哲学する人 

ヒット商品応援団

2011年05月08日 13:46

ヒット商品応援団日記No502(毎週更新)   2011.5.8.

東日本大震災から2ヶ月近くになろうとしている。言葉には出せないほどの惨状も記憶の底にしまいながら、その後起きた多くの事柄が鮮明になってきた。例えば、計画停電という無計画性が巡り巡って消費に多大な影響を及ぼしたこと。風評被害という言葉があらゆるところで使われてきたが、その源は福島原発事故の「情報の不確かさ」にあり、特に外国政府から不信の目で見られてきたこと。結果、私が指摘したように、クールジャパンからダーティジャパンへと、ジャパンブランドの価値が大きく毀損したこと。繰り返し書かないが、それらは全て数字となって表れてきた。そして、原発事故による被災住民や畜産農家、漁業者、企業への補償を電気料金の値上げによってまかなおうという国民の善意につけこむようなことまで考え始めている。

ところで、一昨日菅総理が緊急の記者会見を開き、静岡の浜岡原発に対し全面停止要請を行った。その理由として、「これから30年以内にマグニチュード8程度の想定の東海地震が発生する可能性は87%と極めて切迫しています。こうした浜岡原子力発電所の置かれた特別な状況を考慮するならば、想定される東海地震に十分対応できるよう防潮堤の設置など中長期の対策を確実に実施することが大切です。」と停止要請の理由を話された。
以前から東海地震が起きた場合、浜岡原発は問題があると指摘をされてきた。今、何故、唐突に要請がなされたのか、不思議に思う。今月26日からフランスで行われるG8サミットを意識したパフォーマンスであると報道されている。更には、米国の国防省・国務省からの強い停止要請があったからであるとも報じられている。その真偽のほどは分からないが、いずれにせよ哲学、国民への原子力発電への哲学がまるで感じられないことだけは事実である。

一方、震災による窮状に苦しむ住民への思いを胸に、いち早く立ち上がった多くの市町村長の行動があった。 米タイム誌は21日発表した「世界で最も影響力のある100人」に、福島原発事故での政府対応をYouTubeで厳しく批判した福島県南相馬市の桜井勝延市長。あるいは、郡山市の原市長は「国と東京電力は、郡山市民、福島県民の命を第一とし、『廃炉』を前提としたアメリカ合衆国からの支援を断ったことは言語道断であります。私は、郡山市民を代表して、さらには、福島県民として、今回の原発事故には、『廃炉』を前提として対応することとし、スリーマイル島の原発事故を経験しているアメリカ合衆国からの支援を早急に受け入れ、一刻も早く原発事故の沈静化を図るよう国及び東京電力に対し、強く要望する」と記者発表した。

行政にとって地域住民が全てである。理屈ではなく、住民への思い、哲学があって初めて行政サービスが行えるということだ。どこの首長であったか忘れてしまったが、財布も持たずに着の身着のままで避難所暮らしをすることになった被災者に対し、何よりも必要となる現金、確か一時金として10万円を支給した地方自治体があった。被災地の再生にバイオマスによるエコタウン構想・・・・・・そんなことではなく、プライベートな生活が確保できる仮設住宅こそが今必要なのだ。子ども達の健康を考え、校庭の表土を自らの判断で除去した自治体もあった。あるいは、岩手の三陸海岸沿いの孤立した集落では、行政は壊滅し、まさに住民自ら自治を行っているコミュニティがいかに多かったか。求められる日常をいかに取り戻すか、いかに新しくつくっていくか、これが生活者への、被災者への哲学である。

浜岡原発に対し全面停止要請をしたことを大英断であると報じるマスメディアもある。停止の方向性については間違ってはいないと思う。しかし、その判断の根底にある志しをこそ問いたい。今政治のリーダーに求められているのは、エネルギー資源の乏しい日本にあって原子力エネルギーに対する考え、哲学である。今まで、想定外という言葉で震災や原発事故を語ってきたが、今度は事故が想定される浜岡原発について停止要請を行ったとその理由としている。こうした原子力技術が起こす災害に対する別の概念(=文明史観)、エネルギーに対する新しい概念が問われているということである。東海地震が起きたらといった確率論による単なる安全ではない。それは、自動車事故や喫煙といったリスクの確率と同じレベルの論議である。日本ばかりでなく、世界が注視していることはエネルギー政策の根底となる新しい概念、哲学である。それは毀損したジャパンブランド再生への第一歩となる。福島住民の故郷創成の第一歩となる。

例えば、多くの研究者や作家が文明論を書いているが、その文明の発展を推進してきたエネルギー革命については、「火の獲得と利用」から始まり、「火薬の発明」、「石炭の利用」、「石油と電力」、そして今日の「原子力とコンピュータの開発」に行き着く。それまでは全て地球の生態系から産み出された化石燃料エネルギーであって、原子力エネルギーは人類によって人工的に作られたエネルギーである。つまり、このことへの哲学である。
何のために宗教者が存在してきたのか、何のために政治家が必要となってきたのか。そして、リーダーとは何をすべき人なのか。極論ではあるが、今この時にしか必要としない。平和で穏やかな日常の時は、宗教者も政治家も、リーダーも特別必要とはしない。人間を見据えた哲学する人こそが今求められている。そして、国民はその哲学をこそ聞きたいと願っているということだ。(続く)

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