見終わるとその興奮を胸に一杯十銭のデンキブランを一杯、二杯。それが庶民にとっては最高の楽しみであったとも。
何回かこのデンキブランを飲んだが、かなり強い刺激のあるカクテルである。この神谷バーもいつ行っても満席状態で、浅草住民だけの社交場としてではなく、日本の社交場として多くのシニア世代の観光客を集めている。(後半へ続く)  続きを読む


Posted by ヒット商品応援団 at 10:14Comments(0)新市場創造