無縁空間の通過儀礼

ヒット商品応援団

2010年04月18日 13:34

ヒット商品応援団日記No459(毎週2回更新)  2010.4.18.

前回、ツイッターというメディアを通じ、無縁社会であればこその新しい可能性について少しブログに書いた。その意図は少し理屈っぽくなるが、無縁と有縁とがぶつかり合う一種の境界の中に、何か次なる新しい人と人との関係性、コミュニティが生まれてくるのではないかということであった。
元々、無縁という言葉を一つのキーワードとして私が受け止めたのは、異端の歴史学者である網野善彦さんの「日本とは何か」(講談社刊)と出会ったからであった。今まで、中世日本について、四方を海に囲まれた島国という地形、荘園、封建制、こうした閉鎖された国というイメージを歴史教科書などで刷り込まれてきた。しかし、網野さんは、そうではないと民俗学の手法を使って庶民の生き生きとした歴史を明らかにしてくれた。島国という四方を海に囲まれていることとは、逆に自由に朝鮮半島や中国、更には南米ペルーにまで日本人が行き来していたという事実をもって、私たちを目うろこさせてくれた方である。

その網野さんであるが、歴史資料に出て来る「百姓」が、実は農民だけでなく、商人、金融業者、手工業者、船持といった多様な非農民が含まれていたことに着目し、中世日本の社会が農業社会、封建社会であったとする常識を覆した。その非農民的民、全国を流浪する非定住の民を「無縁の民」と呼んで光を当てた。無縁とは、どこにも帰属しない、今風に言えば血縁、地縁、職縁にとらわれない地理的にも精神的にも自由な民という意味である。
網野さんの著書に「海辺の百姓」という記述がある。物と物との交換経済から貨幣経済という信用経済が全国へと浸透していくのだが、その経済活動の中心として各地の産物を流通させていたのが海上交通を行っていた海辺の百姓であった。例えば、福井若狭湾の集落には漁労、製塩、廻船交易を営む「海人」といわれた人達も百姓と言われていた。当たり前のことであるが、四方を海に囲まれている日本であり、海人(うみんちゅ〜)は沖縄だけではないということだ。
ところで、海人も百姓であり、山中も平地も同様百姓である。こうした全国を動き回る無縁の民が集まり交易する場が市場(=市庭)であった。

既に鎌倉時代には無数の市庭があり交易交流していた。米や魚から絹、布、塩、壷、多くの生活に必要な物品が交換取引されていて、見知らぬ無縁の人々が市庭に集まった。その市が建つ場所であるが、荘園(共同体)と荘園との境界に寺社と共につくられ、網野さんの言葉に依れば無縁空間としてあった。何故無縁かと言うと、荘園内は定住農民による有縁の共同体があり、見知らぬ人同士が血縁や地縁にとらわれずに物を交換する特別な場所が必要であった。そこでは血縁、地縁といった有縁から離れた自立した個人として存在し、ある意味で自由空間であり、今で言う「自由貿易地域」「自由都市」のようなものであった。既に、この時代から市場原理の芽が出てきていたということだ。勿論、この時代にあっても、自由を良いことに「不善の輩」による「泥棒市」のようなものもあったようだ。
この市庭のルールであるが、地域差を超えた共通ルールが2つあったと言われている。1つは老若という年齢によるもので、集団という組織の秩序を老若で決めていったという点である。もう一つが、平等原則であったという。この平等原則は親子兄弟という縁を離れ、ある意味身分を超越した個人によって市場が運営されていくという点にあったという。

勿論、既成の歴史家が取り上げなかった無縁の民は、決して多数を占めていた訳ではない。中世日本は定住民である農民を中心にした自給自足的農耕経済、封建的社会であったと思う。しかし、そうした経済、社会が次へと進んでいくためには無縁の民が必要であったことだけは事実である。いずれにせよ、こうした無縁の民によって経済が活性・成長し、近世日本へと向かうのである。つまり、時代のエンジン役を果たしていたということだ。

ところで1月31日のNHKスペシャル「無縁社会〜”無縁死”3万2千人の衝撃」、更に第二弾である「『無縁社会』の衝撃」について私も番組を見た一人である。第二弾では情報縁としてのツイッターの可能性について詳しくは議論されていなかったのが残念ではあった。血縁、地縁、職縁を持たない人がこれからも増え続けていくと思う。しかし、単純に昔からある伝統的な共同体、コミュニティに戻れば良いということではない。私の場合、地理的にも精神的にも自由なWebの世界に、自由に行き来する中世日本の無縁の民を見たのである。
ウェッブ進化の方向について、梅田望夫氏は、「ネットのあちら側」の「信頼できる」空間がWeb2.0であると指摘をしてくれた。その方向にSNSもあり、ツイッターもあると思う。Webの世界と中世日本の市庭とを「無縁空間」として短絡的に重ねてしまってはいけないが、ツイッターなどの小さな単位での会話はどこか井戸端会議の雰囲気を感じる。実際にはリアルな顔を見ることは無いが、多様な価値観を互いに認め合う信頼関係が私には見て取れた。

既に、身じかで小さな困りごとなどでは、ミニNPO、ミニボランティアのような活動も行われている。そうした活動はリアルな現実とツイッターとを行ったり来たりしていると思う。あるいはママ友間で行われていたバザールなども、ツイッターの掲示板を介し、もう少し広がっていくと思う。勿論、こうした理想とする情報縁による新コミュニティばかりではない。インターネットの公空間には真偽、清濁、善悪、それらが玉石混淆・混沌としてある。しかし、こうしたことはインターネット上だけでなく、現実世界においても同様にある。数年前、情報偽装は多数存在し経験もしてきた。ツイッター上においても詐欺や「やらせ」といった詐欺まがいのこともこれから起きると思う。しかし、中世日本の市庭にも「不善の輩」が存在していたように、情報の時代に生きる私たちにとって、不可避な通過儀礼ということだ。結果、信頼できるWeb2.0を目指し、どんなルールが参加者によって作られていくか注目したい。そして、次の時代を切り拓くエンジンの一つとしてSNSやツイッターはある。いや、そう使って行かなければならないということだ。(続く)

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